セミライブセックス
## 第一章 男って、バカだよな
カマキリのオスは、逃げなかった。
相良慎吾はベッドの上で膝を立て、ノートパソコンの画面を眺めていた。夕食のコンビニ弁当は、机の端に積まれた教科書の隣で空になっている。見るつもりだった暗号理論の解説動画から推薦欄を何度かたどった結果、なぜか画面にはカマキリの交尾が映っていた。
オスがメスの背へ乗っている。慎吾は生物には詳しくなかったが、カマキリの交尾では、オスがメスに食べられることがあるという有名な話くらいは知っていた。食われる危険があるなら近づかなければいい。それだけのことが、どうしてできないのか分からなかった。
それでもオスは近づく。自分の頭を食いちぎるかもしれない相手の背中へ、わざわざ自分から乗っていく。慎吾はしばらく画面を見つめ、鼻で笑った。
「男ってバカだよな。女と交尾しなけりゃ食われないのに」
動画を閉じると、大学の課題管理サイトを開いた。翌朝締切の分散システム論のレポートはすでに提出済みだった。慎吾は神奈川県内の情報科学系単科大学に通う三年生で、成績は学年五位。百十人ほどいる同学年のうち、男子がおよそ百人、女子が十人ほどだった。
講義室を後ろから眺めれば、黒や紺のパーカーの海に、ときどき長い髪が浮かんでいる。慎吾はその海の中で特別目立つ学生ではなかった。首席でもなければ、プログラミングコンテストで全国優勝したこともない。ただ、課題で詰まった学生が最後に尋ねる相手の一人ではあったし、女子学生から質問されることも珍しくなかった。
それが周囲の男子には、どうにも羨ましいことらしかった。
## 第二章 勿体ない
「相良君、ここの排他制御ってこれで合ってる?」
昼休みの演習室で、高梨美緒がノートパソコンを慎吾の机へ滑らせた。慎吾はソースコードを十秒ほど眺め、四十三行目を指差した。
「ロック取る前に状態読んでるから、ここ競合する。四十三と四十四を逆にしたら?」
「あ、ほんとだ。ありがとう」
「テストケースも増やしたほうがいい。今のだと、たまたま通ると思う」
美緒はそのまま隣で課題を続けた。夕方になり、「お礼にご飯奢ろうか」と誘われたが、慎吾は「いいよ、別に」と断って先に帰った。それ以上の意味がある誘いだったのかどうかも、考えなかった。
翌日、同期の小野と鴨川が食堂で慎吾を捕まえた。小野はラーメンを啜りながら、「お前、高梨さんに飯誘われて断ったってマジ?」と呆れた顔をする。鴨川まで「相良、そういうの何回目だよ。もったいなくね?」と笑った。
慎吾は味噌汁の蓋を開けかけた手を止めた。
「勿体ないって何?」
「いや、だからさ。向こうから来てくれてんのに」
「女様に体を貸してもらうことが、そんなに名誉なことなのか?」
二人の顔から笑いが消えた。慎吾自身、少し強く言いすぎたことには気づいたが、口に出したものを引っ込める気にはならなかった。
「お前らの人生の目的になるくらい、女様って偉いのか?」
「いや、そこまで言ってねえよ」
「じゃあ、何が勿体ないの?」
答えが返ってこなかったので、慎吾は食事を再開した。
情報系の大学では女子学生が少ない。それ自体はただの人口構成だったが、そこへ男子学生の恋愛欲求が加わると、慎吾には奇妙な市場が形成されているように見えた。一人の女子がサークルへ入れば参加者が急に増え、女子と付き合った男子は何かを成し遂げたように肩を叩かれる。飲み会で「彼女できた」と報告した男には、本当に拍手が起こることさえあった。
慎吾には、それが滑稽だった。女に選ばれたことが勲章であるかのように喜ぶ男たちは、メスの背中へ乗ったカマキリと大差ないように思えた。
ただし、自分だけがその市場の外にいる、とまで思っていたわけではない。一年生の冬までは、慎吾自身も女性と付き合うことを普通に想像していた。
藤代航平は、慎吾と同じ学科だった。慎吾ほど成績はよくなかったが、話の回転が速く、初対面の人間とも簡単に仲良くなる男だった。二人は入学直後のプログラミング演習で隣の席になり、そのままよく一緒に行動するようになった。
航平には恋人ができた。そして数か月後、その恋人は、航平との性行為について「同意していなかった」と周囲へ訴えた。
航平は「同意していた」と言った。女性は「嫌だった」と言った。慎吾は何度も航平から話を聞き、女性側の話も共通の知人を介して断片的には耳へ入れたが、結局何も分からなかった。二人しかいない部屋で起きたことだった。
航平は大学へ来なくなった。正式な処分が確定するより先に噂が広がり、サークルから外され、SNSでは名前を伏せたまま事件の当事者として語られ、そのまま休学した。
慎吾は航平が嘘をついていないと断言できなかった。同時に、相手の女性が嘘をついていないとも断言できなかった。それが、一番気持ち悪かった。
誰も真実を知らないのに、誰もがどちらかを信じなければならない。しかも、信じた結果によって誰か一人の人生が壊れるかもしれない。
それ以来、慎吾は女性と親密になることを避けた。二人きりで勉強するくらいなら構わないし、食事もできる。けれど、その先には行かない。
慎吾にとって性行為とは、男が女に生殺与奪の権を預ける行為だった。だから「勿体ない」と言われても、本当に何が勿体ないのか分からなかった。食われるかもしれないところに、自分から頭を差し出しに行く意味が分からなかった。
## 第三章 半分だけライブ
三年生の六月、大学内で似た事件が起きた。今度は慎吾の知り合いではなかったが、「男性は合意だったと主張」「女性は途中から嫌だったと主張」という情報だけで、学内SNSは数時間で二つに割れた。
> 男の言い訳でしょ。
> じゃあ女が後から言えば何でも不同意になるの?
> 最初にOKしてても途中で嫌になることはある。
> それをどうやって証明するんだよ。
最後の一文を見たとき、慎吾の指が止まった。
また二人きりの部屋だった。どちらが本当のことを言っているのか、外からは分からない。それでも噂だけは先に広がり、男の名前も女の名前も、真偽の分からない話と一緒に学内を走っていった。
慎吾はスマートフォンを伏せた。
「やっぱり男ってバカだよな。女と交尾しなけりゃ食われないのに」
口に出してから、妙に腹が立った。
近づかなければいい。
セックスしなければいい。
それで全部避けられる。
なのに、それで終わりにできないから男は馬鹿なのだと慎吾は思っていた。航平も、画面の中のカマキリも、恋人が欲しいと騒いでいる同級生も、みんな分かっていて近づいていく。
その晩、慎吾は講義資料を開かなかった。代わりに古いコードを引っ張り出し、分散ストレージの実験用に書いたプログラムと、暗号理論の授業で作ったサンプル実装を組み合わせ始めた。
普通に動画を録画するだけでは駄目だった。録画ファイルなら後から作れるし、撮影日時のメタデータも書き換えられる。映像にハッシュ値を付けたところで、その映像を事件後に偽造し、偽映像から新しいハッシュ値を計算すればいい。
必要なのは、映像が改竄されていないことだけではない。
**そのデータが、その時刻にすでに存在していたこと。**
慎吾は動画を数秒単位の断片に分けた。各断片を端末上で暗号化し、一つ前の断片のハッシュ値を次の断片へ含める。途中だけ差し替えれば鎖が切れるが、それでも全体を作り直せば新しい鎖は作れてしまう。
なら、その鎖を作った瞬間から外へ出せばいい。暗号文だけを、撮影と同時に複数の独立したノードへ送信する。
午後十時三十二分十四秒に暗号断片Aが届いた。十九秒にBが届き、二十四秒にCが届く。半年後に偽映像を作ることはできても、その偽映像の暗号文が半年前の午後十時三十二分に複数の外部サーバーへ届いていたという事実までは後から作れない。
翌日の昼休み、慎吾は久慈奈緒を研究棟のラウンジへ呼んだ。奈緒は四年生で、情報法とプライバシー制度に異常に詳しかった。技術系の学生が「これ法律的にはどうなの」と困ったとき、教員より先に奈緒の名前が出ることすらあった。
慎吾が一通り説明すると、奈緒は腕を組んだ。
「つまり、セックスを生配信する?」
「違う。生配信するのは暗号文。映像そのものは誰にも見えない」
「それで何が証明できるの?」
「普通の録画は、作られた時刻を信用しなきゃいけない。でも暗号文をリアルタイムで外に撒けば、『この時刻には、すでにこのデータが存在していた』ってネット側が証人になる」
慎吾はノートに四つの四角を書き、矢印でつないだ。
「後から一部を書き換えればハッシュの鎖が切れる。全部作り直しても、今度は昔の受信記録と合わない。映像そのものを公開する必要はない」
「誰も中身を見てないのに、ライブ配信?」
「見てないからいいんだよ」
奈緒はしばらくノートを見つめた。
「ライブ配信なのに、誰も見られない」
「半分だけライブ」
「セミライブ?」
慎吾が顔を上げ、奈緒も顔を上げた。二秒ほど沈黙してから、慎吾は言った。
「セミライブセックス」
「最悪の名前」
「覚えるだろ」
「それは覚える」
奈緒は笑った。
## 第四章 誰にも鍵を渡さない
問題は復号だった。
利用者自身が映像を見られるなら、別の危険が生まれる。恋人との映像を勝手に取り出して公開したり、脅迫に使ったりできる。セックスの証拠を残す仕組みが、そのままリベンジポルノ製造機になっては意味がない。
「撮影者にも鍵を渡さない」
慎吾がそう言うと、奈緒は珍しくすぐ頷いた。
「それは絶対」
「端末ではその都度、一時鍵を生成して動画を暗号化する。その一時鍵自体も運営側の公開鍵で包む。撮った本人にも開けない」
「じゃあ運営は見放題?」
「だから、そこを制度で止める」
慎吾はホワイトボードに大きく「理事長」と書き、その横へ×を付けた。
「少なくとも理事長には復号権を持たせない」
「未来の理事長が悪い奴だったら困るから?」
「未来の俺が悪い奴かもしれないから」
奈緒は笑わなかった。慎吾も冗談で言ったわけではなかった。
「理事長が善人であることを前提にしたセキュリティは、セキュリティじゃない」
その日の議論は夕方まで続いた。秘密鍵そのものは人間へ渡さず、HSMと呼ばれる専用装置の内部へ閉じ込める。しかもHSMから秘密鍵そのものを外へ取り出すことはできず、正式な許可情報が入力された場合だけ、装置内部で必要な復号処理を行う。
しかし、その「正式な許可」を誰が出すのか。
奈緒がホワイトボードへ新しい四角を書いた。
「復号するかどうか決める組織を、運営側から独立させたら?」
「裁判所みたいな?」
「そう。でも本物の裁判所じゃないから、復号所くらいでいいんじゃない」
「復号所」
「そのままだけど」
「分かりやすい」
慎吾は気に入った。奈緒は四角の下へ「復号所」と書き、その横に「理事会」と書かれた四角から大きく離して配置した。
「じゃあ私、こっちやる」
「俺より偉くなるじゃん」
「復号についてはね」
「いいよ」
慎吾があまりに即答したので、奈緒は目を細めた。
「本当に?」
「俺が命令して復号できるなら、作る意味ないだろ」
その時点では、二人ともまだ学生だった。大学のラウンジの白い壁へ、二人は国家のような組織図を描いていた。
## 第五章 一人一票
セミライブの試作版を公開すると、予想以上の反応があった。最初は大学内の技術系コミュニティだけだったが、SNSへ流れ、セキュリティ研究者が紹介し、やがてネットメディアが記事にした。
> 「性行為を誰にも見せずにライブ配信する」学生発サービス
見出しだけを読んだ人間からは炎上したが、本文を読んだ人間からはもっと複雑な反応が返ってきた。男性側からは「後から言い分を変えられた場合の証拠になる」という期待があり、女性側からは「途中で拒否したことまで残るなら使いたい」という声もあった。
「会社にする?」
大学の起業支援室でそう聞かれたとき、慎吾は首を振った。
「株式会社は嫌です」
「どうして?」
「金いっぱい出した奴が偉くなるから」
担当者が困った顔をすると、隣にいた奈緒が言った。
「NPO法人なら?」
慎吾はそちらを見た。
「NPO?」
「社員一人一票」
「一億出した奴も?」
「一票」
「千円しか寄附してない奴も?」
「一票」
慎吾は数秒考え、頷いた。
「それがいい」
こうして、特定非営利活動法人セミライブが作られることになった。
設立準備会では、最初に言葉の混乱が起きた。
「社員って、ここで働く人ですよね?」
新しく参加した学生が聞くと、奈緒が資料を開いた。
「ここでいう『社員』は従業員って意味じゃないよ。株式会社でいうところの『株主』。NPO法人の構成員で、株主総会ならぬ社員総会に参加して議決権を持つ人」
「じゃあ給料もらって働く人は?」
「そっちは職員」
慎吾も横から補足した。
「社員だけど職員じゃない人もいるし、職員だけど社員じゃない人もいる。社員で職員でもある人もいる」
「ややこし」
「法律が悪い」
「法律のせいにしない」
奈緒にたしなめられ、慎吾は黙った。
設立時の社員は十二人だった。全員一人一票で、慎吾も一票、奈緒も一票である。寄附額が多くても票は増えず、創業者だからといって特別な票もない。
慎吾は初代理事長に選ばれた。そして最初の定款案へ、奇妙な条文を入れた。
> 副理事長は五名とし、そのうち二名以上は、理事長と異なる性別の者でなければならない。
設立準備会で、一人の女性社員が笑った。
「これ、女性枠じゃん」
「違うよ。異性枠」
「今、理事長が慎吾だから女性枠でしょ」
「俺が女だったら、その瞬間に男性枠になる」
何人かが定款を読み返した。
「男女比を調整するルール自体が悪いとは思ってない。でも女のときだけ動くルールは嫌なんだよ。俺が死んだあと、女の理事長が選ばれても一文字も変えずに動く定款にしたい」
奈緒が頬杖をついた。
「慎吾って、こういうところだけ妙に対称性好きだよね」
「こういうところだけって何」
「別に」
奈緒は笑っていた。
## 第六章 三つの府
法人の内部制度は、次第に悪ふざけのような名前で呼ばれるようになった。
社員総会は「立則府」。理事会とその直下に置かれる開発、営業、総務などの一般部門は「行務府」。そして復号所は「司則府」と呼ばれた。
最初に言い出したのは奈緒だった。
「国じゃないんだから立法府とは呼べないでしょ。法律作れないし」
「じゃあ立則府」
「復号所は司法府でもないね」
「司則府」
「理事会側は?」
慎吾は少し考えた。
「行政府」
「それ、本物の政府と紛らわしいでしょ」
「じゃあ行務府」
「それが一番まともかも」
こうして三つの府が揃った。冗談から始まった呼び名だったが、職員はすぐ普通に使うようになった。
「それ、行務府案件ですよ」
「復号が必要なら司則府に回してください」
「その規則変えるなら、次の立則府に議案出さないと」
組織が大きくなるにつれ、冗談だった三つの府は、本当に異なる権限を持つようになった。
創設時の復号所には七名の復号官が置かれた。七人は定款上の「復号官」であると同時に、日本のNPO法上は法人の監事でもあった。監事として理事の業務執行や財産を監査し、復号官としては定款から与えられた独自の権限に基づき、復号を認めるかどうかを審理する。
任期は二年。七人には給与も役員報酬も支給せず、必要な交通費などの実費だけを法人が負担した。理事長にも理事会にも復号官を直接解任する権限は与えず、重大な職務違反があった場合には、社員総会の下に設ける復号官弾劾裁判所の特別手続を経ることにした。
奈緒は初代復号所長となったが、所長だからといって他の復号官の判断へ命令できるわけではない。
「所長なのに?」
慎吾が聞くと、奈緒は当然のように答えた。
「私と判断が違う復号官を私がクビにできたら、独立してないでしょ」
「じゃあ所長って何の偉い人なの?」
「所務をまとめる人。個々の事件について復号官の上司になる人じゃない」
「ややこしいな」
「わざとややこしくしてるんだよ。権力って、一か所にまとめると楽だから危ないの」
復号の仕組みも、それに合わせて作り直した。
復号所が出すのは**復号決定**だった。認めれば「復号許可決定」、認めなければ「復号不許可決定」。復号官自身が映像を見るのではなく、見ることを許してよい条件が整っているかだけを判断する。
許可決定が確定すると、復号官たちの電子署名をHSMが検証する。秘密鍵そのものは外へ出ず、HSM内部で対象データだけが復号され、行務府に設けられた「証拠執行室」の隔離端末へ平文映像が送られる。
実際に映像を見るのは、証拠執行室の限られた職員だった。必要箇所を確認し、証拠用データを作成し、誰がいつどの決定に基づいて復号したかを記録する。日本国の裁判で取扱経緯の説明が必要になれば、映像を実際に取り扱った職員が証人として説明できる。
慎吾は完成した権限表を眺めた。
「つまり奈緒は、復号していいって決められるけど、自分では見られない」
「そう」
「俺の下の職員は見られるけど、俺には見せろって命令できない」
「そう」
「面倒くさ」
「それでいいの」
復号の事実そのものは、HSMから社員向け監査台帳へ自動的に送られた。誰の映像なのか、何が映っていたのかまでは分からない。ただし、どの事件についていつ許可決定が確定し、いつ執行されたかだけは、司則府にも行務府にも隠せなかった。
> 事件番号 SL-0031
> 決定種別 復号許可
> 復号日時 ……年11月19日 14:31:08
> 復号官五名
> 賛成四・反対一
> 決定ハッシュ 8D4F……
ある職員が奈緒に尋ねた。
「じゃあ、立則府が一番偉いんですか?」
「最高機関ではあるよ。でも最高の復号機関ではない」
「どう違うんです?」
「社員総会は制度を作れる。でも個別事件で『この人のセックスを復号しろ』とは命令できない」
慎吾が横から言った。
「偉い奴ほど何でもできる組織にはしない」
その言葉に、奈緒は何も言わなかった。
## 第七章 最初の復号
最初の大きな復号事件は、サービス開始から十一か月後に起きた。
二十四歳の男性利用者が、交際していた女性から不同意性交を訴えられた。二人は数か月前にセミライブを利用しており、男性側から復号請求が出された。
慎吾は当然、復号されるものだと思っていた。審理が始まった朝、復号所へ顔を出すと、奈緒は資料から顔も上げずに言った。
「慎吾、口出さないで」
「何も言ってない」
「顔が言ってる。早く開けろって」
「……分かったよ」
慎吾は本当に何も言わずに出ていった。
復号所は当事者双方から事情を聞き、日本国の捜査機関による正式な捜査手続が始まっていることなどを確認したうえで、五人中四人の賛成で復号許可決定を出した。
決定が確定すると、行務府の証拠執行室がHSMへ執行要求を送った。HSMは復号官の署名と決定番号を検証し、対象となる暗号文だけを隔離環境へ復号した。
映像には性行為の最初から最後までが記録されていた。ただし事件の判断に必要だったのは、ごく一部の言動だった。女性は複数回、自分の意思を言葉にしており、少なくとも争点となった時点で、後に語られた説明とは大きく食い違うやり取りが残されていた。
映像が存在するだけで自動的に無罪になるわけではなかったが、捜査では重要な証拠として扱われた。最終的に男性は不起訴になり、証拠執行室の職員は後に手続について説明を求められた際、自分がどの復号決定に基づき、どの端末で映像を確認したかを正確に答えることができた。
慎吾はニュースを読みながら、胸の中で固かったものが少しだけほどけるのを感じた。
航平のときにも、これがあれば。
今でも航平と相手のどちらが真実を語っていたかは分からない。けれど、分からないという理由だけで誰かが食われることは、防げたかもしれない。
「成功したな」
慎吾が言うと、奈緒は隣でコーヒーを飲んでいた。
「何が?」
「セミライブ」
「一件で?」
「一件でもだよ」
慎吾はニュース画面を閉じた。
「これで、男は食われなくて済む」
奈緒のカップが止まった。
「男?」
「……人」
「今、男って言ったよね」
「言葉の綾」
奈緒はそれ以上追及しなかった。
## 第八章 逆方向
二件目の大きな事件は、慎吾の想定とは逆向きだった。
宮田紗季は二十二歳だった。交際相手との性行為の冒頭では、自分からセミライブの開始ボタンを押している。男性側は、その事実を強調した。
最初から合意していた、と。
しかし復号された記録では、途中で紗季が明確に「やめて」と言っていた。一度ではなかった。相手の男性は、それでも続けていた。
慎吾は証拠執行室から正式な手続を経て作成された要約報告書を読み返した。
「最初は同意してる」
「そうだね」
奈緒は向かい側に座っている。
「でも途中で変わってる」
「そうだね」
「じゃあ開始ボタン押した意味ないじゃん」
「開始した時点では意味があるよ。永久に同意しましたってボタンじゃないから」
慎吾は報告書を閉じた。
「同意って面倒だな」
「人間だからね」
セミライブの記録は、紗季の証言を裏付けた。
数か月後、紗季は法人へ礼を言いに来た。慎吾は会うつもりがなかったが、奈緒に「作った人に直接言いたいんだって」と呼ばれ、会議室で向かい合った。
紗季は、慎吾が想像していたより普通だった。普通、という感想を持った自分に、慎吾は後から腹が立った。
「ありがとうございました」
紗季は頭を下げた。
「いや、俺はシステム作っただけなんで」
「それがなかったら、たぶん信じてもらえなかった」
慎吾は何と返せばいいか分からなかった。少し沈黙が続いたあと、紗季が言った。
「私、男の人が怖かったんです」
慎吾は眉を寄せた。
「じゃあ、なんで付き合ったんですか」
奈緒が横から慎吾を睨んだが、紗季は怒らなかった。
「嫌いじゃなかったから」
慎吾は黙った。
「男が怖かった。でも、男が嫌いだったわけじゃないんです。好きだったから一緒にいたかった。だから、余計に怖かった」
慎吾は、その言葉を聞いた瞬間、脳裏にカマキリを思い浮かべた。
怖い。それでも近づきたい。傷つけられるかもしれない。それでも求めてしまう。
それはオスだけの話だと思っていた。
その夜、慎吾は久しぶりにあのカマキリの動画を探した。再生ボタンへ指を置いたまま、結局押さなかった。
## 第九章 最高復号所
セミライブは広がった。
利用者が増えれば、復号請求も増える。最初は月に数件だったものが数十件になり、やがて一つの復号所へ毎日のように新しい事件が届くようになった。
「もう無理」
奈緒が理事会へ持ってきた資料の一枚目には、大きくそう書かれていた。
慎吾は笑った。
「資料に『もう無理』って書く人初めて見た」
「笑い事じゃないよ。私たち七人、監事なんだから」
「人増やせば?」
「今の復号官を?」
「うん」
奈緒は首を振った。
「監事は職員になれない。それに私たちは給与も役員報酬も受け取らない設計にしたでしょ。本業を持ちながら、全国から来る復号事件を一日何件も処理し続けるなんて無理」
「じゃあ報酬出せば?」
「そういう問題だけじゃない。監事って、本来は理事会や法人を監査する側でもあるの。毎日九時から六時まで法人に拘束されて、職員みたいに事件処理のノルマを背負う立場にするのは、監事としても良くないと思う」
慎吾は資料をめくった。
「じゃあどうする?」
「復号官を二種類にする」
奈緒の案では、全国を複数の区域に分け、日常的な復号請求を扱う**地方復号所**を置く。地方復号所の判断に対する不服申立ては**高等復号所**が扱い、地方復号所や高等復号所で働く復号官は監事でも理事でもなく、NPO法人セミライブの有給職員とする。
ただし行務府の職員ではない。
司則府の職員として採用され、人事評価も異動も司則府の内部で完結する。理事長にも理事会にも、個々の判断を理由として復号官を辞めさせることはできず、重大な職務違反があった場合に辞めさせるためには、社員総会が設置する復号官弾劾裁判所の手続を必要とした。
「最高は?」
慎吾が尋ねた。
「今の復号所を、そのまま最高復号所にする」
「七人は?」
「七人とも監事のまま」
「給与なし?」
「給与はそもそも職員に払うものだからなし。役員報酬もなし。実費だけ」
「割に合わなくない?」
「だから最高まで何百件も上げないの」
最高復号所が扱うのは、重要な規則解釈を必要とする事件、下級復号所で判断が分かれた事件、制度全体に影響する事件に絞ることになった。
こうして、もともと一つしかなかった復号所が最高復号所となり、その下に高等復号所と地方復号所が生まれた。
最初から日本国の裁判所制度を真似ようとしたわけではない。一か所では処理できないから地方へ分ける。地方ごとに判断が違えば上級機関が必要になる。全国で解釈が割れれば、それを統一する場所が必要になる。
必要に迫られて制度を足していった結果、いつの間にか国家の司法制度に似ていた。
「国みたいになってきたな」
慎吾が呟くと、奈緒は新しい組織図から目を上げた。
「最初から国みたいだったよ」
「嫌だな」
「自分で作ったくせに」
奈緒は初代最高復号所長官となった。
制度設計の最終段階で、ある理事が提案した。
「最高復号所長官に、緊急時の単独復号権を持たせてはどうでしょう。人命に関わる事件で、復号官を集めている時間がない場合もあり得ます」
慎吾は合理的な案だと思った。平時には使わず、緊急時だけ奈緒の署名一つでHSMを動かせるようにすればいい。
だが奈緒は首を横に振った。
「駄目です」
「でも、一分一秒を争うときは?」
「緊急用の合議手続を先に作ります。人数を減らすなら、その条件も立則府で決めておく。長官一人だけに例外の権限は渡さない」
理事が少し困った顔をした。
「久慈長官なら、まず悪用しないと思いますが」
奈緒は即座に答えた。
「最高復号所長官が善人であることを前提にしたセキュリティは、セキュリティじゃない」
慎吾がかつて口にしたものと、同じ言葉だった。
「……そうだな」
慎吾はそれだけ言った。
最高復号所には、もう一つ特別な権限が与えられた。
**違款立則審査権。**
社員総会が制定した則や、理事会が作った規程が定款に反していると考えられる場合、最高復号所はそれを審査し、定款違反であるとの判断を出すことができる。
「違憲審査みたいな?」
慎吾が尋ねると、奈緒は首を振った。
「憲法じゃなくて定款だから、違款」
「立法じゃなくて立則」
「だから違款立則審査」
「名前長くない?」
「嫌なら短い名前考えて」
結局、職員たちは単に「違款審査」と呼ぶようになった。
最高復号所が立則府より上に立ったわけではない。立則府は適法な手続で定款そのものを改正できる。しかし、定款を変えないまま、自分たちで定めた最高規範を無視することはできない。
奈緒はそれを、
「最高機関だからって、自分で決めたルールを破っていいわけじゃないでしょ」
と説明した。
最高復号所長官になったからといって、奈緒が全国の復号官の上司になったわけでもなかった。地方復号官も高等復号官も最高復号官も、個々の事件については独立している。
「奈緒って、地方復号官に命令できないの?」
「できないよ」
「最高復号所長官なのに?」
「私は最高復号所の長官。全国の復号官の上司じゃない」
「じゃあ地方復号所が変な判断したら?」
「当事者が不服申立てする。高等復号所が判断する。私が電話して『判定変えて』なんて言ったら、上級審を作った意味ないでしょ」
「面倒」
「権力分立はだいたい面倒なんだよ」
職員たちが冗談で「司則府」と呼んでいたものは、いつの間にか全国規模の巨大な制度になっていた。
暗号文の保管については、復号所の管轄とは切り離された。東京で撮影されたデータが東京の地方復号所だけに保存されるわけではなく、複数地域のストレージへ分散される。復号判断を分散することと、データを分散することには別々の理由があった。
暗号文には保存期限を設けなかった。
ある理事が「十年で消す案はどうですか」と提案したことがある。永久保存はコストも責任も大きいという、もっともな理由だった。
しかし慎吾は即座に反対した。
「十年一日後に争いが起きたら?」
「でも永久保存は重いですよ」
「人間の記憶は後から変わる。だから、人間より長く証拠を残すんだろ」
奈緒も、この点では慎吾に同意した。
「撮影者本人にも復号できない。最高復号所長官にも一人では開けられない。正式な復号決定がなければHSMも動かない。そこまで縛るなら、一定期間が過ぎただけで証拠を消すほうが制度目的と矛盾すると思う」
結局、暗号文は無期限保存のままとなった。
慎吾は、それをセミライブの強さだと思っていた。
問題は、技術が失敗したことからではなく、成功したことから始まった。
## 第十章 使ってないの?
ある不同意性交事件で、当事者二人はセミライブを使っていなかった。それ自体は珍しいことではなかったが、SNSでは事件そのものとは別の問いが急速に増えていった。
> なんでセミライブ使ってなかったの?
> 本当に合意だったなら記録すればよかったのでは。
> 今どき使わない男って怖くない?
> 逆に録画要求する男のほうが怖いだろ。
> 使ってない時点で、どっちも証拠残したくなかったってことでしょ。
慎吾は最初、問題だと思わなかった。
「使えばいいじゃん」
理事会でそう言うと、奈緒が顔を上げた。
「何を?」
「セミライブ。疑われるのが嫌なら使えばいい」
「使いたくない人は?」
「使わなきゃいい」
「でも今、使わなかったこと自体が疑われ始めてるよ」
「それは世間の問題だろ」
「うちが作った世間かもしれない」
慎吾は椅子にもたれた。
「意味分かんない」
奈緒は机の上の資料を慎吾の前へ押した。ホテルチェーンがセミライブ利用者向けの専用プランを始め、マッチングアプリには「セミライブ利用可」というプロフィール項目が追加されている。若者向けの記事には、「初めての相手とはセミライブを使いましょう」と書かれていた。
SNSでは、
> セミライブ拒否する人とは会わないほうがいい
という投稿が何万回も共有されていた。
「便利なものが普及しただけだろ」
慎吾が言うと、奈緒はしばらく黙ってから尋ねた。
「じゃあ、いつかセックスする全員が、慎吾の作ったシステムに永久保存される暗号文を預けなきゃ信用されない社会になってもいい?」
「暗号文だよ。誰も勝手に見られない」
「そういう話してない」
慎吾は答えなかった。
「慎吾が作りたかったのって、セミライブを使えば安心できる社会だったんでしょ」
「そうだよ」
「セミライブを使わなければ安心してもらえない社会じゃないよね」
その夜、慎吾は眠れなかった。
## 第十一章 俺は理事長だぞ
その頃、復号をめぐる別の事件が起きた。
有名動画配信者が、元交際相手から性加害を告発された。二人がセミライブを利用していたことが本人たちの発言から知られ、世論は沸騰した。
復号すれば真実が分かる。
最高復号所にもそんな声が大量に届き、慎吾自身も同じことを考えた。
「復号すればいいだろ」
最高復号所の長官室で慎吾が言うと、奈緒は書類から顔を上げなかった。
「正式な請求が成立してない」
「当事者が映像あるって公言してる」
「片方は復号を拒否してる。日本国の捜査機関による正式な捜査も始まってないし、日本国の裁判所からの提出命令もない。世間が見たがってることは復号理由にならない」
「でも、このままだと片方の人生が壊れるかもしれない」
「だから?」
「真実が分かるんだぞ」
奈緒はそこで初めて慎吾を見た。
「理事長が『真実を知りたい』と思ったら、人のセックスを見られる法人にするの?」
「俺はそんな目的で言ってない」
「目的が善意なら権限を越えていいの?」
慎吾は苛立った。
「俺が作ったシステムだぞ」
「それで?」
「俺は理事長だ」
「知ってる。私は最高復号所長官」
慎吾は口を閉じた。
「復号を許可するかどうかは行務府の権限じゃない。それに私だって、自分で映像を見ることはできない」
「奈緒が許可したら?」
「担当復号官の合議で決定が出る。そのあと実際に復号して証拠化するのは、あなたの行務府にある証拠執行室。でもあなたには、その決定なしに執行させる権限がない」
慎吾はしばらく黙った。
司則府には、見ることを許す権限がある。
だが自分で見ることはできない。
行務府には、許可された映像を実際に取り扱う職員がいる。
だが自分で許可を作ることはできない。
「……悪かった」
「うん」
「じゃあ却下?」
「それを私に聞くのも違う。正式に事件が係属したら、担当の復号官が判断する」
「最高復号所長官なのに?」
「その質問、前にもしたよね」
慎吾は立ち上がった。
扉へ向かう背中に、奈緒が声を掛けた。
「慎吾」
「何」
「自分で自分から鍵取り上げといてよかったね」
慎吾は振り返らなかった。
「本当に」
その日、慎吾は初めて、自分が作った制度に自分自身を止めてもらった。
## 第十二章 女を特別扱いしている男
法人設立から三年が過ぎ、慎吾は大学を卒業して二十四歳になっていた。セミライブの職員は百人を超え、社員は全国に千人以上いる。社員総会はオンラインと会場を組み合わせて行われ、一人一票の原則は変わっていなかった。
ある晩、社員総会の準備が終わったあと、慎吾と奈緒は事務所近くの居酒屋にいた。
「覚えてる?」
奈緒が突然言った。
「何を」
「大学のとき、慎吾が女子から飯誘われて断った話」
「なんで知ってるの」
「有名だったから」
「最悪」
奈緒はビールを一口飲んだ。
「『女様に体を貸してもらうことがそんなに名誉なのか』って言ったんでしょ」
「若かった」
「今も若いよ」
「忘れて」
奈緒は笑ったあと、少し真面目な顔になった。
「慎吾って、女を特別扱いしてる男をずっと馬鹿にしてたよね」
「今も多少は馬鹿だと思ってる」
「でもさ。一番女を特別な生き物だと思ってたの、慎吾じゃない?」
慎吾は何も言わなかった。
「女に選ばれる男を馬鹿にして、女に近づく男を馬鹿にして、女に人生壊されることを怖がって。慎吾の中の女って、男の人生を決めるくらい巨大な存在だったじゃん」
「……そうかも」
「普通の人間なのにね」
慎吾は笑わなかった。
紗季の言葉を思い出した。
男が怖かった。でも男が嫌いだったわけじゃない。好きだったから、一緒にいたかった。
大学時代の自分を、初めて外側から見た気がした。女を神様みたいに扱う男たちが嫌いだった。そのくせ自分は、女を捕食者みたいに扱っていた。
女を上に置くことと、女を恐ろしい存在にすること。向きが違うだけで、どちらも女を普通の人間として見てはいなかった。
## 第十三章 標準化
日本政府から連絡が来たのは、その翌年だった。
性犯罪捜査と性的同意をめぐる紛争の長期化が社会問題となり、日本政府が設置した検討会がセミライブへ注目した。
担当政務官の鷹野征司は五十二歳だった。慎吾が想像していた政治家とは違い、相手の説明を最後まで聞く男だった。
「義務化するつもりはありません」
最初の会談で鷹野は言った。
「ただし、マッチングアプリ、宿泊施設、自治体相談窓口などと連携し、事実上の標準的な証拠保全手段として普及させたい」
慎吾は資料をめくった。
「利用料の補助も?」
「低所得者については国費負担も検討できます。利用できる人とできない人の経済格差は、できるだけなくしたい」
理想的に見えた。
誰でも使える。金がなくても使える。記録が残り、争いが起きたら復号所の手続を通じて証拠へアクセスできる。
航平のような人間が減る。
紗季のような人間も救える。
「もう一つあります」
鷹野は資料のページをめくった。
「重大犯罪については、日本政府の機関から適法な請求が行われた場合、迅速な復号を保証していただきたい」
奈緒がすぐに反応した。
「『迅速』の定義次第です」
「もちろん、日本国の法令に基づく手続は踏みます」
「復号所の審理を省略することは?」
「そこは協議したい」
「なら、現時点では同意できません」
慎吾は黙っていた。
鷹野が慎吾を見る。
「相良理事長。これは、あなたが作りたかった世界でしょう」
その言葉は、奇妙なほど深く胸へ入った。
そうだった。
誰も記憶だけを信用しなくていい。
誰も性別だけで信じられたり、疑われたりしなくていい。
証拠がある。
証拠だけは残る。
二十一歳の慎吾が欲しかった世界だった。
## 第十四章 使わなかったことを証拠にするな
日本政府との協議案は、立則府――社員総会へ提出された。
会場には数百人が集まり、オンラインではさらに多くの社員が参加していた。理事会は賛成多数で、条件付き賛成まで含めれば可決の可能性は高い。
慎吾は壇上へ立ち、理事長として事業報告をした。その後で日本政府との連携案を説明し、最後に自分の意見を述べることになった。
用意された原稿を開き、最初の数行を読んだところで、慎吾は紙を閉じた。
「俺は、この案に反対します」
会場がざわめいた。理事の何人かが慎吾を見たが、慎吾はそのまま続けた。
「セミライブを日本国に使ってほしくないからじゃありません。むしろ使ってほしい。証拠が必要な人には、男性でも女性でも使ってほしい。でも、標準にはしたくない」
会場にも、画面の向こうにも社員がいる。一人一票で、慎吾もその中の一票でしかない。
「今すでに、『セミライブを使ってなかったの?』という言葉が出ています。本当に同意があったなら、なぜ記録しなかったのか。なぜ証拠を残さなかったのか」
慎吾は一度言葉を切った。
「それは違う」
ざわめきが消えた。
「セミライブを使わなかったことを、不同意の証拠にするな」
日本政府との契約を失うかもしれない。巨額の公的支援も、全国規模の普及機会も失うかもしれない。
「使った人を守るために作ったシステムが、使わなかった人を疑うためのシステムになったら、それは俺が作りたかったものじゃない」
奈緒が壇上の端に座っていた。
慎吾は続けた。
「人間が人間を信用できないから、全部記録すればいいと思ってました。記録があれば安心できる。証拠があれば怖くない。俺はそう思って、この仕組みを作りました」
大学一年の航平を思い出す。紗季を思い出す。そして、カマキリを思い出す。
「でも、証拠がない人間を信用できない社会を作ったら、同じことです」
慎吾は日本政府との協議案が書かれた資料を閉じた。
「セミライブは非常口でいい。毎日そこから出入りする建物にはしたくない」
採決が行われた。
日本政府との標準化協定案は否決された。慎吾の票も奈緒の票も、他の社員と同じ一票だった。
## 第十五章 誰か一人が国にならないように
数日後、慎吾は鷹野と再び会った。
怒られると思っていたが、鷹野は静かに「残念です」と言っただけだった。
「すみません」
「謝る必要はないでしょう。そちらの最高機関が決めたことだ」
「社員総会ですけどね」
「聞きました。立則府と呼んでいるそうですね」
「職員がふざけて呼び始めたんです」
「理事会以下が行務府。地方復号所から最高復号所まで含めた復号機構が司則府」
「はい」
鷹野は苦笑した。
「日本政府の人間である私が言うのも妙ですが、国を作りたいんですか」
「逆です」
「逆?」
慎吾は少し考えてから答えた。
「誰か一人が国にならないようにしたいんです」
鷹野は黙った。
「俺は理事長ですけど、復号官一人に判定を変えろとは命令できません。奈緒は最高復号所長官ですけど、地方復号官に命令できないし、一人で映像を開くこともできない。社員総会は最高機関ですけど、個別の映像を復号しろとは命令できない」
「随分、不便な組織ですね」
「不便ですよ」
慎吾は笑った。
「でも、便利だから一人に全部渡したら、その人が壊れたとき全部終わるんで」
「あなたは、人間を信用していないんですか」
慎吾は答えようとして、少し迷った。
「制度では、あんまり」
「制度では?」
「人間関係までそれでいいと思ってたのが、昔の俺です」
鷹野はそれ以上聞かなかった。
慎吾は窓の外を見た。
「日本政府の案が悪いとは思ってません。使えるところでは協力したい。でも、使わない自由も残したい」
「以前のあなたなら、全員が使えばいいと考えたでしょうね」
「考えてました」
「変わりましたね」
慎吾は小さく笑った。
「俺より先に、システムのほうが公平だったんです」
鷹野は意味が分からない顔をした。
慎吾は説明しなかった。
## 第十六章 カマキリ
奈緒と慎吾が付き合い始めたのは、その年の秋だった。
どちらから告白したのか、後になって二人の記憶は食い違った。慎吾がそのことを指摘すると、奈緒は「セミライブしておけばよかったね」と笑い、慎吾は「告白を暗号化ライブ配信する奴がいるかよ」と返した。
ある休日、二人は大学の近くを歩いた。
昔使っていた研究棟のラウンジは、窓から見る限りほとんど変わっていなかった。あの白い壁に、最初の復号所と理事会の四角を書いたことを慎吾は覚えていた。
奈緒が突然言った。
「まだ、人間もカマキリと同じだと思ってる?」
慎吾は足を止めた。
「覚えてたの」
「何回か聞いたからね」
慎吾は少し考えた。
「違ったみたいだ」
「何が?」
風で奈緒の髪が揺れた。
「人間は、食う側と食われる側に分かれてない」
奈緒は何も言わなかった。
二人はまた歩き始めた。
その夜、奈緒の部屋で、慎吾はベッドの端に座っていた。テーブルの上にスマートフォンがある。画面には、慎吾自身が何年も前に考えたサービスの表示が出ていた。
> SEMI-LIVEを開始しますか?
二人はその日のことを事前に話していた。
使ってもいい。使わなくてもいい。使うことは相手を疑っている証明ではないし、使わないことも信頼の証明ではない。
慎吾はスマートフォンを手に取った。
大学三年の夜、カマキリのオスを見ながら、自分は何と言っただろう。
女と交尾しなけりゃ食われないのに。
あのころの慎吾なら、ここまで来なかった。女とセックスするということ自体が、自分の運命を相手へ差し出すことだと思っていた。食われたくなければ近づかなければいい。それで済むはずだった。
慎吾は画面を消した。
スマートフォンを伏せてテーブルへ置き、奈緒を見る。
「途中で嫌になったら言って」
奈緒は少し笑った。
「慎吾もね」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この小説で一番書きたかったものは、登場人物の物語であると同時に、「セミライブ」という仕組みそのものです。
発想の出発点は単純です。
性行為を録画して証拠に残そうとしても、普通の録画にはいくつもの問題があります。撮影者が映像を持っていれば流出や脅迫に使われるかもしれませんし、事件が起きたあとに「この映像は後から作られたのではないか」と争われる可能性もあります。
そこで、この小説では次のような仕組みを考えました。
1. 性行為の映像を端末上でリアルタイムに暗号化する。
2. 暗号化されたデータを、撮影とほぼ同時にネット上の複数拠点へ送信する。
3. データ同士をハッシュでつなぎ、外部側にも到着時刻などの記録を残す。
4. 撮影した本人にも復号鍵を渡さず、勝手に映像を取り出せないようにする。
5. 争いが起きた場合だけ、独立した「復号所」が復号を許可するか判断する。
6. 許可が出た場合も、復号所自身ではなく別の証拠執行部門が映像を復号・確認し、必要な証拠を作成する。
つまり「セックスをネットに生配信する」のですが、世界へ流れているのは、人間にはそのまま読めない暗号文です。
誰にも見せない。
けれど、データが「その時そこに存在していた」という痕跡だけは、その瞬間から外部へ残していく。
だから作中では、普通のライブ配信と録画の中間という意味も込めて「セミライブ」と呼んでいます。
もちろん、この小説に書いた設計は完成した製品仕様ではありません。暗号方式、鍵管理、HSM、保存費用、プライバシー、証拠能力、運営主体、復号条件、悪用への対策など、現実に実装するなら専門家が検討しなければならない問題が山ほどあるはずです。
また、物語の後半で描いたように、技術が存在すること自体が新しい圧力を生む可能性もあります。
「本当に同意していたなら、なぜセミライブを使わなかったの?」
そんな社会になってしまえば、安心のための技術が、今度は使わない人を疑うための技術になってしまいます。
だからこの物語では、最後に「セミライブは非常口でいい。毎日そこから出入りする建物にはしたくない」という結論にしました。
それでも私は、この「暗号化しながらリアルタイムで外部へ証拠を残し、本人にも勝手には復号できなくする」という発想には、考えてみる価値があるのではないかと思っています。
もしこの小説を読んだ技術者、法律家、研究者、支援者、あるいは全く別の分野の誰かが、
「これ、もっとちゃんと設計したら本当に作れるんじゃないか?」
と考えてくれたら、とても嬉しいです。
この物語がきっかけになって、いつか現実の世界に「セミライブ」のようなものが生まれたら。
作者として、それ以上に面白い結末はありません。




