0ー0 流星前夜
※急遽プロローグ的なものを挿入させていただきました。なお、ここは読んでも読まなくてものちのちの本編の流れでなんとかなるよう配慮したものですので、読まなかったら以降の話が全くわからん等にはなりませんのでご安心ください
夜の帳もすっかり降りた路地裏で、自動車が突如としてひしゃげた。人間がアルミ缶を踏んだ時のように、むしろある種の滑稽さすら感じるくらいの清々しさで赤い軽自動車が潰れる。ぐしゃり、と、音の大小は違えど本質的な響きはアルミ缶と変わんないな、誰に言うでもなく青年は呟いた。
黄色い髪を揺らしながら、青年は軽自動車から素早く離れる。相手の次なる攻撃より早く、右腕を伸ばす。青年の指示した方角に沿って、影にも似た黒が伸長する。風切り音をたてながら伸びた黒が、五メートル近く離れていた男の左肩を貫いた。
「いぎッ――」
引き攣った声をあげ、その痛みで膝をつく。青年は間髪入れずに男へ詰めより、相手の鼻柱に膝蹴りを叩き込む。華奢な青年の蹴りに、二十代後半だと思われる男はあっけなく転がった。呻きながらのた打ち回る男に、青年はゆっくりと近付く。
「ふざけんじゃねえ!」
鼻を押さえながら男が右腕を振り下ろす。その瞬間、青年の頭上で空気の震える音がした。直後、鉄槌のごとき圧迫感と質量が青年を真上から襲う。ミサイルが直撃したか。そう思わせるほど激しい轟音と煙が路地裏の景色をかすめる。
やった、と男は声をあげた。あれだけの攻撃を受けて、生きているほうがおかしい。生きているわけがない。言葉の端からは、安堵と自信が垣間見えた。
それ故、煙が晴れた直後に男は絶句した。ノリのきいたスーツを着こなし、人当たりのいい笑みを浮かべる青年には傷一つない。正確に言えば青年の左頬には稲妻模様の大きな傷があったものの、自分がつけたものではない。変化らしい変化といえば、先ほどまで槍のように鋭かった黒が今は四角錐を作り青年を守っていることくらいだ。
瞳を揺らす男に、青年は講釈を始める。
「いい攻撃だったね。でも君弱いよ。だって自分の力をどう使えばいいのかをよくわかっていないもの」
尻餅をつきながら後退する男に、青年はじりじりと近寄る。
「君の能力は面で潰すタイプなんだから、鋭利な点で突破されることは少しくらい考えたらわかるんじゃない?」
爽やかな笑みを浮かべながら歩く青年に、男は何度も先と同じ攻撃を仕掛ける。しかし圧殺攻撃は無情にも角錐に阻まれ、有効打は全くと言っていいほど見られない。
「今、恐怖してる?」
突拍子もない質問に、男は凍りついた。
「何言ってんだよお前」
「絶望してる?」
青年の顔に影が差した。自分の心を除き心臓を舐められるような恐怖に、男は我を失った。見るな。そんな目で見るなと念じながら能力を連発させる。路地裏にけたたましい轟音が連打し、騒ぎが起きるのも時間の問題だろう。アスファルトにひびが広がる中、青年の涼しい顔は崩れない。
息を荒げ、男は上下させていた腕を降ろす。もう力が湧かない。限界だ。
一連の動揺を見届けた青年が、男を労わる。
「お疲れ様。もうなんか打つ手もないっぽいし、そろそろおしまいにしようかな」
青年が一度手を叩く。周囲のビル壁に残響した音を聞いて、角錐の黒が形を変える。どろりとうねり、一気に広がる。そのさまは、さながら獲物を飲み込む蛇だ。
「やめろ」
震える声で男は抵抗する。
「来るな!」
懐からナイフを引き抜いた。今更それがなんの役に立つのか。凶器を振りかざした右腕がたやすく黒に拘束される。コンクリートへ突っ込んだように腕が動かず、その不自由さが恐怖を大きく膨らませる。
黒が一層広がる。男の背筋が総毛だった。まともな言葉とは思えない声で喚く。どこの言語にも該当しない、恐怖から抽象された叫びだった。
「じゃあ、そういうわけで」
にこやかに微笑む青年とは裏腹に男は発狂する。いやだ、まだ死にたくないと必死に願う。
男の絶叫もろとも、黒はすべてを飲み込んだ。先ほどまでの騒動とは打って変わって、むしろ不自然なくらいに静まり返った間が路地裏に落ちる。
男を丸呑みにした黒を見ながら、青年は空を見上げる。思い出したかのように、ビルの陰へ声をかける。
「もう終わったから、こっちおいでよ」
躊躇いがちな数秒を挟んで、ビルから少女が顔をのぞかせる。年齢は外見からして中学生前後であろうか。茶色い髪を二つに結った少女が青年のもとへ歩み寄る。傍に少女が来たことを確認して、青年は両耳に手を当てた。表通りで走る車や雑踏の音をすべて引き受け、青年はしみじみと瞼を降ろす。
あらゆる音や声、聞こえないけど感じるすべてを受け入れ、青年は噛みしめるように呟いた。
「嗚呼」
今日も不幸の声がする。