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交響楽(シンフォニー)-遠い旋律2-  作者: 神山 備
再び桜花笑う季(とき)
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三輪 さくら

 運転自体は、元々毎日仕事にも使っていた私にはさしたる難しい物ではなかった。ところが、とんだ伏兵がいた。運転自体よりも車に乗るまでと降りることに多大な努力が必要だということが判ったのだ。


 私の退院後すぐの状態では、車椅子はまだ必須だった。一人で行動するには、まず車に乗り込み、乗っていた車椅子を引き寄せて畳み、助手席に乗せる。降りるときはこの逆、これを一人でやりこなさなければならない。全て腕力勝負だ。

 残念ながら長期間入院生活を続け、それでなくとも腕だけで生活をした経験などない私にはむしろそちらの方が大変で、とにかくリハビリで単独行動できるまでに持っていかねばならないと心に決めたのだった。


 そして、退院から2週間後程経ったリハビリ後のことだった。わざわざ家に戻ってから買いに行くのも面倒なので、食べ物を見繕って帰ろうと地下の売店に行くため、エレベータホールに向かった。すると若い女性の声がした。

「さくら、さくら!!」

その若い女性の涙声の呼びかけにふと見ると、一人の女性がストレッチャーに乗せられて階上に運ばれていくところだった。(さくら……そう言えば、この前退院の時に泣いていた三輪さんという看護師がそんな名前だった)と思って私は遠目からそのストレッチャーの主をみて驚いた。件の三輪さくらその人だったからである。


 やがて程なくエレベータが到着し、ストレッチャーは5階へと昇っていった。華奢で色白な彼女は、苦しむでもなく静かに横たわっていた。けがをした様子はなかったので、事故などではなさそうだ。それに、5階と言えば……内科か。


 そう言えば、彼女がここまで痩せたのはつい3カ月ほど前からだっただろうか。去年の年末辺りから一気にスリムになっていった彼女のことを、

「恋人でもできたんだろう。違うか?」

年配の同室者がずいぶんと執拗にそう聞いていた。それに対して、彼女は否定も肯定もしなかったと記憶している。


 もしかしたら、そんな浮いた話などは何もなく、ただ単に病を得てどんどんとやせ細っていっていたのかもしれないなと私は思った。何れにせよそれは、私にはまったく関係のない話だ。そう思って一旦は地下に降り、買った弁当を膝に置いて私はエレベーターホールに戻ったが、どうにも気になる。そう言えば退院の時の涙の理由も聞いていなかった。

 そして、本人が倒れているならことの真相が聞けるはずもないのに、私はなぜだか1階のボタンを押さず、5階のボタンを押してしまっていた。


 5階で降りた私は、ナースステーション横にさっそく三輪さくらという名前を見つけた。その前には付き添っていた涙声の女性はおらず、あわただしく医師やら看護師が出入りしていた。それに、

「意識レベル300です」

「呼吸が浅すぎるので、加圧します」

「血圧上76、下確認できません」

と病室から漏れ聞こえる声は、彼女が今のっぴきならない状況に置かれていることを私に教えた。

――君はいこうとしているのか――羨ましい、それならば、代わってほしいよ……懸命に治療にあたっている人々の気配を感じながら、私は不謹慎にもそんなことを考えていた。


 その時、その病室から一人で出てきた男性がいた。キャメルのジャケットにボーダーのスプリングニットにデニム。医師ではない様だった。彼女の家族だろうか。

 彼は、今出てきた部屋を名残惜しそうに遠い目で見つめた後、徐に私の方を向き、深々とお辞儀をした。

「い、いや私はただ通りかかっただけで……」

それに対して、私はしどろもどろにそう返すと、彼は気にしていないという風に手を振り、何とも穏やかに笑んで、もう一度軽く会釈をすると、その場を立ち去った。

私は、病室の状況とその笑みとのギャップに戸惑い、しばらく固まったままでいた。


 すると、彼女に付き添っていた女性がいつの間にか戻って来ていて、

「すいません、あなたさくらの知り合い?」

と、警戒した様子で質問された。

「ああ、知り合いというか、退院しましたが、三輪さんがいらっしゃる病棟に入院していたんです」

「ああ、そうだよね。ここ、さくらの仕事場だもんね」

それを聞いて女性の顔が急に柔らかになって、続きの世話話を始めようとする。しかし、私は彼女の何も知らない。

「もう失礼します」

私は慌ててそう答えて、その場を立ち去った。


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