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「僭越ながら、あまり姚佳をからかわないでやってくださいませ。あれは色事に不慣れでございます」
こほんと咳払いの後に釘を刺されて、夏蓮は苦く笑ってそれをごまかした。
女性にとって恋愛とは格好の話種である。
それは異性を寄せ付けない後宮においては顕著なのだが、鳳泉はこの手の話は好まないらしい。それとも、居た堪れない姚佳を憐れんだのかもしれない。
明言をしない主人に仕方ないと諦めつつ、鳳泉はちらりと卓上の茶器を見た。夏蓮の手許にはまだ半分ほど中身の残っている茶碗があり、それとは別にほとんど空の茶器がある。
「一人では寂しいから、姚佳に話し相手になってもらっていました。そうだ、もしよろしければ鳳泉が相手をしてくれませんか?」
伏せてあった茶器を手に取り注ごうと立ち上がる夏蓮に、鳳泉はぎょっとして慌ててその手を止めさせた。
「夏蓮様のお手を煩わせるなど、とんでもないことでございます。自分で致しますゆえ、どうぞそのままで」
早口に固辞して、夏蓮の手からそれらを取り上げる。言葉通り自分で用意する鳳泉に、取り上げられてしまった本人は残念そうな顔をした。
鳳泉に限ったことでなく、女官達は皆そうなのである。夏蓮の細やかな願い事を叶えてくれるが、もてなしたいと思ってもそうはさせてくれない。ご正妃様にそのようなことを、と初めて招いた時には女官が卒倒しかけたほどだ。
大した家の出でもない自分を穿った目で見ない彼女達は非常に好ましいのだが、立場の差はどうにも邪魔と感じてしまう。
「正妃と言っても名ばかりなのだから、そんなに畏まらなくてもいいとおもうのだけれど……」
「いいえ、そうは参りません。夏蓮様は私共に気安く接してくださいますが、貴女様は私達がお世話申し上げる大切な主人なのですから」
どうしてもだめだと言い切る筆頭女官に、そういうものなのかと夏蓮は不承不承にも頷いた。しつこく食い下がっては彼女達を困らせてしまう。そうなるのは本意ではないのだ。
静かに卓に着いた鳳泉を見届けて、夏蓮は手の内の残りにまた口を付けた。
「そうだ。書庫の出入りが自由だと聞いたから、午から行って来ようと思ういます」
「書庫、ですか?……そうですね、それもよろしいかと思います。ですが彼処は朝廷の官吏も利用致しますから、お留まりになるのでしたら個室をご利用くださいまし」
出入りが自由とはいえ、基本的に後宮に住まう者はその区域から出ない。秘密の園に咲く花は高嶺の花である。それを変な色目で見て、己の分際も弁えずに手を出そうとする者がいても不思議ではないのだ。
夏蓮は鳳泉の忠告を真面目に受け止めた。
「鳳泉は、書庫を利用したことはありますか?」
「はい、何度か。物語や、詩集なども豊富にございましたから、きっと夏蓮様のお気に召す物が見つかることでしょう」
楽しかったことを思い出す時の笑みを添えて教えられて、夏蓮の期待はますます高まった。
生家にも数々の書物が所蔵されていたが、大半が政治に関するものだった。それらをつまらないと思ったことはないが、気分を高揚させるのはやはり物語である。情緒に浸るなら詩歌もいい。
期待に胸を膨らませる年若い主人を、鳳泉は微笑ましく見ていた。
何も知らされず、皇子に求められたために後宮にやって来た彼女は、時折不満を零すことはあるが理不尽なことを言い出したことはない。命令すらしないで、何かを頼む時は必ずお願いという形をとる。
長くない間にも、彼女が心優しい性質であることは確信が持てた。
「………後宮の暮らしは、いかがでしょうか」
「あら、姚佳にも同じことを聞かれましたよ。皆さんがとても良くしてくださるから、 毎日恙無く過ごせてます。気にかけてくれて、ありがとう」
嬉しそうに、それでいて少し照れたように微笑する主人に、それはようございましたと鳳泉は目元を和らげた。
その言葉と表情には安堵が滲み出ていて、本当に良くしてもらっていると改めて感じた。
(こんなに優しい人達を困らせるくらいなら、妻女を迎えるなんてしなければ良かったのに)
無配慮な人なのねと、夏蓮は見も知らぬ夫にムッとして、頬を膨らませたくなった。
コロコロと変わるその表情を、鳳泉は優しい目つきで見守っていた。
鳳泉は、筆頭女官となるだけあって後宮勤めの期間も長い。行儀見習いとして上がってきたいずれかの姫君達の教育を受け持ったことも数え切れないほどである。
そんな彼女の眼鏡に適う姫君が今までいなかったわけではない。彼女達に比べると、夏蓮は身分も、教養も、容姿とて見劣りする。筆頭とはいえ一女官でしかない自分と比較しても、それは変わらないだろう。
夏蓮は、後宮で生き抜くには何もかもが平凡すぎるのだ。
「夏蓮様は、殿下をお恨みですか?」
鳳泉は飾らずに尋ねた。
女官の誰もが案じていたことを、そうでありながら憚って尋ねられずにいたことを口にする鳳泉に、夏蓮は何とも言えず見返した。
「……恨んでない、と言えば、それは嘘になりますね」
やはりと鳳泉は柳眉を顰めた。
当然だと思う。名指しも同然で召し上げておきながら、ただの一度もその妻に顔を出さない夫を、どうして恨まずにいられようか。
「ああ、でも、」
気づいたように、夏蓮は言葉を続けた。
「恨んでいると言っても嘘になります」
そこは誤解しないで、と小さく微笑む夏蓮を、鳳泉は信じられないと見つめた。