第5話 出会い
不格好な三日月の形をした大地、『キール大陸』。
側から見れば到底島としか思えないその大地は、なぜか大陸と呼ばれていた。
『キール大陸』の北東に存在する、森の奥深くに泉があった。
半径二十メートルもある泉の内側には、少しばかりの地面が残り、そこから一本の大きな木が伸びている。
森の中には凶暴な魔物が潜み、人々に牙を向ける。
不思議なことにその泉には、魔物は一切近づかなかった。
故にこの泉を『神聖な場所』と定めた、とある一族は王族を祭ったのである。
太陽が一番高く昇る時――昼過ぎのことだった。
泉の外側で、一人の少女がひっそりと泣いていた。
膝を地につけ、腰をかがめて、まるで何かに祈るように……。
小柄な体がより一層小さく見える。
半時ほど同じ姿勢でいると、少女は立ち上がり目に溜まった涙を手で払いのける。
「お父様、お母様……申し訳ありません。ヘルセントは……滅ぼさせはしません」
少女は何かが吹っ切れたように、泉に向かってにこっと笑った。
そして見つけた――泉の内側の、木の下に横たわる少年の姿を。
少女は「エール」と小さく唱えると、その背中に純白の翼が顕れる。翼を広げひと息に少年の前まで飛ぶと、片膝をついて少年をじっくりと観察する。
――とりあえず息はある。
黒く短い髪には砂をつけ、着ている藍色の衣服は所々擦り切れている。背負う剣は体の半分より長く、手に握っているのは白い花。
見たことない花だ。おまけに体中が傷だらけ。特に、指が酷かった。
――いつからここにいたの?
少なくとも自分が祈りを捧げる前にはいなかった。
いや、大切なのはそんなことではない。
少女は気づいていた。目の前に眠る少年から、魔力が微塵も感じられないことを。
魔力適性が著しく低い種族ーー人族かもしれない。
頭の片隅にはそんな考えが、少しばかりはあっただろう。
しかし、この地の人族は百年ほど前に絶滅したとされる種族。
生き残りがいることよりも、他種族の者が幻術魔法で化け、高度な隠蔽魔法で魔力を隠しているか、極めて魔力適性の低い同族、と考えた方が可能性が高い。
前者の場合だったら、そもそも魔力適正の高い魔族に二つも魔法をかけられる者はいるのだろうか?
いや、この大陸で生活している限り、そんな者はいなだろう。
外部からの侵入者ならどうだろうか?
となると、海竜の住む海を渡ってきたことになる。
それこそ不可能だ。
後者の場合だったら、『神聖な場所』であるこの泉に近寄るには、王族の承諾が必要になる。
ただでさえ、凶暴な魔獣が住む森を通らなければいけないうえに、王族の墓である泉しかない。
故に、この場所に訪れようと考えるのは、王族に縁のある者が年に数人程度しかいない。
それに、自分がこの泉向かった時には、承諾はおろか、申請すらされてなかった。
得体の知れない少年の処遇を考える。
現在、少女の国は他種族と戦争中だったため、ひと思いに殺してしまおうか、と結論付けるーーまだ誰の命も奪ったことのないこの手で……。
そのために今日、この場所を訪れた。
父と母に、そしてご先祖様に、戦うための勇気を貰いにきたのだ。
自分の腰に差してあった細剣を抜き、先端を少年の喉の前までゆっくりと持っていく。
表情を歪ませ、心の中で何度も「ごめんなさい」と言葉を繰り返した。
だが、少女にはどうしてもそれ以上細剣を前に押し出すことは出来なかった。
どさっと音をたて、その場にへたり込む。
――たった今、お父様とお母様に頑張るって、誓ったばかりなのになぁ。
あわよくば、今すぐにでも起きてくれたら、どんなに気持ちが楽になるだろうか。たとえそれが、善人だったとしても、悪人だったとしても。
その想いからか、座り込んだまま少年の頬をペチペチと叩いてみたり、指先で脇を突いてみたが一向に目覚める気配はない。
しかし、少年をこのまま放置してこの場を去ることはできない。
弱々しく立ち上がると、大きいな木に片手を当て目を瞑る。
掌と触れた樹皮の間に、限りなく白に近い青白い光が漏れ出した。
そして少女は言葉を紡いだ。
「お願い。力を貸して」
○
「あなたは何者なの?」
それは少女が放った最初の言葉だった。
カイトは思わず見惚れてしまったーーその容姿に。
厚みの薄い銀箔の鎧を纏い、その奥に秘めるだろう柔らかで華奢な体つき。腰には細身の剣を差し、肩のやや下まで伸びた髪は、月の光も相俟って透けるほどに金色に輝いていた。
整った顔に、少しばかり目尻の下がった瞳は瑠璃色に光っていた。
何よりは背中に携える、両手を広げたほどに大きい純白の翼。
いや、翼はカイトが目覚めたのを確認するや否や、突然顕れた、といった方が正しいだろう。
少女の視線は冷たく、真っ直ぐ目の前のカイトに向けられていた。
カイトのすぐ横では、時折ばちばちっと焚き火が音を立てる。
辺りはすっかり暗くなっているのに、少女の容姿がはっきりとわかるのは、この焚き火のおかげだろう。
それにしても、あの高さから落ちて生きているのは奇跡としか言えない。
自分の腕や足、体に異変がないが一通り見ると、次は落ちた崖を探すべく、空をきょろきょろと仰ぐが見えるのは綺麗な星ばかりだ。
――随分遠くまで運ばれたのかな。
他に目に映るものと言えば、生い茂る木々と泉くらいだが、初めて見る場所だ。
とはいえ、どんな仕掛けがあるのか分からないが、翼を生やす種族なんか聞いたことがない。
まるで魔法みたいで、ジルバードにも見せてやりたいものだ。
カイトはゆっくり立ち上がると、一歩二歩と足を進め少女との距離を詰める。
「俺の名前はカイト、ルボルグ山の西側にある人族の村の者だ。今回は命を救ってくれて、ありがとう」
深々と頭を下げた後に、握手を求めて右手を差し出した。
指の皮はぼろぼろで、所々血が固まっている。
嫌がられるかもしれないが、お礼には気持ちが大切だ。
少女はそんなカイトの行動をよそに、鼻で笑うかのようにクスリとだけ口角を上げる。
「ルボルグ山? そんな山なんかないわよ」
その言葉に一瞬固まってしまった。
「おいおい、この森をずっと西に行ったらあるだろ?」
「いーい! ないものはないの!」
少女は、相も変わらず冷たい視線のままカイトの目の前まで歩を進めると、顔をぐいっと近づけ、人差し指を立て、前後に振る。
「それよりあなた、本当に人族なの? こんなところに人族がいる方が驚きだわ」
言葉を繋げると、少女はプイッと横を向いた。
少女が何を言っているのか分からなかった。
今いる場所は、ルボルグ山の東に広がる大森林のどこかだ。
当然そこには人族たちも生活している。
もしや、少女は他所の土地からの移住民、または、流れ着いた旅の者なのだろうか。
「あんたはこの森に住んで長いのか?」
少女は困惑した表情を浮かべ、暫し何かを考えると、
「ちゃんとお家に住んでます!」
またそっぽを向いてしまった。
「森守族や妖精族じゃないんだし、当たり前じゃない」
小さい唇を動かし、少女は独り言のように呟いた。
つまり、どういうことだ?
お家に住んでいる。私は旅の者ではありませんよ、と伝えたいのかな。
それなら――。
「あ、えーと……人族と魔族の区別、つきますか?」
片言になってしまった。
内容が内容なだけに、相手に不快な思いさせてしまうかもしれない。
「あなた、さっきから私をバカにしてる?」
案の定、だ。
とはいえ人族と魔族は、外見で見分けるのは至難の業だ。
違う点があるとしたら、カイトが知る限り、流れている血、くらいなものだろうか。
「いや、決してバカになんか――」
「――してるじゃない!」
泉の水面が揺れるほどの大声だった。
「あなたにはこの翼が見えないの! それともあなたが、人族の村に住む魔族だって言いたいのかしら?」
少女は捲し立てるように言った。
響いた声は、あたり一面に吸い込まれるように消える。
その後に訪れるのは沈黙だ。
少女は眉を寄せ、睨むようにカイトを見ている。目尻にキラキラと光る、涙を溜めて。
おそらく、少女は怒るのは得意ではないのだろう。いや、そもそも好きではないのかもしれない。
その少女の必死の訴えが、カイトにはどうしても分からなかった。
「ごめん。あんたの言っていることが、どうしても分からないんだ。落ち着いて話がしたい」
腰を曲げて、頭を下げた。
「そこまでだよ。セラの娘」
突然響きわたった幼子さながらの声に、ぎくりと心臓が縮む。ゆっくりと顔を上げ、恐る恐る周りを見渡した。
そして見つけたーー暗い森に不似合いに浮かぶ、光な玉を。
頭ほどの大きさのそれは、眩く黄色に光り、ふわりふわりとゆっくり上下に動いていた。
「こ……これは……?」
喉の奥からやっと言葉を絞り出すと、右手をゆっくりと、光りの玉に伸ばした。
すると光の玉は、すごい速さで回転を始めた。
思わず手を引っ込める。
次の瞬間、まるで纏っていた光を弾き飛ばすようにパンっと割れる。
中から姿を現したのは、蝶のような羽を持つ小人だった。
透けるように、虹色に輝く羽に魅入ってしまう。
「驚かせてすまない。ボクは妖精族のキャロラインだ。気軽にキャロルって呼んでおくれ」
硬い口調で、子供のような声で言った。
淡い緑色のドレスを着て、伸びた髪はくすんだ緑色、丸く大きい瞳は深緑色をしている。
まるで、森そのものを表しているようだ。
「妖精族って……ほんとにいたんだな」
率直な感想だった。
童話や物語の中でしか、聞いたことがなかったからだ。
キャロラインはあっはっはと声を出して笑うと、後ろを振り向き、視線を少女に送る。
「セラの娘、彼に害意はないよ。彼の存在に、ボクは非常に驚いている。反対に残念な気持ちもあるけどね」
「キャロルがそう言うなら間違いないんでしょ」
少女は溜まった涙を指で払う。
カイトには、少女に確認しておきたいことがあった。
「なぁ、あんたが崖から落ちた俺を助けてくれたんだよな?」
「そんなの知らないわよ。あなたはあの木の下で倒れていた、それだけよ」
泉の真ん中に生える木を指で示すと、少女は答えた。
「あの高さから落ちたんだ、あそこで寝てたなんかない!」
脳裏に先ほどの落下を再生すると、身をぶるりとさせ頭を振る。しまいには頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「本当は俺は落ちて死んで……はっ、そうか! 死界か……妖精族やら翼の生えた種族なんかおかしいと思ったんだ。あなた様方はもしかして……死界の番人とやらでは?」
一人で妙に納得すると、顔だけ上げて少女に尋ねる。
「そんなにお望みならば死界ユドラに送って差し上げても?」
少女は再び眉を寄せ、金属音を響かせて、腰から細身の剣を抜こうとした時だった。
「まぁまぁまぁ、とりあえず焚き火でも囲んでゆっくり話さないかい?」
キャロラインは片目を瞑って、優しく言った。