一、冬一番の風 ②
ナルは不快な顔をした。岩の色に、また垂れてきた前髪の色に、炎の幻を見る。
「ああ、女神よ…」両手の中に埋めた顔を上げて、縋るような眼差しを足下にある岩と岩の隙間に投げる。何者をも拒絶する昏黒とした闇と静寂の支配の中に救いの光がありはしないか、と。
無論、何も見えやしないが、この中で出会える素晴らしいものならば良く知っている。体が大きくなってしまったことが、この隙間を潜れなくなってしまったことが残念でならない。
奥で眠る一体の石像、少し黄色がかった白色のすべすべした石で造られた女性の像。
美しかった、いや、美しい。
だが手の届きそうにない気高さは備えていない。
ナルたちには偶像崇拝の習慣はないにも関わらず、不思議なことに、この像は森と大地の女神フローギールだと直感的に思った。
そして、信じて疑わなかった。
彼女は誰に祀られることもなく、そのあたたかな微笑みを向ける相手もなく、ずっとずっとここで息を静めていたのだ。
「女神よ。僕は何らかの罰に服すべき身の上なのでしょうか」
言葉はふいと口にのぼった。
風が吹き、汗に湿った肌を冷やす。ナルは身震いをした。晩秋にしては柔らかな風だ。
罪などは犯してはいないのだ、そしてこの夢は今限りだったのだ、と自分を慰めることにした。どうしても自分が何かをしでかしたとは思い至らないのだ。それではなおのこと救いようがないな、ナルは一人苦笑した。
かなり心が軽くなっていた。やはりここに来て正解だった。
何故だろう、ここに来ると、薬をつけた後の傷口のように、思い悩んでいた苦しみが和らぐのは。そしていろいろと考えさせられるのは。
ここに初めて訪れた冒険談を帰途について早速話した時、誰も真剣には取り合ってくれなかった。挙げ句の果てには遠出したことでひどく叱られた。
嘘をついたということで叱られたのだとしても、そう思うことにしたのだ。
自慢したくてたまらない気持ち、足蹴にされた悔しさ。子供の行ける範囲など大したものではない。その中に立派な遺跡があるとしたら、何故もっと早くに他の者が見つけていなかったのか、今でなら信じようとしなかった大人達の気持ちもわかる。
ならば何故ナルは今ここにいるのだろう。ナルが目にしているものは何だと言うのだろう。
だが、彼とてこの美しい女神が無理矢理に外へ出されてしまうのでは心が痛む。
それならこれでいい、素敵な秘密を持つようで楽しいではないか。ナルはそっと目を伏せた。
女神のあの微笑みを思い出すたびに肋骨の下に奇妙な痛みが忍び寄ってくる。今日は何時になくこの痛みが激しく、あと一寸でも長くここにいようものならば、それは堪え難いものになろうとしていた。
ああ、そうか…これか。
「やはり独り占めはいけないかな」これが神が責めている理由か。
ナルは苦笑して赤い岩に塞がれた女神の洞を後にした。
さて、どうしたものだろう。ナルはカイの傍を離れる言い訳にした茸を採りつつ、ため息をついた。
「なんて言おうかな…」
この際、兎で我慢して貰おうか。
時間は刻一刻と迫る。兎ではカイは納得しないだろうな。そうだとしても、「まぁ、いいか」気を取り直して歩調を速めた時だった。
叫び声。動物の鳴き声ではない、勿論冗談などでも。
「カイ!」
蹴散らされた小さな花びらが舞っている。獰猛な唸り声。黄色い牙を剥き出した口から涎がだらりと落ちる。大きくて、黒くて、立派な猪。
一体、居眠りでもしていたのかカイには身を躱す余裕しかなかった。一定の距離を置き、両者は睨み合いをしている。割って入ったナルの存在が気に食わないらしい。
猪は恐るべき瞬発力をみせた。止まることは勿論のこと方向を反らすこともせず、真っ直ぐに体ごとナルにぶつかってくる。
その堂々とした巨体を目にした時に巡った様々な思いが消し飛んだ。ナルはただ矢を継いだ。相手の動きを計算し、急所に狙いを定めていく。
一本目は厚い皮膚に弾かれた。焦りすぎたらしい。
猪は勢いよく地を蹴る。飛んだ、そう思える脚力。二本目、矢は前足の腋の下に食い込み、続いて三本目が容赦なく心臓を貫いた。猪は減速していき、身を捻ったナルの腕に鼻面を掠らせて、どうと地面に落ちた。
身じろぎするその姿にはかつてない弱さと死の恐怖が漲っていた。抵抗しようとも血は流れを失い、最後に一度痙攣すると、それっきり動かなくなった。
「やんなっちまうぜ」
カイが服の埃を払いながら、複数の意味を含めてそう呟いた。その声に、いまだ緊張に茫然としていたナルは正気に返った。
やんなっちまう、カイは再び心の中で呟いた。
せっかく美しかったのに、失われるのにはまだ早かったはずなのに花は目茶苦茶にされてしまった。彼女の笑顔もこれでは見られまい。
ナルはいい友達だ。喧嘩をした時ですら嫌いだとは感じなかったが――ナルがどう思っているかはともかく――カイにとっては好敵手でもあった。
今回この大役を任されたのが自分ではなく、何故ナルなのか、心中面白くはなかった。いつも一緒にいるナルの実力は誰よりも良く知っている。その弓の張りの強さも、定めの正確さも。それでも嫉妬心から、大した獲物が捕れなければいい、とも思ってしまった。
しかしナルはカイの危機を救い、見事猪も倒した。その腕前をこれでもかと見せつけられたのでは、認めざるを得ない。
カイは一度吐息を漏らし、その後はいつものように笑った。
「まあ、これで一件落着だろ」
今日の村祭りでは、冬を迎えるにあたって秋の収穫を森と大地の女神フローギールに感謝し、また無事に冬を越せるように神々に願う。
それともうひとつ大切な儀式がある。成人の儀だ。
今日この祭りにおいて、新しく成人の男子として迎入れられる若者に祭司ラーナンから忠告がなされるのだ。もともと小さな村であるために該当者は少なく、二年ぶりとなる。その分、今年の準備には熱が入っている。
冬を越した春になれば、畑へ豊穣の祈りと共に優雅で華やかな女子の成人の儀がある。
祭司、今のラーナンにあたる人物をこの村では夢見師とも呼ぶ。夢見師は己の夢の中で、夢を司る神ルールシラの声を聴き、皆に伝える役目だ。その御声は予言でもあり、教えでもあり、愛でもある。そして儀式における忠告も神の御言葉。
ルールシラの声を聴くことが出来るのは何も夢見師に限られているわけではない。ただラーナンのようにはいかず、そう滅多にはないようだ。もしもルールシラの声をはっきり聴くことが出来る者が現れ、その力がラーナンを凌ぐものとなった暁には、夢見師の座が譲られる。
ラーナンは翁だ。近頃、後継者のお告げがあり、祭りの場を借りてその者に修行に励むよう申し渡されるのではないかと専らの噂だ。
しかし、ナルは噂の類いに疎かった。この噂を知ったのも当日、今日になってからのこと、という具合だ。
「ナル!」
猪を祭壇に渡した後、二人は各々の家の方向に散った。準備に忙しい雰囲気の広場を抜けた頃、まだ少し甲高さが残る声に呼び止められた。この声の主、ネムは同年代ということで子供の頃から一緒にいることの多い弟分だ。
「ナル、何処に行っていたの?」
「森に」
ナルは短く返答した。
「そうか、今年はナルが指名されたんだっけ」
ネムとしても会話のきっかけが欲しかったのだろう。あまり気のない声色だ。
「いいなぁ、ナルは…」
「お前だって今年から狩りに行けるだろう?」
そう、ネムは今日の主役なのだ。儀式の話題になるのを待っていたようで、心配なのかそわそわと、何度もナルの顔を覗き込んだり、視線を遠くに外したりしている。
「ねぇ、ナルは儀式でなんて言われた? 神ルールシラはなんて仰っていたって?」
個人に贈られた御言葉について聞くのはあまり関心しないことだが、警戒心が強く神経質で、こんな小さな村の中ですら人見知りをするネムが、ナルを兄と慕っているからこその甘えだと知っているから、許してしまう。
そうだな…とナルは顎に手を当てて、思い返した。
「夢の神ルールシラの声を良く聴きし若者よ、と一言めに。それから…、それから特別難しいことは言われなかったな」
ネムはふうん、と不満そうな声を漏らしたきり、次の言葉をじっと待っている。仕方ない、軽く笑って吐息を漏らし、縷々と説明した。
それらはこの世に生を受けて以来、何度も耳にした言葉たち。良き態度、忠告や様々な教え、歴史…。勿論、聴くたびに重みがあり、決して軽んじてはいない。
特別なことを言われなかったのは、ラーナンがルールシラの声を聞きそびれたのでもなければ、感じ取れなかった訳でもない。ナルが抜きん出た運命を持っていないこと、道徳に背き悪しき行いを重ねてはいないことをよくよく表しているのだ。
ただ、奇妙に思われたのは最初の一言、『神ルールシラの声を私が代って語ろう』というのが決まり文句なのに、この時ばかりは違っていて戸惑いを覚えた。
戸惑いは緊張となり、儀式であることを改めて認識し、体ががちがちに強張った。しかし、それも徐々にほぐれていった。
「心配することはないよ。儀式といっても、いつも通りで」
ネムは納得したのか、元気に頷いた。「今度は狩りの骨を教えて。約束」と手を振り、準備のために走って行った。
「母さん、これ」
ナルはそう言って兎と茸を勝手口に置いた。
「まぁ、ありがとう。で、供え物はどうなったの?」
料理支度をしていた母は手を休めて、引き取りに来た。台所には妹のイラの姿もある。彼女は首だけ兄の方に向けて「おかえり」とにこりと微笑んだ。
「なんとかなったよ」
「意地が悪いのね。お楽しみってわけ? ナルが狩りが得意で本当に良かったわ。父さんは力持ちだけれど、狩りの腕前はいまいちだものね」
各々の家でも祭りの料理というものがある。ご馳走とまではいかないが、奮発はしているようだ。
この時期からは冬に向けて、保存食も作り始める。木の実を甘く煮詰めたり、日干ししたり、その技や味付けは親から子へと静かながらも確実に受け継がれていく。ここでもイラがなんとか覚え込もうと奮闘中のようだ。自室に向かおうとしたナルの目の前に、小さな皿を突き出した。
「お腹、空いちゃったでしょ」
ナルは黙って皿を受け取ると、一口でたいらげた。
「どう?」心配そうにイラはじっとナルの顔を見つめている。どんなに些細な表情の乱れも見逃すまい、というように。
「今日のはおいしくできたでしょ?」
いつものようにそう聞く妹に、ナルはわざと口元を歪めた。
「もおっ」
「こら、ふざけてないで。大丈夫、上達しているわよ」
母は小言じみたことを言いながらも、その口調はうきうきしていた。祭りは人の心をとらえ、和ますものらしい。
母はナルの折れ曲がっている襟に手を伸ばした。慌ててその手をはじき、自分で襟の乱れを正す。
「もうちょっとお洒落にならないと。今日、一緒にダンスを踊るお目当ての娘はいないの?」
「からかわないでくれ…」
母の言葉を冗談としか受け止めず、はぐらかすように笑うと、これ以上あれやこれやと言われる前にそそくさとその場を離れた。
ちらりと振り返ると、鍋の前で味見をして首を捻るイラの姿が視界を掠めた。冗談だとわかっていても「おいしい」と言ってもらえなければ気がかりなのだろうか。
質素というよりは何もない部屋、ナルは自室に入ると、ベッドにごろりと身を投げた。
日は西に傾きはじめ、薄暗い部屋にやわらかな陽射しを送り込む。気怠く目を伏せれば、西日の暖かさと、少々の疲れがすぐに眠りの深淵へと誘う。
すっと意識が遠のきかけた時、瞼の裏側に赤い炎が現れた。
目は一気に冴え、身体は痙攣を起こし、慌てて身を起こす。一瞬にして吹き出た額の汗を袖で無造作に拭い、手の平に顔を埋めた。
今眠ってしまったらまたあの夢を見る。今朝よりもずっと鮮明に――。
ゾクッとして首を振った。眠気を払おうと外へ出て、広場へと足を向けた。祭りの準備はもう完了しているようだ。中央には簡素な祭壇が設けられ、その真向かいには御神火のための薪が組まれている。そこにいるのはナルの父であった。
「父さん!」
「おう、ナルか。今年も賑やかになりそうだな」
ナルは不要になったと思われる柴や薪を拾い集め片付けだした。
「そうだ、見たぞ」
そう言って祭壇に並べられた供物を見やると、父はナルを肘でつついた。ナルはつい照れて俯いたが、チラと目を上げて父の顔を見ようとした、その時――
強風が突然に近付き、一気に吹き上げ、抱えた柴をさらおうとした。眇めた視界で祭壇の後方に設えたテントがグラリと揺れるのをとらえた。そこにはラーナンの姿があり、「危ない」と声が音となって喉から飛び出るより先に、ナルは駆け寄ってその身を庇った。テントの柱がナルを打ち付け布が覆い被さり、視界か、それとも意識かが、暗く落ちた…。
ナルは小さな木片か、千切れた水草のように漂っていた。
瞼を通して目を刺激する赤い光。赤い海だ。
はっとして、安らぎに満ちていた眠りから覚め、身体に力を入れた。
海といっても水があるわけではない。濡れていないし、冷たくもない。
ただ水に浸かっているかのように体は軽く、宙に浮き、重い空気が絡まっていく。
赤い光。目が眩むほどの赤い光。これは一体何だというんだ?
必死に体を捻り、腕を振り、足を前に出す。しかしそれは無駄な抵抗だった。波に逆らうように一向に進まない。
どきどきどき…と次第に心臓が高鳴りだし、その音は耳に、振動は喉に響き渡る。口が塩辛い。
嫌だ、嫌だ。頭に浮かぶのはそんな言葉ばかり。
ナルはきょろきょろと辺りを見回した。しかし何があるというわけではなく、あるのは赤い光のみ。そんなことは重々承知していた。
それでも虚空の中で彼の目が必死に捜し回っていたものが遂に現れようとしていた。破裂してしまうのではないかと思われる程に心臓がどくんっと大きくはねた。
背後に異様な気配を感じる。
彼女だ。あの翠の瞳の少女だ。
そう確信があっても振り返ることが出来ない。
心臓は尚その勢いを増す。
彼女の目が開かれる――――。
「ナル!」
「…あ…」
ナルは体を揺すられて目を覚ました。肩に手を置き、心配そうに凝視する父。
何か言おうとしたが頭は全く働かず、声は出ない。ぽかりと開けた口を閉じ、ゆっくりと辺りに目を馳せる。
砂利の上、組んだ薪、祭壇、テント…。ぽつりぽつりと頭に物事が浮かび始めた。
「ひどくうなされていた。具合はどうだ?」
彼は重怠い体をむくりと起こした。ずきりとした痛みが響いたが、怪我はたんこぶくらいのようだ。むしろ寝不足の方が重い。
「ラーナンは?」
「大丈夫だ。怪我もない」
ナルはほっと息を吐いた。
「どれくらいの時間寝ていた? 祭りは?」
ナルは広場の端に寝かされていた。テントも再び建てられ、祭壇も、組んだ薪も直されている。夕陽の朱がまぶしく、東には宵闇の藍が迫っている。これから急に暗くなるだろう。
広場には人々が集まり出している。
「問題ない」
父がナルの頭にごつい手を羽毛のように軽く置いたのに気付き、首をもたげてその顔を覗いた。父はひどく優しい目をしていた。
ナルはそっと目を閉じ、息を吐くようにこっそり笑った。