一、冬一番の風 ③
祭りは無事に行われることになった。
突風はすぐにおさまり、さほど恐ろしいものではなかったようだ。
ナルが倒れた様を見ていた者は賞賛したり、からかったり、たんこぶに触れてみたりと、なかなかにいたたまれない。
父から顛末を聞いたであろう母と妹が困り顔でその様子を見ていた。
そんなやり取りの中、広場は賑やかになっていった。
村で保存している種火が小枝に移しとられ、丁寧に組まれた薪の中におとされた。火は一度勢いを失い、消えてしまうかと思われたが、やがて真っ赤な炎が揺らめきだした。
ラーナンの導きのもと、祭壇の供物に御神酒が加えられ、祈りが捧げられた。それから冬のお守りとなるひとつの木の実が一人一人に手渡され、短い言葉がかけられる。
成人した男子を置いて他の者はそれを受け取ると一旦家に帰っていく。いよいよ成人の儀が始まるのだ。
この祭りを終えると冬の到来だ。祭り日は夢見師ラーナンにより〔冬一番の風〕の吹く日が予想され、その三日前に行われることとなっている。冬が来て一月半程は狩りにも出られるが〔二番目の風〕が吹き荒れた後の一月はそれこそ身動きがとれなくなる。大雪に閉ざされ、人も熊のように冬眠したくなる。その間は細工ものなど手作業をして春を待つ。
「今年の冬は昨年以上に厳しくなりそうだって。年々祭り日は早くなる。寒さも増す。どうかしちまったのかね」
ナルの横でカイがぼんやりと空を仰いだ。問いかけることにより自分の中の答えを引き出そうとするような呟きだった。
ドンッと地に響く太鼓の音。それを合図に水を打ったように静まりかえる。
テントからラーナンに続き、ルールシラの御言葉を賜ったネムが出てきて、祭壇と御神火の間に歩を進めた。
ラーナンが静かに頷くと引き寄せられるようにネムが一歩前に出る。
夢見師の前に立つネム。顔は緊張に張り裂けそうなくらいに引き締まり、目も必要以上に強く伏せられていた。
なんだ、結構たくましいじゃないか、ナルは目を丸くした。
二年前のこの時、彼の成長を温かく見守ってくれていた者も、同じことを思ってくれたのだろうか。
御神火を挟んで、男達は二人の姿をじっと見守り、呼吸さえも抑えて、音ひとつたてようとする者はない。こちら側、儀式を見届ける立場で臨むのは初めてだった。
ラーナンの仰々しい声が低く、高く、調べを紡ぐ。
ネムの額の前で小さなベルが振られる。その澄んだ音色に二年前の記憶が鮮明に引き寄せられた。
薄く閉じた目をゆるやかな灯火が刺激していた。魔法をかけられたようにナルの体からは力が抜かれ、彼はただ何者かの力に支えられていた。見えない偉大なるものをこれ程はっきりと感じたことはなかった。
瞼の裏の暗闇、静寂の中で頭に響いてくるベルの音、背を照らす御神火の暖。我々の暮らしを見守り支えてくれる神々…。
ナルは多くの神の名を知っている。村の皆がそうであるように。隣人を見聞きするように、ちょっとした出来事に出会うたびに彼らの名が浮かぶ。
それらの神々と――下世話な言い方をすれば自然現象を神格化したものと――共に生きてきたし、これからもそうだろう。
足が地に着いている安堵感、大地は人を受け止めてくれる。こうして立っていられるのは自分の意思ともうひとつ、大地が力を貸してくれているから。
身体を包む空、何故人は天空を仰ぐのか。そこには何気ない幸福とお告げと尽きて止まない憧れがある。
杯に水が酌まれ、夢見師の手により与えられる。水は我々の生活を潤すもの、身体を造るもの。
不意に体に力が加えられ半回転し、御神火を目の前にする。焼くような炎の熱が顔をさす。
頭がぼんやりし始めたが夢見師の祝詞は絶え間なく続く。
火は太古の昔から人々の行いを見つめてきた。時に厳しく、時に優しく。
再び向き直るとすぐに葉擦れの音が耳に入り、微風が顔を撫でた。夢見師が手にするのは力強さや丈夫の象徴木の小枝だ。
風が絡んでいく。我々の生活の基盤である森を抜け、畑の上を渡り、豊かさを運ぶもの、それが風。
風は大気よりも繊細で大きな存在。
どれも欠かせないもの。そしてどれかが極めて強くてもならないし、弱くてもならない。
ナルはふと目を伏せた。あの儀式での感覚が、支えてくれる力の数々が甦ってくるような気がして。
だが緊張がほどけたのか、ぐらりと体が揺れ、隣にいたカイに咄嗟に支えられ、揺れはがくりとした衝撃に変わった。
ナルは慌てて目を開け、御神火を見た。赤い光が目を刺激し、頭が冴えてくる。
眠れていないことも、頭を打ったことも知るカイは、無言ながら心配そうな目を向けてくる。ナルは「大丈夫」と伝えようと、少しだけ口角を上げて頷いた。
儀式を終えると恥ずかしそうに俯くネムに男達が次々に祝意を述べている。様々な知らせを告げる鐘の音が村中に響くと、家々の戸が開き、再び人々が集いだした。この後は互いにこの年を讃え合う宴となる。それが何よりも楽しみなのだ。
ナルはカイに礼を述べ、祭りの調べが奏でられる中、帰路についた。
外の騒がしさと裏腹に家の中は閑静としていた。ギィ、バタンという戸の開閉音が不気味なほど。
「あら、帰ってきちゃったの? もっとゆっくりしてくれば良かったのに」
閉鎖的な雰囲気を壊すように努めて明るい声で母が出迎えた。
「ちょっと頭が痛くて」
しんみりしないようにナルも声音に気を付け、崩れるように椅子に腰掛けた。ひとつひとつの動作が重くてぎこちなく、自分でもおかしい。
母は急に忙しそうに動きだした。それも、無理に仕事をつくっているようだ。自分に気遣って祭りに行かないつもりであろうことに気付くと、ナルは立ち上がって母の手から笊を取り上げた。
「家でくすぶってないで広場へ行ってくれ。父さんも待ってる」
次いで部屋から顔を出した妹にその矛先を向ける。
「イラも」母にちらっと目をやってから声を抑えて耳元で囁く「カイが待ちくたびれて石にならないうちにな」
イラはかっと顔を紅潮させて、腕を振り上げた。結い上げたその髪には薄紫色の小花が数輪飾られている。やや萎れかけてはいるがとても愛らしい。
後ろめたそうにする両者の背を押して追い出すように家から出した。
「落ち着いたら僕も行くし。昼間に役目を終えているからね」
戸の脇で控えめに手を振るナルを二人は何度か振り返り、家を後にした。パタンと音をたてて戸を閉めると家の中は急に暗く、寒くなったように感じられた。
静寂と体の痛みで意識が朦朧としはじめる。眠りたくはないが夢の中の翠の少女が手招くように、瞼はずんっと重くなり、瞬きを繰り返しても一向に冴えない。睡魔の魔力は強くなる一方。
無理に外に注意を向けてみると、お馴染みの調べが高音の部分だけかろうじて聞こえてくる。頭をぶんぶん振り、頬をぱしぱしと叩く。退屈な時間はのんびりと過ぎ、星のさざめきは強くなっていく…。
ナルは夢を見ていた。
赤い海だ。
ただいつもと違い、他に人がいる。姿はないが悲鳴があちこちから聞こえる。辺りを見回しても、いつもと同じく強い赤い光があるだけで、何も見えはしない。
だが、悲鳴はどんどん高く、多くなる。
男の声も、女の声も、赤子の泣き声も…。
耳を塞いで頭を振った。
熱い。皮膚が焼ける、体が燃える。熱い…。
炎だ。赤い海はやはり炎の海だった。
メラメラパチパチ。波のように揺らめく橙色の炎。
心臓が胸を突き破って出てきそうだ。
空気が変わる。ひととき冷やりとした涼しさが抜け、炎の勢いが弱まる。
彼女だ。あの少女がいる。今まさに目を開けようとしている。
「やめろ! 僕を呼ぶな!」
叫びも虚しく、目がうっすらと開かれた。その翠の光に抗うように炎の勢力が再び増した。
「やめろっ!」
叫び声とともにナルは目を覚ました。椅子の背に深くもたれて居眠りをしてしまったらしい。
家の中は相変わらずしんとしている。パチパチという木の爆ぜる音を除いては音などないかのようだ。
彼はふうっと息を吐いた。汗がつつっと背を伝わり落ちる。
パチパチ?
おかしい、暖炉には火を入れていないし、竈にも火の気はない。
そっと耳を澄ますとまたパチパチという音が聞こえた。幻聴でもない。
御神火か? まさか! 音楽さえろくすっぽ聞こえないのに!
ナルは痛む体に鞭打って駆け出した。広場までの道のりが憎らしい。
息を切らして到着するとその中央では御神火が天まで焦がす勢いで燃えていた。一見なんともない、ただの炎だが、ナルにはそれが戦いを挑むようにニヤリと笑うのがわかった。
「逃げろ! みんな…早く!」
陽気な雰囲気の中に緊迫した声が響いた。奏でられる音楽が一瞬その調子を乱したが、止められることはなかった。
「どうしたの? 逃げろだなんて」
「頭を強く打ちすぎたんじゃないのか?」
起こるのは笑いとからかいばかりで誰もナルの真剣さなど感じ取ってはくれない。
「また悪夢でも見たのか」
カイも同じ、この奇妙な気配に気付いていない。
夢――。先程の夢のせいで錯覚をおこしているだけなのだろうか。それともこれも夢の一部なのか…。
「悪夢? 詳しく話してみい!」
ただ一人、ナルの話を誠として受け止めた者がいた。ラーナンだ。
テント内から飛び出して、ぼんやりしているナルの襟ぐりを引っ掴んだ。その老体のどこにこんな力があるのか、ナルは咳き込んでよろめき、答えられない。
祭りに浮かれた者たちはこの二人のやり取りなど気にもかけていなかった。一時場を沸かせたナルの叫びも、既に興味から外れていた。
勢いを失っていく炎に、誰かがまた薪をくべようとした。
「やめろっ!」
信じようとしないからといって黙ってはいられない。ナルはラーナンを振りほどき、火に駆け寄ろうとした。
その瞬間、炎はごおっと天に昇り、火柱が出来上がった。
村人たちはどよめいた。だが、動ける者は、ナルが言うように逃げ出す者はひとりとしていなかった。
今夜は祭り、この炎は神聖なる捧げ火。それが昇天する…。
「これは神の顕現だ」と誰もが思った。
神なわけがない。膝ががくがくと震える。
神なものか。神がこんなにも恐怖を与えるものか!
少なくともナルの知っている神は違っていた。
火柱の先端、天高く飛翔した竜の頭は、雲の下に広がる村をじろじろと眺めていた。その視線を感じ取り、ナルは蛇に睨まれた蛙の如く硬直していた。だらだらと脂汗がにじみ出る。
竜はニヤリと笑うと再び上昇し、幾股にも分かれて、それぞれの竜頭が村のあちこちに襲いかかった。
その時になって初めて人々は危機を感じ、てんでばらばらに逃げ出した。
「やめろっ!」
声を聞きとげた多頭竜がピクリと止まり、そのうちの一対の目がナルを睨め付ける。グワッと口を開け、瞬きの間に迫り、そのままナルを丸吞みにした。
炎で包み込まれたにも関わらず、不思議と熱くはなかった。しかし耐え忍ぶには及ばない苦しみはある。体はギリギリと締め付けられ、血は蒸発する。
抵抗しないナルをペッと吐き出すように竜頭は離れていった。解き放たれたナルはがくりと地に伏した。
炎は村の周囲を取り囲み、じわじわと人を追いやった。村から逃げ出せた者はなく、炎のない場を求めてバタバタと駆け回っている。
ナルはひどく後悔していた。何故今まであの夢を放っておいたのか。あれ程しきりにルールシラが危険を教えてくれていたのに…。
ごめんなさい、頭に浮かんだのはその一言だった。
「ナル!」父の呼ぶ声がする。
「ナル!」母が呼ぶ声がする。
悲鳴がこだまして地響きとなり、森の住人や近くの村に不安を与えたことだろう。
地に伏している感覚さえなくし、体は浮いているように軽い。しかし空気は重く圧迫し、熱風は髪を引き、体に絡みついていく。
宵の濃紺の空が紅に染め上げられている。赤い世界だった。
空気が揺れた。炎が揺れた…。
額に冷たい感触があり、夢現の状態が次第にはっきりとしてきた。
濡れた手がナルの頬を優しく撫でた。白い手が残像のように目に霞む。ナルはその手を握ろうとしたが、虚しく空を掴んだだけだった。うっすらと目を開けたが辺りがまだ暗いのを感じ取ると、眠たげに目を伏せ、ごろりと寝返りをうつ。パサリと何かが額から落ちた。
「まだ夜明け前か。またあの夢を見るなんて…。だんだんと現実味を帯びてくるな」
夢!
ナルははっとして目を開けた。
夢なものか、夢ならこのだるさ、火傷のようなヒリヒリした痛みは何だと言うのだ!
ずるずると体を引き摺るにつれ、ジャリジャリと小石の擦れ合う音がする。下は岩のように固い地面だ。どうやらここは洞窟の中らしい。奥から差し込む微かな光を頼りに、まだ暗さに慣れきっていない目で、片手を岩壁に当てながらゆっくり進んでいく。
どれくらい歩いた後か、光の漏れ方に見覚えのある場所に行き当たった。
ここは赤い岩の内側である。
ナルは歩を速めた。弱い光を受けてぼんやり浮かぶ白い像。
先程の白い手を思い出し、額に手を当てた。明らかに汗ではなく、膜を張った程度に濡れている。女神像の手に目を移し、ナルは頭を振った。そのようなことがあるはずがない。
恐る恐る、迎入れるようにやわらかく広げた彼女の手に触れてみる。手は冷たく、露がついていた。
「あ…女神…様…」
突然、ボウッという音とともに背後に異様な気配を感じ、ナルは振り返った。蝋の溶ける嫌な臭いが鼻に染みる。
ぼんやりとした熱い明かり。
「やっと目を覚ましたな」
火を灯した短い蝋燭を手にした男がそこにいた。