友達
「松野さん、私お母さんに頼まれて、今高広のビデオをDVDに焼き直しているの」
私がDVDレコーダーの購入を機に、放置していても劣化していくビデオからそれの少ないDVDに焼き直したと言う話をさくらは坪内家でしたらしい。
本当に両親には荷の重いことだったのかもしれないが、小まめにビデオに残す事のできる人なのだから、たぶんそれは彼女の元にも彼の動画が残るようにとの配慮だったんだろうと思う。
私はこれまで何度か彼女に彼の写真を見せてもらってはいたが、動画では見たことがなかった。それでどれでも良いので、一本見せてくれるように頼んだ。彼女の言う『ハスキーで温かな声』とはどんな声なのか知りたくなったのだ。
「ほとんどはバイオリンの発表会だから、声は入ってないんです。だからこれ」
それを聞いて彼女が持参したのは、彼が亡くなる前年の秋に行った家族旅行のものだという。
「ちょうど私はダイエットしてた頃で、痩せるまで内緒にしたかったんで、会わないでいたんですよね。高広は『お土産渡せねぇ』って怒ってました」
そう言った彼女の表情は少し寂しげだ。こんなことなら意地を張らずにもっと会っておきたかったというのだろう。
テレビ画面の中では今でも、キャメルのジャケットに淡い色のボーダーニットにデニムの青年が生き生きと動きまわっていた。当時21歳だと言うが、はしゃいでいる姿は高校生だと言ってもおかしくないだろう。
「あ、あれは……!」
しかし私は、その『キャメルのジャケットに淡い色のボーダーニットにデニム』という彼の装いとある光景が重なったとき、思わず大きな声を上げてしまっていた。
「こ、これは……本当に高広君なんだよね」
「ええそうです、それが?」
そして半ば怯えながら聞く私に、さくらは不思議そうな顔でそう返した。
実は、さくらに初めて高広の写真を見せてもらった時、どこかで見た顔だとは思ったのだ。だが、どこで見たのかはとんと思いだせなかったが、あの、さくらが生死の境をさまよっていた時に病室から出てきた医師らしからぬ青年……あれが、他ならぬ坪内高広本人だと言うのか。
あの時、その男は彼女の病室を名残惜しそうにじっと眺めてから私に深々とお辞儀をした。その表情は逼迫した場面だと言うのになぜか落ち着いた笑顔だった。
さくらは以前、自分が生死の境をさまよっている際、
『私ね、高広の病室まで飛んだんです。
私、約束したんですよ。高広にもう二度と会わないって言われて、それならいよいよっていう時には私が行くからって。本当に行けるとは思ってなかったんですけどね。だから、行けたときには嬉しかった。
私は、その時一緒に逝きたいって高広に言ったんですけど、高広は頭を振って抱きしめたまま弾けるように消えたんですよね』
と述懐している。彼女が彼の病室まで飛んだように、彼もまた彼女の病室まで飛んできて彼女を抱きしめて去ったのではないか。その際に、私に挨拶をしていった……通常の理解の範疇を激しく逸脱してはいるのだが、私にはそうとしか考えられなかった。
では、何のために彼は私に挨拶をしたのだろう。しかも笑顔で……
もしそれが彼女を私に頼むためだったとしたら、彼には一生勝つことなどできない、私はそう思った。
もし自分が逝かねばならないとしたら、私ならとてもあんな笑顔で他の男に愛する人を渡したりはできない。そう思ったとき、さくらはそんな高広の事を一生忘れることはできないだろうと。もう見込みがない思ってしまった私は、さくらと会うことすら辛いと思うようになっていった。
そんな頃、さくらは外来から元の病棟勤務へと舞い戻った。シフトでの勤務となった彼女に私は、
「大変だろうからもうここにはあまり来ない方がいい」
と言った。彼女は、
「話をするだけですから、疲れませんよ」
寧ろ、疲れが取れますと返したが、
「それに、教室をもっと軌道に乗せたいんだ。広告もうって、生徒数を増やそうと思っている」
と、教室を理由にやんわりと彼女を避けた。彼女もそれ以上、何も言わなかった。
しばらくして、彼女からメールがあった。
-そがっちの知り合いが習いたいって言ってるらしいので、そがっちに電話番号を教えました-
と書かれてあった。早速いろんな人に話してくれているのだろうか。私は、少々複雑な心境だった。
2~3日して、当の曽我部由美から電話がかかってきた。
「ああ、曽我部さん? 生徒さんを紹介してくれるって聞いたんだけど」
「ええ、まぁ……それで一度松野さんに会いたいんだけど、いつ空いてます? できれば他の方がいない時間帯をお願いしたいんだけど」
教室の紹介なら、他の生徒を教えている方が参考になるだろうに……おかしなことを言うなぁと思いつつも、私は手すきの時間を由美に指定した。
果たして、その指定した時間にやってきたのは由美一人だった。
「ごめんなさい。ホントはあなたと話がしたかっただけなんだけど。きっかけをどうしようかと思ってたときに三輪から教室拡大の話を聞いて、疑われずに連絡先を聞けるからついね」
開口一番、由美はそう言って私に頭を下げた。そして由美は続けていった。
「正直に聞かせてちょうだい、あなた三輪の事どう思ってるの?」
「どうって……その、ただの友達ですよ」
いきなりストレートにさくらとの関係を問い質した由美に、私はそう答えた。
「呆れた! まだそんなちんたらしたこと言ってる訳?」
すると由美は私の答えにそう返した。
「ちんたらって何ですか」
私はその言い草にムッとした。患者として病院ではお世話になった関係だが、確か年齢は私より2~3歳下だったと記憶している。それに今、私は彼女の病院の患者ではない。そんな由美がため口で何を意見しようというのだ。
「ちんたらはちんたらよ。あなたたち、出会ってもう5年も経ったんでしょ?」
そんな私の思いに気付かないで由美は続けた。
「時間がどれだけ経とうと、友達はそれ以上でもそれ以下でもない、違いますか? 少なくとも彼女はそう思ってると思いますよ」
そうだ、私がいくら彼女の事を想ってもきっとその思いは届かない。それを一番じりじりと実感しているのはこの私自身だ。他人にそれをとやかく言われたくはない。
「でもそれ、三輪に確かめた?」
「いいえ、でも確かめなくたって分りますよ。彼女はあのあと職場に復帰したとき、『私は高広と結婚したつもりでいる』と言ったんです。私にだって、翔子や穂波がいる! それがどうして恋愛関係に発展するんです!!」
私はこの間から自身に言い続けている言葉をそのまま由美に投げかけた。しかし、声を荒げた私に由美は怯まなかった。
「高広君も奥様ももうとっくに亡くなっているんでしょ、ならいいじゃない」
君に何が分かる。
「翔子だって穂波だって、もちろん高広君だって私や彼女の心の中で生きてるんだ!あなたに何が解かるって言う!そんな御託は聞きたくない、もう帰ってくれ!!」
私は座っていた前のテーブルをバシンと叩いてそう言い放った。そして由美は、
「何よ、この解からず屋の鈍感男!ええ、帰りますよ、言われなくたって帰ります!!」
という台詞を吐いて、さっさと私の家を後にした。
由美が帰った後、私はため息を吐き小声で言った。
「穂波、これで良いんだよな。パパがママ以外の女の人となんか結婚したら、穂波は嫌だよな。」と…
-*-*-*-*-*-*-
だが、その約一ヶ月後…突然病院から、着信があった。かけてきたのは由美だ。
「松野さん、大変なの! テレビ……そうテレビつけてみて!」
私が出た途端、由美はいきなり焦った口調でそう言った。そこで、私はテレビのリモコンのスイッチを押してみる。テレビからは列車の脱線事故の臨時ニュースが映し出されていた。
「脱線事故? この辺か」
「その電車に三輪乗ってたのよ! 今市民病院にいるって電話があって……」
さくらが事故……思いがけない由美からの連絡に、事故と聞いただけで私は完全に舞い上がってしまっていた。一種のフラッシュバックとも言えるのかもしれない。私は由美に何の事情も聞かず慌てて携帯を切り、通院時代いつもお願いしていたタクシーを呼びだすと、自宅マンションを飛び出し、玄関先で待った。 このときには私はもう車椅子ではなく、杖をつけば歩くこともできるようになっていて、障害者スペースに駐車する必要はなかったが、どう考えても冷静に運転できるとは思えなかったのだ。
やがてマンションの入り口に着いたタクシーに乗り込んだ私は、
「急いで市民病院に行ってください」
と運転手に叫んだ。
「市民病院って言えば、もしかして、さっきの脱線事故の?」
「ええ……市民病院に担ぎ込まれたと、彼女の友人から連絡があったんです。」
冷静に考えれば何の説明にもなっていなかったのだが、その時は全く頭が回っていなかった。
「大したことがなければいいですね」
それを聞いてかなり焦っていると思われたのか、運転手はわざとゆっくりとした口調で私にそう言った。
タクシーの中のラジオではその脱線事故の続報が流れていた。真昼間の事故だったために、乗客は少なく、重傷者はあるものの、奇跡的に死者はなかったが、一時的に乗客が閉じ込められた状態となり、その中で産気づいた女性が車内で出産したという。
「乗客にたまたま看護師の人がいてね、その人が取り上げたらしいですよ。何にしても、無事に生まれてきて良かっ。」
そんな風に運転手は話しかけ続けていてくれたのだが、私にはそれに応える心の余裕などなかった。病院に運ばれた=重傷者の図式が私にはできあがっていて、心の中はそのことでいっぱいだったのだ。
やがて、車は市民病院に着いた。私は転がるようにタクシーを降りると、受付を目指して走り出した。とは言え、私の足は杖がないとおぼつかない状態、心ばかりが空回りし、転びそうに何度もなりながら、私は受付を目指した。
頼む、無事でいてくれ……私はもう置いて行かれたくないんだ。頼む、逝かないでくれ! そう何度も念じながら、私は息を切らせて受付に立った。
「はぁ……はぁ、すいません三輪さくら、三輪さくらさんという人がここに来ていると聞いたんですが!三輪さくら……」
ところが、大声でそう言った私のすぐ後ろの待合の椅子の方から、
「はい?」
という疑問形の返事が聞こえた。振り向くと、数人の人に囲まれた小柄で色白の女性-三輪さくらその人が-驚いた様子で立っていた。何のことはない、車内で出産した子供を取り上げた看護師というのが、さくら本人だったのである。その妊婦さんは脱線した両にはいなかったが、脱線の急ブレーキの衝撃で産気づいたのだと言う。同じ車両にいたさくらはもちろんどこにもけがはなかった。
「松野さん……」
「さくらちゃん!」
私は、さくらに駆け寄った。というより、彼女のそばにいこうとしたが、足がもつれて彼女に不様に倒れ込んだという方が正しいだろう。
「どうしたんですか?」
さくらは、彼女の肩を抱いたまま、震えている私を不思議そうに見上げた。
「良かった、無事で…君が脱線事故に遭ったと聞いて、居ても立ってもいられなくなって飛んできた」
私がそう言うと、彼女の横にいた人の一人が私に、
「ご主人ですか?」
と聞いた。さくらは不測の出産劇の立役者として、インタビューを受けていたのだった。
「いいえ、お友達です。この方は事故で奥様を亡くされているので、心配して駆けつけてくれたんです。」
それに対して、彼女はそう答えた。続いて彼女は
「もうこの辺でよろしいですか?」
と聞き、取材側が了承するのを確認して、私に肩を貸して彼らから離れた所の椅子に私を座らせた。
「それで、怪我は?」
そう言った私に、彼女は笑顔で頭を振った。
「怪我なんかしてませんよ。私の乗ってたのは脱線した車両じゃないですから」
「じゃぁ、何で君は病院に……」
「それは、車内の妊婦さんに付き添って……そう言えば松野さん、どうして私がここに居るのが分ったんですか?」
「妊婦さんの付き添い? ああ、なんか電車の中で赤ちゃんが生まれたって聞いたけど、その看護師って、君だったのか! 俺は、曽我部さんに電話をもらって、てっきり怪我をしたもんだと……」
私は、ようやく事情が解かって、ホッとして、一気に疲れを感じた。
一方、私が由美から電話で事故を知らされたと聞くと、彼女は急にぷりぷりと怒りだし、すぐさま由美に電話を始めた。
「あ、そがっち?!ちょっといい加減にしなさいよ。松野さん今、血相変えて病院に来たじゃないのよ!!良かったって…良くないわよ!松野さん、私の顔を見て震えてたんだからね!!」
「良いよ、さくらちゃん」
私は、彼女の携帯を持つ手にそっと触れ、私を見た彼女にゆっくりと頭を振ってみせた。
「良くないです!」
彼女はそれに対して一瞬びくっと身体を震わせた後、口をとがらせて返した。
「俺が悪いんだ。君が事故に遭ったと聞いた途端、俺、後のことを何も聞かないで、電話切ったんだから」
「翔子さんや穂波ちゃんの事を思い出したら誰だってそうなると思うわ。ねぇ、そがっちあんたも看護師なんだから、その辺のことくらい解かるでしょ!」
そうだ、由美はそれが解かっていて、わざと全部を私には告げなかったのだ。縦しんばさくらが事故車両にいて、何らかの怪我を負っていたとしても、ただの知人であればここまでのリアクションは起こさない。私にとって、さくらが翔子と同じ位置づけを持つ存在だからこそ、ここまで取り乱したのだ。私は彼女から携帯を取り上げると、
「曽我部さんありがとう、おかげで解かったよ」
と由美に告げた。
「ようやく解かったの? どういたしまして。お礼なんて要らないわよ。あ、何なら結婚式のスピーチでどう?」
由美はたぶんにやにや笑っているのだろうなぁと思われるような口調でそう返した。
「松野さん、そがっちにお礼なんて良いわよ!つけあがるから!!」
さくらは私の台詞の本当の意味は解からないだろうから、そう言って私からまた携帯を取り上げると、ひとしきり由美に文句を言い続けたのだった。
穂波、ゴメン……パパは、やっぱりこのお姉さんが好きなんだ-
さくらが由美にぶつける文句を聞きながら心の中で呟いたのは、そんな娘に対する詫びの言葉だった。