7
ーーー夜。
「なんで……どうしてここにいるのよ……」
夏蓮は満面の笑みを浮かべて自室の前に佇む夫を睨みつけた。
彼は昼間は一つにまとめて束ねていた髪を下ろし、衣装もゆったりとした夜着に変わっている。湯上がりなのか湿り気を帯びている黒髪は昼間以上に艶めいている。気を許したいで立ちなのに漂い感じる気品は血筋故か。
どこまでも人の勘所を突いてくると夏蓮はふつふつ沸き立つ腸を自覚した。
皇子の背後に控える鳳泉は、申し訳ないと眉を下げて二人の様子を伺っている。
一触即発、とまではいかないが、決していい雰囲気ではないことは、肌で感じる程厳しい雰囲気で容易に察せられた。
皇子は、ゆっくりと浮かべていた笑みをさらに深めた。
「何故とは、それは私の言葉だろう。ここは私の後宮で、お前は私の正妃ーー妻だ。夜に夫が妻の許を訪れる理由など、そう多くはあるまい?」
態とらしく流し目まで使われて、赤面した夏蓮は言葉もなく一歩後ずさった。その隙に、彼女の手首を捉えた皇子は当然のように室に踏み込む。
「っちょ…!」
「鳳泉、ご苦労だった。下がれ」
抵抗を見せる夏蓮を物ともせず、皇子はさらにその足を進める。諌めるべきか決めあぐねていた鳳泉は、主人に駄目出しのように命じられて、納得もいかないまま恭しく腰を折った。
静かに閉じられていく扉に、夏蓮は失意を禁じ得なかった。
ああ、頭が痛い。
疼痛を訴えるこめかみを揉み解すように指を添える。
皇子は、自分の後宮だというのに何が珍しいのか、きょろきょろと忙しなく視線を動かしていた。
「皇子、本当に何の御用でしょうか…」
何かあるならさっさとそれを済ませてお帰りください。
夏蓮の言外の主張も意に介さないで、皇子は寝台の上に腰を下ろした。
そして、ぽつりと心底の声で呟いた。ーーーわからない、と。
「何故お前は私にそう当たる?お前は私の妻だろう」
「確かにわたしは貴方様の妻ですが、恐れながら、指名も同然に召し上げておきながら数ヶ月顔も見せなかったような夫に尽くす気は、生憎毛頭ございません」
ぴしゃりと冷たい切り返しに、皇子は尚も訝った。
夏蓮はほとほと呆れ果てた。この人はいったい、わたしを何だと思っているのだろう。
「怒っているのか?」
「いいえ、別に」
「なら、寂しかったのか」
「女官たちがとても良くしてくれましたから、特には」
「………なら、何故そうも不機嫌そうなのだ」
「不機嫌そう、ではなく不機嫌だからです」
一問一答の応酬に、皇子は何なんだとやり切れなさに舌打ちした。
夏蓮は溜息を吐いた。それは自分こそが言いたいことだった。
「御用が無いのでしたら、わたしは失礼致します」
「何?お前の室はここだろう。何処に行くと言うんだ」
「貴方様のいない所へ」
冷淡に告げて、夏蓮はくるりと踵を返した。
手を扉に伸ばす。
僅かに引いたそれは、勢いよく叩きつけられた、自分よりも大きな手によって再度閉められた。
背後から、耳元に吐息がかかる。生々しさを感じさせる至近距離に、夏蓮はかっと熱が上がるのを感じた。
「ーーー何処に行く気だ」
這うような低い声に身震いする。何かが押し殺されていると、それだけで理解した。
「……あ、なた様の、いない所へと……申しましたでしょう……」
情けなく震える声。いつの間にか握られていた自分の手も、彼の手の中で小刻みに震えている。
背後で、溜息を吐く音がした。
夏蓮は頭に血が上るのを感じた。
狭い空間の中で勢いよく体を捩じって、向き合った相手の顔を強く睨みつける。
「いったい、何様のおつもりですか」
夏蓮の硬い声に、皇子の目がつと細められる。夏蓮は気にせず言葉を続けた。
「貴方がどういうつもりでわたしを正妃になんてしたのか知りませんけど………わたしは貴方の『お遊び』に付き合うつもりなんて全く、これっぽっちもありませんから」
お生憎様、という夏蓮に皇子は何も応えない。それが余計、腹の虫を暴れさせる。
「わかったら退いてください。わたしは出て行きますので、」
皇子はお好きに、と続くはずだった言葉は、反対側に叩きつけられたもう片方の手によって遮られた。続けざまに、足でも扉が押さえつけられる。
より迫る相手に、怯えながらも夏蓮は気丈に振舞った。そう、努力した。
「な、何よ……まだ何かあるって言うの?」
言いたいことでもあるなら言いなさいよと身構える。
今度は皇子が夏蓮を睨んだ。
「ーーーお前は、何もわかっていない」
皇子の声は一層低くなっていた。そのくせ、押し殺されている何かは強さを増しているらしい。
剣呑な光を宿す瞳に、危険だと本能が警笛を鳴らした。
わかっていない?
そんなこと当然だ。何も言われていない。知らされていない。それで何をわかれと言うのだ。
「……退いてください」
「断る」
「っいいから退いて!」
腕を突っ張って押し退けようとしても、またしてもびくともしないで押さえ込まれる。
それが無性に悔しくて悔しくて、ついには胸板を叩いてみるが効果はない。
涙さえ滲ませ始めると、皇子は奈落よりも深い盛大な溜息を吐いた。
「いい、ここにいろ」
「だから、わたしはーー!」
「私が出て行く」
自ら身を引いた皇子は、扉を開けて言葉通り室の外へと出た。
「お前は、もう少し視野を広く持て」
そう言い残して、扉は完全に閉じられた。
「なん、なのよ……」
呆然と呟いた声は、ただ夏蓮だけが聞いていた。