プロローグ
男は必死で幌馬車を走らせていた。東の空は既に薄暗く、西は茜色に染まっている。急いで山を越えなければ、すぐに夜が来てしまうだろう。
男は商人だった。自らの町では布や織物を扱った店を営んでいる。今は山向こうの町へと商品の買い付けに行った、その帰り道である。商談は上々、荷台には色とりどりの商品に混じって、家で待つ婚約者への土産がたっぷりと積んである。
ただ、予定よりも時間がかかってしまい、彼女の二十歳の誕生日に間に合わせることができなかったことだけが気がかりだった。彼女は怒っているだろうか――どうにかこの土産で機嫌を直してくれることを願いながら、男は更に馬を走らせた。
「しかし、もう春なのに……寒いな」
麓に近付いてから、やけに冷え込んできた。日が暮れつつある事を差し引いても、ここまで急激な気温の低下は予想をしていなかった。山にかかる霧のせいだろうか。
隣町を出た時には太陽が燦々と照っていたため、薄着だった男は一度馬車を止めた。後ろの荷物から外套を取り出す為だ。時間は惜しいが、体調を崩しては目も当てられない。
御者台から降り、後ろへと廻ろうとした男は、そこで唖然として立ち止まった。
「これは……まさか」
雪が、降っていた。温暖なこの地域では、真冬でも滅多に降ることがないはずの。商人である男も数回しか見たことはない。
しかも、はらはらと降り始めた雪は、急激に強まり、あっという間に吹雪になった。
降りたまま呆気に取られていた男は、そのせいで凶事の気配を察することができなかった。
吹雪の向こう、巨大な生き物が男のことを狙っている気配を。幌馬車に繋がれた馬たちが、本能的に危険を感じ取り、空に嘶く。
『……レ……ドモ……』
「っ!?」
『……立チ去レ……薄汚イ人間ドモガ……』
背後から怨嗟に満ちた声が聞こえたと同時、男は雪が降り積もる地面へと突き倒されていた。目の前が酷く霞み、頭を早鐘が打っているかのように痛み、息が荒くなる。浮かぶのは、何が起きたのかという疑問と、早く帰らなければという焦燥。
力の入らない身体を懸命に動かし、男は立ち上がろうともがいた。しかし、実際には指先ひとつ動いていない。男はそれに気が付かず、ただただ足掻き――。
――帰らなきゃ、もっと怒られちまうな……いつも心配ばかりかけて……。
いつの間にか一面を覆っていたはずの雪は跡形もなく消え去っていた。