元夫のあがき
「あまりにも無礼だろう、バート?」
ユリシーズが唸るような声で言った。
彼は、穏やかな見た目であるけれど元軍人。亡くなった義父の片腕として、いくつかの戦争を経験している。彼は、強面を演じることも出来るのである。
「実の両親の死に水を取るどころか、死んだことすら知らず、王都で贅沢三昧と女遊びのかぎりをつくしていたおまえに、アミ様のことをとやかく言われる筋合いはない」
彼が一歩踏み出すと、バートは一歩下がった。
これまで公爵子息としての立場の上に胡坐をかき、横暴のかぎりを尽くしてきた。それが、一瞬にして消え去ったのである。
彼に残っているのは、愚かさだけ。
おそらくは、後悔や反省の念は抱かないだろうから。
そのとき、居間のガラス扉の向こう、つまり外から喧騒がきこえてきた。
(到着されたのね)
その喧騒が意味することは明白である。
「ちょっと、向こうを見なさいよ。兵隊みたいなのがいるわ。わたしたちを捕まえに来たんじゃない?」
窓の向こうに、馬車道を屋敷へと向かっている一行が見えてきた。バートの愛する人がそれに気がつき、ガラス扉を指さした。
「こんなこと、こんなこと、あってたまるか。罠だ。おれは、こいつらにハメられたんだ。くそっ! このまま終わるものかっ」
人間、追いつめられるとどんなことをしでかすかわからない。どんな力を発揮するかわからない。
このときのバートは、まさしくそれだった。
彼は被害妄想気味なことを怒鳴ったかと思うと、わたしに飛びかかってきた。
それは、彼のブヨブヨしている体格からは想像出来ないほど素早かった。だから、さすがのユリシーズもまったく動けなかった。
もちろん、わたしもだけど。
気がついたら、再びシャツの襟首をつかまれていた。それだけではない。その衝撃でうしろへよろめき、そのまま背中から長椅子に倒れこんでしまった。
長椅子に倒れ込んだ瞬間、すごい衝撃が全身を走った。これが長椅子だったからよかったようなものの、床だったらその衝撃はかなりのものだったのに違いない。
反射的に閉じてしまった瞼を開けたのと、重みを感じたのが同時だった。
すぐ上にバートのたるみまくっている白い顔が迫っている。
「お、重すぎる」
おもわずつぶやいてしまった。
背中から倒れ込んだわたしの上に、彼が馬乗りになっているのだ。重いのは当然である。
「クソ女っ! おまえのせいだ。おまえがおれを陥れたんだ。カニンガム公爵家を奪ったんだ。このクソ女っ、殺してやる」
彼は、もはや正気ではない。狂気に支配されている。
左手でわたしの襟首をつかみ、右手は天井に振り上げている。彼の狂気じみた白い顔の向こうに、年代物のキャンドルシャンデリアがボーッと浮かび上がっている。
(殴り殺される)
一瞬にして悟った。だけど、恐怖で体が凍り付くとか絶望で頭が真っ白になるとかはない。
自分でも驚くほど冷静だった。バートの怒りに染まった茶色の瞳を見据え、毅然とした表情を崩さないでいられた。
「死ねっ」
その叫びとともに、彼は右の拳を振り下ろした。
それでもなお、拳がわたしの顔に当たるのだと予想し、やけにゆっくり向かってくる拳を見つめていられた。
「やめろ」
「ぎやああああっ」
彼の拳が左頬に当たる、と思った瞬間である。
鋭い制止の声がし、ほぼ同時に世にも怖ろしい悲鳴が起こった。
これもまた一瞬だった。
世にも怖ろしい悲鳴を発しているバートが宙に浮いた。文字通り。同時に、わたしの体からいっさいの圧がなくなり、軽くなった。
宙に浮いたバートは、そのまま空中を舞った。これもまた文字通り。
そして、彼は居間のガラス扉のすぐ手前に落ちた。これもまた文字通りに。
「ズズン」、という家鳴りのような音を響かせて。
そして、彼は動かなくなった。




