間、目覚め
細い、細い、今にも消えてしまいそうな月が空いた穴から見える。
目覚めが夜中とは自分に相応しい、男はそう思った。
骨になっている左手を見る。閉じ込めていたはずのものは消え去っていた。
「逃げられたか」
目を伏せようとしたが瞼がないようだ。
あたたかい、橙色に近い赤茶の目が私を見ている。
力の使いすぎで髪はすっかり白くなり、顔は青白く、痩せ細っている。その細い指が私の頭を撫でてくれた。
私が慕う、私を救う唯一の人。
――いかないで。ひとりにしないで。
子供の自分がその手を必死に握る。
さみしそうに、申し訳なさそうに、優しく微笑む。
大事な人との別れ際の思い出。悲しいが、夢だとしてもまた会えたことを男は喜んだ。まだ『悲しみ』や『喜び』という心が自分にあることを知る。涙は流せなかった。体がその機能を失ってしまっているようだ。
瞼のない目を再び閉じる。
純朴そうな若い男、赤茶の髪と目をしている。あの眼差しは、もしや…
…違う。違う。あんなに暗い色ではない。あれは違う。別人だ。
「いやぁっ」
女の金切り声で男は目を開けた。階段を駆け上がってくる音が響き、壁も扉も失ったこの部屋にその声が飛び込んできた。
「ひぃっ」
緑の衣を身につけた女は椅子に座す者を見て皺だらけの顔を恐怖に引きつらせた。口を骨のような指で覆う。だがすぐに気を取り直し、部屋を物色し出した。
「指環…指環を…」
動かぬこの部屋の主を死んでいるとでも思ったのか無遠慮に椅子の脇を抜け、背後の棚に手を伸ばした。
そこには両手で抱えるほどのぼんやり光る球があり、その中では緑色の指環が明滅している。
「指環が私のものになれば…きっとこの身も戻る」
女がその球に手をかけるとピシャリと激しい音が弾けた。球の中で指環が激しく暴れ回っている。
「痛っ!」
「懲りないな。指環も人を選ぶ。無駄だ」
「生きてる!」
男の声に女は落ち窪んだ目を見開いた。かつてその妖艶な目で何人も誑かしてきた美貌は見る影もない。
「あの娘を、あの娘さえいなければ私のものに!」
「…悪魔と契約するような者には認められないだろう」
感情ののらない冷たい低い声が静かに説いた。
「必ず私がもらう」
女はそう宣言して、出て行った。
騒がしい、煩わしい。
女は色仕掛けから始まりあの手この手でしつこくつきまとってきた。役に立ってみせると、だから指環の力をよこせ、と。
払うのも面倒になり放置したが、皮肉なことに共に時を越えてしまったようだ。一度でも指環に触れた影響か。
「諦めの悪いことだ」
男は侮蔑の笑みを浮かべた。指環に力があるなどと、指環が欲しいなどと愚かなことだ。
無理に調和を取ろうとするがあまり排除をするならそんなもの消えてしまえ。
誰かや何かの意思ではなく、自然と強くなったり弱くなったり、それでいいはずだ。
あの月も明日には消えるだろう。
有から無へ。そうして沈黙の時を経れば再び有が訪れるであろう。今あるものを無に。
その循環に戻さねばならぬ。
星も瞬かない夜空のように、総てを無に。
まだ体は動きそうにない。
もう少し眠ろう。きっと…きっと…また夢を見れば会える…はず…