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花言葉は「強運」_1

 ベッド脇に置かれてある目覚まし時計は、所有者が昨晩に指定した通りの時刻――午前六時三十分を迎えた瞬間に、喧しい電子音を室内に蹂躙させた。

 掛け布団を頭まで被るようにしていた所有者である少年は、僅かに身じろぎしてから寝たままの体勢で腕を伸ばし、目覚まし時計を掴む。そのまま布団の中に引き込んだでからアラームを停止させ、少年は時計と共に沈黙した。

泰助たいすけ、朝だよ。いい加減に起きな!」

 母親が少年の名を呼びながら部屋を訪れたのは、沈黙してから半時――間もなく七時を迎えようとしていた頃である。典型的な二度寝という失態を犯した少年、泰助は両手に抱えた目覚まし時計の時刻を見、深い溜め息を吐いてから上体を起こした。

「また制服のまま寝てたの? やめなさいよね……」

 上はワイシャツ、下は学制服姿である泰助の姿を見、母親は呆れたようにそう言ってから、部屋の前を後にする。自分の非を認めたくなかった泰助は――しかし母親に対して直接文句を言えるような性格ではなかったので、内心で毒を吐きながらベッドから降りた。

 寝過ごしたのは、完全に自分に落ち度があったからだったが、それでも目覚まし時計を投げたくなる衝動に駆られて――それを必死で堪えた。

 ただでさえ他人に自分の物を壊されているのに、自分で自分の物を壊してどうするんだと、思い直す。

 下着とシャツを交換し、洗面所で手早く顔を洗ってから身支度を整えて、鞄を片手に階段を下りていく。本来であれば――予定通り六時三十分に起きてさえいれば、シャワーを浴びる余裕があったのだが、今朝は諦めるほか無かった。

 母親には、不潔だの何だの咎められるかもしれない。そう言われた場合、泰助は無視するつもりでいた。風呂に入ろうと入るまいと、学校に行けば汚されるから――等とは、口が裂けても言えない。

 その為にも、母親とはこれ以上顔を合わせずに家を出たかったのだが、しかしタイミングの悪い事に――待ち構えていたかのように、階段を下りた矢先で母親がリビングから姿を現した。目が合うなり眉をしかめられたが、無視を決め込んで傍らを通り過ぎようとして、足を止めてしまった。

 母親に呼び止められたからでは無い。寧ろその母親は何も言わずに、そのままトイレに向かっていった。泰助が立ち止まる最たる原因となったのは、リビングの入り口から窺えるテレビである。つい先日、両親が無理をして購入したらしいそれを何気なく見た際に、見知っている顔が画面に映っているような――気がした。

 単に知っている有名人というのであれば、そこまで気に掛かるような事は無かった。一目見た時点で、その類では無いと分かったからこそ、泰助はリビングに足を踏み入れた。そこで朝食を取っていた弟の翔に向けられた怪訝そうな目を無視して、真っ先にテレビの元に向かう。

 詳しい場所は分からない。どこかの田舎だろうか――田畑が並ぶ映像を背景にして、中心に男の顔写真と、名前が映し出されていた。それだけなら、よくある光景である。いや、それは無いに越した事は無い、殺人事件の報道だった。普段であれば、見ず知らずの人間が殺されたという情報を目にした所で、思う事は何も無いだろう。不謹慎だと非難する人は少なくないが、全ての人間の死に対して等しく悲しみを抱くなど、不可能に近しい。

「……何してんの?」

 暫し呆然とテレビを眺めていた泰助に対して、リビングに戻ってきた母親が怪訝そうな様子を押し隠しもせずにそう尋ねてきた。そのタイミングで事件の報道は終了し、泰助は何事も無かったかのようにリビングを出、学校へ向かうべく自分の家――井々野(いいの)家を後にした。


 人によってはそれを一種の迷惑的な行為と受け取るのかもしれないが、電車の中で新聞を読むという光景は、そう珍しくない――寧ろ必然的と言っても過言では無いだろう。海外からしてみれば異端である行為も、現代の日本に於ける電車内では一種の文化のようなものに近しく、通勤時間帯であればほぼ確実に見受けられる。

 その行為を行う人間の大半はサラリーマンだろう。何を思って電車内で新聞を読んでいるのかは、それこそ本人らに訊かなければ確かめようの無い事だが、あるいは仕事に必要な情報を収集する為に、あるいは会社での話のネタを探す為に、あるいは単に暇潰しの手段として読むのか――新聞に求められる要素、目的は諸種様々だろう。

 井々野泰助が新聞紙に印刷された文字列に目を走らせているのは、この日の深夜に発生したという殺人事件の情報を欲しているからである。

 電車内で新聞を読む高校生は、皆無では無いにしても、相当に珍しい光景ではあるだろう。一般的な学生にとって、新聞は「家にある物」であり、それは「親が買っている物」であって、わざわざ自分の出費で新聞を購入し、持ち歩くような真似はしないだろう。ただし、家にある新聞を怪しまれずに持ち出せる術を有していなかった泰助には、その必要があった。

 紙面に羅列された文字の中から見付けだした「岬田亮平」という被害者の名前を見、泰助は息を飲む。テレビで見た男の顔写真を思い返し、今一度、見間違えや勘違いで無い事を確認した。

 ――一昨日、俺はこの人と会っている。

 早朝のコンビニを訪れた時だったと、記憶している。

 レジで会計を済ませようとしていた男が、ポケットから財布を取り出す際、一緒に名刺を取り落としていた。しかし男はそれに気付く様子が無かったので、泰助は仕方なく拾うことにした。無視してもよかったのだが、社会人にとって名刺が重要な物である事くらいは泰助にも分かっており、その名刺が誰かから受け取った物であるならば、紛失しては困るだろうと――そう思った。

 引っ込み思案の泰助にしては勇気のある行動だったが、しかし、男は差し出された名刺を無言で引ったくるようにして受け取り、缶ビールの入った袋を手にコンビニを後にしてしまった。

 礼のひとつくらい言ってくれてもいいじゃないか――と、反感を覚えたその時の相手が、岬田亮平という男だった。たまたまその人の名刺を持っているだけの他人という可能性もあったが、泰助の記憶にある名刺を落とした男の顔と、ニュースで見た写真の顔は完全に一致していた。

 ――いや、実際は、もう少しやつれていたかもしれないと、思い直す。それに、その時の男は手荷物を何ひとつとして持っておらず、かつ身に纏っていたスーツはとても清潔とは言い難い状態だった。もしかしたら、今回の事件と何かしら関係性があるのではなかろうか。

 高校生なのに新聞など読んでいる俺は、周りから不審がられていないか――。どうでもいい不安に駆られた泰助はちらと周囲を見回して、ニュースでは把握しきれなかった事件の詳細を確認する為に記事を最初から黙読する。

 事件が発生したのは昨夜の深夜から本日の未明の間らしい。被害者の岬田は泰助と同じ県に在住していたが、遺体が発見されたのは、そこからかなり離れた地方の田舎町で――調べによれば、そこは被害者の出身地らしい。どのような目的があってそこに向かっていたのかは不明だが、そこで何者かに襲われて殺害された――かもしれないと、考えているようである。

 殺人であると断定できないが、自殺では無く、事故とも考えにくい。曖昧な説明文に対して、泰助は若干の苛立ちを覚えた。続きを読もうと思ったが、停車した電車に乗り込んできた乗客によって堂々と新聞を開いている余裕が無くなってきたので、サラリーマンがよくそうするように新聞を小さく折り畳んでから、先を読み進める。

 被害者の遺体は、車の運転席に座ったままの状態で見付かったとの事だった。しかし、その状態が奇怪で――岬田は「何か」で頭部を撃ち抜かれて、死亡している。車のフロントガラスと運転席のシートに、岬田の頭部にある貫通痕と同様の大きさの穴が空いている事から、岬田の頭部を貫通した「何か」は車外から飛来してきた物と思われているが、何が貫通したのかは特定されていなかった。

 貫通したのが運転席までなら、後部座席に何かしらの痕跡があって然るべきでは? そう思ったが、しかし車内にそれらしき痕跡は残されてないらしい。もしもこれが殺人で、使用された凶器が銃器の類であるのならば、犯人が被害者の車から痕跡となる銃弾を回収したのか。そうでないとしたら――何らかの超常現象によって、事故死したのか。

 後者は流石に無理があるだろう――自分で立てた仮説を自分で否定し、事件の記事に全て目を通した泰助は新聞をバッグの中へしまった。他の記事など端から興味が無いので、とてもではないが読む気になれなかった。

 警察に話した方がいいのだろうかと、考える。ほんの一瞬であれ、自分は被害者と関わっているのだから。当時の彼の身なりや様子は、もしかしたら警察にとって大きな手掛かりになるかもしれない。

 電車に揺られながら暫しに渡って逡巡していたが――やめた。ニュースで写真を見た時こそは気が動転してしまい、新聞まで買ってしまう始末だったが、よくよく考えてみれば、ほんの一瞬しか接点を持っていない相手の為に、どうしてそこまでしてやらなければならないのだろう、と。

 関係が全く無いという訳では無い。だが、巻き込まれたのが事件であれ事故であれ、自分の身に危険が及ばない以上は、どこまでも他人事である。それが人の命に関わる事であっても、例外ではない。岬田という男が事件の犯人ならばまだしも、その本人は変死を遂げているのだから尚の事である。

 この世に居ない人間の事など考えているくらいなら、自分の置かれている状況を考えるべきだ。戒めるように自分に言い聞かせたが――そうした所でどうしようも無いという事も自覚しながら、泰助は学校の最寄り駅に到着した電車から降りた。


 自分が通う学校が遠目に見える。

 永遠に辿り付けなければどんなに良い事かと思うが、歩けば歩く程に――それが当たり前の事であると分かっていても――距離が縮まっていく様は非情に思えた。

 少なくとも、入学した当初はその校舎が輝いて見えたものだった。自分が行きたかった憧れの高校に通う事が出来る。それだけで胸が躍るような思いだったが、しかし、今の泰助の目に映る校舎は只の建築物――否、この世で最も足を運びたくない場所と化している。そんな所に意気揚々と足を運んでいく他の生徒を見る度に、酷く身勝手な苛立ちを覚えた。

 行きたくないのであれば、今すぐにでも踵を返して逃げるという選択肢もある。今までに何度もそうしようと思ったが、それでも結局は学校に行かざるを得ず、それは今日も同じだった。

「うわ、井々野だ……」

 始業の十五分前に学校の正門を通った泰助は、昇降口で靴を履き替える為に、げた箱から上履きを取り出し――それに何も細工が施されていないのを確認してから履こうとした際、昇降口に入ってきた同じクラスの女子の口から聞き慣れた言葉が飛んできた。その後に続いた別の女子の「朝からマジでキモいんだけど」という言葉も、聞き慣れたものだった。

 その二人組の女子は他にもいくつか罵倒の言葉を浴びせ掛けてきたが、泰助は無視を決め込んでさっさと上履きに履き替え、教室に向かう。

「んだよ、シカトかよあいつ」

「何か言えっつーの。死ね」

 どう返した所で、お前らは俺を馬鹿にするだけだろ――!

 自分の背に向けられる言葉に対して、泰助は胸中で叫びを上げる。それを実際に口に出す度胸など皆無で、怒りを握り潰さんばかりの勢いで拳を握り締める程度の抵抗しか出来なかった。

 二年である泰助の教室は二階にある。足取りは重かったが――しかし、もたもたしていると先程の二人に追い付かれる危険性があるため、足早に階段を上った。朝から廊下で屯しながら騒ぎ立てている生徒を横目に、突き当たりに位置する教室に足を踏み入れた。

 既に半数近くの生徒が登校しており、勉強をしている生徒や読書をする生徒も居れば、不真面目に携帯ゲーム機で遊んでいる生徒や、くだらない話に花を咲かせている生徒もいる。だが、教室に入ってきた泰助に対して挨拶する生徒は一人も居なかった。それは至って普段通りの光景で、一番後ろの奥にある自分の机と椅子がひっくり返っているのも、机の中に入れてあった教科書等が床に散乱しているのも、普段通りの光景だった。

 その机と椅子を元に戻すのが、学校に着いた泰助が最初に行う作業である。慣れというのは恐ろしいもので、毎日ご丁寧に机と椅子をひっくりかえしてくれる誰かに対して最初こそ怒りを覚えたが、今では何も考えずにそれらを持ち上げる事が出来る。朝のちょっとした運動代わりと考えれば、何て事は無い。

 元に戻した机には、数色の油性ペンで様々なメッセージが寄せられている。死ね、消えろ、キモい、ウザい、ゴミ、学校に来るな――云々。こんなくだらない事の為に、わざわざペンを用意しているのだろうかと思うと、滑稽とすら思える。最初はこの寄せ書きを綺麗に消していたものだが、そうすると翌朝には徹底的なまでに元に戻されており、何度消した所で結局は同じ事の繰り返しだった為、やめた。消さずに放置して、教師にこの落書きが見付かれば、あるいは自分の置かれている状況が改善されるかもしれないと――そんな淡い期待を抱いた時もあったが、全く以て無駄だった。どの教師も、机に書かれたそれを見て、しかし、見て見ぬ振りをする。

 この学校内に、泰助の味方はひとりとして存在しない。その事に気付くまで、さして時間は掛からなかった。

 いつから、何がきっかけでこうなったのかは分からない。気が付いた時には、泰助は既に独りだった。親しくしていた友人は何人か居たが、次第に距離を置かれるようになり――最終的に、全員が泰助を攻撃する側に回ってしまった。

 かつて友人だった生徒に対して、怒りを覚えた事は特に無かった。理不尽だとは思ったが、仕方のない事だろうと納得するしかない。多勢に無勢の状況で――多くの人間を敵に回してまで、自分の味方をする理由など、無いのだから。

 机と椅子を元に戻し、床に散乱する教科書を全て回収し終えたタイミングで、始業五分前の予鈴が構内に響き渡る。席に着いた泰助は溜め息をひとつ吐き、賑やかになりつつある教室の片隅で静かに授業の開始を待った。


 休み時間よりも、授業中の方が幾分かは気が楽である。小さな嫌がらせを受ける事はあるが、それもせいぜい物を投げられる程度の事で、耐えられない事は無い。希にコンパスやカッター等の危険物が飛んでくる場合もあるが、それだけである。使用する教科書やノートには全てのページに落書きが施されているか、あるいは破り捨てられているので使用できる状態ではなくなっているが、教師も泰助を無視している現状、授業中に指される事は皆無なので何の問題も無い。黒板に白い文字が埋め尽くされるのを眺めながら、授業が終わるのを待つのみである。

 授業中は基本的に気が楽だが――しかし、体育の授業だけは例外だった。ペアを組むよう教師に言われても、泰助とそうする生徒など誰も居ない。サッカーやバスケ等の球技では全くボールが来ず、たまに来たと思えば容赦なく顔面などにぶつけられる始末。柔道や剣道などの一対一の試合では、ルールを無視して暴行を加えられる。しかし泰助がルールを無視するような真似は許されず、違反しようものなら教師に腕立てや外周などの罰を強制される。体育教師は、他の生徒を咎めるどころか、一緒になって泰助を攻撃してくる惨状であり、そのような教師は他にも何人か居た。

 幸いにも今日は体育の授業が無い日で、教室での授業のみだった一限目から四時限目までは、何事も無く時間が経過していった。

 問題は五時限目までの長い休み時間――昼休みである。泰助のような境遇の人間であれば、横暴な連中から昼飯を買ってこい等といった指図を受けるのかもしれないが――そういう時期もあったが、今では飽きてしまったのか、そのような目に遭う頻度は殆ど無かった。しかし、だからといって、安堵する事は許されない。

 学校に通い始めた当初こそは親が用意してくれた弁当を持ってきていたが、攻撃の標的となってからはそれを滅茶苦茶にされる事も珍しくなくなった為、現在は弁当を持ち歩かずに学食で昼食を購入している。学食に足を運んだ泰助は、親から受け渡されている昼食代でカレーパンを購入したが――ただし、すぐに食べる事など許されない。人目に付く所に居れば、まず間違いなく格好の餌食となってしまう。

 それを回避する為に、食事を取る場所としてトイレの個室を選択する。ただし、そこに入る所を誰かに目撃されてはならない。攻撃を回避する為にトイレに逃げるのだから、居場所を知られてしまっては何の意味も成さないからだ。

 学食を後にしてから暫く校内を歩き回り、同じクラスの人間が誰も後を付けていない事を確認してから、実習棟三階、パソコン室隣の男子トイレに素早く足を踏み入れた。生徒が多い教室棟では人目に付かないようにするのは困難な為、比較的人の少ない実習棟を利用する事が多かった。

 男子トイレの一番奥の個室に入った泰助は扉の鍵を掛けてから、安堵の息をひとつ吐いた。食事を取るためだけに校内を歩き続けなければならないのは億劫だったが、唯一、誰にも邪魔をされずに居られる時間と思えれば、苦ではなかった。鼻をつまみたくなるようなトイレの空気も気にはならない。

 洋式便所の便座に腰を降ろしてから、上着のポケットに押し込んでおいたカレーパンの袋を慎重に取り出す。誰も居ない事は確認できているが――しかし、万が一という場合も有り得るので、音を立てるのは極力避ける必要がある。故に、袋を開ける際も、そこから僅かに歪んでしまったパンを取り出すのにも、細心の注意を払った。

 これでようやく食事にありつける。そう思いながら開き掛けた口は、しかしパンをかじる事なく開いたまま固まってしまった。トイレに響き渡る何者かの足音を聞いてしまえば、身動きが取れなくて当然だった。その足音がひとつのみならず、ふたつとなれば、尚の事である。

 ――誰が入ってきたんだ?

 開いた口を閉じた泰助は息を飲み込み、絶対に動くまいと決め込んで身構えていたが、それも一瞬で終わった。蹴られたのか、それとも叩かれたのか、眼前の扉が不意に大きな音を立てながら揺れ動いた。これで驚かずにじっとしていろという方が無理だろう。

「今日はここだったか」「おい、出てこいよ井々野」

 乱暴的な音を立てられた時点で察しは付いていたが、扉越しに飛んできた二人の男子の声には聞き覚えがあった。同じクラスの人間で、泰助を攻撃する連中の中でも特に率先いて過激敵な行動を取っている――いわばリーダー的な存在である「河田」という男と、そいつと連んでいる事が多い「橘」という男だった。

 誰にも見られていない筈だったのに、どうして――なんて思ったが、答えは考えるまでもなかった。最初に「今日はここだったか」と言った橘の言葉から察するに、二人はわざわざ泰助が隠れているトイレを探していたのだろう。

 馬鹿げていると思う。

 何の確証も無しに、扉の向こう側に泰助が居ると判断するのは、早合点にも程があるだろう。しかし、実際ここにこうして居る以上は事実であり、何をどうした所で言い逃れる事など出来ない。出てこいなど言われて素直に出ていける訳も無く、かといって自分は井々野では無いとも言えず、結局は無言を貫く他なかった。

 それで二人が大人しく引き上げてくれる訳も無い。何も言い返せなければ、それは自分が井々野だと認めているのと同義である。先程と大差の無い罵声をトイレ内に響かせながら、眼前の扉が何度も叩かれ続ける。誰でもいいから教師が通ってくれれば、まだ救われるだろう。しかし昼休みである現在、大半の教師も休憩を取っているのは想像に難くない。ただでさえ人通りの少ないこの実習棟で、助けを待つなど無意味に等しかった。たとえ教師に発見されたとしても、被害を受けているのが泰助だと分かれば、黙認される恐れもある。

 こうなってしまうと、もはや昼食どころでは無い。気の遠くなるような昼休みの長さを恨みながら、一刻も早く五限目が訪れてくれるのを待とうとした――が、河田と橘は扉を数回叩いただけで急に静かになり、威勢の良かった罵声も途絶えた。昼休みの間はこれが延々と続くのだろうとばかり思っていただけに、頭を垂れていた泰助は訝しげに面を上げた。

 反応の無さに飽きが生じて引き上げていったのかと思ったが、二人に限ってそれは有り得ない。そう思った通り、扉を叩く事も罵声を浴びせ掛けてくる事も無くなったが――しかし、別の個室の扉を開けたらしい二人は、何やら物を探すような、そんな音を立て始めた。そこが個室ではなく、掃除用具を入れる場所だと気付いたが、だからといって何が変わる訳でも無い。

 掃除用具入れから何か取り出したらしい二人は、水道の蛇口を捻ったようだった。勢いよく流れる水の音を聞けば、次に何をされるのかは想像に難くない。間もなくして水の音が止まるのを確認した泰助は静かに目を閉じ――直後、上から降ってきた大量の水を頭から思い切り被った。

 これもそんなに珍しくはない。トイレに隠れている所が見付かれば、最終的には否応なしにこうなってしまう。

 二人はそれで満足したのか、下卑た笑い声を上げながらトイレを後にしていったようだった。大量の水を被っても尚、身じろぎひとつせずに息を殺していた泰助は、そこでようやく深い息をひとつ吐いてから、掌で顔を拭った。今日はまだ、幾分かマシな方だと思う。ホースを使って延々と水責めを受けるのと比べれば、バケツ一杯分の水など朝飯前だった。

 尤も、今は昼飯前なのだが――。

 このような状況下で冗談が思い浮かぶ程度には、慣れてきてしまっているのかもしれなかった。面白味の欠片も無いそれに対して更に深い息を吐いてから、自分と同じく水を被ってしまったカレーパンにかじりついた。

 目尻から頬に向かって伝う滴が水道水なのか、それとも涙なのかは分からなかった。


 大抵の学生は、自分の制服を一着しか所有していないだろう。基本的に学制服は値を張る物で――それだけに物持ちが良く、乱雑に扱いがちな学生でも三年に渡って着続ける事が出来る。故に一着あれば充分で、例えそれ以上所有していたとしても、学校に複数持ってくるような事は無いだろう。

 泰助も大抵の学生の範疇に含まれており、制服は一着しか所有していない。水を被って着ていられなくなったからといって帰宅する事は許されず――帰宅したからといって教師に咎められる事は無いと思われるが、親が不振がる――塗れた服をそのまま着続ける事も出来ないので、五限目からはジャージで過ごす運びとなった。

 体育ならばまだしも、それ以外の授業でジャージを過ごすのは相当に目立ってしまう。ただし、泰助がジャージを着ているとなれば、周囲の人間は彼の身に何があったのかは大体の予想が付き、そうでなくとも全員から無視されている現状、どんなに目立った所で、冷たい目で見られる程度で終わってしまう。

 余計な事を言われない分、無視してくれた方が、泰助としても気が楽だった。トイレから教室に戻った際、女子のグループが「これで身体を拭け」と言って、汚れた雑巾を投げ付けてきたが、それくらいである。馬鹿みたいに感謝する振りをしながら、タオルの代わりに雑巾で顔を拭っている醜態を見、それで満足してくれるのなら大した事では無い。

 五限目が始まる直前に、ジャージを着なければならなくなった原因である河田と橘が戻ってきたが、二人は泰助の方を見向きもせずに、他の仲間と談笑を交わし始めた。クラスの中でも――否、学校の中でも屈指の問題児である二人は、教室に教師が入ってきても尚、馬鹿みたいな大声を上げ続けていた。

 ただでさえ眠くなる午後の授業だが、今日の五限目と六限目は、共に泰助が苦手としている数学と化学だった。大してやる気がある訳でも無く、やる気が無いからこその眠気である。自分が寝た所で、それを咎める者は誰も居ないとは思うが――しかし、止めどなく涌き上がってくる眠気を必死に堪えながら、眠気を誤魔化すために黒板の文字をひたすらノートに書き移した。特に真面目振っているつもりは毛頭無いのだが、もしも眠ってしまったなら、何をされるか分かったものでは無い。そうでなくても――起きていても常に危険が付いて回るのだから、居眠りをする隙など一瞬たりとも無かった。

 それからどうにか事なきを得、六時限目の終了時刻まで一睡もせずに乗り切る事が出来たが、油断は絶対に許されなかった。生徒が最も自由になれる放課後こそ、最も警戒しなければならない時間帯である。教師の監視の目が皆無となれば、河田や橘のような輩にとって、そこはただの無法地帯と化してしまう。

 六時限目の後のホームルームが終わり、まっすぐ帰宅する者や部活に向かう者、課題を済ませる為に居残りする者などがそれぞれ散り散りになっていく中、泰助も帰宅するべく、ジャージから濡れたまま乾いていない制服に着替えたが――しかし、その後は自分の席で身じろぎひとつせずに座っていた。座らざるを得なかった。

 帰りたくないという訳では無い。

 敵しか存在しないこのような生き地獄、一刻一秒でも早く脱出したいと思っている。だが、ここが敵陣である以上、脱出するのは容易では無い。

 荷物をまとめる振りをしながら、横目で教室の中央をちらと見遣る。そのような真似をしなくとも、そこに河田と橘が居るのは分かりきっていた。

 問題児である所の二人が、勉強や部活などに励んでいる道理などある筈もなく、クラスの女子と品の無い会話を大声で交わしている。この二人は、授業が終わればすぐに帰るか、だらだらと校内に屯しているかのどちらかである事が殆どであり、今日は後者らしかった。そのお陰で、帰るに帰れなくなってしまっている。

 自分の席が窓際――教室の入り口から離れた場所にある為、帰ろうとすれば否応無しに人目に付いてしまう。絡まれたら最後、何をしでかされるのか分かったものでは無いので、教室から抜け出すタイミングを伺い続けなければならない。かといって、いつまでも教室に居続けてしまうと他の生徒が殆ど姿を消してしまい、同じ結果を招きかねない。

 放課後に差し掛かったばかりの現在、教室に居る生徒は半数近くまで減っている。あと五分もすればその数は更に減少し、教室から抜け出すのは困難を極めるだろう。

 さっさと帰ってしまえ――そう念じ続けていると、二人と会話を交わしている数人の女子の内の一人が、何かを見てほしいらしく鞄の中を探り出した。連中の会話など断片的にしか聞いていない為、彼女が見せたがっているそれの正体は想像の域を出ないが、河田と橘の注意がそれに集中したのは好機だった。

 音を立てないよう静かに――それでいて、不自然に見えないように席を立った泰助は、教室を後にしていく他の生徒に紛れるようにして、飽くまでも自然体に振る舞いながら出入り口に向かって歩を進める。橘が女子に向かって何か言っているのが聞こえたが、構いはしなかった。

「おい」

 教室から廊下へ足を踏み出し、安堵しかけたその時、背後から河田の声が飛んできた――気がした。これでようやく帰れるという事だけに気を取られていた泰助は、その言葉が自分に向けられたものかもしれないと思いながらも、そのまま足を止める事なく教室を後にした。クラスには、まだ半数近くの生徒が居たのだ。彼と付き合いのある人間は多いのだから、違う奴に声を掛けたに違いないと、そう考える事した。

 だが、もしかしたら――万が一、自分を呼び止めていたのだとしたら?

「おい、井々野!」

 昇降口へ向かおうとした泰助の背に、再び河田の声が教室から飛んできた。万が一などでは無かった。一が一――必然である。

 逡巡している時間など無かった。身体を強ばらせたのも一瞬、泰助は反射的に足早になり――ついには駆け出してしまった。これが教室内であったなら、大人しく立ち止まっていたかもしれない。

 階段を降りる直前で自分の教室がある方をちらと見遣ってみたが、廊下に河田と橘の姿は無かった。逃走が知られるのは時間の問題である以上、立ち止まっている余裕など一瞬たりとも無い。二人がその気になって追い掛けてくれば、運動能力で遙かに劣る泰助が逃げ切る事は出来ない。階段を一段飛ばして掛け降りる途中で追い抜かしたクラスの女子がに何事か罵声を飛ばされたが、そんな戯れ言に付き合っている余裕など微塵も無かった。

 大した距離を走っていないにも関わらず、昇降口に到着した頃には微かに息が上がってしまっていた。ここまで何事も無く来れてしまえたからといって、今後も何も起こらないと判断してしまうのは早計である。少なくとも、電車に乗るまでは一切の油断が許されない。

「う――!」

 下駄箱で上履きと入れ替えた自分の靴を履こうとして、途端に表情を苦痛に歪めた。微かな呻き声を上げながらその場に両膝を突くようにして倒れ込み、履いて間も無い右足の靴を脱ぎ捨てた。

 登校した際に細工が施されていなかったからといって、下校時も同様とは限らない。靴の中に接着剤か何かで固定されてある画鋲を認め、泰助は足の裏に走り続ける激痛に目を細めながら歯を食い縛った。周囲に誰も居なかったのが、せめてもの救いといえよう。もしかしたら、どこかから、誰かが――仕掛けた張本人が様子を窺っているのかもしれないが、それを確認している余裕も意味も無かった。

「おい井々野、そこはお前の寝室じゃねーぞ。眠いんならお家に帰ってから寝な」

 最悪のタイミング現れた河田が、倒れている泰助に対して微塵も有り難くない忠告を寄越してくれた。この男が居るという事は、当然のように橘も一緒だった。小馬鹿にするような笑みを浮かべている二人がこのまま見逃してくれる道理も無く、「そうそう」と、橘が思い出したように――しかしわざとらしく口を開いた。

「井々野。俺達、これから遊びに行くんだけどさ、金があんまり無いんだよねえ。悪いんだけどさ、ちょっとばかり金を貸してくれよ」

 早い話が喝上げ――恐喝である。返す気も悪気も全く無い、ただの犯罪行為だ。放課後にこの二人に呼び止められれば恐喝は必然であり、今までにも馬鹿にならない金額を巻き上げられている泰助としてはどうしても逃げ切りたかったのだが、この様である。

 今日も情けなく金を取られると思ったが――しかし、二人が一歩踏み出した瞬間、脱ぎ捨てた靴を拾い上げて駆け出してしまった。

「おい――!」「井々野!」

 最初こそ虚を突けたらしいが――今まで泰助が二人の眼前から逃げた事など無いので、当然といえば当然だったのかもしれない――その程度で逃げ切れる訳も無く、昇降口から出た辺りで二人は罵声を上げながら追い駆けようとしてきた。ただし、校外まで逃げようとしている泰助に対して上履きのまま追うのは無理がある為、靴に履き変えなければならない。

 その間に逃げ切れる事が出来れば、あるいは今日の所は凌げるかもしれない。だが、靴を片方だけ履いてない上に、履いていないその足は負傷している為、全力で走るのは困難を極めた。正門を抜けるまでに、複数の生徒から訝しげな視線を浴びる羽目となったが、それを気に掛けている余裕など無い。

 ――どうして逃げ出してしまったんだ。

 明確な理由があって逃げた訳では無い。明確でなくとも、理由など無かったかもしれない。ただ直感的に、この状況はよくないと――そう判断してしまった身体が、勝手に逃げ出してしまっていたと、そう言ってもいいかもしれない。

 そう自己分析してから、大人しく金を渡しておけば、ここまで痛い思いをする事も無かったと――後悔の念に駆られながら走り続けた。画鋲を突き刺してしまった痛みに加えて、素足で小石を踏みつけてしまった痛みが泰助の表情を絶え間無く歪ませる。逃げ出しておいて、挙げ句に捕まってしまえば、これ以上に痛い目を見るのは避けられないだろう。

 靴の中に仕掛けられている画鋲を外す事が出来れば、ある程度は楽に走れるだろう。だが、ちらと見遣った昇降口の方から走ってくる二人の姿を確認してしまえば、そのような余裕など微塵も無かった。

 とにかく、どこかに隠れてやり過ごす必要がある。二人に見付かっている状態で駅まで

逃げても、何の意味も成さない。駅の中か、もしくは電車の中で捕まってしまうのが関の山だ。自身の足の状態や、元々の体力と運動神経を考えれば、そう長く逃げ続ける事は不可能だろう。真っ直ぐ駅を目指せないとなれば、その足は自然と駅とは関係の無い方向へ向かっていってしまった。

 その判断は間違っていなかったかもしれないが、泰助は学校周辺の地理には疎い。対する河田と橘は追い掛けるだけなのだから、どちらが有利なのかは考えるまでも無かった。人通りの多い場所であれば、人目を気にして二人は手出ししてこないかもしれないが――しかし意に反して、向かう先は徐々にひと気の無い場所となってしまっていた。尤も、仮に人通りの多い場所だったとしても、捕まったら人目の付かない場所まで連れていかれるだけだろう。結果は同じだ。

 時折飛んでくる二人の怒声に追われながら、一時たりとも立ち止まらずに――赤信号をも無視して走り続けたが、次第に切れていく息に対して焦燥感を覚えた。背後を振り向く度に二人との距離が縮まっており、このままではどこかでやり過ごす事すらままならない。

 とにかく、どこでもいいから隠れなければならない――そう思いながら十字路の角を右に曲がった泰助は、すぐ右手に見えた立体駐車場の中へ駆け込んだ。蛍光灯が少ない影響で薄暗くなっているそこは不気味なまでに静まり返っており、自身の呼吸音と足音が否応なしに反響した。肩を大きく上下させながら失速したが、それでも立ち止まる事は許されず、最も奥まった場所に見える階段を目指して歩みを進めた。砂利が存在しない分、いくらか歩きやすいのがせめてもの救いではあるが、足の裏に走る激痛は治まりそうにない。

 これであの二人が自分を見失ってくれれば――などという淡い期待を抱いたが、階段の一段目に足を踏み出した瞬間に、その期待は一瞬にして崩れ去ってしまった。

「おい、あそこだ!」という橘の声に続いて、河田が「待てよ!」と声を荒げる。ぞっとして背後を振り返ってみた泰助の目に、立体駐車場に駆け込んでくる二人の姿が映り込んだ。待てと言われて素直に待つ道理も無く――この状況では、上の階に逃げた所で手遅れだと分かりきっていても、階段を駆け上がる以外の選択肢は存在し得なかった。

 最後の悪足掻きのつもりで、歯を食い縛りながら二階を目指す。途中、手に持っていた靴をとうとう落としてしまったが、それに構っている余裕など無かった。

 どうにか階段を上りきった所で――特に段差がある訳でも無いのに、転倒する。足に力が入らないのを実感としたが、それでも諦める訳にはいかず、呻きにも似た声を上げながら起き上がろうとして、

「穏やかじゃないなあ。僕の知ってる鬼ごっこは、もっとこう……なんだろう。まあいいや」

 聞き覚えの無い、男の気の抜けた声が前方から飛んできた。駐車場という場所柄、人が全く居ないとは思っていなかったが、それでも驚いて顔を上げてみると、ボンネットの上に腰掛けているスーツ姿の男と――同じ車のバンパーに凭れるようにして胡座をかいている少女の姿がそこにあった。どう見ても車を大切にしているとは思えない素行の男は、二十代の後半か、それとも三十代の前半か――見事なブロンドに染まっている頭と、双眸を覆い隠しているサングラスが、外観年齢を分かり辛くしているように思える。

 一方で、汚い物でも見るかのような目で泰助を睨み付けている少女は、泰助と同年代だと窺える。堅苦しいスーツを男とは対照的な、薄汚い青いジャージを上下に身に纏っていた。癖っ毛のような栗色の髪は男と同様に染めているのかと思われたが、肌の色白さや顔立ちは日本人離れしているように見えなくも無かった。

 兎にも角にも、考えるまでも無く怪しい風貌の二人組である。男は口調こそ気さくな風だったが――だからこそ、腹の内に何を秘めているのか分からない。

「あの……すいません」

 泰助がもう少し冷静であれば、二人を無視していたのかもしれない。それほどまでに追い込まれて――切迫していたからこそ、這い蹲りながら二人に向かって口を開いてしまった。

「助けてください……追われてるんです……」

 状況も何も知らない相手に助けを求めた所で、果たして何の意味があるのかと――言った後でそれに気付いたが、意に反して口の端を微かに釣り上げた男は「いいよ」と頷いてから、続けた。

「ただし、タダでとは言わない。それに見合う報酬を払ってくれるというのであれば、助けてあげよう。ギブアンドテイクだ。分かるかい?」

「払います。いくらでも払いますから。どうにかしてください」

 二つ返事だった。

 逡巡している余裕など無い。どちらに転んでも泰助は金を失うが、望まない金を渡すくらいであれば、望んで金を渡す方が遙かにマシだと――そう思った。

「で、そのどうにかしてほしいという相手は」徐に片手を上げた男は、泰助の後方を指さした。「そこの二人でいいのかな?」

 肩越しに背後を振り返ってみると、階段を上ってきた河田と目線がかち合い、間もなくして橘も上ってくる。二人は泰助と――その背後の男女二人組を交互に見遣ったが、それだけで大人しく引き下がってくれる訳が無かった。

「井々野。こんな所で油売ってないでさ、早く遊びに行こうぜ。な?」

 普段は決して見せる事の無い笑顔を浮かべながら、河田が歩み寄ってくる。人目に付く場所では、このように友人の振りを装って、どこかへ連れていくというパターンが常だった。捕まるまいと必死で足掻きながら、泰助は河田と橘を指差している男に対して「そうです」と――半ば叫ぶようにして言った。

 その返答を受けて、男は満足気に頷く。

「承った。細かいお金の話は後回しにするとして……じゃあ、後は頼むよ」

 言いながら、男は指差していた手を下ろし、そのまま足元に居る少女の頭を撫でるようにしたが――栗色の髪に触れた瞬間、小バエを払うようにその手は弾かれた。

「これって、契約が成立したと――そう考えても?」

 不機嫌そうに表情を歪めながら、少女は頭上の男を見上げる。男が少女に何を頼んだのか気掛かりだったが、それよりも「契約」という言葉が意味する所が全く理解できない。泰助は男に助けを求めただけであって、それ以外の話は何もしていないのだから。

「まあ、仮契約という事にしておこうか。色々と説明するより、実際に見てもらったほうが早いからね」

 男の返答に一応は納得したのか、少女は「タダ働きにならなければいいけど」と言いながら、気だるそうに立ち上がった。男が二人を追い払ってくれるのだろうと――そう思い込んでいただけに、驚きを禁じ得なかった。

 ――無理だ。女の子ひとりで、どうにかできる訳が無い。

 自分と同じくらいの背丈である少女を制止しようと思ったが、そうする為に立ち上がる事も、声を掛ける事も出来なかった。呆然と見上げているだけとなってしまっている泰助の脇を通り抜けて、こちらに歩み寄ってくる河田と橘の前に立ちはだかった。しかし少女の様子はどこまでも気だるそうで、本当に助けてくれるのか怪しい。

「あぁ? 何だお前」

 男の方ならまだしも、女の子が相手となれば、二人の態度が悪くなるのも当然といえば当然だった。少女を眼前にして立ち止まりこそしたが、河田の口から発せられた言葉には有無を言わせない威圧感があった。それでも表情ひとつ変えない少女に対し、橘が笑顔を浮かべながら一歩踏み出す。

「悪いけど、俺たち忙しいからさ、君と遊んでいる暇は無いんだよね。携帯の番号くらいなら、交換してあげてもいいけど?」

 言いながら、携帯電話をポケットから取りだそうする橘に対して、少女は気だるそうな調子で頭を掻きながら深い溜め息をひとつ吐いた。

「あのさあ……あんたらの耳が本物なら、これからアタシが何をしようか分かってると思うんだけど。それなのに微塵も警戒心が無いだなんて、馬鹿としか言いようがないというか……まあ、馬鹿なんだろうけど」

「なんだと?」少女の言葉は河田の逆鱗に触れたらしい。ただでさえ険しかった剣幕が更に鋭さを増した。尤も、たとえ河田でなくとも、その言葉を受けて腹が立たない者はいないだろう。それが女の子となれば、尚の事である。

「もう一回言ってみろよ。お前が俺たちをどうにかするって? 笑わせんな。お前みたいな女ひとりに何が出来るっていうんだ」

「だから馬鹿だっていうの。あんたら二人に対してアタシひとりという時点で、どうして警戒できずにいるのか――甚だ理解に苦しむわ」

 徐に、少女はジャージのポケットに手を入れる。そこに銃器の類を隠しているのだと、泰助は確信し――戦慄した。そうでなければ、二人に対してこれほどまでに挑発的な態度を取れる訳が無い。

「まあ……馬鹿の考えている事なんて、端から理解するつもりなんて無いけど」

 言いながら取り出されたのは――しかし、銃器の類とは懸け離れた――そして、この場の雰囲気に全くそぐわない、けん玉だった。十字状の剣の先に赤い玉が刺さっている、誰しもが一度は触った事があるであろう有名な玩具だった。銃器で殺人沙汰を起こされるのは泰助の望まない所だったが……。

「それで何をしようっていうんだよ」

 泰助が抱いた疑問を橘が代弁した。例えそれを振り回した所で、二人が相手では無力にも等しいだろう。

 しかし少女は橘の言葉には応えずに、けん先に刺さっている赤い玉に手を掛ける。よくよく見てみると、そのけん玉は剣と玉が糸で繋がっていない状態の物だった。けん先から抜かれて少女の手の中に収まるそれは、穴が空いただけの赤い玉――と言っても差し支えないだろう。

「同じ事を何度も言わせるつもりじゃあ、ないわよね。もう、言わせないけどね」

 赤い玉を真上に向かって放り投げた。直後、少女は先までの気だるそうな様子から遙かに懸け離れた俊敏な速度で橘の眼前に迫り――口を開いた橘が何か言おうとする前に、玉を失った十字状の剣のけん先を、喉に突き刺した。

 宣言通り、橘の口からそれ以上の言葉が出てくる事は無かった。見開かれた両の目が少女を睨み付け、せめてもの抵抗を試みようとしたのか僅かに身を捩らせたが、けん先が引き抜かれると同時に、文字通り崩れるようにしてその場に倒れていった。

 立ち上がろうとしていた泰助は、腰を落として再び床に倒れ伏せる。動こうとしない橘を見――血の気が急激に引いていくのを実感とした。夏場であるにも関わらず、全身を貫くような悪寒が身体の芯から広がっていくような、気味の悪い感覚に見舞われた。胃の底から込み上げてくる吐き気が、思考を鈍らせる。視界が霞む。

 ――このままでは、河田も殺される。

 二人をどうしかしてほしいと頼んだのは、他でも無い、泰助である。しかし――だからといって、殺してほしいなどとは微塵にも思っていなかったし、頼んでもいない。死んでほしいと思った事は、少なからずあったとしても、だ。

 泰助が何か言う前に、河田は狼狽しながらも逃げ出そうとして走り出したが――直後に少女が投げ放ったけんが、彼の首に突き刺さった。言葉も無く仰向けに倒れ、それでもなお逃げようとしたのか、片腕を前方に伸ばして――ついには微塵にも動かなくなった。

 落下してくる赤い玉を片手で受け止めた少女は、先程の俊敏な動きはどこに行ってしまったのか、再び気だるそうな足取りで河田に歩み寄り、首からけんを引き抜いた。その瞬間、けん先が普通のけん玉の二倍近くまで長くなっているのを泰助は見た――ような気がした。今一度、目を凝らしてよく見てみようとした時には、すでにけん先の長さは元に戻っており、そこに赤い玉を戻されてしまっては、確認する術は無かった。

 ――できれば夢であってほしい。そうでないのであれば、このまま意識を失って、現実から目を反らしてしまいたい。

 どれだけ強く願った所で、そのような都合の良い展開が待ち受けている訳も無い。何も考えたくない衝動に駆られながらも、自分の言動を今一度思い返してみた。果たして、俺は罪に問われるのだろうか?

「お望み通り、どうにかしてあげたよ。尤も、君はそれどころじゃあ無いと思うけど……」

 一部始終を静観していた男が、車のボンネットからようやく降りた。二つの亡骸を前に震え上がっている泰助の正面に回りながら、彼は続ける。

「僕たちの仕事は、今しがた君が見た通りだ。人を殺す勇気も根性も無い人の代わりに……この子がその人の殺意となる」

 男は歩み寄ってくる少女の肩に手を置こうとして、やめた。宙を漂う羽目になったその手は自身の顎に行き着き、考えるような仕草になった。

「そうだな。もっと端的な言い方をするなら……殺し屋かな。一応、僕たちの業界では『私刑人』――私の処刑の、私刑だ――なんて言ってるけど……まあ、この際、名前なんてどうでもいいんだけどね」

 視線をさまよわせ続けていた泰助が微かに肩を振るわせる。ようやく男を見上げたその顔には、相手に対するあからさまな恐怖と――微かな怒りが滲み出ていた。

「で、でも……殺してくれなんて……」

「一言も言ってない、って?」白い歯をちらと覗かせて、男は鼻で笑う。「君の目を見れば分かる。こいつらを殺したい――殺してほしい、死んでほしい! 君は人が良いみたいだから、そう思ったとしても考えないようにしているみたいだけどね。しかし、目は口ほどに物を言う」

「…………」

 そんな事、微塵にも思ってなどいないと――言い切る事が出来ずに、口を閉ざしてしまった。自分を迫害していたクラスの人間を少なからず憎く思っていたのは事実だ。それでも、憎かっただけであって、それ以上は何も思わないようにしていた。

 しかし、どうしたって考えてしまう時はある。男が言った通りだった。こいつらを殺したい――殺してほしい、死んでほしい! それは今までに何度となく思ってきた事ではあったが、その度に泰助は否定し、何も考えなかった事にしてきた。そのような非道徳的な感情で動いてしまえば、自分もこいつらと同類に、それ以下に成り下がってしまう。それだけは、どうしても許されない――。

「殺したかったけど、君には出来なかった。偏に臆病だったからね。そんなんじゃあ、ない。自分はこの連中と同類になりたくなかったからだと、君は否定するかもしれないけど、僕は君のそんな考えこそ否定したいね。明確な殺意を抱いているのに、それを行動に移す事が出来なかったのだから。良心? 道徳? 法律? それこそ言い訳だ」

 男の言葉を更に否定する言葉が見つからず、泰助は俯く事しか出来なかった。否定する意味が無いのだから、言葉が見つからなくて当然である。もしも自分が、河田や橘と同等の力を有していたとしたら、無抵抗を貫いてはいなかったかもしれない。

「おっと。勘違いしないでほしいんだけど、僕は君を責めている訳じゃあ無い。僕たちは、言うなれば弱者の味方で――商売相手だ。そうでなければ、君を助けるだなんて、そんな面倒な事はしないよ」

「あんたはただ話してただけでしょうに」

 その場でしゃがみがら言う少女に対して、男は「仰るとおりで」と笑った。

「助けるって言ったって……助かりませんよ」

 呟くような泰助の声は今にも消え入りそうだったが、男の笑い声をかき消すのには充分な威力を有していた。しかしそれでも、男が湛えている笑みは消えない。

「自分を虐めていた二人が殺されて、自分が疑われない道理は無いと――そういう事だろう? 警察に捕まったりでもすれば、助かっても助かりきれないからねえ」

 そこまで分かっているのなら、何故このような暴挙に打って出たのかと――口にする事は出来なかった。

「何で分かっているのかって、そりゃあ、人を殺したいと思っている人間なら、少なからず考える事だろう。その危険性を決して無視できないから、臆病な人間は行為に及ぶ事が出来ない。危険性を無視する奴は、ただの馬鹿だけどね。これくらい、君の目を見るまでも無く分かるよ。

 どうでもいい事をだらだらと喋ったけど、結論から言うと――どうでもいい事をだらだらと喋った時点で、結論も何も無いと思うけど――君の心配は杞憂だ。僕たちは報酬としてお金を貰う為に、人様のお命を頂戴している訳だからね。依頼主が警察に捕まってでもしら、僕たちとしては大損で、論外だ。だから、君がそうならないように努めるのも僕らの仕事の内だ」

 ――タダでとは言わない。

 ――それに見合う報酬を払ってくれるというのであれば、助けてあげよう。

 男の言葉を思い返す。単に人を殺しただけであれば、この二人には何のメリットも無い。泰助を陥れるという目的だったとしても、その為にだけに人を殺す意味は、果たしてあるのだろうか。

 そこまで勘ぐるくらいであれば、二人は単純に――男の言葉通り、金が目的で殺したのだと考えた方が良いのではないかと、思う。泰助が殺人の現場に遭遇したのは、言うまでも無く今回が初めてだが――素人目に見ても、少女の動きは常人のそれとは懸け離れており、明らかに手慣れている感があった。けん玉で人を殺せる人間が、只の人間だと考える方が無理だというものだろう。

「君が疑われる可能性は、少なからずあるだろう。だが君は殺していない。それだけは変わりようのない事実、真実だ。どうしても堪えられないというのであれば、あるいは僕たちが殺した現場を目撃したとでも言えばいい。それくらいで捕まる僕たちじゃあ、ないからね。その点に於ける心配はいらない」

 二人の心配など全くしていないが、男の言うとおり、泰助が心配する必要は無いのかもしれない。

「でも俺は……確かに、いくらでも払うとは言いましたが……。多くても数万くらいだろうと思ってたので、人殺しに見合う報酬となると……」

 間違いなく、桁が一つ、もしくは二つは増えるだろう。泰助に貯蓄が全く無い訳では無いが、それでも払えるのはせいぜい数万程度で――そのような端金で、殺し屋が納得してくれるとは思えない。もし払えなかったら、自分が殺されてしまうのではないのかと、泰助は危惧してしまう。

「心配には及ばないよ。さっきも言ったけど、僕たちは弱者の味方、消費者の味方だ。僕のモットーは『早い』『安い』『安全』だからね。高校生――かな? の君に対して、莫大な金額を請求したりなどしないさ」

 まあ、柳の婆さんなら分からないが――と、よく分からない事を呟いてから、続けた。

「そうだね。今回は特例中の特例で……契約を交わしていない状態での依頼だった事だし、少しばかり減額して……」

 組んでいた腕をほどいた男は、右の手のひらを開いてみせる。それが金額を示している事に泰助が気付くまでに、一拍の間を要した。

「ご……五十万、ですか」

「まさか」開いているそれを振りながら、男は笑った。「五万だよ」

「五万」

 男から提示された金額を反芻した。その程度であれば、難無く払う事が出来る。しかし、本当にその程度の――それこそ端金レベルの金で、二人は満足なのだろうか。どう考えても、人をひとり殺すという行為に見合う金額とは思えない。その破格の裏には何かあるのではないかと、勘ぐらずにはいられない。

「これでもかなり安くしたつもりだけど、学生という身分にとっては大金だろうからね。もし一括で払えないのであれば、分割でも構わないよ」

「そんなんだから、車上荒らしだなんて面倒くさい事をする羽目になるんだよ」

 満足気な男とは対照的に、少女はあからさまに不機嫌で――不満気だった。

 車上荒らしとは――つまり、この二人は金品を奪う目的でここに居ただけであって、今しがた男が腰掛けていた車も、赤の他人のものなのだろうか。二人を最初に見た時点で漠然とした不信感は抱いていたが、車上荒らしだとは思ってもみなかった。

 それ以前に、二人は殺人者で――自分は共犯者である。

「まあ、お陰でこうして仕事の話が転がってきたんだから、結果オーライという事で許してやってくれよ」

 照れ隠しのような笑みを浮かべる男だったが、しかし少女の機嫌は依然として損ねたままだった。或いは、先程からの様子を見るに、不機嫌そうに見えているだけであって、本当は全くもって機嫌を損ねていないのかもしれない。ただただ気難しそうな相手だ。

 少女の無反応を返事として受け取った男は、泰助の方に身体を向ける。

「さてと、話が反れたけど……どうする? お金を払ってくれるかい? 五万という数字に不満なら、まだまだ交渉の余地はあるんだけれど……ご覧の通り、車上荒らしだなんてみっともない事をしなくちゃあいけないくらいに僕たちはお金に困っているからね。出来ればこれ以上の値引きは勘弁願いたいんだけど……」

「人殺しよりも、車上荒らしの方がみっともない……ですか」

 言いながら、相手の神経を逆撫でしてしまったかもしれないと危惧したが――しかし、男は笑みを浮かべたまま「そうだね」と肯定した。

「人様のお命を頂戴する事が僕たちの仕事だからね。飽くまでもお金の為であって――好きで殺している訳じゃあ、決して無いよ。それを恥ずかしいと思う必要など、どこにあるかな」

 質問に対して質問で返されても、それに対する明確な回答が導き出せる訳も無い。

「まあ、君には関係の無い話――」

 考え倦ねている泰助を余所に、男は勝手にそう完結させようとして、不意に口を閉ざした。次に男が何か言う前に、少女は立ち上がりながら後方を――泰助が上ってきた階段の方を見遣り、そちらへ向かって徐に歩を進める。

 誰かが階段を上ってくる音が聞こえてきたのは、その直後だった。男の様子を見るに、その人物が知り合いの類で無い事は明白であり――泰助は心臓が跳ね上がるのを実感とした。全く関係の無い第三者にこの現場を目撃されれば、それは最悪の事態となり得る。どんなに自分は関係が無いと言い張った所で、何の意味も成さないのは明白だ。

 しかし、そうと分かった所で泰助にはどうする事も出来ない。この状況をどうやって打開するつもりなのかと――少女の様子を窺ってみると、彼女はジャージのポケットから再度けん玉を取り出した。

 それで何をするのか、考えるまでもなく――考える余裕すら無く、階段から姿を現した中年の女性に対して、少女は駆け寄りながらけん玉を振るう。大皿の部分で頭部を殴打された女性は、言葉のひとつも上げられずに倒れ掛かったが――肩に担ぐような形で少女が受け止めた。荷物でも運ぶように軽々と担いでしまう少女の筋力は大したものだが、しかし、そんな事に感心している場合では無い。

「何も、殺さなくても……」

 思った事をそのまま言ってから、泰助は後悔の念に駆られた。二階に来ようとしている人間を、他にどのような方法で食い止められるのだろう。いや、他に方法はいくらでもあるかもしれないが――それでも、せいぜい少しばかり時間稼ぎが出来る程度で、その間に二つの死体をどうこう出来るとは考えにくい。

 本当は安心していたくらいで――それでも、人殺しと同類にはなりたくないという意地が否定させてしまい、しかし、どこまでも矛盾している。滑稽とすら思えた。

「いやいや」と、表情に再び笑みを取り戻した男が、かぶりを振りながら泰助の言葉を否定する。

「殺しちゃあいないよ。一銭の特にもならない人間を殺す必要なんて全く無いからね。ちょっとばかし眠ってもらっただけだ」

 何もしていないにも関わらず、あたかも自分がやってみせたような男の説明である

 「そういう事」が出来るのであれば、あるいは河田と橘を殺さずに済む方法もあったのでは無いかと、そう思ってしまったが――後の祭り。

 無言で――かつ気だるそうな調子で、少女は河田と橘の側に女性の身体を無造作に放り投げた。乱暴的にも程があるその扱いに言葉を失いつつ、泰助は女性の表情を恐る恐る窺ってみたが、しかし生きているのか死んでいるのか、見ただけではよく分からないというのが本音だった。

「このおばさんにはちょっと気の毒だけど、事件の第一発見者となってもらおう。目が覚めたらすぐ側に死体っていうのは、なかなかにトラウマものだよねえ。あ、おばさんを気絶させたからといって、料金が加算される訳じゃあないから安心していいよ」

「……そうですか」

 そんな心配など微塵も無かった――そもそも、料金が加算される事態など全く想定していなかったのだが、とりあえずそう答えておく事にした。見た目はまさにヤクザかチンピラだが、その見た目に反して非常にフランクで気さくであり、故に反論してもよさそうな気がしないでもなかったが――しかし、泰助の方が明らかに立場が下である以上、下手な事は言えなかった。

「さて、お喋りするのは悪くないんだけど……そろそろ結論を急ごうか。またいつこうやってイレギュラーが発生するとも分からないし。その都度、彼女に働いてもらえれば済む話ではあるんだけど……」

 少女の方を見遣り――不機嫌そうな彼女の表情に対して、男は苦笑を浮かべる。

「タダ働きがお嫌いのようだから、出来れば避けたいかな。君だって、こんな所にいつまでも居たくはないだろう」

 それは、言わずもがなだった。

「お金を払うか……それともお金を少しだけ払うか、はたまた分割で払うか。払わないという選択肢もあるけど、あまりお勧めしないね。君の為にも、僕たちの為にも」

 払わなかった場合、果たしてどうなるか。男はハッキリと言おうとしないが――だからこそ答えは明確であり、交渉の余地など全く無かった。

 それでも躊躇いはあった。大人しくその言葉を口にするべきでは無いと――頭では分かっていたが。それでも、

「払います」

 大人しく従う他ないというのも分かりきっていた泰助には、その言葉を口にするという選択しか存在し得なかった。自分の命と自分の財産のどちらが重いかなどと、天秤に掛けるまでも無い。

「これで、晴れて契約成立だ」

 よかった、よかった――と、男は嬉しそうな笑みを表情に湛えながら両の手のひらを合わせ、パン! と、痛快な音を立てた。それは立体駐車場という場所ではよく響いてくれたが、すぐに空虚に飲み込まれて、静まり返る。

 契約の成立は、彼らにとっては間違いなく嬉しいであろうニュースの筈なのだが――少女の方は相変わらずだった。出会って間もないというのに「相変わらず」と言ってしまうのは如何なものかと思うが、そう表現できる程度に、最初から一貫して不機嫌そうな様子である。

「あ、あの――」

 と、不用意に口を開いてから、泰助は少なからず後悔の念に駆られた。自分の身がそれなりに保証されているからとはいえ、やはり訊くべきでは無いと――そう思い直したのだが、男が「うん?」と聞き返してきてしまっては、撤回の余地が無かった。

「もしも……もしもなんですけど、払わないって言っていたら、どうなっていたんですか」

 咄嗟に嘘を点く器量が無かった為、思った事をそのまま口にするしか無かった。尤も、そうする事が出来たのも、やはり自分の身がそれなりに保証されているからなのかもしれなかった。

「僕たちが生活に困っていただろうねえ。この蒸し暑い中、フラフラと手頃そうな駐車場を求めて歩き回って、車上荒らしに勤しんでいたかもしれない。そう思うと、ぞっとするなあ。いやあ、君にはホント、感謝する予定だよ」

「…………」

 金を受け取っていない間は、感謝するつもりは無いのだろうか。彼らにしてみれば、まさに死活問題なのだから、当然と言えば当然なのかもしれない。

 それ以前に、男の返答は泰助の予想の範疇を超えており――故に返答に困った。浮かべる表情にも困る始末で、無意識に怪訝そうな表情でも浮かべていたのかもしれない。

「殺されていたね――とでも言えば、満足したのかな? ああ、自分は殺されずに済んだんだ――なんて、どうでもいい安心感が欲しかったのかい?」

「そんな事は……」

 無い、と否定するのは簡単だったが、きっぱりと否定できずに沈黙してしまう程度には、男の発言は的を得ていた。ど真ん中を射抜いていた。そう言われる事で、自分は本当に安全なのだと――そういう確信が欲しかったのかもしれない。

「残念ながら――いや、喜ばしい事だと思うけど、支払いを拒否されたからと言って、僕たちは君を殺すなんて不毛な真似はしないよ。さっきも言った通りだけど、殺した所で一銭の儲けにもならない人間を殺す意味は全く無いからね。それとも君は、殺されたい願望でもあるのかい?」

 そんな願望など断じて無い――という回答えを待つまでも無いと、そう判断したのか、「それで、だ」と勝手に続けて、スーツの内ポケットに右手を突っ込んだ。

 まさか、殺さないと言っておきながら、そこから拳銃を取り出すのではないかと――泰助は息を飲んだが、徐に取り出されたのは、どこにでもありそうな手帳と、どこにでもありそうなボールペンだった。

「君の名前と、住所、あと電話番号――は、いいか。電話代も積もれば馬鹿にならないかなねえ。とりあえず、その二つだけ教えてくれないかな」

 その口振りだと、もしかしたら二人は携帯電話を所有していないのかもしれない。もしくは、所有できない何らかの事情があるのかもしれない。多少なり不便なだけで、それが無ければ生活できないという訳ではないが、このご時世において携帯電話を所有していないのは珍しいと思った――が、泰助にとって、そんな事はどうでもよかった。

 ここで嘘の情報を与えるか、否か。

 河田と橘が泰助の名字を口にしていた以上、名前――苗字については、諦めるしかない。だが、出鱈目な住所を教えておけば、二人が自宅を訪れるのは不可能になる。

 ――そこまで考えた所で、全て無駄な事だと悟った。例え出鱈目な住所を教えたとしても、通っている学校を知られてしまっているにも等しいとなれば、まるで意味を成さない。寧ろ逆効果とさえ言えよう。騙した事がバレた――即ち、金を払う気が無いと知られたら、何をされるのか分かったものでは無い。殺すつもりなど無いと明言されていても、だ。

「俺の名前は……井々野、泰助です。住所は――」

 逡巡する必要すら無かった。結局、泰助は正直に自分の本名と、正確な住所を伝える羽目となってしまった。それを満足気な様子でメモした男は、手帳を元の内ポケットに納める。

「ありがとう。近い内に君の家を訪ねさせてもらうかもしれない。もちろん、君の家族や近所の住人、そして、警察に怪しまれないようにね」

 どのような方法で怪しまれないようにするのだろうか――という疑問が生じたが、考えても仕方の無い事だと察するのに時間は要さなかった。その道のプロである男が言うのだから、怪しまれないのだろう。

 それよりも何よりも、優先して確認したい事があった。

「あの、そっちは……教えてくれないんですか」

 何を? と、言いたげだった男の表情はすぐに晴れ、得心したように「それもそうだね」と頷いてから、続ける。

「君の個人情報を教えてもらっておいて、僕たちが何も教えないんじゃあ、アンフェアにも程があるというものだ。信用問題に関わる」

 ただし――と、男は付け加える。

「仕事柄、常に素性を隠し続けなければならないからね。僕たちの名前は教えるけど、君が知り得る情報は偽物だ。本当の名前は名乗らない。住所も偽物――と言いたい所だけど、それ以前に僕たちには帰るべき家が無い。完全なる住所不特定者だ。まあ、見栄を張って言うべき事では無いけどね」

 それはつまり何も教えていないのと同義であり――アンフェアにも程があるというものだった。


 道行く全ての人間の視線が、電車に乗っている全ての乗客の視線が、駅の構内ですれ違う全ての人間の視線が、自分に向けられているのではないのだろうか。

 それは考えるまでもなく自意識過剰であり――平静を欠いている泰助でも自覚している事ではあったが、しかし、自身も殺人に関与しているという現実が認識を狂わせる。

 否、関与しているという次元では無い。他ならぬ、井々野泰助自身が、事件の真犯人なのだから。

 ――僕の名前は石南花で、僕のパートナーであり、君の殺意である彼女の名前は、アベリアだ。いい名前だろう?

 電車の揺れに身を任せながら――時には不安感に煽られ込み上げてくる吐き気に耐えかねて下車しながら、二人と別れる前に聞いた男の言葉を何度も思い返していた。

 偽名の時点でいい名前かどうかは判断しかねる、というのが率直な感想だった。同時に、名前など知らない方がよかったと、後悔する。名を教えてくれないのは不公平だと思ったのは事実だが、実際に知った所で、立場が公平になる事などある訳もなかった。

 寧ろ、無意味に名を知ってしまったが故に、いよいよ無関係ではいられなくなったと――そう捉える事も出来る。不用意に得た余計な情報は、それだけで全てを狂わせる原因となり得る。フィクションでも、ノンフィクションでも、それだけは変わらないだろう。

 どうにかしてそれを忘れられないものかと思うが、考えたくらいで記憶を都合のいいように操作できる程、脳というのは便利なものでは無く――考えれば考える程に、同じ言葉が頭の中で延々とループし続けた。

 何度も途中で下車してしまった為、自宅に辿り着いたのは、いつもより大幅に遅い時間となってしまった。

 大抵は――今日の様に、誰かに絡まれるような事が無い限りは、寄り道せずに真っ直ぐ帰宅するので、親に不審がられてしまうのではないだろうか。玄関を目の前にした泰助はそのような危機感を覚えたが、しかしいつまでも家の前で立ち往生している事は出来ない。深い息をひとつ吐いてから、ドアに鍵を差し込んだ。

 ただいまという言葉は口にしなかった。

 家族に見付かりたくないからという訳では無い。それも理由のひとつとして挙げられるかもしれないが、そもそも泰助は日常に於ける家族との挨拶を殆ど交わさない人間だった。おはようも、いただきますも、何もかも。つまりは、その程度の家族関係という事である。

 二階にある自分の部屋を目指す前にリビングの様子を窺おうと思ったが、そこに続くドアは閉まっていたため、断念した。親に何か言われるのも嫌なので、好都合と言えば好都合だったのかもしれない。

 足早に階段を上って自分の部屋に到着するや否や、荷物を無造作に床に置いて、倒れるようにしてベッドに身を沈めた。このまま眠れてしまえれば楽だったのかもしれないが、目を閉じた途端にあの光景が――昼間の惨劇が瞼の裏に鮮明な画となって蘇り、否応なしに身を起き上がらせた。

 ――それでも、俺は何もやっていない。あいつらの命を奪ったのはあの二人で、俺は手を出しちゃいない。

 ――自業自得なんだ。罰なんだ。報いを受けて然るべきだった。あいつらは、殺されて当然の事を今まで俺にやってきたんだ。だから、これでいい。

 ――俺が殺していないのは事実なんだ。万が一、警察が俺の所に来たとしたら、よく分からない二人組が、河田と橘を殺していったと言えばいい。偶然にもその現場を目撃してしまった俺は、命からがら逃げ延びて、今まで震え上がっていたと、そう言い逃れればいい。

 ――石南花という男の言葉を信じるならば、あの二人が警察に捕まる事などまず無いのだし、その警察がどう頑張った所で、自分が河田と橘を殺した証拠など見付かりっこ無い。

 ――それよりも、明日からの学校生活に期待しよう。クラスの人間全員が敵だが、その中心的存在だった二人が居なくなったとなれば、確実に影響は現れる筈だ。いじめが完全に無くなる事は無いにしても、以前より状況は改善されると、信じたい。

 気がおかしくなりそうになる度に、泰助はそう自分に言い聞かせてきた。いや、案外、既に狂っているのかもしれないと――そう思えなくもない。河田と橘を死に追い遣った真犯人である人間が、どうして狂わずにいられようか。

 狂っていない人間が、どうして人を殺せようか。

 再び――今度はゆっくりとベッドに身を沈めた。部屋を照らす照明がぼやけて見えるのは、気のせいでも錯覚でも幻でも無く、目に浮かんでいた涙のお陰だった。

 都合がいいと思った。涙で視界がぼやけている内は、現実を直視しないで済む――。

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