起伏
必死に頭をひねって考えました。よろしければ読んでいってください。
いつもの朝、いつもの一日が始まると森岡修司は思っていた。いや、思うことさえしなかった。俺は選ばれし者ではない、絶世の美女でもない女性と結婚し、ジュニアアイドルになれるわけでもない子供を産み、僅かな親族に見守られながら一生を終えると信じていた。その日も修司は汗を垂らしていた。見慣れた光景、スプレーガンのトリッガーを引き、塗料を吹き付ける。下地の傷に苛立ちながら前工程に突き返すのも何度目だろうか。少しちゃらけた具合に謝罪する新人を横目で見やりながら、トリッガーを引く作業へと戻ってゆく。そんな修司にも愉しみがある。銃器、特にオートマティック・ピストルマニアでモデルガンを何丁も持っている。スライドを引く動作、ブローバックによる排莢、スライドストップのメリハリなどがたまらなかった。中でもドイツのヘッケラー&コッホ社の作る物が最高だという。反面、リヴォルヴァーには疎かった。同僚には装填の手間や弾数の少なさにロマンを感じるという者もいたが、修司はそういったことは興味を持てず、ただ実戦での使い勝手のみを重視していた。「実戦なんて訪れる訳がないのに」この言葉に行き着かれると「それを言うと元も子もない」こう返すのが一連の流れだった。この愉しみは修司が仕事を選んだ上でも重要な項目で、どうしても仕事中にトリッガーを引く動作を入れたかった。初めは警察官も考えたが、日本警察の装備はニューナンブというリヴォルヴァーで、修司の心を充分にくすぐることは出来なかった。この国でオートマティック・ピストルを扱うには自衛隊か暴力団にでも入ればいいのだろうが、前者は修司の心を満たすことより折ることのほうが多いだろうし、後者は心を満たすどころかすさんでいきそうだし、何より日本の優秀な警察を敵に回すことはしたくなかった。塗装工という選択肢は妥協でしかなかったが、何年か続けていく内に心が満たされる感覚を覚えるようになっていった。
今日は珍しく残業だった。前工程の新人を横目で見送った後、一人トリッガーを引く。作業自体はすぐに終わった。塗り終えた部品を乾燥炉に入れ、ごみ置き場へと向かう。鍵と言うには余りにも貧相な鍵を開け、手ごろな段ボールをいくつか回収してきた。それらを塗装場に並べ、油性ペンで円を描く。一斗缶の中には申し訳程度に塗料が余っていた。修司は近視の人が視力検査を受けている時よりも細く、鋭い目で段ボールの目を狙っていた。頭の中で下らない妄想をしつつ、人差し指を引いた。「死ね」修司の頭がそう囁くよりも早く、段ボールの目は真っ赤に染まった。この瞬間、修司はとても満たされた気分になるのだった。すすんで残業を引き受けるのもこの瞬間、この気分のためだった。もちろん、普段から不真面目に遊んでいる訳ではない。真面目な修司がいるからこそ、不真面目な修司が顔を出すのだ。
ひとしきり遊び終えた時、辺りはすっかり暗くなっていた。空を見上げると消え入りそうな月が細く輝いていた。いやに綺麗な三日月を見上げる修司は不思議な感覚だった。三日月を綺麗だと感じたことなど無かったのだ。そもそも、新月の時、月の光を受けずに満天に輝く星空が好きな修司にとって、月を見て特別な感情を抱くことは初めてだった。帰り道、特別な月を何度か眺めながら家に着くころには、月は更に細く、強く輝いていた。家の鍵を差し込もうとした修司の感情ははっきりしたものになった。鍵がない。会社のロッカーにでも置いてきてしまったのだろうか。ひどく気怠い気持ちに包まれながら、ドアノブを勢いよく捻り、手前に引いた。引けてしまった。鍵が開いているのだ。修司はひどく混乱していた。感動、倦怠、そして恐怖。感情を表に出さない修司もこれには恐怖を感じざるを得なかった。鍵は確かに閉めたのだ。体の衰えはあれども、記憶の衰えなど微塵も覚えたことがない。空き巣か?とにかく警察に、いや、勢いよくドアを開けてしまった。犯人がまだいるなら音を聞かれているはず。下手に犯人を刺激してはいけない。が、もう犯行を終えて、誰もいないかもしれない・・・。
修司は行動していた。恐怖で分別がつかなくなったのではない。怒りに身を任せていた。変わり果てたリビングを横目で見やり、二階へと上がっていく。何故俺なんだ。俺の家なんだ。いつもの一日、起伏のない人生を壊された怒り。二階へ上がるとすぐに修司の予想は当たっていることがわかった。部屋の奥、引き出しをまさぐる人影が見える。が、ドアを開けたことには気付いていない様で、狂ったように引き出しを引っ掻きまわしている。修司は数十分程前に塗装場で見せた鋭い目つきで犯人を見やった。いやに明るい三日月のおかげかよく見える。身長は修司より少し高く、年齢は二十代前半であろうか、若々しい雰囲気。闇夜に紛れるために上下黒のジャージを着ているが、今日の月はそれを許さなかった。そして、ジャージの後ろポケットに黒光りする物。普段から見慣れているはずだが、得も言われぬプレッシャーを感じる。拳銃だ。それもオートマティック・ピストル。修司のコレクションでないことはすぐに判った。若者のポケットに収まる物騒な小道具はスミス&ウェッソン社の物で、修司はヘッケラー&コッホ社のモデルガンしか持っていなかったからだ。ここまで観察しているが若者は未だに引き出しに熱心だ。耳障りな音を立てて財布の肥やしになるものを探しているのだろう。そこには何にもないんだが。と思いながら修司は近づいていた。若者に制裁を加えるためではなく、純然たる興味のために。ここからは早かった。修司は若者のポケットから小道具を抜き取ると、初弾を装填し、トリッガーを引いた。若者は商売道具を盗られたことさえ気付かなかっただろう。引き出しへ頭から崩れていった。が、トリッガーは引かれ続けた。若者だったものが真っ赤に塗装され終えた頃には、オートマティック・ピストルにはスライドストップがかかっていた。マガジンを取り出し、真っ赤な物を狂ったようにまさぐる。手を止め、新しいマガジンを手にした時、修司は満たされていた。初弾を装填し、自宅だった建物を離れていく。退職届は要らないか。修司はそんな事を考えていた。
今回初めて書いてみました。もはや短編とも言えないような小説ですが、読んでくださった皆様に感謝申し上げます。