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「理由を、お尋ねしてもよろしゅうございますか」
「理由と言われても……。だって、会ったこともない人をどう嫌えと言うの?」
きょとりとして言う夏蓮に、鳳泉は言葉を詰まらせた。
時に人はその人の為人など知らず、ただ耳にした噂のみを根拠として他者への評価を決める。
夏蓮のもとに、皇子の風評が届いていないわけではない。それでも、会ったこともないからと嫌いもせず、好みもしない姿勢に、鳳泉は目が覚めた心地がした。
「では、夏蓮様は殿下にお会いしたいとお思いですか?」
「いいえ、まったく」
これにはすっぱりと小気味いいほどに言い切った夏蓮に、鳳泉は自分の耳を疑った。
『いいえ、まったく』?ーーーそれはつまり、会いたくないということで………。
「………お嫌いでは、ないのですよね?」
「ええ。ですが、好いてもいません」
そう言って、温まった茶を啜る。美味しいわねぇ、なんて呟きまでする夏蓮に、鳳泉はどう反応していいものかわからなかった。
鳳泉には夏蓮という人がよくわからない。
他の皇子達の妻女とは違い自分達にも親しく接するし、何事も命令をせず慎ましやかだ。
他人の評価に自分の評価を重ねず、自分の目と耳で判断しようとする姿勢は好感が持てる。
………持てるのだが、それでは矛盾しているではないか。他人の評価を気にしないと言いながら、皇子に会いたくないとはどういうことだろう。
「殿下が私に会いにいらっしゃらないのは、殿下の意思によるものでしょう。でしたら、私からお会いしたいと思うことはありませんよ」
鳳泉が疑問に思ったことは、本人から折良く答えを与えられた。
安心していいのか、決めかねる答えではあったが。
(これは、手強いかもしれませんね……)
鳳泉は内心で頬を引きつらせた。
彼女のそんな心境など露知らず、夏蓮は今度は茶菓子に舌鼓を打っている。今日の茶菓子は餡の甘みが上品な最中だ。パリッとした皮の食感と香ばしい風味もまた美味である。
それを堪能していると、ふとあることに気がついた。
「そういえば、わたし、書庫の場所を知らないわ」
防衛のためにも、城内の地図などおいそれとあるわけがない。城内の地図はすなわち警備配置の図なのだから、あるとしても重要機密文書として然るべき場所に厳重に保管されているはずだ。
「困ったわねぇ」
言いながら、全然そんな風には聞こえない呟きを、鳳泉は半ば呆れながら聞いていた。
∽ * ∽ * ∽ * ∽
「では、未の刻にお迎えに参ります」
「ありがとう、鳳泉。よろしくお願いしますね」
午の刻をいくらか過ぎた頃、夏蓮は鳳泉に連れられて書庫を訪れた。
書庫は、夏蓮が想像した以上に広かった。自家の私書庫も規模としては小さくないはずなのだが、さすが宮廷内のものとだけあって敷地も蔵書も桁違いなのだ。
(当面の、と思ったけどそれどころじゃないわ。毎日通っても一棚終わるかどうか……)
自身の背の丈より遥かに高く聳え立つ書架に思わず呆然としてしまう。しかしそれも束の間のことで、こんなにたくさんの書物を読める機会など早々あるはずもないと、早速手近な物を手に取り、鳳泉に教えられていた通り個室へと向かって行った。
個室の扉にはそれぞれ違う花の描かれた札が下げられている。その裏にはその花の名が彫られており、絵の面が向いていれば空室、漢字の面が向いていれば使用中を示している。
その中で、夏蓮は自身の名でもある蓮の部屋に入り、札を返した。
個室には、机と椅子、それに仮眠室も兼ねているのかこじんまりとした寝台があるだけだ。広さもあまりないが、一人でいるには問題ない程度の部屋は、後宮で与えられた室よりよほど居心地がいい。
「持ち帰ってもいいと言っていたけど、荷物になるしできるだけここで読んでいきましょうか」
仕事熱心な鳳泉は、間違いなく夏蓮が持ち帰る本を「お持ち致します」と取り上げてしまうだろう。万が一そうならなかったとしても女の手には二、三冊が手頃だろうし、それでは一晩で読み終えてしまう。
こうしてはいられないと、夏蓮は揚々と 一冊目を開いた。