↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

「嫁いだ娘は他家の人間だ」と妻の実家が援助を全力で拒んでくるが、どう見ても全員妻のことが大好きである

作者: 江合 花果
掲載日:2026/09/29

「こちらは順調である。余計な心配をせず、夫を支えよ」


義父からの手紙は、いつもこの一文で終わる。

今回は、この一文しかなかった。


「順調らしいね」


便箋を妻に返しながら言うと、エレナは真面目な顔で頷いた。


「はい。父がそう書くなら、そうなのだと思います」

「倉庫が減る方向に?」

「……?」


エレナが首を傾げる。

長い栗色の髪が肩から落ちて、便箋の上にかかった。


三日前、取引所で知り合いの布問屋から聞いた話だ。ローデン織布商会が、東の倉庫をひとつ手放したらしい。買い手はパン屋で、来月から小麦を入れるそうだ。


「東の倉庫、売ったんだって」

「倉庫は西にもありますから」

「そういう問題かな」

「父は、嘘をつくのが下手な人ですから。順調と書くなら順調です」


嘘をつくのが下手なのは知っている。

問題は、下手なりに今まさに嘘をついている可能性のほうだ。


妻の名はエレナ・フェルナー。旧姓はローデン。

王都で三代続く織布商の長女で、五年前に俺のところへ嫁いできた。


真面目で、律儀で、頭もいい。帳簿を読ませたら、うちの番頭より速い。

ただ、人の言葉をかなり額面どおりに受け取る。


それと、笑うときに口の端をほんのわずか上げるだけで済ませる。

五年一緒に暮らして、声を立てて笑うところを見たのは、片手で数えるほどだ。本人いわく「実家ではこれが普通でした」とのこと。

その実家がどういう家なのか、俺は結婚してから知った。


そして彼女の実家は、全員が彼女のことを大好きなくせに、それを一度も口に出したことがない一家だった。


   ◇


たとえば義父のグスタフ・ローデンは、月に一度くらい、うちの店先に現れる。


「通りがかっただけだ」


ローデン家の屋敷から我が家までは、馬車で四十分かかる。途中に川がある。

どこをどう通りがかれば、うちの前に出るのか。


義父は毎回、紐をかけた紙箱を手に持っている。中身は決まって、エレナの好物の杏のタルトだ。


「近所の菓子屋が余らせていた。捨てるのも忍びないので持ってきた。娘のためではない」


娘のためではない、とわざわざ言う人は、だいたい娘のために来ている。


義母のマルタは、季節ごとに服を送ってくる。

添えられた手紙には必ず「あなたはもうローデン家の娘ではないのだから、こちらのことは気にしないように」とある。

服の丈は毎回、エレナにぴったりだ。五年前の寸法ではなく、ちゃんと今の。


どこで測ったんだろう。怖くて聞いていない。


義弟のレオンは、月に一度、俺に手紙をよこす。


「姉さんがいなくなって家が静かでいい。ところで姉さんは最近どうしてる。風邪とかひいてないか。飯は食ってるか。義兄さんとは喧嘩してないか。いや別に気にしてない」


気にしてない人間の文面ではない。


この一家のことを、エレナは本気で「厳しい家族」だと思っている。

嫁いだ娘に未練を残させまいとする、立派な家族だと。


半分は合っている。

残り半分を、俺は五年間、黙って眺めてきた。


最初に気づいたのは、結婚の挨拶に行った日だ。


義父は応接間で腕を組み、俺を上から下まで眺めて、低い声で言った。


「娘はくれてやる。返品は受け付けん」


ひどい言い草だと思った。エレナは隣で「はい、承知しております」と頭を下げていた。


帰りがけ、庭の横を通ったとき、植え込みの向こうで大柄な背中が震えているのが見えた。

義父だった。ハンカチを顔に当てて、盛大に鼻をかんでいた。

その横で義弟が「親父、声でかい」と小声で言いながら、自分も目をこすっていた。


俺は見なかったことにして、門を出た。

それ以来ずっと、見なかったことにしている。そのほうが面白い、というのも正直あった。


エレナの書き物机の引き出しには、薄い冊子が一冊入っている。

表紙に、義父の角ばった字でこうある。


『嫁入り心得帳』


結婚の前夜、ローデン家の三人がエレナのために書いたものだ。

中身は、こうだ。


第一条 嫁いだ後は、新しい家を第一とすること。(父)

第二条 夫を立てること。(母)

第三条 実家の財産も商売も、当てにしないこと。(父)

第四条 実家の都合で、嫁ぎ先に迷惑をかけないこと。(母)

第五条 困っても、実家を振り返らないこと。(父)

第六条 実家の商売に、口を出さないこと。(父)

第七条 実家は俺に任せろ。(レオン)


そして最後の頁に、条文の番号もなく、弟の汚い字で一行。


姉さんは幸せになれ。


エレナはこの心得とやらを、五年間ずっと守っている。

一条も破らずに。


   ◇


その月の義母からの荷物は、いつもより小さかった。


いつもなら、杏のタルトが四十個入っている。

四十個だ。うちは夫婦二人と使用人が三人。毎回、近所に配っても余る。


手紙には毎回「作りすぎて余っただけです」とある。

四十個作りすぎる台所とは何なのか、ずっと気になっている。


今回は、十二個だった。


「健康のため、倹約をしております。心配は無用です」


エレナは手紙を読んで、ほっとしたように言った。


「母が健康に気を遣うようになったのは、良いことです」

「タルトを減らすのが健康法なの?」

「作る量が減れば、味見の量も減りますから」


なるほど、とは思わなかった。


同じ週、義弟からも手紙が来た。


「今年は忙しいから、姉さんに蜂蜜飴は送らない。忙しいだけだ。別に何もない」


字が、ひどく荒れていた。

インクが何か所も跳ねて、最後の「ない」は紙を破りかけていた。


そしてその翌日、俺は雨の大通りで義父を見かけた。


義父は、歩いていた。

ローデン家の当主が、傘を差して、濡れた石畳を、自分の足で。


「お義父さん」

「……ユリウスくんか」

「馬車はどうされたんです」

「健康のために歩いている」

「馬は」

「馬にも休暇が要る」


義父はそれだけ言うと、雨の中をすたすた歩いていってしまった。

脇に、紐をかけた紙箱を抱えて。


その夜、店先に杏のタルトの箱が置いてあった。

「通りがかった」と書いた紙切れが添えてあった。


雨の中を、歩いて、川を越えて、通りがかったらしい。


   ◇


さすがに、エレナも気づき始めた。


「ユリウス。実家の様子が、どうもおかしい気がします」

「うん」

「一度、帰って様子を見てこようと思うのですが」

「いいと思うよ」


エレナは律儀に、三人それぞれに手紙を書いた。帰ってもいいか、と。

律儀な人なので、返事が来るまでは動かない。


三日後、三通の返事が同じ日に届いた。


義父から。

「来る必要はない」


義母から。

「こちらは何も困っていません」


義弟から。

「姉さんは知らなくていい」


エレナは三通を机の上に並べて、しばらく眺めていた。


「……困っていない人は、知らなくていい、とは書かないと思います」

「そうだね」

「それに、父は、来る必要はない、と書いています」

「うん」

「来るな、とは書いていません」


その解釈はどうなんだ、と思ったが、黙っていた。

結論としては正しい気がしたからだ。


「行きましょう、ユリウス」

「俺も?」

「夫を立てること、と第二条にありますので」


立てられている気はまったくしなかったが、俺は荷造りを手伝った。


   ◇


ローデン家の門をくぐると、真っ先に目に入ったのは、空っぽの馬小屋だった。


飼い葉桶が裏返して積んである。

休暇にしては、ずいぶん本格的だ。


玄関の扉を叩くと、中からどたどたと足音がして、義父が顔を出した。


「なぜ来た!」

「皆さんが、来るなと書くので」

「なら来るな!」

「もう来ています」


義父が絶句している間に、奥から義母が出てきた。


「エレナ! あなたはもう、こちらの家の人間ではないのよ!」

「はい」


エレナは、深々と頷いた。

一点の曇りもない「はい」だった。


階段の上から、義弟が叫んだ。


「素直すぎるんだよ!」


俺は二人分の荷物を持ったまま、玄関の外で雨のしずくを払っていた。

誰も俺を中に入れてくれなかった。


しばらくして、義母がはっとしたように俺を見た。


「まあ、ユリウスさん。どうぞお入りになって」

「……俺は入っていいんですか」

「あなたはもちろん。お客様ですもの」


エレナは玄関の内側で、まだ義父と押し問答をしている。

娘は締め出されかけ、娘婿は丁重に招き入れられる。この家の理屈は、たまに俺の理解を軽々と越えていく。


居間に通されて、義母が出してくれたお茶を飲んだ。

茶葉が、いつもより薄かった。


   ◇


結局、事情はすぐに知れた。


そもそも、屋敷の中がおかしかった。

五年前には通いの女中が三人いたのに、今日は誰もいない。廊下の燭台は、三つに一つしか蝋燭が立っていない。義母がお茶を運ぶ手の甲が、冬でもないのに赤く荒れていた。


エレナはそれを全部、黙って見ていた。

黙って見ている時のエレナは、たいてい頭の中で帳簿をつけている。


居間のテーブルに帳簿が出しっぱなしになっていたし、廊下には「西倉庫・売却検討」と書かれた書類が落ちていたし、何より義父は隠すのが下手だった。


最大の取引先だった南方の服飾商会が、先月、突然潰れた。

ローデン商会には南部への直販の伝手がなく、南へ出す布は、長年その一社を通して売っていた。

納めたばかりの高級布の代金が、丸ごと回収できなくなった。

その上、その商会向けに織った布の在庫が、倉庫に山ほど残っている。


義父と義弟は、できることを全部やっていた。

馬車を売り、東の倉庫を手放し、自分たちの報酬を止め、新しい取引先を探して街じゅうを歩き回り、銀行にも何度も頭を下げていた。

義母は台所の仕入れを半分にしていた。タルトが十二個になったのは、そのせいだ。


それでも、足りない。


帳簿を最後の頁まで読んで、エレナは顔を上げた。


「では、私の貯金を」

「駄目だ!」


三人の声が、見事に揃った。


「では、ユリウスに相談を」

「絶対駄目!」

「……俺、ここにいますけど」


誰も聞いていなかった。


「では、嫁入り道具の宝石を――」

「それは私が選んだものです!」と義母。「質に入れたら、化けて出ますよ」

「お母様はご存命です」

「生きたまま化けて出ます」


「では、私が保証人に――」

「それを口にしたら、親子の縁を切る!」


義父がテーブルを叩いた。

エレナは、きょとんとした。


「もう他家の人間なのでは?」

「そういう意味ではない!」


義父は顔を真っ赤にして、それから、どういう意味なのか自分でも説明できずに黙った。


潰れかけた商家の当主が、嫁いだ娘の実家への援助を、娘本人に向かって全力で拒んでいる。

世間の話ならたいてい逆だ。娘の嫁ぎ先にすがる親の話なら、商人仲間から何度も聞いた。


   ◇


エレナは、引き下がらなかった。

鞄から、あの冊子を取り出した。持ってきていたのか。


「ですが、家族が困っているなら――」

「第一条」


義父が、低い声で言った。


「第四条」


義母が、すかさず続けた。


「第七条!」


義弟が、立ち上がって叫んだ。


エレナは冊子を開いて、該当の頁を確かめた。


「……皆さん、よく覚えていますね」

「私たちが書いたんだから当然だ!」


義父が胸を張る。

俺は、思わず口を挟んでしまった。


「本当に、娘さんに助けさせたくないんですね」

「当然だ!」


義父は勢いよく言い切った。

言い切ってから、自分の言葉を頭の中で一回転させたらしい。


「……いや、その言い方はおかしい」


おかしいのは言い方ではない気がする。


   ◇


その晩は、泊まっていくことになった。

正確には、帰れと言われ続けているうちに日が暮れて、義母が「夜道は危ないから」と客間に布団を敷いた。帰れと言っていた本人が。


エレナには、昔の自分の部屋があてがわれた。


扉を開けて、エレナが立ち止まった。

俺も、後ろから覗いた。


五年前のままだった。


窓辺の鉢植えが、生きている。机の上のペン立てに、エレナが娘時代に使っていた羽根ペンが差してある。寝台の上掛けは、日なたの匂いがした。昨日か今日、干したものだ。


「……掃除が、行き届いていますね」


エレナは、それだけ言った。


夜更けに、エレナが「毛布をもう一枚借りてきます」と部屋を出て、なかなか戻らなかった。

様子を見に行くと、エレナは廊下の突き当たり、義父の書斎の前にしゃがんでいた。


足元に、木箱がひとつ。

毛布を探して物置の戸を開けたら、上の棚から落ちてきたらしい。


中身は、手紙だった。

五年分の、エレナからの手紙。


一通ずつ封筒に日付が書き込んであった。義父の角ばった字で。

受け取った日付だ。何通かには、端に小さく「元気そうだ」と書き足してあった。


エレナは、黙ってそれを箱に戻した。

一通も抜けていなかった。月に一度、五年で六十通と少し。その全部に、日付があった。


「……父は、手紙を捨てない人なのですね」


エレナは、それだけ言った。

俺は「そうみたいだね」とだけ答えた。それ以上のことは、この箱が全部言っている。


居間では、義弟がひとりで帳簿をつけていた。

握っているのは、古びた銀の軸のペンだ。


エレナが、それを見て足を止めた。


「レオン。そのペン」

「……なんだよ」

「私が、十五の誕生日にあげたものですよね」

「書きやすいから使ってるだけだ」


翌朝、朝食の席でエレナは言った。


「皆さん。私を忘れろと言った割には」

「違う!」


三人同時だった。

何が違うのかは、誰も説明しなかった。義父はパンをちぎり、義母はお茶を注ぎ、義弟はスープを飲んだ。三人とも、エレナのほうを見なかった。


エレナは、隣の俺を見た。


「ユリウス。……知っていたんですか?」

「まあ」

「なぜ、教えてくれなかったのです?」

「面白かったから」

「ユリウス」

「半分冗談です」

「半分」


エレナは、しばらく俺をじっと見ていた。

残りの半分が何なのかは、聞かれなかった。


言ったら、この一家が五年かけて守ってきたものを、俺が横から台無しにする気がしたのだ。

あれは本人たちが、自分の口で言うべきものだ。言えるようになるかは知らないが。


   ◇


二日目の昼、俺は義父に倉庫へ連れていかれた。

帳簿の数字を確かめたいから荷物を運ぶのを手伝え、という名目だった。手伝いに呼ばれる客というのも妙だが、黙ってついていった。


木箱を二つ運んだところで、義父が手を止めた。


「ユリウスくん」

「はい」

「エレナは、そちらで……」


義父は、そこで言葉を切った。

棚の埃を指でなぞって、なぞった跡をしばらく見ていた。


「……笑っているか」

「笑ってますよ。口の端だけですけど」

「そうか」


義父は、それから慌てたように首を振った。


「いや、今のは聞かなかったことにしろ。嫁いだ娘の様子など、私は気にしておらん」

「はい」

「本当だぞ」

「はい」


俺は三つ目の木箱を持ち上げた。

義父は、そのあと一時間、一言も喋らずに箱を運んでいた。耳だけが、ずっと赤かった。


   ◇


二日目の夜、水を飲みに台所へ下りた。

戸棚の隙間から、「エレナ用」と書かれたジャムの瓶が覗いていた。


裏口の外から、話し声が聞こえた。


義弟とエレナだった。

石段に、並んで座っているらしい。


「……金はいらない」


義弟の声は、昼間の半分くらいの大きさだった。


「うん」

「本当にいらない。姉さんの金も、義兄さんのとこの金も」

「うん」

「でも、正直……もう、何したらいいかわかんねえんだ」


エレナは、何も言わなかった。


「親父はずっと大丈夫だって言うし、お袋は台所で帳簿つけて泣いてるし。俺が継ぐって言ったのに、俺、何もできてない」

「レオン」

「姉さんに背負わせたいわけじゃないんだよ。俺が継ぐって言ったのも、本気だった。姉さんまで、家のために生きるのが嫌だったんだ」


石段の上で、何かを擦る音がした。義弟が、靴の先で地面を蹴ったのかもしれない。


「でも……相談くらいは、してもいいのかなって」


俺は、コップを流しに置いた。

音を立てないように、階段を上がった。


ここから先は、俺が聞いていい話じゃない。


翌朝、エレナの目が赤かった。

義弟の目も赤かった。


二人とも「枕が合わなかった」と言った。

同じ家で育つと、言い訳まで似るらしい。


   ◇


翌日、俺たちは一度、家へ帰った。


帰りの馬車の中で、エレナはずっと膝の上の心得帳を読んでいた。

三往復くらい読んでいた。


「ユリウス」

「うん」

「私は、第三条も、第四条も、第五条も守りたいのです。父たちがそれを望んでいるので」

「うん」

「でも、レオンは、相談したいと言いました」


エレナは、心得帳を閉じた。


俺は窓の外を見たまま聞いた。


「そこに、家族をやめろって書いてある?」

「……ありません」

「実家の借金を背負うのと、弟の相談に乗るのは、同じこと?」

「違います」

「じゃあ、答えは出てるんじゃない?」


エレナは、しばらく黙っていた。

馬車が石橋を渡って、車輪の音が変わった。


「……私、教えを守ることと、実家から離れることを、同じだと思っていました」


エレナは、心得帳の表紙を指でなぞった。


「嫁いでから、実家に手紙を書くときは、毎回迷っていたんです。困っていることを書いたら、第五条に反するかもしれない。楽しかったことを書きすぎたら、未練があるように読めるかもしれない。だから、いつも『元気です』と『夫によくしてもらっています』だけ」


あの箱の手紙の端に、義父が書き足していた「元気そうだ」の文字を思い出した。

二行しかない手紙から、あの人は毎月それを読み取っていたのだ。


それから、困ったように眉を寄せた。


「父たちも、たぶん同じ勘違いをしています」

「たぶんね」

「家族全員で、同じ勘違いを」

「血筋かな」

「ユリウス」

「半分冗談です」


   ◇


三日後、エレナはもう一度ローデン家の門をくぐった。

今度は、先に誰にも手紙を出さなかった。


居間に三人を揃えると、エレナは背筋を伸ばして言った。


「お金は、出しません」

「それでいい」と義父。

「保証人にも、なりません」

「当然です」と義母。

「夫の家のお金も、使いません」

「よし」と義弟。


三人とも、ほっとした顔をした。

追い返す準備をしていたのに、拍子抜けしたような顔でもあった。


「でも、相談には乗ります」


居間が、静かになった。


「私は、帳簿が読めます。それから、フェルナー家に嫁いで、南部の市場のことも多少は覚えました。お金も名前も出しません。ただ、話を聞いて、一緒に考えます」


エレナは、三人の顔を順番に見た。


「それくらいは、家族としてしてもいいでしょう?」


義父は、すぐには答えなかった。

腕を組み、天井を見て、床を見て、窓の外の空っぽの馬小屋を見た。


長い沈黙のあとで、義父は言った。


「……勝手にしろ」


義母が、顔を背けて目元を押さえた。

義弟が、何か言いかけて、やめて、鼻をすすった。


この家で「勝手にしろ」が何を意味するのか、俺はもう知っている。

これ以上ないくらいの、許可だ。


帰りぎわ、玄関で義弟が姉を呼び止めた。


「姉さん」

「はい」

「……明日、何時に来る?」


エレナは、真面目な顔で答えた。


「朝の九時に伺います。帳簿を、朝のうちに見たいので」

「八時でもいいけど」

「では八時に」


義弟は「別に早く来てほしいわけじゃない」と言って、扉を閉めた。

扉の向こうで、「八時だって」と義母に報告する声が聞こえた。


   ◇


エレナが最初に向かったのは、西の倉庫だった。


潰れた南方の商会向けに織った布が、天井近くまで積んである。

エレナは一反ずつ手に取って、指先で生地をこすり、光に透かした。


「……これ、いい布です」

「そりゃ、ローデンの布だからな」と義弟。


義弟は倉庫の入口に寄りかかって、腕を組んでいた。

姉が在庫を見て回るのを、どこか居心地悪そうに、でも追い出しもせずに見ている。

「勝手にしろ」の効力は、義弟にもちゃんと及んでいるらしい。

「いえ、そうではなくて」


エレナは、布の端を俺に差し出した。

触ってみる。薄い。軽いのに、しっかりと目が詰まっている。


「南部向けの、夏用の綾織です。北では薄すぎて売れませんが、フェルナー商会が回っている南の港町なら、需要があるはずです。去年、うちの南部担当が、こういう生地が足りないとこぼしていました」


エレナは俺を見上げた。

俺は、先に言っておくことにした。


「俺が勝手に買い取ることは、できないよ」


義父が、ぎょっとした顔をした。

義母も、義弟も。


「俺は商会の次男で、南部の仕入れは兄の管轄だ。妻の実家だからって俺が買い取ったら、お義父さんたちが一番嫌がることになる」

「当然だ」と義父がすかさず言った。「そんなことをされたら、第三条が泣く」


第三条は泣かないと思う。


エレナは、頷いた。


「では、商談の席だけ、作れますか?」

「それなら」


それなら、俺にもできる。

俺にできるのは、そこまでだ。


   ◇


商談の前の晩、エレナは義父に念を押していた。


「お父様。明日の席で、『娘の嫁ぎ先なのだから』とは、言わないでください」

「言うわけがなかろう」

「第三条に反しますので」

「私が書いた条文だぞ。私が破るわけがない」


義父は、心外だという顔で腕を組んだ。

義弟が横から「親父、昔から本番に弱いじゃん」と言って、脛を蹴られていた。


エレナは頷いて、それでも鞄に心得帳を入れた。

念のため、だそうだ。


商談は、フェルナー商会の奥の応接室で行われた。


こちら側は、南部仕入れの責任者である兄のコンラート。俺は同席だけ。

向こう側は、義父と義弟。エレナは、義父の後ろの椅子に座っていた。


兄は、布を検め、見本を光にかざし、書類をめくった。

それから、表情ひとつ変えずに条件を並べた。


「仕入れ値は、現在の南部の市場価格に準じます。値引きの交渉はしますが、上乗せはしません」

「はい」

「全反の品質検査をこちらで行います。不良が一割を超えたら、その分は引き取りません」

「はい」

「前払いはしません。納品後、検品を終えてからの支払いです」

「……はい」

「継続の契約は、今回の売れ行きを見てから判断します。保証はできません」


普通に、厳しかった。

兄は、相手が弟の嫁の実家であることを一秒も考慮していなかった。そういう人だ。だからこの人に頼んだ。


義父が、膝の上の拳を握った。


「その……こちらとしても、娘の嫁ぎ先だからといって――」


言いかけた瞬間、エレナが膝の上の鞄に手を伸ばした。

鞄の口から、あの冊子の角が見えた。


「出すな!」


義父が、振り向きもせずに叫んだ。


「最後まで聞け! わかっている!」


兄が、書類から顔を上げた。


「……何の話です?」


義父は咳払いをして、背筋を伸ばした。


「家庭内規定です」


それから、兄に向き直って言い直した。


「娘の嫁ぎ先だからといって、手心を加えていただく必要はありません。通常の取引として、扱っていただきたい」


エレナの手が、鞄の口で止まった。

それから、何事もなかったように、膝の上へ戻っていった。


義弟が、天井を見ていた。笑いをこらえている顔だった。

本番に弱いのではなく、言い出しの順番が悪いだけらしい。


兄は、表情ひとつ変えずに頷いた。


「当然です。身内だからと条件を変えるなら、この商談は成立しません。お互いに」

「望むところです」


商談は、兄の条件どおりで成立した。


応接室を出たところで、義父が俺の横に並んだ。


「君の兄上は、実に厳しい方だな」

「ええ。身内にほど厳しいんです」

「そうか」


義父は、廊下の窓から中庭を見て、小さく言った。


「……ありがたい」


   ◇


それで全部が片づいたわけではなかった。


倉庫の在庫のうち、兄が引き取ったのは四割ほど。検品で一割弱が撥ねられた。代金が入るのは、船が南へ着いて、また戻ってからだ。


それでも、時間ができた。

銀行が、返済の期日を半年延ばしてくれた。在庫が現金に変わる見込みができたからだ。


義父は、売った馬車を買い戻さなかった。

「歩くと、取引先の店の様子がよく見える」のだそうだ。本人は最初からそのつもりだったような顔をしている。


義父と義弟は、その半年で街じゅうを歩き回った。

南の港町へ向かう商人を片っ端から訪ね、夏の綾織の見本を置いてきた。義弟は二足、靴を履きつぶした。

三足目の靴を、エレナが買ってやろうとして、義弟に全力で断られていた。


「第三条!」

「靴は財産ではありません」

「財産だよ! 靴は財産だよ!」


結局、靴は義母が買った。


義母は、仕入れの帳簿を一から洗い直した。

十年前から惰性で続いていた取引を三つやめて、そのぶん糸の質を上げた。


最初の代金が届いたのは、秋の終わりだった。


兄の商会から回ってきた支払い証書を、義弟が居間で読み上げた。

金額のところで、声が途中で裏返った。


「……親父。入った」

「そうか」


義父は新聞から顔を上げずに言った。

新聞は、逆さまだった。


義母が台所から出てきて、証書を義弟の手から取り、二回読んで、三回目で椅子に座り込んだ。

それから、何事もなかったように立ち上がって、「今夜は肉を焼きます」と言った。


俺とエレナがその場にいたのは、たまたまだ。本当にたまたま、帳簿を見に来ていた日だった。

エレナは、口の端をわずかに上げただけで、何も言わなかった。

テーブルの下で、俺の袖をぎゅっと握っていた。


ローデン織布商会は、小さくなった。

西の倉庫も、結局は半分を人に貸した。職人を二人、よその工房へ紹介した。


でも、潰れなかった。


エレナがしたことは、帳簿を一緒に読んだことと、布の行き先に心当たりを言ったことと、商談の席に座っていたことだけだ。

エレナ本人は、こう言っていた。


「私は、相談に乗っただけです」

「うん」

「第六条には、口を出すなとありますが、相談に乗るなとは書いてありませんので」


その解釈は、今回は俺も支持する。


   ◇


半年後。


ローデン家で、久しぶりに四人と俺とで夕食を囲んだ。

テーブルの真ん中には、杏のタルトが並んでいた。四十個。


義母は「作りすぎて余っただけよ」と言った。

五人で四十個。今日も、きっちり余る計算だ。


「倹約は終わったんですか」と聞くと、義母は澄ました顔でお茶を注いだ。


「倹約しています。ほかのところで」

「タルトは」

「タルトは、別です」


ほかのところ、というのがどこなのかは、聞かないでおいた。

たぶん義父の晩酌あたりだろう。義父のグラスのワインが、やけに浅かった。


食事の終わりごろ、義父がワインのグラスを置いて、咳払いをした。


「……嫁いだ娘は、他家の人間だ」


義母が、あきれた顔をした。


「あなた、まだ言うの?」

「最後まで聞け!」


義父は、テーブルの上の自分の手を見ていた。


「他家の人間では、ある」


間があった。

暖炉の薪が、ぱちんと鳴った。


「……だが、家族だ」


誰も、何も言わなかった。

義母はナプキンで口元を押さえ、義弟は天井を見上げ、エレナは膝の上で両手を重ねていた。


最初に口を開いたのは、義弟だった。


「……それ、心得帳に追加しようぜ」


エレナは、もう立ち上がっていた。

俺の鞄から、迷いなくあの冊子を取り出してくる。


「まだ持っているのか!」

「肌身離さず持っています」

「なぜ俺の鞄に入ってるんだ」

「重いので」


義父がペンを取った。義弟の、あの銀の軸のペンだった。

最後の頁、「姉さんは幸せになれ」の下に、角ばった字で書き足す。


第八条 家業と家族を、混同しないこと。


義弟が、覗き込んで聞いた。


「これ、誰向け?」

「全員です」


エレナが即答した。


「俺も?」

「念のため」


俺は、グラスを置いた。


「……俺、巻き込まれてない?」


誰も答えなかった。

義父だけが、口の端をほんのわずか上げた。

エレナの笑い方と、そっくり同じだった。どこから来た癖なのか、ようやくわかった。


   ◇


数週間後。


ローデン家から、荷物が届いた。

木箱の中に、紙箱が三つ。どれも杏のタルトで、どれも、ぎっしり詰まっている。


添えられた手紙は、義父の字で一行だけだった。


「余剰在庫につき、送付する」


俺は、紙箱を一つ持ち上げた。


「余剰在庫?」

「そう書いてあります」

「君の名前が、三箱全部に書いてあるけど」


蓋の上に、それぞれ違う字で「エレナへ」とあった。

角ばった字と、丁寧な字と、汚い字。


「在庫管理でしょうか」

「違うと思う」


エレナは、三つの紙箱を並べて、しばらく眺めていた。

それから、ぽつりと言った。


「では……娘への、贈り物?」

「やっと気づいた?」


エレナは、一番汚い字の箱の蓋を撫でた。


「……でも、私は他家の人間です」

「まだ言うのか、それ」


エレナが、笑った。

声を立てて、肩を揺らして。


五年で片手に収まっていた回数が、ひとつ増えた。

この調子だと、もう片方の手を使う日も、そう遠くない気がする。


口の端だけでは、とても収まらない笑い方だった。


(了)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。