「嫁いだ娘は他家の人間だ」と妻の実家が援助を全力で拒んでくるが、どう見ても全員妻のことが大好きである
「こちらは順調である。余計な心配をせず、夫を支えよ」
義父からの手紙は、いつもこの一文で終わる。
今回は、この一文しかなかった。
「順調らしいね」
便箋を妻に返しながら言うと、エレナは真面目な顔で頷いた。
「はい。父がそう書くなら、そうなのだと思います」
「倉庫が減る方向に?」
「……?」
エレナが首を傾げる。
長い栗色の髪が肩から落ちて、便箋の上にかかった。
三日前、取引所で知り合いの布問屋から聞いた話だ。ローデン織布商会が、東の倉庫をひとつ手放したらしい。買い手はパン屋で、来月から小麦を入れるそうだ。
「東の倉庫、売ったんだって」
「倉庫は西にもありますから」
「そういう問題かな」
「父は、嘘をつくのが下手な人ですから。順調と書くなら順調です」
嘘をつくのが下手なのは知っている。
問題は、下手なりに今まさに嘘をついている可能性のほうだ。
妻の名はエレナ・フェルナー。旧姓はローデン。
王都で三代続く織布商の長女で、五年前に俺のところへ嫁いできた。
真面目で、律儀で、頭もいい。帳簿を読ませたら、うちの番頭より速い。
ただ、人の言葉をかなり額面どおりに受け取る。
それと、笑うときに口の端をほんのわずか上げるだけで済ませる。
五年一緒に暮らして、声を立てて笑うところを見たのは、片手で数えるほどだ。本人いわく「実家ではこれが普通でした」とのこと。
その実家がどういう家なのか、俺は結婚してから知った。
そして彼女の実家は、全員が彼女のことを大好きなくせに、それを一度も口に出したことがない一家だった。
◇
たとえば義父のグスタフ・ローデンは、月に一度くらい、うちの店先に現れる。
「通りがかっただけだ」
ローデン家の屋敷から我が家までは、馬車で四十分かかる。途中に川がある。
どこをどう通りがかれば、うちの前に出るのか。
義父は毎回、紐をかけた紙箱を手に持っている。中身は決まって、エレナの好物の杏のタルトだ。
「近所の菓子屋が余らせていた。捨てるのも忍びないので持ってきた。娘のためではない」
娘のためではない、とわざわざ言う人は、だいたい娘のために来ている。
義母のマルタは、季節ごとに服を送ってくる。
添えられた手紙には必ず「あなたはもうローデン家の娘ではないのだから、こちらのことは気にしないように」とある。
服の丈は毎回、エレナにぴったりだ。五年前の寸法ではなく、ちゃんと今の。
どこで測ったんだろう。怖くて聞いていない。
義弟のレオンは、月に一度、俺に手紙をよこす。
「姉さんがいなくなって家が静かでいい。ところで姉さんは最近どうしてる。風邪とかひいてないか。飯は食ってるか。義兄さんとは喧嘩してないか。いや別に気にしてない」
気にしてない人間の文面ではない。
この一家のことを、エレナは本気で「厳しい家族」だと思っている。
嫁いだ娘に未練を残させまいとする、立派な家族だと。
半分は合っている。
残り半分を、俺は五年間、黙って眺めてきた。
最初に気づいたのは、結婚の挨拶に行った日だ。
義父は応接間で腕を組み、俺を上から下まで眺めて、低い声で言った。
「娘はくれてやる。返品は受け付けん」
ひどい言い草だと思った。エレナは隣で「はい、承知しております」と頭を下げていた。
帰りがけ、庭の横を通ったとき、植え込みの向こうで大柄な背中が震えているのが見えた。
義父だった。ハンカチを顔に当てて、盛大に鼻をかんでいた。
その横で義弟が「親父、声でかい」と小声で言いながら、自分も目をこすっていた。
俺は見なかったことにして、門を出た。
それ以来ずっと、見なかったことにしている。そのほうが面白い、というのも正直あった。
エレナの書き物机の引き出しには、薄い冊子が一冊入っている。
表紙に、義父の角ばった字でこうある。
『嫁入り心得帳』
結婚の前夜、ローデン家の三人がエレナのために書いたものだ。
中身は、こうだ。
第一条 嫁いだ後は、新しい家を第一とすること。(父)
第二条 夫を立てること。(母)
第三条 実家の財産も商売も、当てにしないこと。(父)
第四条 実家の都合で、嫁ぎ先に迷惑をかけないこと。(母)
第五条 困っても、実家を振り返らないこと。(父)
第六条 実家の商売に、口を出さないこと。(父)
第七条 実家は俺に任せろ。(レオン)
そして最後の頁に、条文の番号もなく、弟の汚い字で一行。
姉さんは幸せになれ。
エレナはこの心得とやらを、五年間ずっと守っている。
一条も破らずに。
◇
その月の義母からの荷物は、いつもより小さかった。
いつもなら、杏のタルトが四十個入っている。
四十個だ。うちは夫婦二人と使用人が三人。毎回、近所に配っても余る。
手紙には毎回「作りすぎて余っただけです」とある。
四十個作りすぎる台所とは何なのか、ずっと気になっている。
今回は、十二個だった。
「健康のため、倹約をしております。心配は無用です」
エレナは手紙を読んで、ほっとしたように言った。
「母が健康に気を遣うようになったのは、良いことです」
「タルトを減らすのが健康法なの?」
「作る量が減れば、味見の量も減りますから」
なるほど、とは思わなかった。
同じ週、義弟からも手紙が来た。
「今年は忙しいから、姉さんに蜂蜜飴は送らない。忙しいだけだ。別に何もない」
字が、ひどく荒れていた。
インクが何か所も跳ねて、最後の「ない」は紙を破りかけていた。
そしてその翌日、俺は雨の大通りで義父を見かけた。
義父は、歩いていた。
ローデン家の当主が、傘を差して、濡れた石畳を、自分の足で。
「お義父さん」
「……ユリウスくんか」
「馬車はどうされたんです」
「健康のために歩いている」
「馬は」
「馬にも休暇が要る」
義父はそれだけ言うと、雨の中をすたすた歩いていってしまった。
脇に、紐をかけた紙箱を抱えて。
その夜、店先に杏のタルトの箱が置いてあった。
「通りがかった」と書いた紙切れが添えてあった。
雨の中を、歩いて、川を越えて、通りがかったらしい。
◇
さすがに、エレナも気づき始めた。
「ユリウス。実家の様子が、どうもおかしい気がします」
「うん」
「一度、帰って様子を見てこようと思うのですが」
「いいと思うよ」
エレナは律儀に、三人それぞれに手紙を書いた。帰ってもいいか、と。
律儀な人なので、返事が来るまでは動かない。
三日後、三通の返事が同じ日に届いた。
義父から。
「来る必要はない」
義母から。
「こちらは何も困っていません」
義弟から。
「姉さんは知らなくていい」
エレナは三通を机の上に並べて、しばらく眺めていた。
「……困っていない人は、知らなくていい、とは書かないと思います」
「そうだね」
「それに、父は、来る必要はない、と書いています」
「うん」
「来るな、とは書いていません」
その解釈はどうなんだ、と思ったが、黙っていた。
結論としては正しい気がしたからだ。
「行きましょう、ユリウス」
「俺も?」
「夫を立てること、と第二条にありますので」
立てられている気はまったくしなかったが、俺は荷造りを手伝った。
◇
ローデン家の門をくぐると、真っ先に目に入ったのは、空っぽの馬小屋だった。
飼い葉桶が裏返して積んである。
休暇にしては、ずいぶん本格的だ。
玄関の扉を叩くと、中からどたどたと足音がして、義父が顔を出した。
「なぜ来た!」
「皆さんが、来るなと書くので」
「なら来るな!」
「もう来ています」
義父が絶句している間に、奥から義母が出てきた。
「エレナ! あなたはもう、こちらの家の人間ではないのよ!」
「はい」
エレナは、深々と頷いた。
一点の曇りもない「はい」だった。
階段の上から、義弟が叫んだ。
「素直すぎるんだよ!」
俺は二人分の荷物を持ったまま、玄関の外で雨のしずくを払っていた。
誰も俺を中に入れてくれなかった。
しばらくして、義母がはっとしたように俺を見た。
「まあ、ユリウスさん。どうぞお入りになって」
「……俺は入っていいんですか」
「あなたはもちろん。お客様ですもの」
エレナは玄関の内側で、まだ義父と押し問答をしている。
娘は締め出されかけ、娘婿は丁重に招き入れられる。この家の理屈は、たまに俺の理解を軽々と越えていく。
居間に通されて、義母が出してくれたお茶を飲んだ。
茶葉が、いつもより薄かった。
◇
結局、事情はすぐに知れた。
そもそも、屋敷の中がおかしかった。
五年前には通いの女中が三人いたのに、今日は誰もいない。廊下の燭台は、三つに一つしか蝋燭が立っていない。義母がお茶を運ぶ手の甲が、冬でもないのに赤く荒れていた。
エレナはそれを全部、黙って見ていた。
黙って見ている時のエレナは、たいてい頭の中で帳簿をつけている。
居間のテーブルに帳簿が出しっぱなしになっていたし、廊下には「西倉庫・売却検討」と書かれた書類が落ちていたし、何より義父は隠すのが下手だった。
最大の取引先だった南方の服飾商会が、先月、突然潰れた。
ローデン商会には南部への直販の伝手がなく、南へ出す布は、長年その一社を通して売っていた。
納めたばかりの高級布の代金が、丸ごと回収できなくなった。
その上、その商会向けに織った布の在庫が、倉庫に山ほど残っている。
義父と義弟は、できることを全部やっていた。
馬車を売り、東の倉庫を手放し、自分たちの報酬を止め、新しい取引先を探して街じゅうを歩き回り、銀行にも何度も頭を下げていた。
義母は台所の仕入れを半分にしていた。タルトが十二個になったのは、そのせいだ。
それでも、足りない。
帳簿を最後の頁まで読んで、エレナは顔を上げた。
「では、私の貯金を」
「駄目だ!」
三人の声が、見事に揃った。
「では、ユリウスに相談を」
「絶対駄目!」
「……俺、ここにいますけど」
誰も聞いていなかった。
「では、嫁入り道具の宝石を――」
「それは私が選んだものです!」と義母。「質に入れたら、化けて出ますよ」
「お母様はご存命です」
「生きたまま化けて出ます」
「では、私が保証人に――」
「それを口にしたら、親子の縁を切る!」
義父がテーブルを叩いた。
エレナは、きょとんとした。
「もう他家の人間なのでは?」
「そういう意味ではない!」
義父は顔を真っ赤にして、それから、どういう意味なのか自分でも説明できずに黙った。
潰れかけた商家の当主が、嫁いだ娘の実家への援助を、娘本人に向かって全力で拒んでいる。
世間の話ならたいてい逆だ。娘の嫁ぎ先にすがる親の話なら、商人仲間から何度も聞いた。
◇
エレナは、引き下がらなかった。
鞄から、あの冊子を取り出した。持ってきていたのか。
「ですが、家族が困っているなら――」
「第一条」
義父が、低い声で言った。
「第四条」
義母が、すかさず続けた。
「第七条!」
義弟が、立ち上がって叫んだ。
エレナは冊子を開いて、該当の頁を確かめた。
「……皆さん、よく覚えていますね」
「私たちが書いたんだから当然だ!」
義父が胸を張る。
俺は、思わず口を挟んでしまった。
「本当に、娘さんに助けさせたくないんですね」
「当然だ!」
義父は勢いよく言い切った。
言い切ってから、自分の言葉を頭の中で一回転させたらしい。
「……いや、その言い方はおかしい」
おかしいのは言い方ではない気がする。
◇
その晩は、泊まっていくことになった。
正確には、帰れと言われ続けているうちに日が暮れて、義母が「夜道は危ないから」と客間に布団を敷いた。帰れと言っていた本人が。
エレナには、昔の自分の部屋があてがわれた。
扉を開けて、エレナが立ち止まった。
俺も、後ろから覗いた。
五年前のままだった。
窓辺の鉢植えが、生きている。机の上のペン立てに、エレナが娘時代に使っていた羽根ペンが差してある。寝台の上掛けは、日なたの匂いがした。昨日か今日、干したものだ。
「……掃除が、行き届いていますね」
エレナは、それだけ言った。
夜更けに、エレナが「毛布をもう一枚借りてきます」と部屋を出て、なかなか戻らなかった。
様子を見に行くと、エレナは廊下の突き当たり、義父の書斎の前にしゃがんでいた。
足元に、木箱がひとつ。
毛布を探して物置の戸を開けたら、上の棚から落ちてきたらしい。
中身は、手紙だった。
五年分の、エレナからの手紙。
一通ずつ封筒に日付が書き込んであった。義父の角ばった字で。
受け取った日付だ。何通かには、端に小さく「元気そうだ」と書き足してあった。
エレナは、黙ってそれを箱に戻した。
一通も抜けていなかった。月に一度、五年で六十通と少し。その全部に、日付があった。
「……父は、手紙を捨てない人なのですね」
エレナは、それだけ言った。
俺は「そうみたいだね」とだけ答えた。それ以上のことは、この箱が全部言っている。
居間では、義弟がひとりで帳簿をつけていた。
握っているのは、古びた銀の軸のペンだ。
エレナが、それを見て足を止めた。
「レオン。そのペン」
「……なんだよ」
「私が、十五の誕生日にあげたものですよね」
「書きやすいから使ってるだけだ」
翌朝、朝食の席でエレナは言った。
「皆さん。私を忘れろと言った割には」
「違う!」
三人同時だった。
何が違うのかは、誰も説明しなかった。義父はパンをちぎり、義母はお茶を注ぎ、義弟はスープを飲んだ。三人とも、エレナのほうを見なかった。
エレナは、隣の俺を見た。
「ユリウス。……知っていたんですか?」
「まあ」
「なぜ、教えてくれなかったのです?」
「面白かったから」
「ユリウス」
「半分冗談です」
「半分」
エレナは、しばらく俺をじっと見ていた。
残りの半分が何なのかは、聞かれなかった。
言ったら、この一家が五年かけて守ってきたものを、俺が横から台無しにする気がしたのだ。
あれは本人たちが、自分の口で言うべきものだ。言えるようになるかは知らないが。
◇
二日目の昼、俺は義父に倉庫へ連れていかれた。
帳簿の数字を確かめたいから荷物を運ぶのを手伝え、という名目だった。手伝いに呼ばれる客というのも妙だが、黙ってついていった。
木箱を二つ運んだところで、義父が手を止めた。
「ユリウスくん」
「はい」
「エレナは、そちらで……」
義父は、そこで言葉を切った。
棚の埃を指でなぞって、なぞった跡をしばらく見ていた。
「……笑っているか」
「笑ってますよ。口の端だけですけど」
「そうか」
義父は、それから慌てたように首を振った。
「いや、今のは聞かなかったことにしろ。嫁いだ娘の様子など、私は気にしておらん」
「はい」
「本当だぞ」
「はい」
俺は三つ目の木箱を持ち上げた。
義父は、そのあと一時間、一言も喋らずに箱を運んでいた。耳だけが、ずっと赤かった。
◇
二日目の夜、水を飲みに台所へ下りた。
戸棚の隙間から、「エレナ用」と書かれたジャムの瓶が覗いていた。
裏口の外から、話し声が聞こえた。
義弟とエレナだった。
石段に、並んで座っているらしい。
「……金はいらない」
義弟の声は、昼間の半分くらいの大きさだった。
「うん」
「本当にいらない。姉さんの金も、義兄さんのとこの金も」
「うん」
「でも、正直……もう、何したらいいかわかんねえんだ」
エレナは、何も言わなかった。
「親父はずっと大丈夫だって言うし、お袋は台所で帳簿つけて泣いてるし。俺が継ぐって言ったのに、俺、何もできてない」
「レオン」
「姉さんに背負わせたいわけじゃないんだよ。俺が継ぐって言ったのも、本気だった。姉さんまで、家のために生きるのが嫌だったんだ」
石段の上で、何かを擦る音がした。義弟が、靴の先で地面を蹴ったのかもしれない。
「でも……相談くらいは、してもいいのかなって」
俺は、コップを流しに置いた。
音を立てないように、階段を上がった。
ここから先は、俺が聞いていい話じゃない。
翌朝、エレナの目が赤かった。
義弟の目も赤かった。
二人とも「枕が合わなかった」と言った。
同じ家で育つと、言い訳まで似るらしい。
◇
翌日、俺たちは一度、家へ帰った。
帰りの馬車の中で、エレナはずっと膝の上の心得帳を読んでいた。
三往復くらい読んでいた。
「ユリウス」
「うん」
「私は、第三条も、第四条も、第五条も守りたいのです。父たちがそれを望んでいるので」
「うん」
「でも、レオンは、相談したいと言いました」
エレナは、心得帳を閉じた。
俺は窓の外を見たまま聞いた。
「そこに、家族をやめろって書いてある?」
「……ありません」
「実家の借金を背負うのと、弟の相談に乗るのは、同じこと?」
「違います」
「じゃあ、答えは出てるんじゃない?」
エレナは、しばらく黙っていた。
馬車が石橋を渡って、車輪の音が変わった。
「……私、教えを守ることと、実家から離れることを、同じだと思っていました」
エレナは、心得帳の表紙を指でなぞった。
「嫁いでから、実家に手紙を書くときは、毎回迷っていたんです。困っていることを書いたら、第五条に反するかもしれない。楽しかったことを書きすぎたら、未練があるように読めるかもしれない。だから、いつも『元気です』と『夫によくしてもらっています』だけ」
あの箱の手紙の端に、義父が書き足していた「元気そうだ」の文字を思い出した。
二行しかない手紙から、あの人は毎月それを読み取っていたのだ。
それから、困ったように眉を寄せた。
「父たちも、たぶん同じ勘違いをしています」
「たぶんね」
「家族全員で、同じ勘違いを」
「血筋かな」
「ユリウス」
「半分冗談です」
◇
三日後、エレナはもう一度ローデン家の門をくぐった。
今度は、先に誰にも手紙を出さなかった。
居間に三人を揃えると、エレナは背筋を伸ばして言った。
「お金は、出しません」
「それでいい」と義父。
「保証人にも、なりません」
「当然です」と義母。
「夫の家のお金も、使いません」
「よし」と義弟。
三人とも、ほっとした顔をした。
追い返す準備をしていたのに、拍子抜けしたような顔でもあった。
「でも、相談には乗ります」
居間が、静かになった。
「私は、帳簿が読めます。それから、フェルナー家に嫁いで、南部の市場のことも多少は覚えました。お金も名前も出しません。ただ、話を聞いて、一緒に考えます」
エレナは、三人の顔を順番に見た。
「それくらいは、家族としてしてもいいでしょう?」
義父は、すぐには答えなかった。
腕を組み、天井を見て、床を見て、窓の外の空っぽの馬小屋を見た。
長い沈黙のあとで、義父は言った。
「……勝手にしろ」
義母が、顔を背けて目元を押さえた。
義弟が、何か言いかけて、やめて、鼻をすすった。
この家で「勝手にしろ」が何を意味するのか、俺はもう知っている。
これ以上ないくらいの、許可だ。
帰りぎわ、玄関で義弟が姉を呼び止めた。
「姉さん」
「はい」
「……明日、何時に来る?」
エレナは、真面目な顔で答えた。
「朝の九時に伺います。帳簿を、朝のうちに見たいので」
「八時でもいいけど」
「では八時に」
義弟は「別に早く来てほしいわけじゃない」と言って、扉を閉めた。
扉の向こうで、「八時だって」と義母に報告する声が聞こえた。
◇
エレナが最初に向かったのは、西の倉庫だった。
潰れた南方の商会向けに織った布が、天井近くまで積んである。
エレナは一反ずつ手に取って、指先で生地をこすり、光に透かした。
「……これ、いい布です」
「そりゃ、ローデンの布だからな」と義弟。
義弟は倉庫の入口に寄りかかって、腕を組んでいた。
姉が在庫を見て回るのを、どこか居心地悪そうに、でも追い出しもせずに見ている。
「勝手にしろ」の効力は、義弟にもちゃんと及んでいるらしい。
「いえ、そうではなくて」
エレナは、布の端を俺に差し出した。
触ってみる。薄い。軽いのに、しっかりと目が詰まっている。
「南部向けの、夏用の綾織です。北では薄すぎて売れませんが、フェルナー商会が回っている南の港町なら、需要があるはずです。去年、うちの南部担当が、こういう生地が足りないとこぼしていました」
エレナは俺を見上げた。
俺は、先に言っておくことにした。
「俺が勝手に買い取ることは、できないよ」
義父が、ぎょっとした顔をした。
義母も、義弟も。
「俺は商会の次男で、南部の仕入れは兄の管轄だ。妻の実家だからって俺が買い取ったら、お義父さんたちが一番嫌がることになる」
「当然だ」と義父がすかさず言った。「そんなことをされたら、第三条が泣く」
第三条は泣かないと思う。
エレナは、頷いた。
「では、商談の席だけ、作れますか?」
「それなら」
それなら、俺にもできる。
俺にできるのは、そこまでだ。
◇
商談の前の晩、エレナは義父に念を押していた。
「お父様。明日の席で、『娘の嫁ぎ先なのだから』とは、言わないでください」
「言うわけがなかろう」
「第三条に反しますので」
「私が書いた条文だぞ。私が破るわけがない」
義父は、心外だという顔で腕を組んだ。
義弟が横から「親父、昔から本番に弱いじゃん」と言って、脛を蹴られていた。
エレナは頷いて、それでも鞄に心得帳を入れた。
念のため、だそうだ。
商談は、フェルナー商会の奥の応接室で行われた。
こちら側は、南部仕入れの責任者である兄のコンラート。俺は同席だけ。
向こう側は、義父と義弟。エレナは、義父の後ろの椅子に座っていた。
兄は、布を検め、見本を光にかざし、書類をめくった。
それから、表情ひとつ変えずに条件を並べた。
「仕入れ値は、現在の南部の市場価格に準じます。値引きの交渉はしますが、上乗せはしません」
「はい」
「全反の品質検査をこちらで行います。不良が一割を超えたら、その分は引き取りません」
「はい」
「前払いはしません。納品後、検品を終えてからの支払いです」
「……はい」
「継続の契約は、今回の売れ行きを見てから判断します。保証はできません」
普通に、厳しかった。
兄は、相手が弟の嫁の実家であることを一秒も考慮していなかった。そういう人だ。だからこの人に頼んだ。
義父が、膝の上の拳を握った。
「その……こちらとしても、娘の嫁ぎ先だからといって――」
言いかけた瞬間、エレナが膝の上の鞄に手を伸ばした。
鞄の口から、あの冊子の角が見えた。
「出すな!」
義父が、振り向きもせずに叫んだ。
「最後まで聞け! わかっている!」
兄が、書類から顔を上げた。
「……何の話です?」
義父は咳払いをして、背筋を伸ばした。
「家庭内規定です」
それから、兄に向き直って言い直した。
「娘の嫁ぎ先だからといって、手心を加えていただく必要はありません。通常の取引として、扱っていただきたい」
エレナの手が、鞄の口で止まった。
それから、何事もなかったように、膝の上へ戻っていった。
義弟が、天井を見ていた。笑いをこらえている顔だった。
本番に弱いのではなく、言い出しの順番が悪いだけらしい。
兄は、表情ひとつ変えずに頷いた。
「当然です。身内だからと条件を変えるなら、この商談は成立しません。お互いに」
「望むところです」
商談は、兄の条件どおりで成立した。
応接室を出たところで、義父が俺の横に並んだ。
「君の兄上は、実に厳しい方だな」
「ええ。身内にほど厳しいんです」
「そうか」
義父は、廊下の窓から中庭を見て、小さく言った。
「……ありがたい」
◇
それで全部が片づいたわけではなかった。
倉庫の在庫のうち、兄が引き取ったのは四割ほど。検品で一割弱が撥ねられた。代金が入るのは、船が南へ着いて、また戻ってからだ。
それでも、時間ができた。
銀行が、返済の期日を半年延ばしてくれた。在庫が現金に変わる見込みができたからだ。
義父は、売った馬車を買い戻さなかった。
「歩くと、取引先の店の様子がよく見える」のだそうだ。本人は最初からそのつもりだったような顔をしている。
義父と義弟は、その半年で街じゅうを歩き回った。
南の港町へ向かう商人を片っ端から訪ね、夏の綾織の見本を置いてきた。義弟は二足、靴を履きつぶした。
三足目の靴を、エレナが買ってやろうとして、義弟に全力で断られていた。
「第三条!」
「靴は財産ではありません」
「財産だよ! 靴は財産だよ!」
結局、靴は義母が買った。
義母は、仕入れの帳簿を一から洗い直した。
十年前から惰性で続いていた取引を三つやめて、そのぶん糸の質を上げた。
最初の代金が届いたのは、秋の終わりだった。
兄の商会から回ってきた支払い証書を、義弟が居間で読み上げた。
金額のところで、声が途中で裏返った。
「……親父。入った」
「そうか」
義父は新聞から顔を上げずに言った。
新聞は、逆さまだった。
義母が台所から出てきて、証書を義弟の手から取り、二回読んで、三回目で椅子に座り込んだ。
それから、何事もなかったように立ち上がって、「今夜は肉を焼きます」と言った。
俺とエレナがその場にいたのは、たまたまだ。本当にたまたま、帳簿を見に来ていた日だった。
エレナは、口の端をわずかに上げただけで、何も言わなかった。
テーブルの下で、俺の袖をぎゅっと握っていた。
ローデン織布商会は、小さくなった。
西の倉庫も、結局は半分を人に貸した。職人を二人、よその工房へ紹介した。
でも、潰れなかった。
エレナがしたことは、帳簿を一緒に読んだことと、布の行き先に心当たりを言ったことと、商談の席に座っていたことだけだ。
エレナ本人は、こう言っていた。
「私は、相談に乗っただけです」
「うん」
「第六条には、口を出すなとありますが、相談に乗るなとは書いてありませんので」
その解釈は、今回は俺も支持する。
◇
半年後。
ローデン家で、久しぶりに四人と俺とで夕食を囲んだ。
テーブルの真ん中には、杏のタルトが並んでいた。四十個。
義母は「作りすぎて余っただけよ」と言った。
五人で四十個。今日も、きっちり余る計算だ。
「倹約は終わったんですか」と聞くと、義母は澄ました顔でお茶を注いだ。
「倹約しています。ほかのところで」
「タルトは」
「タルトは、別です」
ほかのところ、というのがどこなのかは、聞かないでおいた。
たぶん義父の晩酌あたりだろう。義父のグラスのワインが、やけに浅かった。
食事の終わりごろ、義父がワインのグラスを置いて、咳払いをした。
「……嫁いだ娘は、他家の人間だ」
義母が、あきれた顔をした。
「あなた、まだ言うの?」
「最後まで聞け!」
義父は、テーブルの上の自分の手を見ていた。
「他家の人間では、ある」
間があった。
暖炉の薪が、ぱちんと鳴った。
「……だが、家族だ」
誰も、何も言わなかった。
義母はナプキンで口元を押さえ、義弟は天井を見上げ、エレナは膝の上で両手を重ねていた。
最初に口を開いたのは、義弟だった。
「……それ、心得帳に追加しようぜ」
エレナは、もう立ち上がっていた。
俺の鞄から、迷いなくあの冊子を取り出してくる。
「まだ持っているのか!」
「肌身離さず持っています」
「なぜ俺の鞄に入ってるんだ」
「重いので」
義父がペンを取った。義弟の、あの銀の軸のペンだった。
最後の頁、「姉さんは幸せになれ」の下に、角ばった字で書き足す。
第八条 家業と家族を、混同しないこと。
義弟が、覗き込んで聞いた。
「これ、誰向け?」
「全員です」
エレナが即答した。
「俺も?」
「念のため」
俺は、グラスを置いた。
「……俺、巻き込まれてない?」
誰も答えなかった。
義父だけが、口の端をほんのわずか上げた。
エレナの笑い方と、そっくり同じだった。どこから来た癖なのか、ようやくわかった。
◇
数週間後。
ローデン家から、荷物が届いた。
木箱の中に、紙箱が三つ。どれも杏のタルトで、どれも、ぎっしり詰まっている。
添えられた手紙は、義父の字で一行だけだった。
「余剰在庫につき、送付する」
俺は、紙箱を一つ持ち上げた。
「余剰在庫?」
「そう書いてあります」
「君の名前が、三箱全部に書いてあるけど」
蓋の上に、それぞれ違う字で「エレナへ」とあった。
角ばった字と、丁寧な字と、汚い字。
「在庫管理でしょうか」
「違うと思う」
エレナは、三つの紙箱を並べて、しばらく眺めていた。
それから、ぽつりと言った。
「では……娘への、贈り物?」
「やっと気づいた?」
エレナは、一番汚い字の箱の蓋を撫でた。
「……でも、私は他家の人間です」
「まだ言うのか、それ」
エレナが、笑った。
声を立てて、肩を揺らして。
五年で片手に収まっていた回数が、ひとつ増えた。
この調子だと、もう片方の手を使う日も、そう遠くない気がする。
口の端だけでは、とても収まらない笑い方だった。
(了)




