第2章 黒翼の目覚め ― 呼び戻された魂
最初に聞こえたのは――
波音ではなかった。
「……蓮……蓮ッ! 聞こえる!? 起きてよ……!」
震える声。
泣きそうな、必死に呼びかける声。
それは、妻の声だった。
次に感じたのは、頬に触れる温もり。
冷たい海風よりもずっと、現実に近い温かさ。
まぶたを開けると、
月明かりの下で、妻が俺の顔を覗き込んでいた。
目には涙を浮かべながら――
しかしその身体には、傷ひとつ無い。
「よかった……よかった……蓮、生きてて……!」
妻は俺にしがみつき、その胸元で何度も深呼吸しながら震えている。
俺は呆然としながら状況を理解しようとした。
さっきまで、車ごと海に落ちた。
水の冷たさ、恐怖、息ができなかった感覚……全部覚えている。
だが今は砂浜。
夜風。
妻は無傷。
「どうして……?」
思わず声が漏れた。
妻は涙を拭いながら言う。
「わからない。気づいたら私だけがここにいて……
蓮は倒れてたの。呼んでも呼んでも返事しなくて……」
俺より先に、妻が目覚めていた。
そして必死に、俺を呼び戻してくれた。
それが嬉しいはずなのに――
胸の奥が、奇妙にざわつく。
まるで、自分の中に“別の何か”が息をひそめているような感覚。
■背中の疼き
身体を起こすと、
背中の一点が熱を帯びているのに気づいた。
ズキ…ッ。
脈打つような痛み。
「蓮、背中……血が……?」
妻が俺の背後を覗き込み、言葉を飲み込む。
「これ……なに……?」
恐る恐る触れる指先に、俺は反射的に肩を強張らせた。
痛い、ではなく……
“触られたくない”感覚が走る。
慌ててシャツをずらし、月明かりに照らして確認すると――
そこには、黒い“羽根のような紋様”が浮かんでいた。
皮膚に貼りついているんじゃない。
皮膚そのものが黒く刻まれ、
生きているように微かに脈動している。
「……俺の、背中……?」
妻は不安げに俺を抱きしめる。
「蓮、病院に――」
その瞬間だった。
■闇の囁き
> 「――気にするな。それは契約の証だ。」
頭の中で、あの声が響く。
烏。
闇に堕ちた、黒き翼の存在。
> 「人間よ。お前は一度死んだ。」
「だが、望みのために戻ってきた。」
「その背の紋は、お前が“選ばれた”印でもある。」
身体が震えた。
妻には聞こえていないらしい。
声は続く。
> 「代償は払われた。
あとは――力をどう使うかだ。」
波の音が急に遠くなる。
自分の心臓の鼓動だけが、妙に大きく響いた。
背中の紋様が脈打つたび、
人間だった感覚が少しずつ剥がれていくような……そんな不安が胸を締め付ける。
■立ち上がる二人
「蓮、帰ろう……怖いよ……」
妻が震える声で俺の手を握る。
その手は温かい。
生きている証。
守りたいと願った、たった一人の人間。
力を使ってでも救いたかった存在。
だが――
どれだけ強く握り返しても、背中の紋様は脈打ち続けていた。
まるで、俺が“まだ完全に戻っていない”と告げるように。
二人は砂浜を歩き出す。
海は静かだった。
まるで何もなかったかのように。
ただひとつ。
俺の背に刻まれた黒い痕だけが、
この先の運命を暗く照らし続けていた。




