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消しゴムを宿す

作者: 鈴之矢行真
掲載日:2026/07/06

汚い網戸を掃除した。布巾は真っ黒で思わず笑ってしまうくらい。

向かいの道路を歩く小学生くらいの少女と目が合った。

俺は咄嗟に、少女の姿をなぞろうとした。すると網戸の存在に気が付いた。




俺は畠中彰吾。東海道大学経済学部四年の二十二歳だ。今は就職活動を片付け、一人緩やかな時間を過ごしている。これまでの激動を来年度から四六時中付き合うとなると正直辛い。それほどに「就活」という存在は重いものだった。


だから今はその傷を時間をかけ癒しているようなものだ。

ストレスのかかる時間に自分はどれだけ身を置けるのか。この活動を通して自分は打たれ弱い人間だと気付いてしまった。


ここ一ヶ月ろくに掃除もできていなかったから、少しずつ綺麗になる自室を見ると気分が晴れる気がした。しかし、どこか視界がぼやけるときがある。


自分はただ疲れていたのだろう。俺はその時そう思っていた。




溜まったごみを捨てに行き、久しぶりに外をぶらぶらすることにした。少し歩き町一番の大通りに出る直前、足が止まった。


「あれ?こんなとこにコンビニあったか?」


ここの道は頻繁に通らない俺だが、別に始めて通ったわけではない。最寄り駅に行くためにはこの道を通って近くのバス停まで歩くし、部屋からそこまで離れていない場所のコンビニを見落としていたなんてありえない。


時間がない時でさえ、自転車で五分十分掛かるスーパーへ行っていたのに。


「まぁ帰りしなに寄ってこうか」


気にせず俺は、少し田舎の方へ歩くことにした。

信号待ちをしている最中、携帯の通知が鳴りやまないことに気付いた。


すぐさま画面を見ると、ゼミの同期からの鬼電。

今日は平日だが、俺は週に一回ゼミのセミナーに参加すれば単位を貰える状態だった。

それは毎週水曜。今日は火曜なので彼から詰められる理由がない。はず…


「お~い、彰吾。今日ゼミの日だぞ。教授明日出張だから今日に変更になったって連絡来てなかったか?」


電話に出ると開口一番理不尽な連絡だった。しかし、考える間もなくすらすらと言葉が出てきた。


「あぁ、今日は午前中市役所に行く用事があって…すまない。教授にはいつも通りセミナーの録画を送っていただくようにしてもらってる。」


「あ!オッケイ。伝えとく」


「頼んだ。連絡くれてありがとう」


「おう。彰吾も就活頑張れよ」


プツンと急ぎ足で通話を終える。これまで俺は就活の関係で実家に帰省し、そこで時間を過ごしてきた。そのためゼミの日はセミナーの録画を視聴し、送られてきたシートに記入、提出することで出席扱いにしてもらっていた。


同様にあいつもこの措置をとっていたが、彼は就活を終えてこちらに電話してきたのだろう。


すぐさま教授にメールを送り、波風を落ち着かせた。


ただ人に会いたくない気分だった。この無気力な時間を過ごしていると思われるくらいだったら、就活を最後まで真剣に取り組む大学生を演じたかった。


電話をかけてきたあいつを責めたくないが、あいつの認識一つで俺は自らの未熟さを自覚してしまった。


あいつの無意識な「俺は就活終わったから彰吾も終わってるだろう」とかいう浅はかなバイアスによって、俺は蝕《むしば》まれている。


別に何事もなかったかのように振舞うことだってできる。

ただあいつの中で「就活をしている彰吾」が消え去ったことは事実である。


俺はどこか眼鏡のフレームと同義と言われてみたいで悲しくなった。

どこか赤信号を待っていた自分がいた。


視界がぼやけた。町の音がうるさく感じた。

もっと静かなところへ行こう。そう思った。




この町は一つ橋を越えると、街並みが一変する。排気音や人の喧騒さが目立ったさっきとは異なり、風の音や小鳥のさえずりが耳をかすめるように響く。今の俺にとってはこっちの方が桃源か。


のどかな風景に自然と俺の視野が広くなっている。空を見上げても、銀白の鏡が眩く差し込む都会と違って、雲の形が人の顔っぽく見える田舎は不思議と目を見開こうと思える。


自然と表情筋が動いた。口元にちょっとした刺激を感じた。

こんなこといつもだったら気にしなかったのに、とても不思議な気持ちになった。


少し進み、住宅街に入る。家の外壁に張られた広告看板が俺の視界に入った。錆びれて、印刷所の刷の字が見えなくなっていた。


でも、こっちの方が小綺麗な広告より見ていられた。

広告という存在が俺の身近に根付きすぎている。画面をスクロールしても、調べ物をしようとしても、町を歩いても。


日常は俺から意識を遠ざけていると古い看板を見て気付いた。




視界がぼやけた。でもそれが不快ではなかった。

でもそれがなぜか分からなかった。


農道に出た。切りのいい所で引き返そうと思った。もうあれこれ一時間近く歩いていた。初夏が近づく今の季節、散歩には適しているが普通に限られた体力が削られていく。


あのコンビニで、飲み物やアイスを買って帰りたい。そんなことを考えながら歩くと、景色が薄っすら遠ざかっていく。


田んぼの前で足が止まった。田植えが終わって少し苗が育っている田園。

水面に反射する風景が苗のせいでモザイクがかかっているよう。


それでも咄嗟に足が止まった。

俺はそのとき、この霞《かすみ》の眩さに気が付いた。

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