違和感
一命を取り留めた三輪さくらは、それからしばらくして整形外科の外来の看護師として職場復帰し、リハビリの介助として私の前に現れた。
「松野さん、お久しぶり」
と私に挨拶した彼女は、私の前で号泣したことなどすっかり忘れてしまったように笑顔だった。
しかし、その左手薬指にはただの輪っかの中に一つ小さなダイヤが埋め込んである指輪が光っていた。(そうか、恋人と言っていたからまだ結婚はしてなかったのだろうが、婚約中ではあったのだな)私はそう思ったが、特にそれを指摘することはなかった。そうだ、私には何も関係のない話だ。
だが、それから2度ほど後のリハビリの時、私はあのかつての同室者と一緒になった。彼は、彼女を見るなりその左手薬指を見咎め、
「三輪ちゃん、しばらく見ないと思って心配してたらリハビリに移動したんだぁ。おっ、それ、結婚したの? それで病棟からリハビリ室か。いいねぇ、若いもんは。おめでとう」
と彼は的外れな祝福の言葉を述べたが、それに対して彼女は、否定もせず笑顔で、
「ありがとうございます」
と笑顔で挨拶したので私は驚いた。
「旦那さんってどんな人?」
尚も質問を続ける彼に、
「え~っと、建築デザイナーなんですけどね……」
と、彼女もまだ返答している。しかも、その顔は照れたような笑顔だ。私が曽我部由美に聞いた話は全くの嘘っぱちだったのか? そんな思いで一杯になった私は自分を支えることに集中できなくなり、歩行バーでつんのめった。
「松野さん、危ない!」
それを見つけた彼女は、そう叫んで慌てて私の所に駆け寄った。
「あ、大丈夫です。ありがとう」
だが、ごく至近距離で見た彼女の顔は、笑顔ではあったが、底には涙が溜まっている。
「何故、そんな無理をする。そんなに患者へのリップサービスが必要なのか、ここは」
私はそれを見て、なんだか胸が締め付けられるような気がして、思わず彼女に小声でそう言ってしまっていた。
「松野さん、何で……」
彼女は私の言葉に心底驚いて小声でそう返す。
「曽我部さんに事情は聞いた。退院の時あんな風に号泣されたのが気になったし、偶然君がここに運ばれるのをみてしまったんだ。それで、失礼だとは思ったが、彼女に聞いてみた」
「あ……そがっち言っちゃったんですか……もうあの娘、おしゃべりなんだから。でも、助かりました。あの人話すと長いんです」
すると、彼女はそう返した。彼の話の長いのは私もよく知っているので、無言で相槌を打つ。
「三輪ちゃん、何をこそこそ松野君と話してんのさ、そんなことしてっと旦那さんにしかられっぞ~」
だが、そこで、先ほどの元同室者からそんな茶々が入った。
「大丈夫です。彼、そんな心の狭い男じゃないですもん!」
それに対して、相変わらずおどけた調子で彼女はそう返した。そして彼女はまた声のトーンを落とすと、
「心配してくださってありがとうございます。でも、私高広とは結婚したつもりでいるんです。もしそうなら、きっとこれが現実だから……」
と私に告げて、私の側を離れた。
確かに、私も翔子や穂波を死んだと認めたくない気持ちは同じだが、だからといって、妻子が生きているように振る舞うつもりはない。私は彼女の心の有り様に少し違和感を感じた。