【懐中少女】
夕焼けの橙色の光が部屋の中に差し込んでくる頃。
ぼくが働く時計屋の「時間堂」は閉店の時間を迎えていた。
「今日も、お客さんは一人も来なかったな」
カウンターで肘を付いていたぼくは立ちあがり、すっかり凝り固まった筋肉をほぐすように体を大きく伸ばした。
店を閉める準備を早速始めようと、カウンター裏の小さな工房のような部屋を覗く。
そこでは退屈のためか、または心地よい日光の温度のためにテーブルに突っ伏して寝てしまっている、この時間堂の店主である「時爺」が居た。
仕事が無い日は毎回こうして寝てしまっているので、起こしてあげないと閉店の準備を始めることができない。
コンクリートの床に散らばった修理用の道具(細かなネジの入れ物等々)を避けて、時爺の背中をやさしく揺する。
「時爺、起きて。もう閉店の時間だよ」
ぼくがそう声をかけると、時爺は目を覚まして先ほどのぼくと同じように体を伸ばすと、猫背になってぼくの方をゆっくりと振り向いた。
「おお、もうそんな時間か。いつの間にか寝てしまっていてすまんね」
「いや、もう慣れっこだよ」
ぼくが苦笑いをしながらそう答えると、申し訳なさそうに時爺はそっぽを向いた。
「若いきみの貴重な時間をこんな古臭い時計屋に浪費させてすまなんだね。本当はもっと同世代の友達と遊ぶ時間や、勉学の時間に割くべきなのに」
そんなこと、謝らなくていいですよ。ぼくはそう答えつつ、外のシャッターを閉める道具を持って、時間堂の入り口に向かっていく。
ぼくには同世代の友達はおろか、勉学をする気も起きないので、こういった所で時間を使ってもなんら問題は無いのだから。
懐中時計が載せられたテーブルの隙間をぬって、ぼくは木製の扉を開き、外に出る。
外に出ると薄暗く静かな時間堂とは対照に、あちらこちらの店がネオンで光る看板で激しい主張を見せ、客呼びの声が混ざって騒音を奏でている。
それもそうだ、この時間は仕事を終えた社会人や、部活を終えた学生達がよく通る時間。
派手な外装で目を引き、積極的な呼び込みをしていれば少しでも売上は伸びることだろう。
......そう考えるとこの時間堂の、少なくとも派手とは言えない古ぼけた見た目は、現代の若者の目に入ることは少ないのだろうか?
「……今時、こんな場所で時計屋なんてやっていて、意味なんてあるのか、たまに考えることがあるよ」
ぼくが物思いにふけていると後ろから現れた時爺が、まるで今まで自分がやってきた事を否定するかのような言葉を小さな声で漏らした。
「あんな派手な看板を飾る余裕は無いし、だからといって君に客呼びをさせるわけにもいかないし......」
時爺は作業着のポケットから懐中時計を取り出し、ゼンマイをゆっくりと巻き始めた。
「何より、懐中時計そのものに需要が無くなってきているのではないか......そう思ってしまうよ」
ぼくはゆっくり首を横に振った。
「……あるよ。やってきた意味」
ぼくは少なくとも、この店……この時計堂に出会えて、良かったと思うことはたくさんある。
元々時計の「かち、かち」と一定に動く針の音の心地良さや、スケルトン仕様(内部の機械の構造が良く見える物)の時計に何とも言えぬかっこよさを感じていたぼくは、幼い頃からこの店に通い詰めていた。
そこで時爺に聞いた時計の歴史の話や、時計そのものの構造の話は、当時のぼくを湧かせ、そして今のぼくを構成する立派な「人生の欠片」だった。
だからこそ時爺自身に否定されたくなんて、無かった。
ただ、今は時爺がそう言ってしまうのも無理はない状況だ。
ここは時間堂。「時を見せ、時を魅せるための懐中時計」を売る場所でありながら、ぼくが働き始めて数か月経つが、お客さんと言える人間があまりにも来なさすぎる。
これでは、このお店の存在意義が無いと言ってもいい。 そういった現実を突きつけられる状況にあった。
「……そうだな。時谷くんに出会えただけでも、この店をやっていた価値があるよ」
時爺はそう言いながら、時間堂の中へと戻っていった。 ぼくはその時爺の背中に、何も声をかけてやることはできなかった。
「ぼく以外にもこれから出会える人がいるよ」とか、そんな不確定な未来を語りたくなんて、騙りたくなんて無かった。
もしかしたら、本当に時爺はこの店を捨ててしまうのかも。そういった怖れがありながら。
「……どうすれば、いいんだろうな」
ぼくは一人呟いてから、店の内側からシャッターを降ろし、ある準備をするためにカウンター裏への荷物を取りに行った。
「……ああ、そうだ。時谷くん、『彼女の世話』を忘れぬようにね。今はきみだけにしかできない仕事だから」
時爺は思い出したようにぼくに語りかける。
「ええ、分かっていますよ」
ぼくは頷いて、荷物を持って時計堂の二階へと向かっていった。
その二階へと続く木工の階段は、ぼくぐらいの体重でも軽く、みし、みし、と音を立てる。
ぼくがこれから行うことは、言わば「未確認生命体との接触」及び「未確認生命体の調整」と言ったところだろうか。
ただ、その接触と調整は、「それ」にとって必要なものだ。本当に必要かどうかは分かってはいないが、きっと、きっと必要なものなのだろう。
ぼくは二階にあがり、そこに佇む一つの「懐中時計」を見る。 おそらくその時計が「回した」であろうオルゴールが静かに鳴り響く、畳の敷かれた部屋。
その時計の「肌色の頬」、そして「名状しがたい白い近未来的なローブのような服」は、窓から差し込む光でほんのりとオレンジ色の絵の具に染め上げられていた。
「待たせたね、ピース。今日も始めようか」
「待ってたわ、トキヤ。早く始めてくれる?」
そう言うと、ピースと呼ばれる少女は、自らの服をはだけさせ、ぼくに背中を見せる。
そこにあるのは、見た目相応の美しい背中......ではない。
文字通り、白く透き通った「機械仕掛け」。
彼女の背中には、ゼンマイと内部機械で構成された、れっきとした1つの「懐中時計」が背中全体を覆って埋め込まれている。
人間としての内臓がどこに、どのように格納されているのかはぼくには分からない。
ただ、目の前にいるこの少女は、見た目は人間のようで、実際は一つの時計であること。それだけは分かっていた。
「さあ、トキヤ――」
そんな、非科学的な光景にも、今では慣れてしまったものだった。
「――今日もきちんと、私を巻かなきゃダメよ?」
「もちろん、分かっているよ」
ぼくは道具を入れた袋を床に降ろし、彼女の背中に手を伸ばした。