四、風の吠える谷
森の中の道のりはひっそりとしている。
秋に豊かな実りをもたらした木々も葉を落とし、冷たい風に耐え忍ぶように身を縮込ませている。木の実をたくさん運んだであろう小動物の姿はもうあまり見られない。
フローギールの道案内で獣道もすぐに見つかり迷うことはまずなかった。護衛として雇ったアーウィンの活躍の場も荷物持ち以外には枯れ草を踏みならしたり、蔦や蜘蛛の巣を払ったりくらいだ。
休息もろくに取らずに歩き続けて五日め、もしここで一人にされたとしたら無事に帰り着けるか不安を覚えるようになった。人が立ち入った様子などまるでない、見渡す限り似通った木の並びの繰り返し、そのどれもが方向を惑わすように心をかき乱していく。
これに似た感情を抱いたことがあるのをナルはふと思い出した。不安もあるし疲れてもいるのに、それよりも強くなっていく探究心。呼ばれているような気持ち。
そうだ、赤い岩を見つけた、あの時も確かに方向を見定める力を失っていくのを感じていた。
「失敗したわ」
今の今まで少しの疲れも見せなかったフローギールが舌打ちした。
「どうかした?」
フローギールは困ったように眼下にある崖を指さした。
「回り道をしたら三日は余計にかかってしまうわ」
「降りられなくもなさそうだけれど…」
落胆するフローギールを気遣うように言ってはみたが、彼女にそれだけの力はありそうにない。案の定、小刻みに震えている。
「とりあえず、休憩を取ろう。ここを降りるか回り道をするか、決定はそれからでも遅くはないだろう」
「休憩? そんな暇はないわ! 疲れてもいないもの。余計な口出しはやめて」
アーウィンの言葉を否定して、フローギールは再び歩き出そうとした。
その肩を捕らえて崖から離し、強引に腰掛けさせた。
「痛い! なにをするの!」
アーウィンはいきなりフローギールの足首を掴み、あっという間に靴を脱がし取った。
彼の行動にナルはぎょっとしたが、赤く腫れあがり擦り傷を負った彼女の足を見て、胸が痛んだ。平坦でないこれだけの距離を進んで辛くないはずがない。それを見せまいとしていただけなのだ。どうして気付いてやれなかったのか、自責の念が襲う。
「無理をすれば、後に障るだけだ。それがわからないわけでもあるまい。気丈なお姫さんよ?」
「誰が姫よ。いいかげんな呼び方をしないで。私は神…」
フローギールは言葉の途中で、うっと声を詰まらせた。アーウィンが携帯していた水で傷を洗い流したからだ。ひどく染みたのか、言葉を締めくくりはしなかった。
アーウィンの態度を、行動を、呼び方を、どこに重点をおいて怒ったらいいのかわからなくなり、フローギールはただ唇を噛みしめ、顔を赤くした。
そうしている間に、ナルは適当な場所をみつけ、焚き火を起こした。
アーウィンは慣れた様子で手早く治療を施している。
「あんたらが何をしようというのか、そんなことには興味は無い。雇われはしたが命令を聞くとは言ってないからな。指図は受けない。言っとくがな、神だと言えば言うことを聞くと思ったら大間違いだぞ。生憎オレは神なんて信じていないんでね。興味があるとすればお姫さんがいい女かどうかってことくらいさ」
「だからいいかげんな呼び方を…」
振り上げられた細腕から逃れるようにアーウィンは彼女の傍らから飛び退いた。ちょうど手当ても済んでいた。
「本当に威勢がいいな。だが休んでおいて損はないぜ」
言葉を残して木陰に消えたアーウィンは暫くの後、食料を調達して戻ってきた。
結局、そのまま夜明けまで休むことになった。
フローギールは再び崖を見おろして、ふうっと息を吐いた。
「仕方がないわ。回り道を…」
回り道をしよう、と言いかけた時、なんの前触れもなくアーウィンは荷物か子猫でも扱うようにフローギールの腰を掴んだ。
「なにをするのよ!」
「崖を降りるんだろう? ナル、お前はここを降りられる、と言ったよな?」
「え、降りられなくもないと…」
きょとんとするナルに「じゃあ、降りられるな」と言い切り、アーウィンはロープで自分とフローギールを繋ぐ。木に回したロープを足をかけぐいぐいと引っ張り、強度を確認するとふわりと体を浮かせ崖を降り始めた。
二人分の重みにロープがギシギシと悲鳴をあげている。ナルは念のため、ロープを括った木の傍らで見守って、二人が地に着いたのを確かめると、自分もロープを伝った。
ナルが着いた時、フローギールはまだ気付いていないのか、目をぎゅっと瞑ったままアーウィンの首に腕をまわしてしがみつき、体を硬直させていた。
アーウィンも面白がっているのか、その腰を抱いたままで、彼女の足先は地に着かずにぷらんとしている。
「無理をするなと言ったのは誰なの!」
アーウィンを責める声もその時ばかりは可愛く聞こえた。
ロープを掴んでクルリと回すように何度か動かすと、木に括った部分が外れてロープはパサリと落ちてきた。アーウィンはそれを手早く纏めて回収した。彼はどんなことにも手慣れていて、動きに無駄がない。
フローギールは顔を赤くしたまま、暫く口をきかずに歩き続けていたが、それに対して「静かでいいな」と言ったアーウィンの言葉を皮切りにまた捲し立て、いつもの彼女に戻っていた。
東へ東へと進んでいくうちに木の幹も立派なものが増えてきた。
根元が大きく洞になったもの、人が数人ががりでも抱えられないもの、そんな木にフローギールは時折そっと触れては声をかけるように顔を寄せている。
母なる大地エド、人跡未踏といわれる偉大なる森の深部、その端くらいには到達したのだろうか。
居並ぶ木の壁を抜けると、突然に視界がひらけた。遙か向こうにも森は続いている。ぐるりと視界を巡らすと、ここが円形のぽっかりとした空間であることがわかった。しかも大きなすり鉢状に窪んでいるうえ、大地の色が変わっている。地表はまるで模様のようにひび割れ、パリパリとその端が反り上がっている。生命の息吹がない。
緩やかに下っていく地面に足を取られないように注意し歩くと、底に近付くにつれ大地はナルの髪と目の色とは似ても似つかず、白っぽくなっていく。転がる小石は角のとれた丸みを帯びたものだ。
「ここは湖だったの。干上がってしまったけれど」
そう言われてやっとナルはこの傾斜と色の意味を察した。失われる前の湖はおそらく水に含有物があったのだろう。水は乾ききり、それらは取り残された。草木が生えないのもそのためなのだろうか。
更に地の色が白から青っぽいキラキラした粒子に変わる頃にはゆるやかな風が必ず左頬を撫でるようになり、一歩ごとに強くなった。
「なんだ? 風が渦を巻いている?」
アーウィンは風に引かれる黒髪を鬱陶しそうに纏めながら呟きを漏らした。
侵入を拒むように風は吠え続ける。
たまらなくなって悲鳴を上げ、よろめいた時、風はふいに止んだ。
止んだ、のではなく渦の中心に辿り着いた。すぐ後ろでは風は変わらず唸り吠えている。
風の中心、この涸れた湖の底には精悍な顔立ちの青年の石像があった。
石像の姿や表情は奇妙に生々しい。だが、赤い岩の中で見た、美しいシンシアの白くてすべすべした石像とは違い、まるで砂を固めて造ったようで、不用心に触れれば崩れ倒れてしまいそうだった。
その表情もシンシアは慈愛に満ちていたのに、彼は眉間に皺を寄せ、険しい苦悶を浮かべている。
風の黒が選んだ青年ジェフメル。
彼はシンシアとは逆に魂だけが目覚めていて、肉体は石像のままなのだ。
フローギールは感慨深そうに彼を見つめると、衣服をガサガサと探しまわり、大事そうにしまっていた小さな革袋から、黒い指環を取り出した。
石像に一歩、近寄る。
暫くじっとその石像を眺め、くるりとアーウィンに向き直った。
「彼を支えてあげて欲しいの。すぐには体に力が入らないと思うから」
「ああ、わかった」
アーウィンはぶっきらぼうに返事をし、倒れかけた際を考えてか、石像の背後に回った。その肩に置こうとした手は、脆い表面に不安を抱いたのか途中で動きを止めた。
フローギールは指環を口許に近付けた。風の吠える声にかき消され彼女の声は聞こえなかったが、唇の動きが止まると、指環がほんのりとした光に包まれた。
古の魔術の言葉か、それとも神の御言葉か。
時折、森で彼女を包む空気がナルやアーウィンのそれと違うのは感じていたが、能力をはっきりと目の当たりにするのは初めてだ。
フローギールの神としてか、大地エドの森に愛された娘シンシアか、いずれにせよ。
フローギールは指環を二本の指で摘まみ捧げ持ち、その環をジェフメルの石像に向け、彼を通り越して背後のアーウィンを見ていた。その目には躊躇いの色、手には微かな震え。
迷いを遮断するようにきゅっと目を閉じ、また唇を動かした。単語にして三つくらいの短さだった。
指環の光は弾け飛び、吠え続けていた風が役目を終えたようにぴたりと止んだ。
フローギールが口を一文字に結び、アーウィンの右手首に掴みかかった。
「おいっ! なにす…」
黒の指環を薬指の第一関節まで滑り込ませたところで、ぴく、と動きを鈍らせ、引き抜きざまにくるりと背を向けた。指環は彼女に天高く放り投げられ、閃光を放った。
網膜を焼く光が収まりそろそろと目を開けると、鷹が滑空し石像に降り立つところだった。
「ごめんなさい。ジェフ…ジェフメル…」
フローギールは頬に涙を溢れさせて、震える手を鷹に伸ばした。
鷹はひと声啼いた。
嘆きか、あるいは失望の響きを含んで…。
「え? どういうこと?」
ナルは茫然として聞いた。当然のように石像が人間として動き出すと考えていた彼には今の事態やフローギールの涙の理由に頭がついていけない。
「ジェフはシンシアを庇おうとしてひどく傷ついたの。魂が戻っても体が保つのか…。だから指環の力を借りて、魂を別の者に入れようと試みたのよ」
「その場合、入れ換えられた体の魂はどうなるんだい?」
フローギールは答えなかった。
まずいことを聞いてしまった。口を強く結んだが走り出た言葉は戻っては来やしない。
「その体にアーウィンを…」
ナルはぽつりと呟き、石像の傍らに腕を組んで立つアーウィンを見た。彼はいつもと変わらず平然としていた。
「だけど! ジェフが必要なの。魔術師と対決するには…」
フローギールはわっと泣き出し、顔を両手の中に埋めた。
「お姫さんよ…お人好しだな。あんたの中のもうひとりは言っているんだろう。お前はバカだってね。操り人形が欲しかったんだろ。オレみたいなはぐれ者にこんな秘密を知られていいのかね?」
アーウィンは彼女の顎をくいっと持ち上げて無理に顔を上げさせた。
フローギールはきっと彼を睨め付け、その頬に平手をお見舞いした。バチンッといい音がした。
「バカね! あなたみたいな大バカ者、初めて見たわ。なんのためにジェフを鷹なんかにしたと思っているの! 今ではあなた自身を必要としているからじゃない」
気まずい時間が流れた。
ナルはどうしていいかわからず、二人の間でまごまごするばかり。フローギールは涙を堪え、下唇をきゅっと噛んで小刻みに震えている。アーウィンはひっぱたかれたことに腹を立てたのかカッと目を燃えたぎらせたが、その目はすぐに冷めた。思ったより痛むのか頬をさすっている。
「ちっ、付き合ってられないぜ。こんなおままごと」
そう独りごちながらアーウィンは上着を脱いで、適当に裂くと左腕にぐるぐる巻いて、紐できゅっと縛った。
「だが今更いらない、なんて言われるのも癪だからな。最後まで足を引っ張ってやる」
アーウィンが左腕を曲げてすっと肩の高さまで上げると、鷹となったジェフがバサリと翼を広げて飛び移った。意趣晴らしなのかぎゅっと爪に力がこもるが、巻いた布に阻まれて皮膚までは届かない。
「アーウィン!」
フローギールはぱっと顔を輝かせた。
「操り人形は無理でも止まり木くらいにはなれるだろ」
アーウィンはジェフに向かって片目をつむりニッと笑った。ジェフは片羽を広げてアーウィンの顔を叩いて応えた。