ハイスペ御曹司で年下幼馴染の山田太郎が誘ってくる送迎を断ったら、とんでもない目に遭った件
「やめろ! マリちゃんをはなせっ! おまえがねらってるのはボクだろ!?」
幼い太郎は震える声でそう叫ぶと、私を連れ去ろうとする男の脚に必死で飛びついた。
「このやろう! マリちゃんを、マリちゃんをはなせーっ!!」
あれは22年前、太郎がまだ5歳、私が小学校2年生の冬のこと。
超有名企業の御曹司の太郎と、隣にたまたま住んでた一般庶民の私。身分違いの私たちだったけど、姉弟のように仲が良くて、毎日一緒に遊んでた。
そんなとき、この誘拐未遂事件に巻き込まれたのだった。
男の力は恐ろしく強く、抱きかかえられた私は微塵も動けなかった。あきらめかけたとき、太郎ががぶりと男の脚に噛みついた。
「このクソガキ、ふざけるなあっ!」
男は私を放りだし、太郎をつまみ上げた。
私は太郎を守ろうと手を伸ばすと、逆に男に蹴り飛ばされた。それを見た太郎はみるみる血相を変えると、手足をめちゃくちゃに振り回して暴れて……
結局、騒ぎに気づいた山田家の警護の者が駆けつけて男は取り押さえられ、太郎は泣きじゃくりながら私に謝った。
「ごめんね、ボクのせいで……。ボク大きくなったら、ぜったいにマリちゃんをまもってみせるから……!」
***
私はまどろみの中で小さい太郎に話しかける。
そんなことないよ、私のために守ろうとしてくれて頼もしかったよ……
この時のことを私は大人になってからもよく夢で見る。今も夢の中で泣いている小さい太郎の頭をなでながら、現実の私はこんなことを思ってる。
この頃の太郎、ホント可愛かったなあ、マリちゃんマリちゃんて私の後を追いかけて。
……でもさあ、今や可愛さなんて消え失せて、もうすっかり……
ピピピピピ……!
とスマホの目覚まし音が、ぼんやりした頭に容赦なく鳴り響いた。私はハッとして、根性で飛び起きた。
そう今朝は絶対に寝過ごせない。一時間早く会社に行くんだった。
だって、太郎が来ちゃうから!
太郎に会わないように、とにかく早く家を出なきゃ!
朝食もそこそこに急いで身支度を整えて玄関のドアを勢いよくガチャリと開けた。
と我が家の前で待機していた、黒塗り高級車の後部座席に収まる太郎がコチラを向いていた。
な、な、なんで太郎がもういるのよ~~~!?!?
太郎は整った眉根を寄せると、そのきれいな顔に似つかわしくない棘のある口調で言った。
「茉莉、やっぱりな。俺を避けて早く会社に行こうとしてただろ」
「ゔっ……!」
行動を読まれていた私は、バツが悪くてそっぽを向いた。
「先を見越して待ってて正解だったな」
太郎は自分の判断に満足したのかニヤリとして、ここ最近毎日掛けている新品の眼鏡を押し上げた。
茉莉茉莉って! いつのまにやら私のことはすっかり呼び捨てだ。
三つも年下のくせに、なにかと上から目線な太郎が私は気に入らない。
他の人には紳士的に対応するくせに!
だから私は口を尖らせた。
「だって太郎が車で送ってくれると大変なんだよ」
太郎は怪訝な顔をする。――といっても偏光グラスの眼鏡のせいで表情が半分隠れてよくわからないけど。
なんで私が大変なのか、おぼっちゃん育ちの太郎にはきっと思いもよらないよね。
だってね、ごく普通の一般企業に勤める女子社員があんな車で会社に乗りつけて、しかも超ハイスぺ男を引き連れて出勤したら、そりゃあ同僚の女子社員はおろか会社じゅうが大騒ぎになるに決まってんじゃない?
現にあれこれ太郎のこと聞かれたし、「三十路突入の日田茉莉さんがいよいよ結婚するのか」なんて噂になっちゃって、ほとほと困ってるんだから!
だけど太郎にこの話をしても、きっとわからない。
このハイスぺ男は自分が周囲からどう見られてるかなんて全く関心がないのだ。
太郎こと山田太郎はあの超有名企業YAMADA発動機の創始者一族。
乗り物をはじめロボット産業、宇宙から介護事業まで展開するYAMADAの将来有望な四代目。イケメンで高身長、おまけに武道有段者。メディアにも取り上げられ、世の女性の熱い視線を集めてしまう超ハイスペック男なのだ。
それなのに決して自分のことを鼻にかけないんだよね。まあそこが太郎のいいところだなって、私はひそかに思ってる。
「なあ茉莉、俺がお前を車で送ると、いったい何が大変だっていうんだよ? 満員電車に乗るより車の方が楽ちんだろ。なんでそんなに迷惑そうな顔するんだよ」
太郎はちょっとむくれてたけど、私は一般庶民の感覚をお坊ちゃん育ちの太郎に説明するのが面倒くさくて聞き流すことにした。
「とにかく乗れよ」
太郎は周囲を素早く見回しと、顎をしゃくった。
いつもより早い朝の冷たい空気のせいか、見慣れたご近所風景はいっそう静かに感じる。通りの奥に見える白い車のハザードランプだけが淡々と点滅していた。
いくら幼馴染とはいえ結婚適齢期の男女なんだし、朝っぱらから言い合って誰かに変な噂を立てられたら困る。
太郎も周囲を気にしてるし、私は今日のところはあきらめて車に乗ることにした。顔なじみの運転手の鈴木さんに軽く会釈して太郎の隣に座ると車は動き出した。
いずれ太郎は、相応しい家柄の素敵な女性と結婚するんだろう。だから私のような庶民代表のわけわかんない馬の骨が周りにいちゃいけないと思ってる。マスコミやネットで騒がれるなんてとんでもない。
数年前から私はそんなことを考え始めて、少しずつ太郎と距離を置くようにしてきた。
――そういうこともあって送迎されたくなかったんだよね。
それに、私の気持ちも揺れちゃうっていうか……。
「……送迎、嫌なのか?」
気まずい雰囲気の車内で、太郎が単刀直入に聞いてきた。
でも眼鏡の偏光レンズのせいで、太郎が怒って言ってるのか単に尋ねてるだけなのかよくわからない。
それにこの眼鏡、言っちゃ悪いけど嫌いだ。
せっかく太郎の隣にいるのに、太郎の目が見えないじゃないのよ。
子どもの頃から、私は太郎の眼差しが気に入ってる。真直ぐで、そして時折いたずらっ子の雰囲気を纏う。
……きっと太郎は知らないだろうな、私がいつもこそっと太郎の目をみてしまう癖があること……
わ、わわ⁉
わ~~~~~~~~~~~~~~~~‼
いやいやいやいやいやいや‼
ダメ、ダメだってば、私!
もうそういう気持ちは封印するんだってば!
太郎に気がつかれないように、しっかり封印して、距離を置かなくっちゃ!
だから送迎は断るって決めたんだよ‼
送迎嫌なのか? って訊かれて、ハイ嫌ですと答えれば角が立つし、けれど本当の理由を言うわけにいかないし、私の気持ちには絶対気づかれたくないし……!
ええい、こうなったら質問返しで乗り切るぞ!
「あ、あのさっ、どうして急に送迎だなんて言い出したわけ?」
そうなんだよね、いったいどうしたんだろうって不思議だったんだ。
「……俺さ、このところ仕事超多忙で、帰宅しても夜中まで仕事だろ。息つく暇もなくてさ」
と、太郎は強張った肩をほぐしながら張りのない声で話しはじめた。
責任ある立場にいるしミスできないだろうから、気が抜けないことばかりだもんね。おまけに業務以外にも、YAMADAの後継者として対外的な務めもあるし。
「だから俺、会社の行き帰りぐらい、茉莉で息抜きしようと」
は?
……何それ?
「茉莉とだと気ぃ使わなくて済むから、楽なんだよな」
私で息抜き⁉
私はカチンときた。
私は太郎の癒しグッズか!
それに「楽」ですって?
なにその扱い!
……あ~わかってますよ、わかってましたとも、太郎の気持ちは!
太郎にとっての私は「腐れ縁の幼馴染」ならまだしも、安心安全の「家族枠」。そう完全に「弟を見守る姉貴枠」だもんね!
異性としてなんかこれっぽっちも見てくれてないのはわかってたけど!
でも太郎とは距離を置きたいから、都合よくて最高なんだけど‼
無性にイライラしてきた私は冷たく当たった。
「私だって忙しいの! 太郎のストレス発散につきあうほど暇じゃないんだからね!」
でも太郎はさらりと受け流す。
「そう怒るなよ。だから茉莉には悪いと思って通勤の送迎を提案したんだよ。それなら時間を取らせないだろ」
ぐぐ……た、確かに通勤時間は何をするでもないけど。
てゆーか提案とか言ってるけどさ、結局、強制的に送迎してんじゃないのよ。
「……まあストレスたいしたことなければさ、茉莉には頼らないよ」
「頼らない」と言われると、それはそれでムカッときちゃうんだけど。
「ただ今回は……正直結構きつくて」と太郎はネクタイをゆるめながら力なく笑った。
――あれ太郎、ちょっと重症?
ふと私は思い出した。
そういえば太郎は極度のストレスがかかるとコンタクトを受けつけなくなるんだっけ。それだけ大変ってことなんだろう。
心配になった私は、小さい頃からしてきたように太郎の表情を見ようとして……
もう~この眼鏡ホント邪魔!
表情わかんないじゃん!
……でもまあ、話ぐらいなら聞いてあげてもいいか。確か太郎は研究開発に携わっているはず。
私は尋ねてみた。
「そんなに大変な仕事ってさ、今何してるの?」
でも太郎から返ってきたのは、ちょっと残念な返事だった。
「……悪い、言えない。極秘開発だからさ」
「そっか……じゃあ話せないよね……」
こんなとき、やっぱり太郎は私とは違う世界の人間なんだなと思い知らされる。
ごく普通の会社の一般事務職の私には想像もできないよ。
――やっぱり私は離れて正解なんだろうな。
けど、こんなに太郎が疲弊しているなら、今だけは癒し役になってあげたほうがいいのかな……?
ああっ、もう私、どうしたらいいの? 気持ちぐらぐらしまくりだよ……!
私は頭の中で自分のほっぺたをピシャリとたたいた。
ここは心を鬼にしなくちゃ!
とにかく!
太郎とはこれからますます距離を置いていかなきゃいけないんだ。
太郎を癒すのは、私じゃない。太郎が将来出会う伴侶の仕事だよ。
私はそう自分に言い聞かせ、太郎を突き放すことにした。
「――太郎の事情はわかったけどさ、送迎はもう終わりにして! だいたいうちの会社の社長だって電車通勤なんだよ? なのに平社員の私が送迎されてたらまずいでしょ? そもそも私は送迎なんか必要ない、ただの一般人なんだから! 危ない目にあうこともないし――」
そこまで言いかけて、私はハッとして口を噤んだ。
あの誘拐未遂事件。
事件後、私はずっとその話題を避けてきて、太郎に話したことは一度もない。
太郎は覚えているのかな……?
***
それはいつものように太郎の家の庭で二人で遊んでいたときのこと。
「ねえマリちゃん、お外の公園で遊ぼうよ」
ちょっとした冒険心から、太郎がいたずらっ子の目つきになって言い出した。私たちはお屋敷の警護の目をかいくぐり、近所の児童公園に遊びに行ってしまったのだ。
普段お屋敷で遊べない遊具に、太郎は大興奮。
私にはおなじみの公園だけど太郎がこんなに喜ぶなんて。
(なんだか私もいつもより楽しい! でも早く帰ろうって言わなきゃ。太郎はすごいおうちの子だからみんな心配しちゃう……)
けれども私も遊びに夢中になってしまい、すっかりそんなことは忘れてしまった。
「くしゅん!」
冷えこんだ日だったから、くしゃみをした私に、太郎は「寒いの? これ着てよ」と上品な紺のカシミアコートを脱いで差し出してきた。
「こんなきれいなコート、借りられないよ……! それに私のほうがお姉ちゃんなんだから、大丈夫だよ」
「かぜひいちゃうからダメだよ! ボクいっぱい走って暑いしへいきだもん。マリちゃんが着て!」
太郎はほっぺをぷうっと膨らますとぐいとコートを私に押しつけた。
太郎はこの頃から同い年の子に比べて頭ひとつ大きかったから、コートは小柄な私にぴったりだった。
「ありがと。あったかいよ」
太郎の温もりが残るコートはポカポカして気持ち良くて。お礼を言うと、太郎はあふれんばかりの笑顔になった。
そろそろコートを返そうと思いはじめたとき、私は怪しい男が車道から自分をじっと見ていることに気がついた。太郎がいつも警護の者達に囲まれていたから、私にはどういうことなのかピンときた。
それに私は男の子のような見た目をしていたから、きっと太郎だと思われているに違いなかった。
(このままコートを返したら、太郎が危ない! なんとかしなくちゃ……!)
しかし幼い私に何かできるわけもなく、太郎がトイレに行った隙に、あの誘拐未遂事件が起きてしまった。
私は男に抱え上げられ、そのまま車に連れ込まれそうになった。
戻ってきた太郎はその光景に驚き、私を守ろうと必死で男の脚に飛びつき噛みつく。
「やめろ! おまえがねらってるのはボクだろ!? マリちゃんを、マリちゃんをはなせーっ!!」
――その後、山田家の警護の者によって私たちは難を逃れることができた。
そしてなにより太郎のおかげで、私は車に連れ込まれずに済んだのだった。
太郎は自分だって怖かっただろうに、泣きじゃくりながら私に謝った。
「ごめんね、ボクのせいで……。ボク弱くて、まもれなくって、ごめんね。大きくなったら、ぜったいにマリちゃんをまもってみせるから……!」
この事件は私たちの苦い思い出。
だけどこれがきっかけで、弟分の太郎が私の中でちょっと違う存在になったことは確かだった。
***
「なんだよ、何か言おうとしただろ」
耳馴染んだ大人の太郎の声で、私は我に返った。
「え、えっと……」
あの事件の話をするわけにはいかないと、他の話題をひねり出そうとあわてて視線を泳がせる。
するとバックミラーに映る白い後続車が目に入った。
――あれ、あの車、さっき近所に停まってた車に似てない?
事件を思い出したせいかそう思ってしまったら気になって、鈴木さんに声をかけた。
「鈴木さん、あの車、ずっとうしろにいません?」
「えっ……いえいえ、あれはさっき交差点で左折してきた車ですよ」
と鈴木さんはバックミラーの中で私と太郎を交互にチラチラ見ながら答える。
そうか、なら安心。
なんかあの事件を思い出したから疑心暗鬼になっちゃって。
ぐいと車が右折した。いつもはまだ直進するはずなのに。
その勢いで、私は太郎の肩にコツンとぶつかってしまった。
太郎の顔、ち、近い……。
一瞬嬉しくなってる自分を自覚してしまった。
わ~、もう私ったらダメだってば!
私は安心安全の、弟を見守る「姉貴枠」なんだからね!
「すみません」と鈴木さんが運転を詫び、細い裏通りに車を進めながら説明した。
「茉莉さんの会社に入る道路が工事中になってましたので迂回します。ただこの先一方通行になるんですよ。このままだと茉莉さんの会社の前にはつけられません。ですので路地を……」
「だ、大丈夫ですよ! 一通からは一人で歩いていきますから!」
その状況、逆にナイス!
私は太郎から体を離しながら力をこめて返事した。
「茉莉、送迎の件だけど」と私の心境なんか知りもしない太郎が話を戻す。「茉莉が送迎を嫌なのはわかったよ。だけどもうしばらくだけ、俺に付き合ってくれよ」
……太郎、全然わかってない。
だから、私は太郎と距離を置きたいんだってば!
「茉莉……」
太郎が柔らかい声で名前を呼んで、私の顔を覗き込んできた。
ドキッ。
だから近いってばーーーーーーっ!!
「いい大人なのに茉莉に甘えてるのはわかってる。今のプロジェクト、実証実験段階でもうすぐ終わるから……それまでは頼む!」
そんな顔で懇願されちゃうと「姉枠のまま傍にいるのもいいな」って心ぐらぐらになっちゃうよ……。
「オレさ、茉莉といるときだけは、ほっとできるんだ」
太郎ってば……!
きゅん……!
ち、ちがうちがうちがーーーーう!
「きゅん」じゃないっ‼
こんなことなら、最初からこの送迎話をきっぱり断っておけばよかった。
しばらく太郎を避けていて、寂しくなってしまったのは私だ。だから送迎話にイエスと言ってしまったんだ。
太郎のすぐ隣に座って、喋って、太郎を独り占めできるから……!
だけどこれ以上太郎の傍にいたらもっと辛くなってしまう。
将来、太郎に意中の女性ができたらって想像するだけで苦しいのに。
それにいずれ私の気持ちがバレて、太郎とぎくしゃくしちゃうかもしれない。
――そんなの、嫌だ!
なんとか断らなきゃ……!
詰まる声を無理矢理押し出して、私は嘘をついた。
太郎の反応が怖くて、一気にまくしたててしまった。
「……太郎、実は私さ、今、会社に好きな男性がいるんだよね。その人にね、誤解されたくないの。だからもう太郎に付き合うのは無理……! 送迎ももうこれきりでおしまいにしてよね!」
そうだよ別に私に好きな人がいたって、太郎には全然関係ない。
きっと太郎は顔色一つ変えない。
だけど太郎、どんな顔してるんだろ……
太郎の方を向けないよ……!
もう、無理……!
「す、鈴木さん、私ここで降りますっ! 止めてください!」
この場に耐えきれなくなった私は、急ブレーキで車が止まるとすぐにドアを開けて飛び出した。
「茉莉!」
突然の行動に慌てる太郎の声を振り切るように、私は走った。
途端、視界が一気に滲んで頬が濡れた。手の甲で拭うと風がいっそう冷たく感じる。
勢いとはいえなんであんな噓をついてしまったんだろう。
太郎にあきらめて欲しくてあんなことを言ったけど、誤解はされたくなかったよ……!
だって私が好きな人は、本当は太郎なのに!
後悔と片思いの悲しさで、また涙が滲む。
でもこれでいいんだ、これでやっと太郎と距離を置ける……
涙を拭きながら会社のビルにたどり着くと、付近にはまだほとんど人はいなかった。
ところが、くたびれたスウェットの上下を着た小太りの男が一人、ふらりとビルの入り口前に立っていた。
オフィス街に明らかにそぐわないし、その雰囲気からなにか異様なものも感じた。
私はその男を避けて反対側から中に入ろうとした。素早く男の横を通り過ぎようとしたとき、男が話しかけてきた。
「日田茉莉だな?」
なんで私の名前を?
誰? 私こんな男、知らないよ?
頭の中で警戒音が鳴る。
男の目は焦点が合っていなかった。
「日田茉莉だな」
確認するようにもう一度男が言った。私は本能的に体を引いた。
が男の動きが早く、野太い手に私の手首はがっしりとつかまれてしまった。
男の手にギリギリと力が入っていく。
「は、離して……!」
つかまれた感触からあの事件の恐怖が再燃する。
誘拐されそうになった昔の体験が、昨日のことのように生々しく蘇った。
怖いよ! 誰か助けて……!
そのときだった。
「この野郎っ! 茉莉に触れるな!」
聞き慣れた声が聞こえ、私をつかむ男の手が離れた。
私を追って駆けつけた太郎が男の右腕を捻り上げ、私から引きはがしたのだ。
「茉莉、離れてろ!」
武道有段者の太郎が慣れた動きで男を地面に抑えつけようとしたとき、男が光るものをポケットから取り出した。
ナイフだ。
太郎はあわてて飛び退り、私を守るように男の前に立ちはだかった。
「山田太郎だな? 若造のくせに調子に乗りやがって……!」
そう言った後、男はわけのわからないことを口走り、刃を太郎の体に突き立てようと突進した。
ところが信じられないことに、太郎は身じろぎひとつしなかった。
嫌な音が聞こえ、太郎の腹部にナイフが刺さる。
ショッキングな出来事に私は頭の中が真っ白になった。
目の前にいた太郎がごろりと道路に転がり、腹部からはどくどくと血液が流れだす。
だが転がったのは太郎だけでなく、男も一緒だった。太郎が男を抑え込むように倒れたのだ。男も後頭部を打ったのか動かない。
太郎が、太郎が…………‼
想像を絶する出来事に眩暈がして気を失いそうだった。
が、太郎から流れ出て道路にひろがっていく血が私の意識を引きとめた。
救急車! 救急車呼ばなくちゃ……!
でも、手が大きくガタガタと震えてスマホを取り落としそうだった。
私は自分を叱咤して奮い立たせた。
「しっかりしなくちゃ! 誰よりもずっと大切に思ってきた太郎を、こんなことで、こんなことで…… 失うわけにはいかないよ……!」
私は両手でスマホを握りなおした。それでも手は自分の物ではないぐらい震えている。
――と、私の手を誰かが優しく包んだ。
そして背後から抱きしめられる。不思議と怖い感覚は全くなかった。だってこれは――
「茉莉、落ち着け! 俺は無事だ」
この手、この声、この匂い。……よく知ってる。でも……⁉
混乱して振り返ると、目と鼻の先に眼鏡をかけていない素顔の太郎がいた。
ぎゅ、と私の体に回された太郎の両腕に力がこもった。
確かに、太郎だ!
じゃあ、この倒れている眼鏡太郎は……?
私の心の疑問に答えるように血を流して道路に伸びていた太郎が、颯爽と立ち上がった。
ぎゃあと悲鳴を上げ腰を抜かしそうになったけど、太郎が支えてくれて倒れずに済んだ。
「大丈夫だから、茉莉! よく見て」
血を流している太郎が倒れた拍子に外れた眼鏡を道路から拾い上げて、私たちに視線を向けた。
え、目が――?
その目は生気が宿っていなかった。
人形のような、黒くて丸い感情のない目。
人間じゃ、ない……⁉
目以外は全て、確かに、太郎なのに。
血を流している太郎が眼鏡をかけながら、私を抱きしめてる眼鏡なし太郎に話し出す。
「ご主人様、動画撮影続行中ですが、OFFにしますか?」
「事件の大事な証拠だからな、バックアップは?」
「同時進行で取っています。問題ありません」
頭が追いつかない。
腹から大量出血しながら平然と喋るこの眼鏡太郎は一体なに?
「太郎、これはどういう……?」
「YAMADAの超トップシークレットだぞ。この試作機三号は、俺の替え玉の人間ロボットだよ」
「替え玉? ヒューマノイド⁉」
ぽかんとするしかない。
「要人向け暴漢対策の替え玉ロボットだ。あの誘拐事件から着想して開発したんだ。良くできてるだろ?」
実証実験中、最終段階と言ってた……太郎のプロジェクトってこれを開発していたってこと⁉
「本物の太郎だと思ってた……」
「AIモードも可能だけど、インカムで俺が喋ってたしな。全然気がつかなかったろ? 茉莉に見抜かれなかったから、合格点だな。それと驚かせてごめんな。茉莉を守るように命令は出してたが、試作機3号自身を守れと設定してなかった。これ今後の検討事項だな」
本物の太郎はそう説明すると、眼鏡太郎にテキパキと命じた。
「もうすぐ警察が来る。それまでに男を捕縛しておけ。試作機三号は修理するから鈴木の車で研究所へ向かえ」
「かしこまりました。ご主人様は?」
「コイツを警察に引き渡したあと、俺は運転してきた車で移動するから問題ない」
太郎の視線を追いかけると、さっき私が気にしていた白い車がすぐそこに駐車されていた。
車から太郎に視線を戻そうとしたとき、私の視界の端で何かが動いた。
道路で伸びていた男が意識を取り戻し体を起こしたのだ!
私が身を硬くするより早く、眼鏡太郎がすぐさま反応し男を抑え込んだ。
「護衛機能も備わってるんだ、完璧だろ?」
太郎は私に得意気に言うと、眼鏡太郎に声を投げた。
「カメラ停止して保存だ! で、そのクソ野郎、俺に一発殴らせろ!」
太郎は男の胸ぐらをつかみ上げた。
「おまえ、よくも茉莉を……‼‼」
――男が顎に喰らった武道有段者太郎の渾身の右ストレートは強烈だったと思う。
瞬殺のKOだった。
しかしこれだけのことが起きたのに道路には野次馬がほとんどいなかった。
きっとYAMADAの一声で非常線が張られてるんだろう。
驚くことばかりで呆然としている私を、太郎はきつく胸に抱いた。
「茉莉が無事で良かった……! おまえに危害を加えるって脅迫メッセージが届いてからというもの俺はどうにかなりそうだった」
狙われていたのは、太郎じゃなく私だったってこと……⁉
太郎が怒りと安堵で熱く震えている。
私は太郎の胸の中でそれを直に感じていた。
「あの事件があって、俺は茉莉を絶対に守るって決めたのに! 二度と茉莉にあんな怖い思いをさせないと誓っていたのに……! 本当にすまない!」
私もまだ小刻みに震える手で、太郎の腕に優しく触れた。
「謝ることないよ、太郎は私を守ってくれたじゃない。
――でもどうして私なんかが狙われるわけ?」
「茉莉が俺の恋人だってネットニュースで大々的にすっぱ抜かれてたからな」と太郎が苦々しく言い捨てる。
え⁉
私が太郎の、こ、恋人って⁉
「そんなネットニュース、私初耳なんだけど⁉」と太郎の顔をまじまじと見た。
「発信元はすぐたたいたけど茉莉のスマホには規制かけたから、茉莉は知らないだろ」
はあっ? 規制⁉
どうやって⁉⁉
っていうかYAMADA、いや太郎、怖っ!
……ああ、でもだから会社の人たち、「結婚」なんて言ってたのか!
「勝手なことして悪かった。でも茉莉のことだからあんな記事見たら自分を責めるだろ?
茉莉が俺から離れて行こうとしていたのは知ってたよ。そのほうが茉莉にYAMADAの重責を負わせなくて済むから、俺もこれでいいんだって自分に言い聞かせてた。でも本当は茉莉を手放したくなくて!」
ええっ太郎、それって……?
太郎は自嘲気味に言い添えた。
「……自分の気持ちを抑えるのがこんなにも苦しいとは思わなかったよ」
た、太郎……?
「でももう俺の傍にいてくれるんだろ? 俺のこと誰よりも大切に思ってると言ってたし」
太郎はいたずらな雰囲気を纏ったあの目で私を覗き込んできた。
私の胸が、きゅ、と締めつけられる。
そして太郎は、私が今まで聞いたこともない甘い声で囁いた。
「俺も正直に言う。茉莉は俺にとって特別な存在なんだ」
ずっと鳴りやまなかった私の心臓の鼓動は、太郎の本心を聞いてさらに跳ね上がった。
心はふわふわと夢心地――になりそうになったけど、一抹の不安に襲われて、恐る恐る訊いてみた。
「ねえ太郎、特別って、……姉貴枠ってこと?」
「……茉莉、おまえ何言ってんの?」
と太郎はあきれ顔になったあと、凛とした顔つきでこう答えた。
「俺の伴侶としてに決まってんだろ」
息がかかりそうなほどの位置に太郎の顔があって。
私の大好きな目でじっと見つめられて。
私はその目の中に幼い頃の太郎を探す。
太郎の顔がゆっくりと近づく。
ずっと太郎の目を見ていたかったけど、今はもう満足。
だってこの先いつでも見ていられるんだから。
これから感じる太郎の温もりに胸をときめかせて、私はそっと目を閉じた。
~Fine.~
お読みいただきどうもありがとうございました<(_ _)>
ちなみに一通無視してましたね、太郎。そんなものYAMADAの力でどうにでもなるんですw
みなさん、お楽しみいただけましたでしょうか?
面白かったな♪と思われましたら★★★★★でのご評価や応援をよろしくお願いします!
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