彼女の日記3
6月20日
彼の様子もかなり安定してきた。
彼が目を覚ましてから、わからないことだらけで困惑し、精神的に苦しそうな時期もあったが無事心身ともに健康なまま今日を迎えられた。私にとってはそれが1番嬉しい。
彼とはかなり仲良くなった。何しろお互い暇なのだ。検査と食事、その他生きて行くための生理的な時間を除けば私たちは何もすることがない。テレビや雑誌、新聞もないこの病室では、紙に絵を描くくらいしかすることがない。それと記録付け。彼は集中力があまり続かないのか、よく私に話しかけた。
私の名前や出身、いつからここにいるのか、何の病気なのか…等々。
彼は自分から話せることが何もない。記憶がないから。だから私の話を聞きたがったが、私も彼のような境遇でこの病院にいる。彼よりは目覚めた後の記憶が多いが。
しかし記憶といってもただ単調に繰り返されるだけの面白みのない記憶だ。だから結局はこの病院での退屈な日常をそのまま彼に向かって垂れ流しているだけだが、それでも彼は嬉しそうだった。
次第に仲良くなって、彼はまるで昔から知り合いだったようだと笑った。君といるとすごく楽しいとも言った。彼の笑顔が解けていく。私は何と言えばいいのかわからなかった。
7月14日
今日は機嫌が良い。正直嬉しかったのだ。今日は私の誕生日だ。正確には医師が記憶のない私を慰めるため誕生日と決めた日だが、それでも私が生まれ落ちたからには、このような日が必ず存在する。もしかすると、それは本当に今日かもしれない。
彼とは5月に誕生日について一度話したことがある。彼は自分の誕生日がわからないことに少し落胆していたが、自分よりも他の人の誕生日が好きだといった。どうやらサプライズが好きらしい。そういうところは全く変わっていないから困る。
そして今日。いつも通り私の検査が終わり、機械漬けの毎日から自由になれる時間がやってくると、彼が立ち上がり、行こう、と言って私の手を引いた。
この病院では決められた時間以外に外出することは禁止されている。看護師に迷惑をかけるからだめだと言ったが、こっそり行けば大丈夫。すぐ戻ると言って、彼は強引に私を連れ出した。病院の屋上である。
この病院の屋上には、ガーデンスペースのようなものがあって、それこそ外の景色は転落防止の高い塀で見えないが、中は緑が生い茂っていてまるで植物園である。夜になりたての冷たい空気がぶわっと、私の首筋を通り抜ける。それは私の髪を御構い無しに乱した。
夜だ。
夜は好きだ。でも夜になりきっていない夜は嫌いだ。薄っすら残った赤色を見ると、本当に太陽が出ていたんだと落胆する。太陽の下で散歩できればどれだけいいだろう。走り回れたらどれだけいいだろう。他の人間は毎日のように、こんな事を思い描く必要も無いほど当たり前に、陽の光を浴びて生きている。なのに、私は太陽が出ている間いつも白い病室の中だ。
そんな事を考えながら突っ立っていると、どうしたの?と彼が笑った。
とりあえず何でもないと答えて気を紛らわせる。
あっ、くる。
彼はそう言うと、私の手を強く引いて屋上の真ん中に出た。この屋上の中央だけは大きな木がなく、ぽっかり穴が空いている。まるで顕微鏡。上から覗かれているみたいだ。木が茂っているこの場所ではあまりにも唐突な空っぽが、私たちの頭上に広がった。すると、そこからきらきらと、無数の星が落ちてくるのが見えた。
流れ星だ。
彼は満面の笑みでこちらを見た。これを見せたかったと言った。
この病院では新聞もテレビも雑誌もパソコンも、情報を得られるようなものは何もない。
なぜわかった?と聞いたら、
綺麗でしょ?今日はここに来なきゃいけないって気がしてたんだ。君今日誕生日なんでしょう?ラッキーだね。5分くらい前に病室から僕が君の手を引いていく姿が見えたんだ。不思議と嫌な感じがしなくて何かと思ったらまさかこんなサプライズだったとはね。
とまた笑った。
彼はこの流れ星の景色をを直感で感じたのだという。後から聞くと、目が覚めてからこんなことばかりらしい。予知能力がこんな形で生かせるなんてね、と笑った。
その時は少し恥ずかしくて素直に言えなかったが、私は嬉しかった。彼が誕生日を覚えてくれていたこと。こんな景色を見させてくれたこと。何より彼が順調だったこと。
来年もこんな日が過ごせたらいいと思った。