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Baltanesia, 2022

作者: 貝16

 そのとき、ジェイは生徒たちの前で教科書の147ページを読んでいるところだったが、突然すべてが虚しくなり言葉が出なくなった。

 しばらくの沈黙の後、生徒の一人が「先生、どうかしましたか」と言葉をかけてくれたことで、ジェイは現実に引き戻された。失礼、ちょっと喉が詰まってねと言い訳をして、ジェイは授業に戻ろうとしたが、どこまで読んだかを思い出せずに生徒に聞かなければならなかった。先生、しっかりしてくださいよと後ろの端の方の席からヤジが飛ぶ。それじゃあケイ、先生がどこまで読んだかお前が教えてくれと言うと、ヤジを飛ばした生徒は、それなんですけどね先生、ちょうど僕もどこを読んでるところか分からなくなって、などとお道化た。

 「ケイ、しっかり授業を聞けよ、ただ、今回は先生もぼうっとしてしっかり授業が出来ていなかった。お互い様だから、今回は聞いていなかったことについて減点はしないでおくよ」

 ジェイがそう言うと、生徒たちの何人かが笑い、沈黙でなんとなくぎこちなくなった空気が和やかになった。ケイには感謝しなければならない。ジェイは他の生徒に、どこまで読んだのかを改めて聞き、再び教科書を読み始めた。

 「わが国の主要な輸出品目は木材であり、輸出のおよそ35%を占める。わが国は木材の輸出大国として国際的に知られており、木材の輸出量では世界で29位につけている。木材の品質についても高い評価を得ている。この他の輸出品目については……」

 世界で29位か、なるほどねとジェイは思う。世界で29位の国など、ほとんど誰の記憶にも残らないだろう。それでいて、国の作った教科書ではわが国は木材の輸出大国と言い張っている。例えば、スポーツの大会で29位になった選手が強豪選手として知られることは、一般的に言えばほとんどないだろう。

 それでもこの国には、バルタネシアにはこれしかないのだ。最貧国でこそないが、誇るべきものは何もない発展途上国にとっては、世界で29位の実績でも特筆に値すべきことなのだ。たとえそれが、バルタネシア国民以外にとっては何の関心も引かないものであったとしても。

 しかし、現状ではその虚勢じみたちっぽけな誇りも、他の国の目に届くことはないだろう。もとより注目を浴びるような話ではないが、今は何しろ……。

 ジェイはそこまで考えると、再び自分の口をつぐませた虚しさがこみ上げてくるのを感じ、急いで頭の中からその考えを振り払わなければならなかった。幸い、頭ではそんなことを考えながら、教科書を読む口は止まっていなかった。

 教科書を読み終えると、彼はそのページに書いてあった内容があたかも重要であるかのように授業を続けた。



 数日前のニュースがこの国の大人たちの心を暗くしていた。子供たちはどうだろう。ジェイには判断がつかない。毎日授業で彼らと接しているが、少なくともジェイには、彼らが大きく変わったようには見えなかった。しかし、確信は持てない。学生というのは、大人には絶対に見せない顔があるものだ。

 数日前、アメリカの空港で男が突然隠し持っていた刃物を手に暴れ回った。死者は5人、負傷者は10人以上にのぼった。男は警備員に足を撃たれ、取り押さえられた。ニュースに映った生々しい映像はジェイの記憶にも強く残っている。男の振り回す刃物が当たってうずくまる人々の姿や、突然の凶行に逃げ惑う人々の叫び、そして、空港警備員に撃たれて血を流す犯人。この国には、残酷な場面を放送に乗せてはならないという規制はない。大きなニュースになったこの事件の衝撃的な映像は、この国の大人も子供も目にしたはずだ。

 しかし、このニュースがこの国で大きな話題となったのはその残虐性ばかりからではなかった。拘束された犯人が、その後の警察の調べに対し、「自分はバルタネシアの出身である」と話したのである。

 これが、バルタネシアが世界に認知された初めての出来事であったかもしれない。

 これまで、他国と大きな諍いは起こさず、かといって世界が注目するような偉業を為したこともない。経済的に注目されることもなく、著名な芸術家や優秀なスポーツ選手を輩出したこともない。あらゆる意味で、ほとんど見向きもされていなかった小国。そのバルタネシアが初めて大々的な注目を浴びたのがこの事件だった。

 バルタネシアのWikipedia記事は3か国語にしかない。国を取り扱った記事としては相当に少ない方だろう。それも、まともに記述されたのは英語版のみで、残りの2か国語は、そもそも語学力の問題でジェイには読むことができないのだが、ほんの僅かな記述しかないスタブ記事で、たいした内容は書かれていないのだろうなということは分かった。

 そして唯一内容の充実した英語版の記事も、現在はページのほとんどが今回の事件の犯人についての内容になっていた。バルタネシア国民の代表はもはやあの男だった。あるときには何者かによってページが荒らされ、バルタネシアの主要な産業に「犯罪者の輸出」と書かれており、ジェイは頭を抱えた。彼自身でページを編集する気分にはなれず、今でもその記述は残っている。

 アメリカではもちろんこの事件が非難され、バルタネシアという国を見る目も冷え切っている。バルタネシア人への排斥運動も一部で起こったらしい。その後、実際にバルタネシア人への暴力行為やら何やらが起こった話は聞かないが、それは単にアメリカに住むバルタネシア出身者が極めて少なく、排斥するほどの人数がいなかったからだろう。そんな事件こそ起こらなかったが、ネット上ではバルタネシアという国に対しての誹謗中傷の言葉をジェイはたびたび見た。

 ジェイはこれまで10年間、この学校で子供たちにバルタネシアの歴史を教えてきた。これまで何人の頭に、少数民族の集まりだったこの国を統一した偉大な王の話をし、この国で長く続いた血なまぐさい内紛の時代の話をし、この国の民主化を成し遂げた政治家の努力の話をし、この国が現在いかに近代化に向けて邁進しているかの話を叩き込んだだろう。彼はそれが重要なことであると信じていた。ところがどうだろう。この国の一歩外を出れば、誰もこの国のことをまともに知らない。自分がこれまで教えてきた歴史のことなど、Wikipediaには一行の説明もない。世界にとってそれは一人の狂った男の凶行ほどの価値もなかったのだろうか。

 今日の自分の授業だってそうだ、とジェイは考える。何が木材の輸出大国だ。世界ではすでに、この国の主要産業は犯罪者の輸出と思っている人間の方がずっと多いんだ。そう思うと、あの虚しさがまたジェイを襲ってくる。

 いかんいかん、彼はそう考えて頭を振り、わだかまる考えを振るい落とそうとする。私が教えることには何か意味があるはずだ。余計なことを考えるな。だが、その意味というのが何なのかは、彼自身にもちっとも掴むことができなかった。



 授業を終えてジェイが職員室に戻ると、エルがコーヒーを啜りながら次の授業の準備をしていた。エルはアメリカから来たこの学校の英語教師だ。まだ20代の若い彼女が、どうした気まぐれでアメリカという恵まれた土地を去り、誰も名前を知らないような発展途上国のバルタネシアまで来て、薄給で子供たちに英語を教えているのかは知らない。しかし彼女のおかげで、この学校の英語教育の水準が高まっているのは間違いない。

 ジェイが戻ってきたのに気づくと、エルが彼に話しかけた。

 「ジェイ、どうしたの? 何か調子が悪そうじゃない?」

 「いや、どうということもないんだけどね。最近、少し考え事をしてしまうんだ。だから少し、心ここにあらずという風になっているかもしれない」

 エルが眉根に皺を寄せて聞く。

 「それってもしかして、例の事件について?」

 「まあ、そうだよ。今は私に限らず、皆心のどこかにそれが引っかかっていると思うけどね。君だって何も考えないわけじゃないだろう」

 「そうね」エルは少し考えてから続けた。「あの事件の後、アメリカにいる父親から電話がかかってきたわ。お前がいるのはあの事件の犯人がいる国だろう、危険じゃないのかって。私は、とんでもないって言ってやったわ。この国から凶悪犯が一人出たからって、バルタネシア人が全員凶悪犯なわけがないじゃない。この国のことを知ろうともしない人には、そう見えるのかもしれないけれど。私、それを聞いて大声で怒鳴って電話を切ってやったの」

 「君のお父さんは君が心配なだけだよ」

 「そうかもしれないけど、あまりにも失礼な話よ。この国は何年も大きな事件とは無縁だったんだから、そこに一度事件が起こったからって、この国がそれまでと変わるわけじゃないでしょう? 凶悪犯罪なら私の地元の方が多いくらいよ。私の父が、おかしな排斥運動とかに関わらないといいんだけど。割と単純なところがあるから」

 ジェイは腕組みをして唸る。「でも、君が父親に対して感じることは私にも分かるんだ。結局、他の国がこの国をどう見ているかは全て今回の事件で上書きされてしまったんだ。私はずっと歴史を教えてきたけど、それはあくまでも内向きの話で、一歩この国を出れば、この国のことを聞いても誰も知らない。少なくともこれまではそうだったよ。これからは、あの犯罪者が出た国でしょ、というのがこれからの反応になるわけだよ。私がいくら歴史を子供たちに教えようが、世界ではこの国のどんなにすばらしい歴史より一度出た犯罪者のことが記憶されるんだ。そう思うと、私はやりきれん気がするね」

 エルは難しい顔をして話を聞いていたが、やがて口を開いた。

 「それは正直、私の手に余る問題ね。世界の人の認識を変えるなんていうのは、やろうと思ってできることじゃないし。私たちは教師だから、これから先、私たちが教育した子供がそれを塗り替えるくらいの人物になることを願って、精一杯今の生徒を教育するくらいしかできないんじゃないかしら」

 どうだろうな、とジェイは内心思う。果たしてこの学校からそんな人物が出ることがあるだろうか? 今まで、この国に世界に名前を響かせるような人物はだれ一人出てこなかったというのに。この国できちんとした教育を受けられるというだけで、この学校の学生は一定以上の暮らしをしていることは間違いない。それに、彼から見ても将来に期待できそうな聡明な生徒はいたし、芸術やらスポーツやら、その他の分野で才能を発揮する生徒もいた。それでも、一度も世界に通用する才能を輩出したことのないこの国で、初めて世界的な存在になれるかというと、正直に言えば、そうだと言い切ることはできない。

 それよりもむしろ、彼には今の生徒たちの誰かが、将来アメリカの空港で起こしたような犯罪を起こして、それで名を残す方がありえそうな気さえした。例えば……いや、よそう。こんな空想には意味がない。ジェイはまた頭の中から湧き上がる雑念を振り払う。

 エルが彼に話しかける。

 「どうしたの? またぼうっとしてない?」

 ジェイは慌てて言った。

 「いや、なんでもないよ。どうしても今は余計なことを考えてしまうみたいなんだ」



 その日の午後、ジェイが校舎を歩いていると、エルが授業を行っているクラスを見かけた。教室の後ろの窓から授業を覗くと、うまいように生徒たちの興味を引き、楽しませつつもきちんと授業をしているのが分かる。まだ若いのに大したものだ、とジェイは思う。異郷の地で、外国人の子供たちに囲まれつつ、それでも生徒のためになる教育を行うことができる。しかも、その相手は自国で犯罪行為を行った国の子供たちだ。それなのに、生徒たちの前ではそれを何も感じさせない。アメリカ人というのは皆こうなのだろうか?

 そこまで考えると、彼はまた自分が余計なことを考えていることに気づいた。どうも、最近は余計なことを考えすぎる。




 仕事を終えて家に帰り、食事を取ったジェイは、なんとなくテレビをつける。チャンネルを適当に変えていると、ニュース番組が目に入った。画面にはここ数日数えきれないほど見た、例の凶悪犯の顔写真が映っている。ジェイはニュースキャスターが読み上げるニュースを途中から聞いた。

 「……バルタネシア出身と自称していた犯人ですが、調べによりますと、所持していたバルタネシアのパスポートは偽造品であり、バルタネシアにも同氏の戸籍情報がないことが分かりました。また、この犯人の特徴には、パルムニアで暴行などの疑いで指名手配中の男と一致する点が多いことから、同一人物ではないかとされており、警察は目下、調べを進めています。……」

 なるほど、それではバルタネシアは今回の件とは無縁だったわけだ。そう思い、彼は安堵の息を漏らし、然る後にまた暗い気持ちになった。犯人が自国の出身でないから良かった、などというのはあまり褒められた感想ではないな、と彼は自省する。

 ニュースは次の、彼が特に興味のない話題に移ったので、ジェイはテレビの電源を切った。そして先程のニュースをもう一度思い返してみる。パルムニア? 果たしてそんな国があっただろうか。

 彼はパソコンを立ち上げ、検索エンジンで「パルムニア」と打ち込んで検索してみる。トップにWikipediaのページが現れ、彼はそれをクリックする。表示されたページは、あまり内容の充実していない英語版の記事だ。言ってしまえば、バルタネシアのページと大差はない。他の言語も、バルタネシアと同じく2言語しかない。

 ジェイはその記事の内容に目を通す。国名の由来、国旗の象徴する意味、面積、気候、現在の首相など。もちろんそれは重要なことだ。しかし、そこに住む人々の息遣いが伝わってくるような内容は何もない。その国で人々が何を思い、どう暮らしているのかは何も分からなかった。

そして、読み進めるうちに、ああ、とジェイは頭を抱える。すでに、この国の主要な輸出産業のところに、誰かが「犯罪者の輸出」と書き込んでいたのだ。



 「ああ、これはひどいな」

 午後、生徒たちの下校が始まる時間になってから来た清掃業者は、校舎の壁に赤いスプレーで大きく書かれた落書きを見て言った。「パルムニア人に死を!」と書かれている。

 昨日の夜中、あのニュースを見てから、誰かがここに落書きをしたのだろう。朝、登校した生徒たちはなかなか校内に入らず、周りに人だかりが出来ていた。彼らを教室に向かわせるのには苦労した。「こんなものいつまでも見ていても何も起こらないぞ。ただの字だ」そう言って教師数人がかりで、彼らを落書きの前から引きはがしたのだが、非日常に飢えた子供たちはちっとも言うことを聞かない。お陰で今日の授業の開始は一時間も遅れた。

 清掃業者はジェイ達教師の目の前で、何種類かの研磨剤やら機械やらを試してみたが、やはり完全に落書きを落とすのは難しいらしい。やがて彼は言った。

 「これはダメだね。完全に落とすのは私らでは無理だよ。私らである程度汚れを薄くして、上に新しい色を塗ってごまかすしかないんじゃないかな。でも塗るのはうちらの仕事じゃないよ。落書きをある程度落とすところまではやるけど、塗装はまた別の業者を呼んでくれんかな」

 「やむを得ませんね」校長が言った。「いつまでも校舎にこれを残してはおけませんから」

 「じゃあ、とりあえず私らは作業に入りますよ。できる限りはやりますが、今言った通り、完全に落とすのは無理なので、そこは期待しないでくださいね」

 そう言うと、数人の清掃業者は作業に入った。教師たちは作業を任せ、校内に引き上げていく。

 「ジェイ先生」

 誰かがジェイを呼び掛けてくる。見ると、ケイが数人の生徒と伴って下校するところのようだ。

 「その落書き、消しちゃうんですか?」

 「当たり前だろう。こんなもの残してはおけない」

 「残してもいいじゃないですか、あの事件は結局パルムニア人が悪かったんでしょう?」

 子供の世界のシンプルな論理ではそうなるのだろうか。ジェイは苛立った声で言う。

 「いいか。二度とそんなことを言うな。悪いのはあの犯人だ、パルムニア人全員じゃない。そこには絶対的な違いがあるんだ」

 ケイは急にジェイが鋭い口調になったことに、当惑したように言った。

 「別に、そんなに怒ることないじゃないですか。このくらいのこと、皆言ってますよ」

 そう言うと、彼は仲間と一緒に歩き去ってしまった。皆言ってますよ、か。ジェイは考える。子供たちの多くの認識がそうなら、この落書きをしたのも生徒の誰かなのだろうか。わざわざ学校にそんなことを書くのだから、そうなのかもしれない。あまり生徒がやったとは考えたくないことだ。しかし、大人がやったともあまり考えたくない話だった。あの事件に対し、この程度の感想しか持てない大人が近くにいる、というのもばかばかしい話だ。ジェイはため息をつく。いずれにせよ、子供たちには何らかの形で話をしなければならないだろう。

 「先生ってのは大変だね」と、作業をしていた清掃業者の一人が笑いながら言う。

 「お陰様でね」とジェイは言って苦笑した。



 ジェイが仕事を終えて家に帰り、そろそろ眠りに就こうかと思っていた時間、校長から電話がかかってきた。こんな時間にかかってくるとは、何かあったのだろうかと不安に思いながら彼は電話に出た。

 「ニュースを見たかね?」校長が開口一番に聞く。

 「ニュース? 何のニュースですか?」

 「パルムニア大使館の件だよ。見ていないのなら私が説明する。今日、パルムニア大使館に爆発物が投げ込まれた。学校からもそう遠くない場所だよ」

 昨日まで存在も知らなかった国の大使館が、そんな場所にあったとは知らなかった。

 「それは恐ろしいですね。近くでそんなことがあったとは。学校の方も警備を強化するべきでしょうか」

 「いや、そういう話じゃないんだ」校長の声は暗く沈む。「やったのはうちの生徒だよ。君も知っているだろう。ケイだ。近辺で警察に捕まったらしい。さっき連絡があった」

 それを聞いてジェイは頭を抱えた。返す言葉に詰まる。今日の下校時の彼の姿が思い出される。「パルムニア人に死を!」の落書きに対して、彼が言ったのは「残してもいいじゃないですか、あの事件は結局パルムニア人が悪かったんでしょう?」だったか。あいつはふざけたことを言うお調子者ではあるが、不良ではない。成績もそう悪くなかったはずだ。それが、爆発物を大使館に投げ込む? 頭の中がうまく結びつかない。

 「おい、ジェイ君、大丈夫かね?」

 「すみません。ちょっと、頭が混乱して」

 「無理もないな。それで、明日の対応だが……」

 ジェイは校長の話を聞きながらメモを取る。彼の頭の中では、ケイの姿が未だにぐるぐると回っていた。



 誰もいない教室の中にいるケイの態度は不遜だった。自分が正しいと信じ込んでいる人間の自身がにじみ出ていた。

 今日、登校してきたケイはいつもの教室ではなく、他の教師が空き教室に連れて行った。朝から、授業の空いている教師が代わる代わる彼と話をしている。彼と話をしたエルは、彼は何を言っても心を開かない、と無念がっていた。いつものお調子者の彼とは思えない、黙秘を決め込んだ容疑者のようだ、とエルは言う。

 次の時間はジェイの手が空いていた。ケイのいる教室に入ると、彼は腕を組んで虚空を見つめている。

 「やあ」

 ジェイはそう言ってケイの正面の席にかける。説教の前の挨拶にはあまりふさわしくないかもしれない。ケイは何も反応を示さない。

 しばらく考えて、ジェイは言った。

 「あの落書きは、君がやったのか」

 「皆それを聞くんだな」ケイはうんざりしたように言う。目線をこちらに合わさず、ジェイの上あたりの虚空を見据えている。

 「どうなんだ」

 「さあね」相変わらずの不遜な態度だ。

 ジェイは長い息を吐き、しばらく沈黙してから言う。

 「まあそれはいい。今日の話はそれがメインじゃないんだ。君に聞かせておくべき話があってね。今日の朝、うちの生徒が数人リンチに遭った」

 ケイはそれを聞いて初めてジェイの方を見た。

 「どうして」

 「お前がパルムニア大使館にしたことのせいだよ」

 「やったのはパルムニア人なんだな。報復か」

 「違う。同郷人だよ」

 「じゃあどうして」ケイは意味が分からないと言った様子だ。

 ジェイは落ち着き払った声で言う。

 「だから、お前のせいさ。お前という人間がいたせいだ。爆発物を投げ込むなんていう、誰かを殺してもおかしくないようなことを平気でする人間がいるから、この学校の生徒は全員犯罪者で、そんな奴らは迫害しても文句は言えないという奴が出てきたんだ」

 「そんな馬鹿なことがあるかよ」

 「この学校にどれだけ将来に期待できる聡明な奴がいるか、運動や芸術で活躍できる才能を持つ奴がいるか、あるいは道徳的に正しい心を持った人間がいるかなんて関係ない。それを知っている人間よりも、今のバルタネシア国内には、この学校には無差別爆弾魔がいる、という認識の奴の方がずっと多い。それしか知らない人間の方がずっと多いんだ」

 ジェイはそこで言葉を切り、いかにも深刻なことを話す口調で言う。「さっきまで、リンチに遭った生徒の見舞いに行っていたんだが、ひどいものだった。リンチに遭ったのは3人だが、10人以上の大人に突然殴られたり蹴られたりの暴行を加えられたそうだ。僕が見ている間にも、ふさがっていない傷口から包帯にみるみる血がにじんで、何度も包帯を取り換えなくてはならなかった」

 ケイは動揺したように見えた。少なくとも、自分が正義だと信じ切った人間の強固さは少し揺らいだように見える。

 「学校にも、朝から来年からうちに来るはずだった生徒が、それを取りやめるという連絡がいくつも来ているよ」

 ケイは唇をかむ。身体を揺すり、落ち着きが無くなっている。ジェイはしばらく無言で彼を見ていたが、頃合いを見て口を開いた。

 「今のは嘘だ」

 ケイは目を見開いてジェイを見る。

 「は?」

 「誰もリンチになんか遭っていないよ」

 ケイは席から立ちあがって声を荒らげる。「何だよそれは。ここに嘘を言いに来たのかよ」

 ジェイは座ったまま、彼を真っ直ぐに見る。「今のは嘘だが、君がやったのはまさにそういうことだ。パルムニア人の一人が犯罪を犯したから、パルムニア人は全員悪だ、何をしてもいいという君の考えというのは、つまりは同じなんだ。君という人間がした行いが、僕たちの学校全体が悪だという考えに繋がるのは、君と同じような考えの人間がいるなら、起こってもおかしくない。でも、ほとんどの人間は物事をもう少し複雑に考える。世の中は君が思っているほどシンプルじゃないんだ」

 ケイはどこか納得のいかないような表情をしていたが、再び席に座った。ジェイは続ける。

 「まだアメリカで起こった例の空港の事件の犯人がバルタネシア人だとされていた頃も、アメリカ人のエル先生は、バルタネシア人の生徒の前で何も態度を変えずに授業をしていたな。あれは立派なことだと思うよ。君はエル先生に失礼な態度を取ったようだが、次に会ったら謝るべきだね」

 ケイは腕を組み、目線を逸らして黙り込んでいる。

 ジェイは腕時計を軽く見やる。「もうそろそろ時間だね……僕はもう行くよ。生徒への指導の中で嘘をついたっていうのはもしかしたら怒られるかもしれないな。次に指導に来るのがどの先生かは知らないけど、秘密にしておいてくれよ」

 そう言ってジェイは席を立ち、教室のドアの方に向かった。ドアに手をかけたところで彼は振り返って言う。「あ、そうそう……」

 ケイは彼の方を見る。

 「さっき言ったリンチの話は嘘だが、来年来るはずだった生徒が取りやめるという連絡が朝からたくさん来ているという話、あれは本当だ。学校にとっては結構な痛手だよ」

 それを聞いたケイは冷や水を浴びせられたかのような表情をしていた。

 「自分がしたことの影響をよく考えるんだね」

 そう言ってジェイは教室を出た。



 教室を出て、ジェイは大きく息を吸う。生徒指導は苦手だ。指導と言いながら、正しいことをしたのかいつだって判断がつかない。自分の専門は歴史だ。倫理でも道徳でもない。

 廊下の窓から、先日の落書きの跡が見える。清掃業者によって汚れが落とされた後、上から塗装されたが、くすんだ校舎の中で真新しい色が塗られたその部分だけ浮いてしまっている。校舎全体を塗り直すようなことがなければ、その部分だけ永久に浮いてしまうだろう。だが、学校は決して資金に余裕があるわけではない。校舎全てを塗り直すなどというのは少なくとも数年間はあるまい。きっとあの色の違う壁を見るたび、下に隠れたあの落書きのことを思い出すだろう。

 ケイがあの落書きを見て言ったことを思い出す。このくらいのこと、皆言ってますよ、だったか。大使館に爆発物を投げ込んだケイと同じような考えを抱く人間が、ここにはもっといるのだろうか。いずれ、彼以外にも何らかの行動を起こす生徒が出るのかもしれない。

 彼はケイと同じような気詰まりな指導を何人も繰り返すことを思うと、何やら途方もないものの相手をしているような気分になる。だから、彼はそれを頭の中から払い落とし、次の授業のことを考えるのに集中しようとした。バルタネシアの重厚な歴史の話を。しかしそれも、一人の犯罪者の起こした事件に満たない歴史なのだと思うと、胸の底から虚しさとともに、またため息が漏れ出てきた。


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