三、森の娘 ②
「大丈夫ですか?」
熊のもとにいる兵士たちに駆け寄ると、負傷した兵は大きく歪んだ胸当て部分の深い溝をさすって見せた。打ち身と擦り傷くらいで深手は負っていないようだ。
ほっとするのと同時に、身を覆う鎧を持たない自分がこの一撃を受けていたら…と考えナルは背筋がぞっとするのを感じた。
「助力感謝する。だがどうして…」
言い終わらぬうちに兵士たちは姿勢を正してサッと横一線に並ぶ。
川の向こう岸に騎馬二名と十数人の兵士が木々を縫って姿を現した。
「先発隊、ご苦労であった」
兵士たちがピシリと一斉に礼を取る。ナルも騎馬の人物の身分を察して膝をついて頭を垂れた。
「凶暴な獣の目撃談が複数寄せられたので此処らへは立ち入りを禁じる通達を出したはずだが、はて…?」
よく通る低い声が対岸から問うように発せられた。ナルとフローギールを指しているのは自明だ。ナルは身を硬くした。
「若い男女と見える。逢い引きか」
「お父さま、問題を片付けて早く帰りましょう。仕事が山積みです」
もうひとりの騎馬は乗馬服を身に纏った若い女性であった。彼女の言葉から父娘の関係、父はカーヤオースの領主であろう。娘は父の下品な言葉に片眉を上げて、ふうっと息を吐いた。
「これも大事な仕事だ。しっかり学び取るように」
そう娘に諭すと従者に指示を出していた。その間ずっと頭を下げたままの二人に再び声がかかった。張った声が届く。
「討伐協力の報償を出さねばな。そこの者を町まで送り届けるように」
兵士に付き添われ町へ着く頃には西の空が朱に染まっていた。夕闇はすぐそこまで迫っている。
「報償なんて、そんなつもりでは」とナルがおずおずと言ったきり会話はなかった。フローギールの目配せに、これは害意がないと判断がつくまでの監視か、とナルにも察しがついた。
一件の宿屋に着くと兵士は会釈をして去って行った。
食事場を兼ねたその宿屋は冬がそこまで来ているにも関わらず、繁盛しているようだった。
戸を潜ると外の寒さを忘れるほどの、人々と酒がもたらす熱気と料理の蒸気がむわっと二人を包んだ。
ナルはそわそわと視線を彷徨わせた。町の宿屋も食事も初めてだ。ここに来るのに船を利用したのと、自称占い師に捕まったせいで持ち金はほとんど残っていない。
さっさとテーブルに着いて料理を注文するフローギールに従ってナルも椅子に腰掛けた。
注文を終えるとフローギールは「坐ってて」と手で示し、席を立ってカウンターに歩み寄り、店の主人と二言三言の会話をして戻ってきた。
「あの…、宿屋に泊まるのはいくら位なんだろうか。僕はその…、あまり持ち合わせがなくて…」
思い切って切り出したナルにフローギールは目を丸くした。
「何も知らないのね。無理もないけれど…。安心して。ここの分くらいはあるわ」
すまなそうに俯くナルを見て、フローギールは思いも寄らないあたたかい目をしてみせた。
「そんな顔しないで。あなたを呼び寄せたのは私。だけどこの先ひとりでは何もできないもの」
それに、と彼女は続ける。
「ナル、あなた村を出てからまともに食事も睡眠もとっていないでしょう? 今晩くらいはしっかり眠ってね」
間もなく温かい料理が運ばれ、二人は思い思いに口をつけた。海の幸がふんだんに使われた料理は香りも味も慣れないものだったがナルは深く感謝した。
食事を終えて一息つくと、フローギールは店内をゆっくり見渡した。
誰かを捜しているのか、目だけは猫のように落ち着かな気だ。目的の人物を見つけたのか一点の所で彼女の動きが止まった。
「ナル」
促すように呼びかけ、フローギールは先立って席を離れた。素振りのひとつひとつが優雅な彼女とは違って、隣と隣の席がぶつかりそうな狭い店内を不器用に歩いた。
ランプの灯りが届ききらない店の隅に、闇と溶け込むような黒装束の男が坐っている。その男の傍らに立つとフローギールは彼の注意が自分に向くのを待った。
「あんたか、オレを雇いたいというのは」
金髪の美しい娘と、その背後に立つナルを確かめて、その男はいやらしい笑みを浮かべた。
「言っておくがオトモダチにはなれないぜ。認めた以上の仕事はしない主義なんでね」
ナルは顔を歪ませた。痩せ気味ではあるががっちりとした体躯、黒髪に氷のような瞳、見間違うはずもない。昼間に会った盗人だ。
「誰がそんなことを頼んだの? 私が頼みたいのはちょっとした護衛よ。あなた傭兵なんでしょ?」
「そうとも呼ばれるときがあるな。護衛ならわざわざオレを雇わんでも、そこのお兄さんが守ってくれるんじゃないのか」
男の鋭い眼差しにナルはふいっと目を反らしたが、フローギールはちっとも引かなかった。
「野党や破落戸が出ないとは限らないわ。私たち二人だけでは不安な面もあるの。その点、あなたならたった一人でも森を抜けられそうだもの」
「森を抜けようっていうのか。正気じゃないぜ…」
「あら、怖じ気づいたの? 傭兵は自信の腕に絶大な自信を持っているって聞いたけど…。だから腕の立つ傭兵をってお願いしたのに。この様子なら別の人を捜した方がいいみたい」
男はガタリと乱暴に椅子を引いて立ち上がった。フローギールとは頭ふたつほども違う、その長身に見おろされ、彼女は気付かれない程度に体の震えを抑えていた。
一時、男の瞳に宿る氷が溶けて、湖水の色を垣間見せた。
「気に入った。気の強いお嬢さんだぜ。雇われてやるよ。報酬は?」
「決定ね。お願いするわ、アーウィン」
アーウィンと呼ばれた男は眉を顰めたが、すぐに椅子に腰を落ち着かせた。二人にも坐るように促すと報酬の交渉に入った。
ナルはアーウィンの手に落ち着いている青い指環を気にしながら、時々自分の手も眺めて、フローギールの話し声をぼんやりと聞いていた。
久方ぶりにまともな寝床に横たわり、ナルは肺の中を全て吐き出すような深い息を吐いた。木の洞、岩の隙間、土間の端、物置小屋…ここ何日も少しでも眠れればましな生活が続いていた。体は疲れ果てているのに神経が昂ぶっているのか寝付きは悪い。それでも体をのばして寝られるだけでも回復は違うだろう。
熊にそれなりの対応ができたことは故郷にいた頃なら自信に繋がっていたかもしれない。だが今はそんな気分になれなかった。威力が足りず決定打に欠け、長く苦しめさせたことだろう。己の力不足を痛感する。
フローギールとアーウィンとこれから行動をともにするが上手くやっていけるだろうか。それに…
絶えず頭に飛来する様々な考え事を打ち払おうと再び長く呼吸をする。
波の音が聞こえてくる。昼は雑踏で気にならなかったが、静かな夜には町中でも波の音が聞こえるらしい。どこかで聴いたことがあるような旋律…
そうしているうちに漸く頭がぼんやりと、うとうとしだした……
夢を見ている。
左手の拳の中で何かが暴れ回っている。
千切れるような痛みが襲う。燃えるようだったり凍てつくようだったり。
でも、決して放すものか。
そう、強い思いに支配される。
腕が溶け出す、骨が露わになる…でも決して、決して、調和など取り戻させない。
奪った者たちは同じように奪われるがいい。
なにもかも、総て消えるがいい。沈黙の時代へ向かえ。
――――スベテヲ無ニ……
これは夢だ。夢と確信している。また新たな夢を見始めてしまった。
夢だったとわかっているのに左腕が痺れている。痛い。苦しい。
ナルは寝台の中でもぞもぞと動き、微睡みつつも左腕の無事を確認した。額には脂汗が吹き出ている。
ゆっくりと身を起こし、はぁと盛大に息を吐く。
夢を見ていた。嫌な夢だった。
それは確実なのに、もう霞のように記憶はあやふやで、どのような内容だったか思い出せない。
無意識に左手の拳を握ったり開いたりする。
そういえば、赤い海の夢もはっきり覚えているようになったのは祭りが近付いてからだったな、と思い出した。
朝、宿屋に領主の私兵だという者が迎えに来ていた。フローギールはコクリと頷き、拒否するのは悪手だと黙って従う。ついて行った先は荘厳な建物だった。その尖塔形は天に伸びよ、といわんばかりで見上げた天辺は目に光が染みるばかりだ。細かな模様に飾りたてられた扉を前にナルは当たり前のように頭を下げ「おじゃまします」と呟いた。そんな様子の彼を迎えた聖職者らしき服装の人物が「おや?」というように目を見張る。
三人はそれぞれ別々の小さな部屋へ通された。ナルは戸惑いつつ、アーウィンはギロリとフローギールを睨むと厄介そうにも従った。
「いつ、どのようにしてこの町に入った?」
「昨日の早朝に…その…船で到着しました…」
「目的は?」
「えっと…人を捜して…」
「あの女性とはずっと一緒に?」
「いえ…森でたまたま会いました」
終始しどろもどろに答えながら、これは尋問だ、とナルは思った。
嫌な緊張が鼓動にのって耳に届く。喉が渇いてひっつき声が上擦った。
この小さな部屋は本来は祈りの場らしい。壁の片側には絵でわかりやく、もう片方には文字でその教えを説いたものが掲げられている。
兵士がナルの供述を書き留めている間、壁の文章を目で追った。それを読んでしまったら、自分が生きてきた内の何かを否定されてしまうのではないかという恐さと興味がないまぜになっていた。
古くからの神々が廃され『ただ唯一』と定められた神の信仰。
この国はかつてたくさんの小国であり、群雄割拠の末に帝国としてまとまった。地名として残ったものもあるが多くの国の名前がこの時消えた。カーヤオースも今では数ある諸侯のひとつだがもとは王国であった。
その戦乱の末に滅びた国もある。北東のボルドイ国はもっともたる例で、もともと雪深く痩せた土地ではあったが通年雪に閉ざされるようになったのは住まう人が消えたからなのか別の要因があるのかは謎とされている。
この信仰の興りも帝国の始まりと端を発している。土地を争っていがみ合っていた民をまとめ上げるには『唯一』が都合が良かったのだろう。それでも求心力がなくては窮する。だから神々はもとを正せばひとつから始まりました、と導いた。そういった経緯も長い時の中で既に消し去られている。
おおっぴらにはできないが、船乗りは水の神と風の神を、鍛冶職人は火の神を、などそれぞれに即した神を祀っているものもいる。
そんな事情はナルの知るところではなかったが、文章を読むうち、少しの安堵を覚えていた。知った文言が其処此処にあり、全くの別物ではないと感じたからだ。
大地は足、火は右手、風は左手、水は胸…そんな一文を見て、ここでは忘れさせられた神々の名を想う。
小部屋から出ると、尖塔部分にあたると思われる吹き抜けの大広間で待つように言われた。
据え付けられた長椅子に目を向けると、既にアーウィンは適当な場所に頭後ろで腕を組み、前の椅子に足をかけて坐っていた。眉間に皺が寄っていて、機嫌は良くないらしい。護衛に雇われていきなり尋問となれば無理もない。
広間には兵士の他に、到着した時にはいなかったドレス姿の女性もいた。背筋をピンっと伸ばして椅子に浅く腰掛けている。神官と思われる人物に気付いた女性が挨拶に立ち上がると膝にのせていた冊子がぱさりと落ちた。
ナルはその赤い表紙の冊子を拾い上げ、彼女に渡そうとした。その時、見覚えのある一節が目に飛び込んだ。
「まあ、ありがとう」
確かめる間はなく冊子は女性の手に戻る。
「あの…今のは…」
「何か? はっきりと言ってはどう?」
女性の自信に満ち溢れた大きな眼で見つめられ、ナルは返答できずに目を床に落とした。
「何なの? 煮え切らないわね。命令よ、言いなさい!」
これまでの生活では、皆をまとめる役割として祭司の下に従ってはいたが、押しつけられるように威張られたことのないナルには、その対応がわからなかった。
「そちらの冊子は歴史書物でしょうか。見覚えのある一文があったもので…」
びくつきながらもナルは口籠もった。
「まあ。字を読めるの? 少しは見直したわ。礼儀も弁えない、知恵もない蛮人かと思ったわ」
女性はくすくすとおかしそうに笑っている。従僕が「お嬢様」と声を掛けたのを聞いてナルは慌てて跪いた。やはり、あのまま答えずにいた方が賢明だったのかもしれない。いや、そもそも近付いたり話しかけてはいけなかったのだろう。
「顔を上げなさい。褒めているのよ。でも、これを歴史と思うなんて不思議だこと。詩集よ。特別に貸して遣わすわ」
ナルは差し出された冊子をおずおずと受け取り、至極丁寧に頁をめくった。目的の文章はすぐに見つかった。
赤い岩に刻まれたあの碑文。しかも二段目がある。
己を慈しみ 危殆に瀕することなく
私を留めて 忘却の彼方にやらずに
…………
…………
虫食い部分が埋まった文章に酔い痴れるように読み進める。ずっと胸につかえていたものがすっと通ったようだった。愛しい気持ちを紡ぐ言葉に次第に顔が熱くなっていく。こんなに照れるものだとは思わなかった。他人の手紙を盗み読んでいる気分だ。
赤い岩にも刻まれていたこの文はシンシアが書いたものなのだろうか。そうするとその相手、英雄は精霊使いのジェフメル?
それとももっと以前の、もともとある伝承的な碑文なのか…。
それでもやはり全ては読めなかった。顔を顰めていると声をかけられた。
「どうしたの?」
「あの…わからない単語が…」
「どれ?」
女性の細くしなやかな白い指が紙面にのびる。
「…追風…おいて…追い風のことね」
「そんな読み方を…」
次々にナルが指す単語を彼女の指がなぞり、読みや意味を教授され、恥も一時忘れやや興奮気味に読み続けた。ぶつぶつと再度読み直すナルを女性が面白そうに見ている。
「お嬢様、閣下がいらっしゃいました」
従僕の声にナルは慌てて冊子を女性に返した。
護衛と従者を連れてカーヤオースの領主が現れた。兵士から三人の聞き取りの報告を受けている。女性は昨日も騎馬でいた領主の娘であった。
ちょうどフローギールも広間に来たので礼を取る。アーウィンは居住まいも正さず欠伸をかみ殺していた。
「ふむ、熊殺しよ。昨日はご苦労であった。報償は彼から受け取ってくれ」
指示された従者が会釈をした。ナルには疑いがかけられていないようだ。
「して、そこの娘、魔術師に注意せよと話したとか」
領主がひたとフローギールを見据える。フローギールは顔を上げて真っ直ぐに見返す。尊厳のある佇まいは領主に負けていない。
「私たちの大事な使命です。三百年ほど昔、北東のボルドイ国が急に雪に埋もれたのは御存知でいらっしゃいますか」
「無論だ」
「あれは魔術師によるものです。その魔術師による暴虐を止めねばなりません」
その場に居合わせた者は皆、彼女の言葉に耳をそばだてた。
「おぬしは民を混乱させたいのか」
「滅相もございません」
「その話が本当であるならば、それは兵士の仕事であろう」
「いいえ。使命を負った私たちでなければならないのです。相手は底知れぬ魔術師ですから」
無茶苦茶なフローギールの話に領主は苦い顔をし、その声には険がある。
「何故におぬしがそれを?」
「私は神ですから」
ざわめきが波のように起こった。特に神官は悲鳴のような声をあげた。
「自分が神と騙るか」
「正確には魔術師を鎮める運命を持つ娘を、一時加護している森の神フローギールです。魔術師はこの世界にある調和を崩し去りました。その直後、この娘と精霊使いにより眠りに就いたのです。この娘と精霊使いも一緒に。この娘の目覚めは不完全で今は魂が抜けています。森の使徒として選ばれた娘を私は守っているのです」
フローギールの声には感情がなく淡々と語っていく。
「三百年も眠っていたというのか」
「閣下、調和がこのまま壊されれば世界はその息遣いを止めます。守るべき民も国も失うことになるのです。ボルドイのように」
「神の名を口にして惑わした後は脅しか。何を企んでいる?」
フローギールは領主の言葉に悲しげな表情をした。
「言葉の通りです。都の人々は信じるべき新しい神を見つけて、我々のことはお忘れになってしまわれたのですね」
「神はこの世に唯一だ」
フローギールはきゅっと唇を噛みしめ俯いた。
存在を否定されたときから尊厳に満ちた姿はみるみる衰えて、ここにいるのは領主の威厳に怯えるただの少女でしかなかった。
「…フローギール…」
重苦しい沈黙に耐えかねて、ナルが彼女の肩にそっと手をおいた時、突然風が絡みついてきた。驚きに、弾かれたように顔をあげたフローギールは領主と自分との間に小さな竜巻があるのを目にした。
室内で起こった急な風に広場の中が響めく。
「やめて、もういいわ」
領主の方へとじわりと進みかけた竜巻にフローギールは慌てて声をかけた。
躊躇うようにしばらく小さく動いていた竜巻は、「お願い」と付け足した彼女の声を聞きとめたのか、ふいに消滅してしまった。
まるで支えるように触れていたナルの手を取って彼女は小さく頷いた。
「ここは祈りの場と聞きました。それは何への祈りですか? 失われた命ですか? 民の安寧ですか? 魔術師によりかつてこの都は戦場になりました。今回も警戒をすべきです。どうか英断を」
フローギールをこのまま帰すわけにはいかないと、一室にて監禁し、沙汰を待つことになった。ナルとアーウィンもそれぞれ別室にて待機となった。某かの罪に問われることがなければ良いが、とナルには願うしかなかった。
待機は命ぜられたものの自由にしていいと言われたナルは大広間を訪れた。色々あって周りを見られなかったのが正直残念だったのだ。
飾られた絵や聖句に目を馳せる。窓から射し込む西日が床の一点を照らしていた。ふとその光の中に立って天を仰ぐ。
ナルはその光にあるものの存在を感じた。
微笑み、慈しみ、ナルの頬に優しく触れる。
ナルは慌てて、その場に跪いた。
――――ナル
声だ。声がする。
――――人々の凍えた心を癒やして…。森の願い。天があなたを必要としているのです。やってくれますね?
「はい」
声が微笑む。ナルもつられて表情を緩めた。
大広間、礼拝堂で祈るナルの姿を見た神官が静かに近寄ってきた。聖職者として『神だ』と名乗る発言には動揺を隠せなかったが、この田舎くさい青年を不思議と放っておけなかった。
「ここは聖域です」
「はい?」
「罪人であろうとその身が保障されます。領主様の配慮ですよ」
フローギールにも領主にもなにか行き違いがあるようだ。神官も神を騙るのは見過ごせないと思いつつ、罪に問われなければ良い、と願っていた。
「彼女は伝えるのが、その、不器用なんだと思います。ただ危険を知らせたかったのでは、と」
ナルがぽそぽそと口籠もる。
「きっと…大丈夫ですよ」
ナルは恭しく礼をして自分にあてがわれた部屋に戻った。兵士が扉の前にいる部屋にはフローギールがいる。気落ちしていないといいけれど、声さえかけられないことをナルは辛く思った。
ガタリと窓が僅かに鳴り、風かなとフローギールは目をあげた。窓枠に手足をかけてアーウィンがいる。
「へぇ? 驚きもしないとは」
「なにか用?」
「ご挨拶だな。お嬢さんひとりくらいなら攫って逃げられるぜ、と言いに来たんだが」
フローギールは少し頭を傾げた。
「大丈夫よ。ジェフがいるもの。それにナルにとっても休養になるでしょうし」
「余計なお世話だったようだな。護衛が不要になるなら早めに言ってくれ。無駄足は御免だ」
「明日には出発できるわ」
アーウィンは鼻でフンッと笑い姿を消した。フローギールは窓を閉めに立ち上がった。窓からは眼下の町並み、そしてその先には刻々と変化する海面のきらめきが見える。
風がふわりとその金の髪をゆらした。
カーヤオースの領主は頭を悩ませた。経験豊富な憲兵の見立てではその仕草や目線の動き、声音に悪意や嘘はないという。罪に問い投獄するのは簡単だ。それだけの発言内容。室内でおきたあの風はなんだったのか。
だがあの小柄な娘は自ら行くというだけで何かを要求してきたわけでもない。監視をつけてその動きを探った方が良さそうだ。民を攪乱するような企みがあればすぐに捕らえればいい。吹聴するだけの困った輩ならば神殿に『神降ろし』だとして保護という名の軟禁をすればいい。そう判断して泳がせることにした。
だが、その時の領主はその監視がすぐに撒かれるなどどは思っていなかった。
まして、自身とこの町に迫る影などには当然気付きもしなかった…。
翌朝、解放されることになった三人は再び顔を合わせた。
心配していたわりにフローギールは全く動じていなかった。アーウィンは我関せずを通している。
熊退治の報償は一部だけを戴き、ナルはその殆どをこの礼拝堂に寄付していくことにした。
フローギールは特に反対しなかったが、アーウィンが小声で「バカか」と呆れていた。
「お世話になったので」
神官に頭を下げ、最後に窓から射し込む光の柱をもう一度目に焼き付け、荘厳な建物を後にした。