さくらの進む道
「あのね…私助産師になろうと思うのよ」
「じょさんし?」
男性にはあまり馴染みのない仕事なので、最初、私はさくらが言う助産師という言葉を音では理解できなかった。
「小さな命が生まれるお手伝いがしたいの」
そう言われてやっと助産師という単語に行きついたくらいだ。
「でもね、それには私、大学に入らないといけないの。あ、助産師養成学校って言うのもあるんだけどね、それはウチから遠いのよ。以前には近くにもあったんだけど、そういう資格職業って4年制大学でなくっちゃいけないってことになったみたいで、それで養成学校はかなり減っちゃったの」
それだけ言ってからさくらは申し訳なさそうにこう言った。
「芳治さんにいろいろ負担かけちゃうことになっちゃうけど……良いかな」
「ダメだって言ったってさくらはやりたいんだろ」
私の言葉に彼女はこくりと頷いた。
「俺はほとんどこの家の中でしか動けないしな。心配しなくていいよ、今だって充分俺、主夫だろ」
さくらのその言葉に対して私は、そう言ってニヤッと笑った。
「それを言わないでよ。申し訳ないと思ってるんだから」
するとさくらはなお肩をすぼめた。
「ごめんごめん、そんなこと思わなくて良いよ。俺は自分ができることしかやらないし、やれることがあると実感できるのが、嬉しいんだよ。主夫、大いに結構!」
そうだ。昔私は、時間に追われて走り回れることをことを当然だと思っていた。それがどんなにすごいことだとは思いもせずに。
だが私はあの事故で仕事と家族を失った。当たり前にあるモノが簡単に潰えてしまうことを身を持って知ったし、以前のような生活のできない自分は、存在意義さえ持たないと思った。
それでも、私は今も生きている。何も問題を持たなかったかつての日よりも充実した人生を歩んでいるかもしれないと思うほどに。。
私には今、できないことが多い。小さかった純輝や楓にできることさえできない事に臍を噛む思いだったこともある。
だが、できることもそれこそたくさんある。それを確実にこなして行けば良いのだ。それに気付かせてくれたのは、他でもないさくらだ。そのさくらの新しい夢をサポートするのに、夫として何の不満があろう。
そしてそれは、かつての日、彼女のそれからの幸せを願って敢えて触れずに手離してくれた彼女のかつての恋人にも報いることになると思う。
「誰にでもできることじゃない。だったら、やるしかないじゃないか。そう、高広君も言ってたんだろ」
そう言った私に、さくらは目を潤ませながら、黙って肯いた。
ただでさえ最高学府への入学は大変だ。しかも、看護師・助産師・保健師など看護にまつわる資格は理数系だ。高校を卒業してから干支を一回りする年月を過ごしたさくらがいきなりそれに合格するとは周りの者も、本人すらも思っていなかった。
だからさくらは、いきなり今までの職を辞することはしなかった。仕事を持ちながらの大学受験。その上子どもたちはまだ小さい。
さらに、さくらの両親は彼女の姉夫婦と共にコンビニ経営に乗りだした後で、逆にこっちが手伝えないのが申し訳ないと思うくらいで、とても頼める状態じゃない。
純輝も学年が上がり、低学年の頃ほど入り浸ってはいられなくなった。私の両親もフォローしてくれてはいたが、横で見ているだけの私が疲れてしまうほどに、さくらは何にも手を抜かず頑張り続けた。
そして、驚くかなさくらは、一度も失敗せず新しい世界への切符を受け取ったのである。
そこで、さくらは職を辞し、新しい世界に飛び込んだ。だが、無事入学したからと言って彼女の忙しさが軽減されたわけではなかった。
彼女には看護師の経験はあったが、それは整形外科で産婦人科ではない。毎日が新しい事の発見らしく、それを喜々として話しながら相変わらずめまぐるしく動き回る。そんな彼女に周囲はひやひやしながらも概ねエールを送っていたが、明らかに反対を唱えるものが一人いた。純輝である。
「よしりん、いい加減止めさせろよ。このままじゃさくらちゃん潰れちまうだろ」
彼女が泊りがけの実習に言ったと聞くと、彼はそう言って私を責めた。ちなみに、この“よしりん”というのは笹本家の面々が私を呼ぶ呼び方だ。命名は一番上の初羽。
独身でいたさくらのことを“おばさん”と呼べなかった初羽や純輝は、さくらの事を当時から“さくらちゃん”と呼び慣わしていた。
だからか、夫の方だけをおじさん呼ばわりするのは子どもながらに失礼だと思ったのだろう。私の名前芳治から、某人気アニメの脇役のニックネームを引っ張り出してそう呼ぶようになった。今では一番末の娘の彩加まで回らぬ舌でそう言うのだから。私はつくづくと初羽があの時、“芳治ちゃん”と呼ばなかったことに密かに感謝している。
「言って止められるもんなら、もうとっくに止めてる。それができないことくらい、君が一番よく知ってるだろ」
私はその時、なぜかそう答えてしまった。純輝のしゃべり方が、いかにも子どものそれではなく、一瞬高広と会話しているように錯覚してしまったようだった。




