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 「あぁ……実家(いえ)に帰りたい……」


 溜息混じりに呟いた彼女は、名を夏蓮(かれん)という。碧蘭国第三皇子の正妃である。


 生家を出て後宮入りしてから日は浅くはない。

 他に妾妃がいないため寵愛を競う必要もなく、仕える女官達との関係も極めて良好。同性同士での人間関係には何の問題もありはしない。


 だというのに、彼女が日々後宮を辞して生家へ帰ることを望んでいる理由は異性ーーそれも、第三皇子にあった。


 第三皇子、(そう)清牙(せいが)。文人とも武人とも知れない、夏蓮の夫ーーーなのだが、夏蓮は彼という人を起因として、里下がりを強く求めているのである。

 なにせ夏蓮は、夫婦であるというのに彼とただ一度の面識も無いのだから。






 ーーーことの起こりは、初春の頃。

  ある日、夏蓮は生家円家(えんけ)で母湖詠(こえい)に着いて胡弓の手ほどきを受けていた。

 円家は中流階級ではあるがそれなりに名の知られた貴族である。最盛期には文には尚書を、武においては将軍さえ排出した家柄なのだが、歴代の当主達は不思議と皆倹約家で、それは当代までも変わらず、俸禄は決して少なくないというのに生活の質は庶民的だった。

 しかし、そうであるとしても円家が貴族であるということには変わりなく、身分ある家の娘に生まれた以上、音楽を始め様々な教養を当然と求められる。故に夏蓮は母に胡弓の指南を受けているのである。

 音楽には得手不得手があるが、夏蓮はこれを得手としていた。たった二本の弦と一本の弓で紡ぐ音色は、そうとは想像もできないほど多様なのである。魅了されないはずがなかった。


 「夏蓮、少しいいかい」


 ひょっこりと顔を覗かせたのは、父であり家長である黎刻(れいこく)だった。仕事においては即決即断、微笑む鬼神とさえ囁かれる彼は、私生活ではその限りではない。他家では第二、第三の夫人を迎えている所も多いというのに、彼は唯一人を愛し、その間に授かった子女を慈しんでいる。

 黎刻は母娘の睦まじい様子を見て嬉しそうに目を細め、話があるのだと(へや)へ入ってきた。


 「あら、どうかなさいましたの?」


 湖詠が、いつもであればまだ宮城に出仕しているはずの夫が家にいる理由を問う。職務に誠実な人柄をよく知っているからこそ、彼が仕事を放り出してまで帰宅するなど余程のことなのだろうと考えたのだ。

 心配そうにする妻に、黎刻は答えにくそうに苦笑いした。


 「どうにもただならない事態が発生してね」


 言うわりには暢気な様子に、母娘は顔を見合わせた。


 「夏蓮の後宮入りが決まったんだ」


 第三皇子の、と末尾に付け加えられた一言に、夏蓮はきょとんと目を瞬かせ、湖詠はまあと上品に口元に手を当てた。


 「こ、う宮……って後宮!?え、どうしてですか父様っ」


 数拍遅れて意味を理解した夏蓮は悲鳴に近い声で父を問い詰めた。

 夏蓮はあと数ヶ月もしないうちに十六になる。その年頃は婚姻の適齢期とされ、その頃には許婚の決まった者も少なくはない。

 夏蓮とてそのことは知っていたし、貴族の令嬢として未婚のままというわけにはいかないことも理解していた。

 だがしかし、それにしたって突然、それも後宮入りが決まるとは思いもしなかった。


 「花嫁修業に行儀見習いってことでは……」

 「いいや、婚姻。結婚。ああ、妾妃としてではないから安心するといい」

 「安心できるところがありませんがっ!?」


 ほわほわと何を言うのだこの父は!いきり立つ娘を、すぐ傍に座る母がどうどうと押さえ宥めすかした。

 冷静そうに見える湖詠も、あまりにも突然の娘の結婚に戸惑いを隠せないでいた。


 円家は貴族ではあるが、決して目を引くような名門の家柄ではない。黎刻も不相応に出世欲の強い人でもないから、外戚の地位を狙っての取り計らいとも考えられない。

 なにより驚かされるのは、第三皇子とはいえれっきとした皇族の正妃の座に、たかが中流貴族の姫が就くということだ。これは異例の大抜擢と言っていい。


 「背君(あなた)、どうして夏蓮が後宮に?そんなこと、一度も仰らなかったではありませんか」

 「それが、私にもよくわからないんだ」


 というのも、小休憩に中庭を歩いていたら第三皇子と出会し、跪拝しようとしたところを、「お前、確か娘がいたな」と問いかけられたのだ。

 戸部侍郎とはいえ、正式な面会をしたことがあるわけでもないのに家族構成を言い当てられて、黎刻は当然驚いた。

 何故知っているのか、どうしてそんなことを聞くのか。不思議に思いながらも是と答えれば、次に振りかけられたのが「正妃に欲しい」という言葉だった。


 「いま思い返しても、さっぱりわからないなぁ」


 ぼやく彼はどこまでも安穏としていた。

 だが「わからない」と言いたいのはこちらだと、夏蓮はじくじく痛むこめかみに指を当てて思った。


 「欲しいって言われたから嫁がせるって、わたしは犬猫か何かですか……」


 父親としてもうちょっと躊躇うなりしてほしいところである。

 しかし黎刻はほけほけとして、外堀も埋められていたからとまた苦笑いするのだ。


 いきなり娘を欲しいと言われて、休憩中ということもあり完全に素でぽかんとしてしまった黎刻に、皇子は「陛下のお許しも頂いている」と止めを刺したのだ。


 皇子の思し召しに、皇帝の承知。その上、地位は正妃という破格の待遇。

 断るという選択肢は最初から与えられていなかったのだ。






 そうして、夏蓮は一月の準備期間を経て、わけもわからぬまま後宮入(よめい)りを果たしたのである。

 ーーーしかし。後宮に来はしたものの、夏蓮はそれから今日に至るまでの二月半の間、第三皇子には一度として顔合わせをしたことが無かった。


 正妃として広く絢爛な室を与えられた。何人かの女官も付けられた。御歳二十になる第三皇子には一人の妾妃さえ無く、夏蓮が来るまでお世話申し上げる主のいなかった後宮女官達は諸手を挙げて彼女の輿入れを迎え入れた。

 いがみ合う相手のいない後宮生活は思いの外過ごしやすく、悪くないかもと思い始めているが、嫁いだという事実が夏蓮を憂鬱にさせる。


 父は、嫌ならいつでも帰っておいでと言ってくれた。母も、遅れて帰ってきた兄もそう言ってくれた。

 しかし、会ったこともない人を嫌がることはどうにもできないではないか。

 訪ね来られても困るが、全く音沙汰無いのも困りものだ。

 だから今日も、夏蓮は溜息混じりに呟き繰り返すのだ。


 「ああ……帰りたい………」



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