第5章:影の門 ― 沙耶の中の“白き花の記憶”
獣が消えた後の静寂は、逆に耳を刺すほど残酷だった。
連は肩で息をしながら、沙耶を抱きしめたまま問いかける。
「沙耶……どうしてあんな影の存在を知ってる?
どうして“烏”なんて名前を――」
沙耶の身体が小さく震えた。
「……言わなきゃいけないとは思ってた。
でも……怖かったの。
あなたに嫌われるのが」
「嫌うわけないだろ……沙耶」
ゆっくりと彼女が顔を上げる。
涙に濡れたその瞳は、
“今の沙耶”のそれでありながら、
どこか別の誰かの深い哀しみを宿していた。
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■沙耶に眠っていた“前世の残響”
「私……ずっと、あの神様の声が聞こえていたの」
「神……烏の、声か?」
沙耶は小さく頷く。
「子供の頃から、ときどき夢を見ていたの。
黒い翼の男性が、私を抱えながら泣いている夢。
その人が何者かわからなかったけど……
最近、はっきりしたの」
沙耶は胸に手を当て、呼吸を整えるように続けた。
「“私は一度、彼に愛された人間だった”って」
連の心臓が跳ねた。
「まさか……沙耶、お前……」
「うん……前世の私は、
烏がまだ“白き翼”を持っていた頃に愛した女性だった」
沙耶の声は震えていたが、嘘の気配はなかった。
「人間だった私が……
人間たちに辱められ、命を奪われた時……
彼は世界を呪った。
白い翼を黒く染めて……堕天した」
語るたびに、沙耶の瞳の奥で光が揺れた。
それは、前世の記憶が“呼び覚まされている”証のようだった。
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■烏が連を選んだ理由
「じゃあ……何で俺なんだ?
何で烏は、俺の命と引き換えに力を与えた?」
連の問いに、沙耶は苦しげに微笑んだ。
「彼は……私の魂が再び人間に生まれ変わったことを知ってたの。
でも……前世の彼女――“私”を守れなかった後悔が、
彼を闇に縛りつけてしまって……」
沙耶は連の胸に手を当てる。
「だから、あなたの中に力を宿した。
“今度こそ守れ”って。
私を……私たちを」
連は息を呑む。
事故の瞬間、
烏が連に語りかけてきた言葉が蘇る。
――人間よ、見上げた想いに力を貸してやろう。
“見上げた想い”とは、
沙耶を救いたいという自分の叫びだった。
だがそれは、
連だけの想いではなかったのかもしれない。
烏の未練と愛情も、そこに重なっていたのだ。
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■前世の記憶が開ける“影の門”
「でもね、連……」
沙耶は震える手で、連の背中の黒い紋をそっと触れた。
「その力は、烏自身の“魂のかけら”。
あれが完全に目覚めた時……
“影の門”が開く」
「影の門って何なんだ?」
「世界と世界を隔てる境界線よ。
烏が堕天した時に閉ざされた、神々の領域へ通じる道……」
沙耶は胸を押さえ、苦しそうに息を呑んだ。
「――そして私の前世の記憶が戻るほど、
その門は開きやすくなる」
「沙耶、お前……!」
「怖いの。
記憶をすべて思い出したら、
私は“沙耶”じゃなくなるんじゃないかって」
連は迷わず彼女の手を握った。
「違う。
沙耶が沙耶じゃなくなるわけない。
前世が何だろうと、俺が守りたいのは“今の沙耶”だ」
その言葉に、沙耶の目から大粒の涙が零れた。
と、その瞬間――
家の外から、複数の影が“這い寄る音”が聞こえた。
異形の気配。
先ほどの獣より、はるかに濃い闇。
「連……“門”が反応してる……!」
「来るのか……もっと大きいのが」
連の背中で黒翼の紋が脈打つ。
三つの鼓動が重なっていた。
連の心臓。
烏の力。
そして前世から沙耶に流れる記憶。
影の門は、確実に開き始めていた――。




