第248羽♡ 5年前のキミへ
――7月31日、月曜日、午前10時2分。
天気は晴れ、ただし午後からは雷雨の可能性あり。
夏休み期間中ということもあり、学園内の生徒は疎らだ。
一緒に登校したリナとは校門先で別れ、俺は1人で部室棟にある紅葉館三階の最奥に向かう。
防音付きの部屋からは、今日も鍵盤の奏でる音はどこか儚くて、触れたら壊れてしまいそうな旋律をしていた。
本来ならノックして入室すべきだろう。
しかし、この部屋にいるのが俺の思っている人物で間違いないなら決して答えることはない。
だから断りなく、分厚いドアを開け、外界から隔離された第二ピアノ室へ入る。
中にいたのは、思った通りの人物だった。
マッシュボブの黒髪に、赤縁メガネの風見刹那は一心不乱にピアノに興じる。
その横顔は、いつもと変わらないすまし顔だが、今だけは熱を帯びた演者になっていた。
「ごめん、風見さん」
……反応はない。
「おーい、刹那ちゃん、聞こえている?」
今度は、大きな声で風見さんに声をかけるがそれでも反応がない。思えば、前園に初めてここに連れてこられた時もこんな感じだった。
入口付近から移動し、風見さんのすぐ後ろに立つ、それでも彼女は気にする様子もない。
華奢な両肩と肩にかかる髪が、時折、小刻みに揺れる。
……両肩を掴んで揺さぶればさすがに反応してくれるだろうけど、やってはいけない気がする。
『……仕方ない、アレをやるか』
――前園の言葉が頭を過る。
初めてここで、風見さんと会った時も今日と同じでいくら声をかけても反応してくれなかった。
ただし、前園は思いもよらぬ方法で、風見さんを振りむかせた。
今回も前園の真似をしようと思う。
肩を揺さぶるのとあまり変わらない気がするが、こちらの方が幾分かマシだろう……
「ちょっといいかな、カナちゃん……黙ったままだとキスしちゃうぞ」
女優時代の風見刹那の芸名は、遠野奏多。
奏多だからカナちゃん、新幹線で風見さんが名乗った仮の名前だ。
鍵盤の音が止まる。
夏場なのに空気が一瞬、凍る。
そして――
「……無防備なボク相手に、突然のキスはどうかと思うよ」
「やっと答えてくれた、前園みたいに本当にするつもりはないよ」
「いいや、そうやってこれまで女子を籠絡してきたんだろ?」
「少女漫画に出てくる俺様系イケメンじゃないし、そんなのできるわけないだろ」
「どうだか」
「そんなことより……待たせてごめん、カナちゃん」
「さて、何のことだい?」
「5年前、新幹線で出会った女の子のことを思い出した。『オレ』って呼ぶ子を真似て『ボク』にしたって話してくれた。役者で、お芝居の話を楽しそうにしていた」
「……」
風見さんは黙ったまま俺の話を聞いている。
「ずっとカナちゃんのこと忘れてた……何度か廊下ですれ違ってただろうけど、気づけなかった」
「……仕方ないよ、会ったのはたった一度だけ、それも刹那の刻さ。憶えてないのが普通だ。ボクも忘れてた」
「また会えてうれしいよ、カナちゃん」
「ボクもだ、カスミ君……でもね、気づかなくても良かったんだ。とっくに過ぎたことだし……何より今のボクは幕の外だから」
その言葉は、俺の胸に重く沈んだ。背中を向けたままだから、今どんな顔をしているのかはわからない。
「ちょっといいかな」
「え、なにを?」
「あの頃のカスミ君にお願いがある、今の緒方君じゃなくて」
「俺にできることなら」
「……たまにで良いから、これからもピアノを聞きに来てくれないか? 新幹線で話しかけてくれた時と同じように気楽な感じで」
「わかった……喜んで」
「ありがとう、気長に待っているよ。ところでボクがさっき弾いていた曲を知っている?」
「ごめん……わからないけど、なんとなく音楽の授業で習ったような気がする」
「あの曲はドビュッシーのアラベスクというんだ、キミにはどう聞こえた?」
「よくわかんないけど、綺麗な曲だとは思ったよ」
「そっか……やっぱりうまく伝わらないか。思い切ってリストの第三番にしておくべきだったかな」
「どうかした?」
「いや……何でもない、今のは忘れて、緒方君」
「お、おう、了解」
風見さんはようやく振り向き、憮然とした表情を俺に向けてきた。
……多分、何でもないはずがない。
でも、調べない方がいい。リストの第三番については。
お越しいただき誠にありがとうございます。
お時間がございましたら「ブックマーク」「いいね」「評価」「誤字修正」「感想」「ご意見」など頂けましたら幸いです。
一言でも「ここ好き」などあれば、ぜひ教えてください。




