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町のはずれには森があり、それを抜けると古い時代の遺跡がある。異民族と戦っていた頃の、城砦の跡だ。どっしりとした石造りの城は、今は半ば崩れ落ちているものの、まだまだ侵入者を寄せつけまいと、無言の威容を放っている。
ゼップルじいさんは森の入り口にある庵で暮らしていた。すきま風の入り込むおんぼろ小屋は、たくさんの薬草と、たくさんの書物と、ほんの少しの身の回り品で埋めつくされていた。
じいさんは主に、薬を売って生計を立てていた。彼の薬はとてもよく効くので、魔法使いを怖がる人々もそれだけはほしがった。ロッテは薬作りを手伝いながら、じいさんの話を聞くのが日課だった。
主がいなくなった小屋の中、ロッテは一人で師匠の遺品整理を続けていた。毎日通ってもなかなか終わらない。そのくらい、じいさんの本は多かった。この田舎でどうやってこんなに大量の本を集めたのか、謎だ。
「アル、ちょっとのいて」
重たい本を何冊も抱えるロッテの前に、大きな犬が寝そべっていた。半端な長さの茶色い毛をした、しょぼくれた老犬だ。彼はロッテを無視して、知らん顔で床を占領していた。
「んーもうっ」
わずかな通り道をふさがれて、ロッテは本を運ぶたびに、よいしょと彼をまたがなければならなかった。
わしが死んだらロッテがアルの次の主人だ。そう言っていたけれど、でもお師匠様、こいつはあたしの言うことなんてちっとも聞きません。
アルムートという、まるで似合わない立派な名前を持った使い魔は、師匠が生きていたころからロッテをばかにしていた。じいさんの言うことは、それは利口に聞き分けてよく従っていたのに、ロッテのことは無視。何を言おうがどうしようが、てんで相手にしてくれなかった。
じいさんの跡を継いで自分が主人になったなどと、ロッテはまったく思っていない。アルの主人は今でもゼップルじいさんだ。ロッテはただ、年老いた犬の世話を引き受けただけだった。きっとこいつも、先は長くないのだろうから。
運んだ本を系統別に分けて麻糸でしばる。読めない本も多いから、かなり適当だ。ロッテのひざくららいまでの束が、もういくつもできていた。新しい束を十ほど作って、今日の仕事を終わりにした。別に急ぐ必要はないから、また明日続きをやればいい。
「帰るよ、アル」
ロッテは鍵を持って戸口へ向かった。のそりと身を起こして、老犬がついてくる。この時ばかりはアルも聞き分けがよかった。置いていかれたら餌にありつけないと、きっとこのちゃっかり者にはわかっているのだろう。
外に出て、ロッテは扉にしっかりと鍵をかけた。こんなぼろ小屋に泥棒が入るとも思えないが、大事な師匠の形見が残っているのだ。いい加減にはできない。
町への道をたどる途中墓地に寄った。流れ者でしかも魔法使いだったじいさんを、ちゃんと共同墓地に埋葬できたのは父親のおかげだ。町長の彼がそうしろと命じてくれたから、ロッテは一人で師匠の墓を掘らなくて済んだ。多分父はそれを見越していたのだろうし、末の娘を可愛がってくれた老人への、礼のつもりでもあったのだろう。
そういう公正なところには感謝し、尊敬もできる父親だ。あれでやたらと結婚の話ばかりしなければ、もっといいのに。
しおれた昨日の花を、つんだばかりの花と取りかえて、今日の日課はおしまい。くたびれた犬を連れて、ロッテはとぼとぼと館へ帰っていった。
次の日も森の庵へ向かおうとしていたロッテは、館を出たところで嫌な相手にばったり出くわしてしまった。
「またあの掘っ建て小屋へ行くの? 何が面白いんだか、辛気臭い子ね。役にも立たないことばかりするんだから。ああうっとうしい、いっそそのまま帰ってこなくていいわよ」
顔を合わせるなり投げかけられた悪態に、そっとロッテはため息をこぼした。散歩にでも行っていたのか、ロッテと入れかわるように門を入ってきたのは、きょうだいの一番上、アガーテだった。
カスパル卿は子だくさんで、息子が二人に娘も四人いる。次女は何年も前に嫁ぎ、三女も来月十七歳で結婚する。しかし二十六歳になるこの長女は、いまだに独身なのであった。
父親ゆずりの褐色の髪をしたアガーテは、たいへんな美女だった。少々化粧が濃すぎるものの、たいがいの男は放っておかないだろう。実際彼女は非常にもてたのだ。けれどそれも始めのうちだけ。いざつきあって中身が知れると、みんなとっとと逃げ出してしまった。
町の住人が、いささか意地悪く口にする噂がある。カラスの鳴かない日はあっても、アガーテの怒鳴り声が聞こえない日はない、と。
出会い頭の悪意をロッテは丁重に無視した。父親には遠慮なく言い返していた彼女だが、この姉にそんな真似をしたらえらいことになる。
老犬を連れて出ていく妹を、アガーテはわざわざその場に立ち止まって見送った。威嚇的に腕を組んで、ほとんどにらみつけている。怒っているようなばかにしているような調子で、大きくふんと鼻を鳴らした。ロッテはほっと安堵した。ありがたいことに、今日はそこそこきげんがいいらしい。
きげんが悪いと何もしなくても顔を見るなり怒鳴られたり殴られたりする。三女フィリーネの結婚が決まって以来ずっときげんの悪かったアガーテだが、今日はいくらか落ち着いているようだった。
とはいえ、姉の気まぐれは実に油断ならないと身にしみている。風向きが変わらないうちに、ロッテは急いで門を出た。
その背中を、意地の悪い猫なで声が追いかけてきた。
「そういえば、森の向こうの遺跡に化け物が現れるんですってよ。町の人が何人も見たって噂になってるわ。あんた、退治してきたら? 偉い魔法使いなんでしょ。そのくらいかんたんよねえ」
ロッテはちらりと肩ごしに振り返った。アガーテの勝ち誇った目にぶつかった。
いつものように妹をやり込めて、また少しごきげんが回復したのだろう。結構なことだ。
あの性格だから誰にも相手にされず、縁談も片っ端から断られるのだといういたって単純な事実が、なぜか本人には認識できない。
それもまた、大いなる謎だった。
アガーテの言葉に乗せられたわけではなかったけれど、結局ロッテは遺跡へ足を運ぶことにした。
別に、化け物退治をしようなんて思っていない。アガーテの話がきっかけになったのは事実だけど、そもそもロッテは化け物なんて信じていなかった。遺跡には師匠と一緒に何度も行ったことがある。ただ古いだけの、何もない場所だと知っていた。
ロッテにしてみれば、師匠との思い出の場所である。そこに妙な噂が流れているのが、少しだけ気になったのだった。
慣れた足取りで、森の中の細い道を進んだ。アルがいるから狼を心配する必要はない。どういうわけか、アルがいると危険な獣は近寄ってこないのだ。使い魔らしいところなど一度も見たことがないけれど、やはり普通の犬とはどこか違うのだろうか。そう思って振り返っても、ついてくるのは貧相な老いぼれでしかない。
小一時間も歩くと森がとぎれ、緑の海に沈みそうな巨大な建物が現れた。崩れかけた城砦が、曇り空を背景にロッテを見下ろしてきた。
「……ま、何か出そうな雰囲気ではあるわよね」
人気のない遺跡はどこかおどろおどろしい。気の弱い人間なら近寄りたくもないだろう。
さて、どうしようか。少し考えてから、ロッテは城の周りを一周することにした。さすがに一人で(アルもいるけど)中へ入ろうとまでは思わない。そこかしこに転がる瓦礫をよけながら、ロッテは歩き始めた。
十四年間近所に住んでいるが、一人で来たのは初めてだった。師匠と一緒の時はそんなに怖いとも思わなかったのに、一人だと妙に落ち着かない。城の中から誰かに見られているような気がした。そこの物陰から、今にも何かが飛び出してきそうだ。誰が化け物を見たなんて言っているのか知らないが、こんな場所では勘違いしたって無理もない。
「あの、もし、お嬢さん」
そう思っていた折も折、いきなり声をかけられたものだから、ロッテは飛び上がるほどに驚いてしまった。あわてて声のしたほうを見ると、崩れた壁に半ば身を隠す人影が一つある。
猛烈にダンスしている心臓をなだめながら、ロッテは深呼吸をくり返した。ええい、どこのどいつだ、まぎらわしい! こんな人気のない場所で、あんな物陰から現れるだなんて。顔も性別もわからないほどに、全身をマントで覆っているだなんて。深くかぶったフードから、口許も見えやしないだなんて。顔どころか手も足も見えないだなんて……。
――人、それを「怪しい」と言う。
あからさまに怪しい不審人物だ。
改めて危機感を感じ、ロッテはじりじりとあとずさった。
「あっ、あっ、逃げないでくださいっ。けっして怪しいものではありませんからっ」
相変わらず壁に張りついたまま、焦ったように相手は言った。声からして、若い男らしかった。
「……悪いけど、死ぬほど怪しいわよ」
ロッテは言った。
「そ、そうですよね。驚かせてすみません。でもあの、決してあなたに危害は加えませんから、どうか逃げないでください」
「知らない人についてっちゃ駄目って言われてるの」
「ああ、それは正しい教育ですが、でもお願いです。どうか、少しだけ話をさせてください。あなたがいいと言うまで、ここから動きませんから」
ひどく切羽詰まった声で男は懇願した。ロッテは考えた。もしかすると、この男のことを町の人が化け物と間違えたのかもしれない。きちんと確かめたほうがいいだろう。なんだか情けない声を出しているし、すごく困っているのかもしれない。一応話くらいは聞いてやろうか。
警戒しつつ、ロッテはうなずいた。
「いいわ。話だけね。このままで聞きましょう。言っとくけど、妙な真似したらアルをけしかけるからね」
嘘である。ロッテが命じたってアルが従うわけがない。だがそんなことは言わなければわからない。ロッテはいかにも自信たっぷりな態度で宣言し、ちらりとアルを見た。
使い魔は、ちょうど片足を上げて用を足している最中だった。
この、ばか犬っ!
内心焦ったロッテだったが、男は素直に聞き入れた。フードの頭が大きく上下して、彼がうなずいたことを教えた。
「はい、それで結構です。ありがとうございます」
うれしそうに声がはずむ。怪しさ全開な割に、言葉づかいは丁寧で上品だ。一体何者だろう?
二十歩ほどの距離を置いて二人は向かい合った。
「で、何の用?」
「はい、あの……まずお聞きしたいのですが、ここはどこなんでしょう?」
「は?」
間の抜けた質問に、ロッテはつい大きな声で聞き返してしまった。恥じているのか、男は、それはもう情けない声で言った。
「すみません……僕、自分がどこにいるのかもわからないんです」
つまり、迷子? 大人の迷子?
こんなわかりやすい場所にいるのに?
呆れながらも、ロッテは答えてやった。
「ヴェンツェリンゲンの城跡よ。森を抜けた向こうに、町があるわ」
「ヴェンツェリンゲン……たしか、ノイエシュルテンの近くにある土地でしたっけ」
つぶやくような男の言葉にロッテは驚いた。この場所のみならず、町の名前自体になじみがないらしい。一体どこから迷い込んできたというのか、豪快な迷子もあったものだ。
「そうね、一番近い大きな街は、ノイエシュルテンだわ。あなた、どこから来たの?」
「…………」
かんたんな問いなのに、返ってきたのは沈黙だ。ロッテの眉がしかめられた。
いぶかしむ気配を感じてか、男は急いで言った。
「そのっ……おかしく聞こえるでしょうが、実は僕にもわからないんです」
「わからない?」
自分がどこから来たかわからないなんて、そんなことがあるだろうか。ロッテの眉はますます寄せられる。
「気がつくとここにいたんです。どうしてここにいるのか、どこから来たのか、全然思い出せなくて」
「じゃあ、家はどこ? どこに住んでるの」
「……わかりません」
「わからないって」
「全然思い出せないんです。今までどこで何をしていたのか、どうしてここにいるのか、そもそも僕は何者なのか――何も、思い出せないんです」
「ええ?」
目と口を大きく開けて、ロッテは男をまじまじと見つめた。じっくり見たってマントのかたまりでしかないけれど。
たっぷりと沈黙した後、ためらいがちにロッテは言った。
「それは、つまり、記憶喪失ってこと?」
「はい……多分」
なんてこと。ロッテは大きくため息をついた。なるほどそれは困るはずだ。自分のことが何もわからないだなんて。
もちろん、この男が何かよからぬことを企んで嘘を言っているという可能性も忘れてはいない。ただ、嘘にしてはずいぶん真に迫った演技だと思った。困りきった様子の情けない声は、とてものこと芝居には聞こえない。
一生懸命考えながらロッテは言った。
「崩れてきた壁で頭でも打ったのかしらね。でも町の名前や地理は覚えてるのね」
「はあ、そういえばそうですね。なんとなく頭に浮かんだんですが」
「じゃあ、そんなに遠くの人じゃないのかも。自分の足でここまで来たんだろうし」
「どうなんでしょうねえ」
「とりえず、町へ行きましょう。お医者に診てもらう必要もあるし、誰かがあなたのことを知ってるかも」
「え、ええ……」
「その前に!」
ぴしりと言って、ロッテは男に指を突きつけた。
「その怪しいマントを脱ぎなさい。顔も見せない人間なんて、気持ち悪くて一緒に歩く気にはなれないわ」
「…………」
おびえたように男は身を引いた。ロッテのような少女相手に、どうにも弱気な態度である。ロッテは強気に続けた。
「だいたいこんな季節に暑いでしょうそれは。脱いじゃいなさいよ」
「あの、でも」
「身にやましいところがなければ問題ないでしょ。それとも何か問題あるの?」
一気にたたみかけると、やがて男はあきらめたように肩を落とした。
「お見せするのはいいんですが……逃げないでくださいね?」
「……逃げるような顔なの?」
「今まで会った人は、みなさん悲鳴を上げて逃げていってしまいましたので……」
それってどんな顔?
思わず悩むロッテである。
やはりこの男が噂の元らしかった。こう言うからには、相当に衝撃的なご面相なのだろう。でもだからといって差別してはいけない。本人には責任のないことだ。
「大丈夫よ。こう見えてもあたしは魔法使いの弟子だから」
こっちのほうがもっと怖い存在よ。そう匂わせてロッテは胸を張った。しかし男は怖がるどころか、むしろうれしそうな声を出した。
「本当ですか? ああ、なんて幸運だ! 神よ、感謝します」
「は、はい?」
思ってもみない反応だった。男は急に積極的になって、いそいそとフードに手をかけた。その時マントの端がずり落ちて、白く細い指が見えた。
――いや、色白と言ったって、あそこまで白い肌があるだろうか? ほとんど真っ白だ。それに肌というか、何かもっと違うものだったような。
長く考える必要はなかった。すぐにフードが下ろされた。問題のご面相が現れた瞬間、さきほどの決意はどこへやら、ロッテは驚きに言葉を失ってしまった。
――だって、だって、だって!
すばらしく綺麗な歯並びが余すところなく見えている。顔も頭も白い。歯と同じに白い。ぽかりと二つ並んだ眼窩は洞窟のようだ。とても立派な髑髏が、どうやらにっこりと笑ったらしかった。
「ユーリーと言います。よろしく」