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エドの守り神  作者: すみえだ
6/22

三、森の娘 ①

「何がいいことがあるものか」

灰色の頭巾を被った男の影に怯えながらナルは森の中を進んだ。

小川にさしかかったが追跡を撒くには好都合かもしれない。川岸をしばらく進み、中流に飛び石がある箇所を探し、浅瀬は躊躇なくざぶざぶと入り越えていく。

濡れた革長靴に草が重たく足に絡みつく。奥へ奥へ走り、速度を少しずつ緩め、自然と足を止めると深呼吸をした。

いくらなんでも、もう追ってはくるまい。

汗の吹き出た額を拭い、前髪をかきあげる。前方から爽やかな風が吹くのとほぼ同時に、厳冬の鋭い風のような視線がナルの背に注がれた。

矢筒の矢に手をかけ、踵を返す。

やはり、あの男だった。頭巾の中の濁った眼がこちらをじっと見つめている。ナルよりも一瞬早く、男の矢が射られた。

「くっ」

弓で矢を弾き、男に向けて矢を放つ。ナルの矢は狙った通りに皮一枚を掠め抜けた。男は一度身体を震わせただけで、声さえも上げなかった。

怯んだのはナルの方だった。

恐ろしい――。そう、思った。

何故だかわからないが、この男はなんとしてでもナルを殺そうとしている。その為には己の死などどうでもいいことのように。


 あの占い師に会った後からというもの、ナルを執拗に追いかけ続け、隙がない。町を出て森に入ってからも、まるでナルの足取りを承知しているかのように先回りをしているのだ。

男はまた矢を継ぎ、ナルの真正面に向ける。キリキリと弓を引く音が聞こえるようだった。

と、その時、ヒュンという音を伴って背後から矢が飛び、光の尾を引きながら男の左胸を貫いた。男はぐらりと揺れたが、次の瞬間その頭巾の中には何も存在しなかったかのように、布がふわりと舞った。

 ナルはゆっくりと背後を見た。深い緑の、こちらも頭巾つきの外套を纏った者が、こちらへ来るようにと手で合図をし、小走りに近い速度で歩き出した。ナルは背を押される思いでその者に続いた。

近づいてみるとその人物はとても小柄だった。

「どうして急所を外した? 簡単にできたはず」

すぐ後ろに追いついたことに気付くと、振り返りもせずにそう問い質してきた。

「なにも殺すことはない、そう思ったからだよ」

ナルの返答を聞くと、突然足を止め、くるりと向き直る。

「甘いわ! そんなんじゃ外の世界ではすぐに殺されるわよ」

金の川が流れ出たようだった。優雅な所作で頭巾を外したその姿は、風に泳ぐ金髪、この世のものとは思えない透き通るような白い肌、春の始まりの緑の瞳、美しい女性だった。

ナルは急に気恥ずかしくなって目を反らした。

「り、理由もなくかい?」

「理由はあるわよ。あなたみたいな人はせいぜい消えた村の跡でぼうっとしていればよかったんだわ」

ナルは咄嗟に彼女の二の腕を掴みあげた。

「何故、それを知っている?」

「いた…痛いわよ!」

「あ…すまない…」

ナルが手を放すと、彼女は袖をぱたぱたと叩いた。

「知っているわよ。なんでもね。そうでしょ、ナル?」

彼女は腰に手をあてて、さも自信あり気に彼の名を口にした。ナルはただ呆然とするばかりだった。

「君は…誰なんだい?」

「わからないの? 農夫は農夫ね。全然頼りにならないわ」

そう言われてから初めてナルは彼女の顔をまじまじと見た。

そうだ、そう…。彼女はナルが良く知っている者の誰かに似ている…。

「…フローギール…森の女神…」

赤い岩の中で眠る女神。森と大地の守護神フローギール。

目の前にいる彼女には凜とした冷たさがあるが、面影はある。

「そうよ。漸くわかったようね」

「でも…女神だなんて…そんな…」

「信じないというの?」彼女の声には落胆の色が濃く表れていた。「無理もないわね。本来の私ではないし…」

「待ってくれ。女神だとか、本来ではないとか、命を狙われなきゃならない理由にしても…。話が全然見えないよ」

「ジェフから何も聞いていないの? 仕方ないわ。いい? よく聞いてね。そして信じてちょうだい」

彼女は語りだした。ナルが聞かねばなかない事実を。


 岩が風に削られて、そこに刻まれた文字が読めなくなるほどの昔。

野心に燃える魔術師が、魔力を持った五つの指環を手に入れ、その力を我が物にしようとした。その五つの調和を崩して総てを制する力を。

けれども彼の魔力ではその力に対抗できずに、そのひとつ、天空を統べる紫の指環の力だけは手にしたのだが、他の指環は方々に散り去った。

森の緑が選んだのはうら若き乙女。

風の黒が選んだのは森で暮らす青年。

あとの二つは行方の知れないまま。

指環を手にした二人はその時から調和を取り戻すために魔術師と戦うように運命づけられた。

風の青年の名はジェフメル。幼少の頃より魔術とは違う、精霊を操る力を持ち合わせ、緑の娘シンシアは森の加護をもって彼を助けた。

やがて決戦は訪れ、指環の力がぶつかり合い、調和が結ばれたかにみえた。だが、それは仮初めに過ぎず、北東の地が雪に閉ざされ眠ったのと同時に、三人も眠りに就くことになる。

彼らが目覚める時こそ真の調和を戻す日が近いということ。つまりは再び戦わねばならないということ…


 おそらくは彼女が、老人の言っていたナルの『友』で運命を知らせる者なのだろう。そしてあの老人がジェフメルという名の精霊使い。

待っていたのは森ではなく彼女…。彼女が言うとおり女神であるのなら森自身といっても過言ではないが…。

「炎が統べる赤い指環を手にしたのがあなた、ナルよ。どう? わかってくれた?」

「そこまではなんとか…。でも何故…その…シンシアという方自身ではなく、女神様が?」

実際にはわからないことだらけだった。そんなに大きな戦いが以前に繰り広げられていたというのなら、言い伝えられていてもおかしくはないはずであるし、炎に襲われたナルが、炎に選ばれたというのもしっくりこない。あれが炎による選定の歓迎ならずいぶんと乱暴だ。

それにナルの問いに答えをくぐもらす彼女。彼女の右手には緑色どころか指環のひとつない。

「…隠し事はいけないわね。ジェフとシンシアは呪いを受けてしまったの。シンシアが肉体しか、ジェフが精神しか目覚めないようにと。それに緑の指環は魔術師に奪われてしまったわ。指環を取り返しさえすれば呪いは解けると思うのだけれど…。だからこうして私が、シンシアの身体を守っているのよ」

ナルは顎に手を当てて口許を押さえた。彼女の話を整理し、彼なりに理解しようとしていたのだが、その仕草が疑っていると受け取られたのか、彼女はわっと声を出した。

「信じられないのはわかるわ。でも、信じて! お願いだから協力して! 指環を手にした者たちが揃って調和を戻そうとしなければ、やがては世界にも影響が出始めるの。大地は揺れ、風は怒り狂い、水は流れを失い淀み、炎が全てを焼き払う…陽は二度と昇らない…」

ナルは困惑した。両の手に顔を埋め咽び泣く彼女になんと声をかけたらよいのかわからない。

「どうか、泣かないでください。信用していないわけではないのです。僕は何が出来るわけでもありません。けれども消えた村を取り戻したい。その道標があるのなら、貴女に同行します」

胸に手をあてて頭を下げるナルに彼女はにこりを微笑んだ。

「ありがとう…よろしくね。ナル」

ほんのりと頬を染める彼女の、女神像を思い出させる笑顔に見惚れている自分がいることにナルは気付いた。



 二人で歩き出したが、しばらくはぎこちなく時間が過ぎた。何度がお互いにちらと寄せた視線が合い、反らす、ということがあった。

 灰色の頭巾しかり、その脅威が去ったとは限らない。敵の存在、その手段もわからないのだ。常に気を引き締めておくべきだろう、と肝に銘ずる。

ナルは手慰みに弓の張りを確かめた。緊張して心がそわそわしているのは命を狙われたからだけではないようだ。隣を歩く彼女を不躾にならないように気をつけながら観察する。

 外套の落ち着きのある深い緑色は彼女によく似合う。頭巾の縁には見たことのない模様が刺繍されていた。素材も薄く丁寧に鞣された革のようだ。外套の内には革の胸当てと腰部を守るように革の太いベルト。長衣は布地を何枚も重ねて格子状にステッチを施し強度をあげたもので、動きやすいように両脇にスリットが入っている。ズボンも揃いの仕立てのようだ。長靴も足に沿うよい革でこちらにも前面に入った二本の縫い目部分に細かい模様の刺繍が入っている。どれをとっても派手さはないが質に拘った良い品のようで、シンシアの出自はかなり裕福なのではないだろうか。

女神像はどんな衣装だったろうか。ゆったりとした襞がたくさんある足先まで隠れる衣だったような。

ナルは遠い記憶のようになった赤い岩と女神像に思いを馳せた。


 ジェフメルを迎えに行く、と次の目的を告げたフローギールはその前に一度カーヤオースの町に行きたいと言った。

 本来は人などの生き物を象らない神である彼女は、まだ人の肉体というものに慣れていないようで、感情というものもあまり理解できないらしい。それでも肉体そのものか、その記憶なのか、衝動に引っ張られ気分の斑があらわれてしまうようで、先程取り乱したことにも、それで恥じ入り顔が赤く熱くなっていることにも困惑しているようだ。

その姿はひたすらに可愛らしい少女にしか見えない。小柄さとつぶらな瞳でつい少女と思ってしまうが女性として扱うべきだろうと考えをあらためた。いや、それとも女神として最上級の敬意をもって接するべきなのだろうか。

一向に紅潮した顔が回復しない彼女を慮って、ナルは自分が出会ったジェフメルと思われる人物は背の曲がった老人だったと話すと、彼女は目を丸くして「どうしてそんな姿に?」と驚いていた。そんな様子も人間らしい。

「言葉というのは面白いわね。でも伝えるのは難しいわ」

彼女から知らされるべきことはもっとたくさんあるのかもしれない。それもジェフメルに会えば解消するのだろうか。あの老人の語り草から期待はできないかも、とナルは自分に言い聞かせておいた。

森の中を進むうち、フローギールも幾分落ち着いたようだ。今は穏やかな表情をしている。特に会話がなくとも気にしない様子で、お喋り上手とは言い難いナルも安心していた。



 間もなく、僅かな音にナルは足を止め耳を澄ました。微かに低く威嚇音のような獣の声がする。

地面に耳を着け更に確認すると、おそらく複数人の足音とそれとは別にずんっと重さのありそうな音が聞き取れた。

「少し警戒しておいた方がいいかも」

フローギールはこくんと首肯した。

 小川に達するとあらぬはずの黒くて大きな獣が見えた。熊だ。

その熊と対峙する槍を構えた鎧姿の者。

「なんでこんなところに?」

まだ若いようで体格は小さめだ。親元を巣立ったばかりで縄張り争いに敗れ追いやられたのか、冬籠もりのための栄養が充分に蓄えられず餌を求めてきたのか、山を下りてここまで来てしまったようだ。しかも罠にでも嵌まったのか足に怪我を負っている。手負いの獣は気が荒く危険だ。

歯の隙間から唸り声を漏らし、威嚇のために二足で立ち上がった熊は前足を振りかぶった。その巨体を前に及び腰で槍を構えるのがやっとの兵を鋭い爪が襲った。

「屈んでっ!」

ナルはわざと矢を掠めさせ熊の注意を引いた。

このまま山へは帰らないだろう。仮に帰れたとして、あの怪我では冬は越せないに違いない…。ナルはぐっと歯を食いしばり無我夢中で矢を継いだ。

前足、次いで右目を狙ったが僅かに逸れた。それでも出血が視界を奪う。熊はギャッと悲鳴を上げ、身を怯ませたがそれでも本能なのか兵に近付こうとする。負傷した兵を仲間が引き離そうとしているが、恐怖のためか背中から両脇に入れた腕がするっとほどけそうになっていた。

相手はこちらだと誘うようにまた矢を掠めさせる。体を震わせ、グルルッと威嚇の唸りを発している。低音がビリビリと腹に響く。

目を眇め狙いを集中させ、左目を射貫いた、続きざまに残りの四肢、絶命には至らない深さであろうとも胸に何本目かを…、そこで矢が尽きた。

ギリッと奥歯を噛む。ナルは腰に挿したナイフを探った。それくらいしか武器がない。

しばらくナルと睨み合った熊は体力を失ったのか、やがてぐったりと地に伏した。河原の小石がジャリッと音をたてた。

「止めを!」

フローギールの声にはっとした兵が倒れた熊に槍を刺した。

「倒したのね」

責められているようでナルは項垂れて弓を力なく下ろした。膝を折って頭を垂れ、胸の前で手を組み、糧への祈りを捧げる。

「倒したというのに浮かない顔ね」

先程の声音とは全く違う響きにナルはフローギールの顔を窺った。怜悧な瞳がじっと見つめている。理解できない、という表情をしている彼女にナルはなんとも答えられなかった。


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