8
翌日、金曜日。
出勤すると、黒江は急遽休みだと幹島に言われた。
さらに、昨日の帰りに会った首の汚れていた男も、欠勤だと聞かされた。
黒江は病欠らしいが、男の方は無断で、連絡が取れないという。
桜井は抜けた穴を埋めるため、男の仕事を引き継いで欲しいと言われた。
「今日、残業できないんだよね?」
幹島から確認された。
どうやら黒江から、桜井を定時に帰すよう念を押されているようだった。
桜井は頭を下げた。
「そう。はいはい」
幹島は頭を掻いた。
「この人がいない時に」
ぼやかれたが、桜井は聞こえないふりをした。
***
銀色の前歯が輝く男のトラックに、荷物を積み込む。
「にいちゃんの顔、毎日見てる気がするな」
「奇遇ですね、私もです」
「可愛いねえちゃんが良かったな」
「黒江さんですか?」
「もっと若ぇのが良いなあ」
荷台の下から桜井が持ち上げた段ボール箱を、上で待つ銀歯の男が受け取って、奥に詰めていく。
「銀さんって、名前が銀さんなんですか?」
「あ? ああ、銀葉ってんだ」
「銀歯!?」
「銀葉。葉っぱ、葉っぱ」
漢字が頭の中にようやく思い浮かんだとき、そんなことより気になっていたことを桜井は思い出した。
「そういえば前に、首が綺麗だって言われたんですけど、あれ、どういう意味だったんですか?」
銀葉は手を止めずに言った。
「そりゃあ、金きら王様の冠被ってたからよ」
「……何かの冗談ですか」
桜井には意味がわからなかった。
「隠したって無駄だで?」
銀葉がジェスチャーで、煙草を吸った。
二本指を立てて、顔の前でひらひらと振る。
しかし、よく見ると、煙草を吸う仕草にしては、顔から手が遠い。
どちらかというと、ピースを顔に当ててから、相手に見せてつけているようだった。
「顔二つってな」
桜井は反射的にうなじを触った。
皮膚の感触だけで、そこにデバイスは無かった。
「ああ、首汚れちまうでよ」
銀葉に制されて、桜井は自分の手を見た。
桜井の両手は、煤のようなもので、叩けば舞うほど真っ黒に汚れていた。
***
手の汚れは、車に積み込んでいた荷物のせいだった。
赤いラインの入った茶箱には、アウトドア用の炭が入っていて、テープの封が甘く、隙間から黒い粉が漏れていたのだ。
作業服までみっちり汚れてしまった。
昨日の晩、同僚の首が汚れていたのも、このせいだったかもしれない。
「何のことだか、さっぱりです」
「ほんとに知らねんだな」
銀葉は最後の荷物を受け取って言った。
「黒ちゃんが言ってたよ。あの子は使ってねえって」
「黒江さんが?」
「身体は使ったことがあっても、頭が覚えてねえんだろ?」
桜井は蒼月に助言を求めたが、蒼月にも何のことやらであった。
「匂いがすんだわ。使ったことがある奴だけがわかる」
「匂い?」
「焦げ臭いような、煙いような、まあ、あんまり良い匂いじゃねえな」
「ちょっと待ってください」
桜井は話についていけなかった。
「そもそも、フェイス・トゥを、銀さんも黒江さんも使ったことがあるんですか?」
「ああ。俺なんかしょっちゅうだ」
銀葉は笑った。
「匂いがしたから、銀さんは私を経験者だと踏んで、綺麗だと言ったんですか?」
「あんな高級なもん、ここの奴が持ってるなんて珍しいからな」
「フェイス・トゥを使ったことがあると、匂いがするんですか?」
「うんにゃ、顔二つな」
「それは何?」
「裏コードだで。まず、フェイス・トゥってのはデバイスなんか無くても使えんだ。王冠は鍵でよ、一回開けたら用無しなんよ。でもって、にいちゃんも、いつでもどこでも遊びてえと思うだろ? 人間の煩悩は年中無休だもんで。そこで、トゥ・フェイス、顔二つの裏コードを使うと……」
銀葉は突然、首をガクンと落とした。
白眼をむいて、口を二、三度パクパクと動かしたかと思ったら、急に意識を取り戻した。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫、大丈夫」
銀葉は笑顔で返事をした。
「さあ、仕事だで」
そう言って、トラックに詰んだ荷物とリストを照らして、点検を始めた。
「銀さん?」
「あいよー、何だい?」
「あの、話の続き……」
「話? 何だっけか?」
「いや、だから、フェイス・トゥとトゥ・フェイスの……」
「俺にはちと難しい話だな、がははは」
銀葉は笑っている。
「さあて、仕事仕事」
桜井の話を、聞いているようで聞いていない。
「銀さん!」
桜井が大声で呼んだ。
すると銀葉は、再び首をガクンと落とした。
そして白眼を経由。
また意識を取り戻して、口を開いた。
「とまあ、今、あっち行ってたわけだけども」
銀葉は屈託なく笑う。
「どうだ? 俺ぁ仕事してたろ?」
銀葉は人差し指と中指の間から親指の先を出して、握り拳をつくった。
「向こうでどんな遊びしてたって、身体は仕事してられんだで」
『そのような技術は、存在し得ないはずです』
蒼月が静かに言った。
桜井は微かに煙草の匂いを感じた。
銀葉の着ている服に染みついた匂いかと思っていたが、どうやらそうではないらしい。