花言葉は「復讐」_2
老婆がまず確認してきたのは、岬田と柚木の本名と、その住所だった。
急に現実的な問題に差し掛かったので――元より現実的な話の筈だったのだが、そうとは思えなかった岬田は怪訝そうな表情を浮かべたものだった。
「名前を聞いただけて人を捜せるほど、あたしらは万能じゃあないよ。分からないというのなら、この話は無かった事になる」
その言葉を受けて慌てた岬田は、老婆を制しながら携帯電話を取り出し、電源を入れたが――しかし、咄嗟にそれを取り出したはいいものの、柚木の連絡先など知らなかった崎田には――当然、住所も知らなかった。会社で他の社員が柚木と会話を交わしている際、どこに住んでいるのかという話を何度か耳にした覚えはあるが、嫌いな人間がどこに住んでいようと関係の無い話であり、最寄り駅程度しか覚えていない。
岬田が務めていた勤務先の住所を教えれば、あるいは――という考えも思い浮かんだが、それでは駄目だろうと思い直した。そこで待っていれば、遅かれ早かれ柚木を見付ける事は可能だろうが、老婆と少女がそのような手間を受け入れるとは思えず、岬田もまた、柚木の後を追ってまで住所を突き止める気にはなれなかった。
老婆を止めるために携帯電話を取り出したはいいが、このままでは同じを結果を招いてしまう。最終的に岬田は、何となしに開いたアドレス帳に載っていた愛海の名前を見、彼女から聞き出すという手段を選択した。別れを突きつけてから間も無いというのに電話を掛けるというのは少なからず抵抗を覚えたが、それでも現時点で確実に聞き出せる相手は愛海だけだった。このタイミングなら、まだ柚木と行動を共にしているだろうという憶測もある。
それ以前に、果たして愛海が電話に出てくれるのだろうかという不安があったが――しかし、岬田の意に反して、愛海はすぐに電話口に出てくれた。
岬田はまず始めに自身のい至らなさを詫び、それから「柚木に詫びに行く」という名目で、住所を聞き出そうと試みた。柚木さんには常日頃から世話になっていたのに、最後まで本当に大人げない対応をしてしまった。だから、お詫びに伺った方が良いと思ったのだけれど、柚木さんの住所が分からない――と。
特に疑う様子も無く、愛海は柚木の住所を教えてくれた。ただし、今の岬田はメモを取る為の道具を何一つとして所持していなかったので、彼女から聞いた住所をその場で復唱する形で老婆に伝える運びとなった。
愛海に礼を述べ――もう二度と電話を掛ける事は無いだろうと思いながら通話を終えた岬田は、柚木の名前と、次いで自身の名前と住所を老婆に伝えた。名詞を持っていればその手間は省けたのだが、コンビニを出た後に破り捨ててしまっていたのを思い山し、少なからず後悔した。
「岬田亮平」
ボロボロに擦り切れている手帳らしき物に柚木と岬田、両者の情報を書き記してから、老婆はその名前を確認するように呟く。それから手帳を腰に提げてある巾着袋に納めてから、岬田の顔を見上げた。
「お前さんの依頼、確かに承ったよ。後はこの子の仕事が終わるまでのんびと待っていてくれ。……ふむ、今日の夜までには終わるだろうから、明日の朝、テレビでも点けておく事をお勧めするよ」
近い内に、あんたの家を訪ねるよ――そう言い置いて、老婆は岬田に背を向ける。とうとう表情を変える事の無かった少女は、最後に岬田を一瞥するその時まで、無表情だった。
「ちょ……ちょっと、待ってくれ」
一方的に立ち去ろうとする二人に対して、岬田は慌てて呼び止める。その言葉に対して足を止めた二人は、それぞれ同じように――肩越しにこちらを振り向いた。
「その……まだ、二人の名前を聞いてない。俺が名乗っておいて、二人が名乗らないのはおかしいだろう」
訊いた所で何が変わるという訳でも無い。それでも、知らないよりは知っていた方が良い。名前の分からない相手ほど、空恐ろしいものは無いと――岬田は思う。
老婆は何か考えるように少しだけ空を仰いで――それから一拍の間を置いてから岬田に視線を据えた。
「それもそうかの。お前さんが不公平だと言うのなら、名乗っておくとしよう」
不公平ではなく、常識の範疇であるように思えるのだが――しかし、この二人に常識などといった概念は意味を成さないのだろう。
「あたしの事は、柳とでも呼んでおくれ。そしてこの子は」少女の方を見遣った老婆は、自分で名乗ろうとしない彼女の代わりに、続けた。
「あざみ――だよ。いい名前だろう?」
――死亡していた男性は――にお住まいの、柚木明彦さん、二十六歳で、柚木さんの住むマンションの付近で倒れており、帰宅途中の男性が発見し通報したとの事です。警視庁は、柚木さんの頭部が何かで貫通されているような傷がある事から殺人事件とみて、特別捜査本部を――
失い掛けていた意識の中、テレビから流れてくる柚木の名前を耳にした岬田は、文字通り飛び跳ねるようにして起き上がり――足取りが覚束ない為にそのまま倒れ込んだが、それを無視するように床を這って、テレビにしがみ付くようにしてその画面に見入った。
昨日の早朝、代価を払う代わりに柚木を殺すという約束を交わした二人――柳と名乗った老婆に、あざみと紹介された少女の二人組と別れた岬田は、半ば夢現で帰路に付いた。
電車の定期券だけは所持していた為、自分の住まうアパートまで帰るのはさして問題なかったのだが、しかし部屋の鍵は紛失してしまっていた為、大家に頭を下げて開けてもらう運びとなった。その時の岬田の呆けた様子に、大家の中年男性は多少なり訝ったものだが、そんなに親しい付き合いでは無かった為、軽く注意した程度で終わってしまった。
諸種様々なゴミが散乱している――よく言えば生活感に溢れた、悪く言えば単純に汚い部屋に帰宅した岬田は、何をするのでもなく一直線に布団に寝転がった。それから思い出したように上体を起こしてからテレビを点け、そして再び寝転がる。
後はただ、ひたすらに自問自答するのみだった。
本当に、これで良かったのだろうか――。
後悔はしていなかった。柚木を憎んでいたのも、恨んでいたのも――そして、殺そうと思っていたのも事実で、それを代わりにあざみが実行してくれるというのだから、後悔する余地など無い。年端のいかない子供に人殺しを頼むなど、どう考えても大人のする事では無いという思いも少なからずあったが、彼女らは今まで「そうして」生きてきたのであって、今回も、「そうする」だけなのだろう。
それでも――と、岬田は天井を見上げながら――何も無い一点を見据えながら、思う。他に解決策はあったのではないかと。
無論、そんな事を考えた所で――仮に解決策を見出せたとしても、後の祭りである事は分かりきっている。柳とあざみについて分かっているのはその名前だけで、二人の住所はおろか、連絡先すら知らされていない。岬田が訊かなかったのが悪かったのかもしれないが、訊いた所で二人は答えなかったという可能性が高い。そうなれば、後は事が終わるまで待つ他なかった。
そもそも、解決策といった所で――果たして何をもってして解決とするのか。柚木が岬田に対して謝罪すればいいのか。岬田が会社に復帰できればいいのか。それとも、愛海が岬田の元に戻ってくればいいのか。
何れにせよ、岬田ひとりの力ではどうする事も出来ない。故に殺人という形で、柳とあずみに解決してもらう事を望んだのだ。今更になって善人振った所で、何の意味も無い。
詰まる所、岬田は不安で仕方がなかった。後悔はしていなかったが――後悔していなかっただけで、拭いきれない不安はあった。
柳とあざみの二人は、果たして本当に柚木を殺してくれるのかと。それ以前に、自分を騙していたのでは――警察に通報されたのではないのかという不安が、拭っても拭っても、炎天下における汗の如く滲み出てくる。
信用してくれる他ない――と、柳は言っていた。あの二人を完全に信用した訳ではなく、寧ろ全く信用していないくらいだったが、あざみには何かしらの化け物じみたものがあり――その片鱗を見せ付けられている手前、嫌でも信用する他なかった。信用する振りをしていたといってもいい。
岬田から金を騙し取る――というつもりでは無いのだろう。柳の言葉が本当であれば、あざみが柚木を殺すまで一切の金銭を要求するつもりは無いのだから。現に、前渡金など請求せずに二人は岬田の前から立ち去ってしまった。柚木を殺さずに――殺したという嘘を吐いて、代金を請求してくるかもしれないが、柚木の安否は愛海に連絡すれば、確認は容易である。金を騙し取るには、条件が悪いだろう。
そうなると、二人は警察に通報して、岬田を陥れるという可能性があるが――しかし、これは二人にメリットがあるとは思えない。岬田が困っている所を見て楽しむだけだと言われればそれまでとなってしまうが――仮に岬田が逮捕されるような運びになったとしても、さして大きな罪に問われる事は無いだろう。社会的地位を失わせる目的があったとしても、今の岬田は既にそれを失っているも同然であり、これも大した意味を成さない。
ただ――それでも、岬田にとって、警察という権力の存在は脅威である。岬田でなくとも、そうであろう。無能だの税金泥棒だの批判されていても、その絶対権力が存在するだけで、ある程度の抑止力となりえるのだから。岬田が自身の手で柚木を殺めるのを諦めざるを得なかった最たる原因も、結局は警察に――法にあるのだ。
その絶対権力がいつ訪れてくるのか分からない恐怖と不安が、岬田を延々と布団の上に縛り付けて離さなかった。逃げる事を考えないでも無かったが、通報されたという確証も無いのにそのような行動に走ってしまうのは、反って危険である。仮に柚木が殺されたとしたら、彼と険悪な関係であった岬田が疑われるのは自然で、逃げればそれを肯定してしまうも同然となってしまう。
家に居ながらにして自ら軟禁されるような状況を生み出してしまった岬田は、不安と恐怖に身を震わせながら布団に埋まり続けた。時間の経過と共に部屋を蹂躙する熱気も、徐々に身体を蝕んでいく空腹も関係ない。一刻も早く眠ってしまいたかった。次に目が覚めた時には全てが解決されている事を祈るように――胸の前で両の手を組み合わせながら目を閉じ、ただひらすらに埋まり続け――目を閉じ続けた。
そうしてどれくらいの時間が経過したのかは分からない。一時間かもしれなかったし、半日かもしれなかったし、それ以上だったかもしれなかったし――元より一瞬たりとも眠りに就いてなかったのかもしれない。尤も、どれだけ寝ていたかというのは問題では無かった。そうしている内に失い掛けていた意識の中、テレビから流れてきた柚木の名前を耳にした岬田は、文字通り飛び跳ねるようにして起き上がったのだった。
テレビの画面には事件現場と思わしき場所の映像が流れていたが、ニュースキャスターが事件に関する報道を終えてから間もなくして、別のニュースに切り替わってしまった。画面の左上に表示されている時刻を確認してみると、午前の四時半を回ろうとしている頃だった。
この時間帯であれば大半のテレビ局でニュース番組が流れているであろうと踏んで、岬田はひっきりなしにチャンネルを切り替え続けた。暫くそうしていると、違うニュース番組で柚木が殺害された事件に関する報道を見付け、それが終わったら再びチャンネルを切り替え続ける。その繰り返しだった。
柚木は本当に殺された――。
テレビにしがみつきながら――柚木の名前が画面に出る度に、岬田は口の端を釣り上げ、歯を覗かせていた。今まで散々苦しめられてきた相手の命を、自分の意志で奪う事が出来た。しかも、自分の手を全く汚す事なく――だ。
私刑が如何に許されざる行為だと分かっていても、実際に殺したい相手が殺されたとなれば、善悪などまるで関係が無かった。できれば柚木の死体をこの目で拝んでみたかったと、そう思えるくらいには開き直っていた。
柚木が殺されたという報道を何回も観れば、それなりに状況は把握できるようになった。今日の午前一時頃に、柚木が住まうマンションの入り口前で倒れている所を、帰宅途中の男性が発見したという内容から察するに、帰宅する途中で殺されたと――大体の想像はつく。大方、あざみはマンションの付近で柚木が帰宅するまで張っていたのだろう。
ただし、どのニュースを観ても分からないのが、そのあざみが柚木を殺す際に用いた手段である。どの番組でも、「頭部を何かで貫かれている[#「頭部を何かで貫かれている」に傍点]」と報道されている。それはあまり耳にしない――曖昧な表現だと、岬田は思った。
撃たれたのでもなく、かといって刺されたのでもない。貫かれたというのは、一体どのような状態なのだろうか。何を用いて、如何にして殺したのか。
――人を殺す手段について、喋る事は出来んよ。知らん方がいいし、知る必要も無い。
柳の言葉を思い出した岬田は束の間表情を凍らせて息を飲んだが、表情に笑みが戻るまでに大した時間は掛からなかった。
「そうだ、殺したのは俺じゃ無い。あいつは殺されて当然だった。だから殺された――あざみが殺したんだ」
流れ続けるニュースを観ながら、確認するように――自身に言い聞かせるようにして呟く。あざみがどのような手段をもってして柚木を殺したのかは分からない――分からないが、凡人である岬田が思い付かないのであれば、一般的に考えられる凶器では無いのかもしれない。人殺しを生業としているのだから、そうだとしても何ら不自然では無い。得体の知れないあざみの身体能力を鑑みれば、寧ろそうであった方が自然ですらある。
気にはなったが、調べようも無いとなれば、諦める他なかった。下手に知ってしまえば、それこそ柚木のように殺されてしまう恐れがある。故に、岬田はそれ以上は考えないようにした。
程なくしてテレビを観るのをやめた岬田は、起き上がる前と同じように布団に寝転がった。早朝という時間帯である。捜査本部が設けられたといっても、現段階では大した進展も無いようで、報道する番組は多けれど情報は少なく、同じような内容が延々と繰り返されるようになってきた。最初こそ高揚したものの、変化が無ければ慣れが生じてしまうのは否めない。新しい情報が入ってくるまで、今後について考える事にした。
まずは金を用意しなければならない。
柳が提示した金額は三十万円である。仕事を依頼し――あざみがそれを成し遂げた以上、払わないという訳にはいかない。大金ではあるが、岬田にはそれが払えるだけの貯蓄はあり――だからこそ依頼をしている。払えない金を約束すれば、後にどれだけ恐ろしい目に遭うのかは想像に難くない。
問題は、払った後における当面の生活費である。代金を払う事は出来るが――しかし、そうしてしまうと生活に必要な資金が底を突いてしまうのが最大の問題だった。柳に頼めば、あるいは分割払いで許してくれるかもしれないが、収入源が全く無い現状で、それは急場凌ぎにしかならず、根本的解決にはならない。
せめて、どこかで紛失してしまった鞄だけでも戻ってきてくれれば、幾分か状況は改善されるのだが。今までに何度となくそう思ったが――そう思っただけで、それ以上は考えないようにしていた。今日明日の生活が掛かっている今、望みの薄い可能性などに頼るべきでは無い。
頼るとしたら――愛海だろうか。
情けないというのは重々承知している。酷く身勝手で、どこまでも浅慮だというのも痛感している。自分から別れを切り出しておいて、柚木を殺す目的でそれを謝罪して――その上、金をせびろうとしているのだ。虫のいい考えにも程がある。
しかし、背に腹はかえられないのだ。どんな形であれ人殺しに手を掛けてしまった以上、なりふり構っていられるような場合では無い。開き直っていると言ってもよかった。金を借りる行為など、人殺しと比べればどれだけ容易い事か――考えるまでも無い。
尤も、愛海から金を借りる事が出来た所で、それも根本的解決にならないというのは岬田も承知している。安定した収入を得る為には一日でも早く新しい職に就くべきであると分かっているのだが――しかし、柚木が変死を遂げた以上、警察の疑いの目が自分にも向けられる可能性は十二分にある。その脅威が完全に無くなるまでは、職を探す余裕など生まれそうにもない気がした。
優先すべきは、一刻も早く銀行やカード会社に連絡し、カードの使用を停止してもらう事だろう。本来ならば昨日の時点で連絡しておくべきだったのだが、それをどんなに悔やんだ所で過ぎた時間は戻ってこない。カードを悪用されていれば最悪の事態は免れられないが、そうなっていない事を祈るばかりである。
回らない頭でこれからの行動を黙々と考えていたからか、岬田は急激に空腹感を覚えるようになった。昨日から口にしたものといえば缶一本分の酒くらいのものなので、それは当然といえば当然だろう。薄汚れたスーツのまま寝起きしていたという事もある。まずは、何でもいいので腹を満たし――それから身なりを整える必要がある。愛海に連絡するにしても、銀行やカード会社に連絡するにしても今の時間帯では早すぎるのだから、それくらいの準備を整えるくらいの余裕ならいくらでもある。
天井の一点を見据えていた岬田は、そう思い立って上体を起こそうとしたが――直前に部屋を蹂躙したインターホンの音によって、自分の意志とは関係なしに飛び起きる始末となってしまった。
夜が明けてきている時間帯とはいえ、それでも時刻は午前の五時を回ってからまだ間もない。新聞配達の人間はいざ知らず、明らかに人の家を訪ねる時間帯では無い。
居間から臨める玄関のドアを凝視しながら、岬田は身じろぎひとつせずに息を飲んだ。明らかに人の家を訪ねる時間帯では無いが――しかし、人を捕まえるのに時間帯は関係ないだろう。ドアの向こうにいるのが警察だった場合、岬田には逃げる術が無い。
だが、例え警察が動いていたとしても――動いているのはニュースで見た通りだが、こんなにも早く岬田の元を訪れるものなのだろうか。そもそも、柚木を殺したのはあざみであって、岬田は一切の手出しをしていない。あざみが捕まったというのであれば、あるいは岬田の存在が知られているという可能性もあるが、それならば、あざみの逮捕がニュースで報道されていてもおかしくない筈である。
どうしたものかと逡巡している岬田を急かすように、インターホンの音が再び室内を蹂躙した。ここで居留守を装う事は出来るが――もしも訪問者が岬田の思った通り警察だった場合、居留守を装うのは得策では無いだろう。
それに、何もドアの向こう側に居るのが警察と決まった訳では無く――もしかしたら、ニュースを見て駆け付けてきた愛海という可能性も充分にありうる。
三度目のインターホンが鳴り響くと同時に立ち上がった岬田は、テレビを消してから玄関に歩み寄り、静かにドアを開けてみたが――そこに居たのは警察でも愛海でもなかった。
あざみだった。
相変わらずの無表情で――岬田よりも背が低いために、見上げるようにしているあざみに臆する理由は無い筈だったのだが、よもやこの時間帯に柚木を殺害した張本人が訪れてくるとは思わず、無意識の内に半歩ほど後退ってしまった。
「な……何の用だ」
あざみがどのような目的で訪ねてきたのかは定かではない。それでも、自分から何か切り出さない限りは口を開きそうになかったので、仕方なしにそう尋ねたのだが、眉を微かに動かしたあざみは、
「何の用だとはご挨拶ですね」と、静かに返してから、岬田が開けたドアの間を縫うようにして家に上がり込んできた。家人の意志をまるで無視しているその行動に、戸惑いと僅かな怒りを覚えたが――しかし、制する事も追い出す事も叶わず、結局は家に入れてしまう運びとなってしまった。
お邪魔しますの一言すら無い常識知らずのあざみは、岬田が何が言うまでもなく勝手に靴を脱ぎ、そのまま正面の居間に向かっていった。その傍若無人な振る舞いに対して特に咎める事も出来ずにいた岬田は、後ろ手に玄関の戸を閉めようとして、ふと思い留まった。
何の用があるのかは知らないが、あざみがここに来た以上、柳も行動を共にしているだろうと――そう思って、玄関から顔を覗かせてみたのだが、右を見ても左を見ても、そこに人の姿など無かった。これは一体どういう事なのかと首を傾げる。
「お婆ちゃんなら居ませんよ」背後からあざみの言葉が飛んできた。怪訝そうな表情を浮かべながら背後を振り返ると、居間に立っているあざみは更に続ける。
「今日は私ひとりで来ました」
「……何をしに来たんだ」
今度こそ扉を閉めた岬田は、鍵を掛けてから問う。
「何をしに? 決まってるじゃないですか。仕事の話をする為です」
「また、どうして……」
「それは、どうして私ひとりで来たのか――という意味合いでしょうか」
「ああ」岬田は頷いた。柳は柳で、決して話やすい相手では無いが、少なくとも、掴み所が全く分からないあざみよりは話が通じやすいだろう。
「お婆ちゃんは、飽くまでも仕事の話を持ち掛けるだけです。契約を交わした後は、私が一人で――あなたの殺意として行動します」
「殺意、ね……」
尤も、その殺意は今朝の時点で、向けるべき相手を見失って消滅してしまっている。ならば、今のあざみは岬田の殺意として行動する事は出来ない筈だが――しかしあざみは、岬田の言葉を受けても、それについては特に何も言わなかった。寧ろ、無視するような形で、少女は居間に置かれているテレビを見遣りながら話を進める。
「あなたからの依頼は、滞り無く完遂しました。今朝のニュースは、ご覧になりましたか」
「……見たよ」
重い足取りで戻りながら少女の目線を追った岬田は、幾分か気味の悪さを実感として、居間に踏み入れようとした足を止めた。自分で頼んだとはいえ、世間を騒がせている事件の犯人が目の前に居るという事実には、少なからず恐怖感を覚える。
「私を恐れているのは、筋違いではありませんか?」
沈黙しているテレビから視線を外したあざみは、無表情のそれを岬田に向けた。柳の時と同様、この少女も目を見れば「分かる」のだろうかと息を飲んだが――しかし、変に距離を取ろうとしている今の状態を見れば、誰でも察せられるだろう。
「柚木智久」
宣言するような調子で、あざみはこの世に存在しなくなった人間の名を口にする。
「あなたの意思が無ければ、命を絶たれる事は無かったでしょう。彼を殺した真の犯人は――あなただという事を、|努々忘れないでください」
忘れてなどいない。忘れてなどいなかったが、どこかで岬田は、自分は一切の関係が無いと――そう思い込もうとしている節があった。柚木の事など早く忘れて、一日でも早く生活を立て直さなければならない。だが、あざみがこの家を訪ねてくるような状況では、立て直す所の問題では無いのは明確である。
柳とあざみ。二人との関係を完全に断ち切る為にはどうすれば良いか、分かってはいるが――しかし、
「訪ねてきてもらって悪いんだが、金はまだ用意できていない。今日か明日中には、どうにかできると思うんだが……」
その場しのぎの為の口実ではない。実質、生活費が底を突いてしまっている現状をどうにかしなければならないのは事実で――その為に、今朝から行動を起こそうと考えていたのだから。あざみにどう脅された所で、今の岬田には一銭たりとも払えない。
「お金なら、いつでも構いません。都合のついた時に、きちんと払っていただければ、それで結構です」
「……それは、どうも」
不安材料のひとつは取り除けたが――しかし、金を請求しにきたのではないとなれば、どうしてここを訪れたのだろうか。
「最初にも言いましたが、私は仕事の話をしに来ただけです」
岬田の疑問を察したようなあざみの言葉だったが、だからといって、疑問は全く払拭されていない。
「仕事の話と言われてもな……。柚木はもう死んだのだから、仕事も何も無いと思うんだが……。これ以上、誰かを殺せと言うのか?」
そんな馬鹿げた話がある訳がない。ある訳が無いというのに、あざみは表情を微塵にも変えずに「そうです」と答えた。
「何回も同じ説明をさせないでほしいですね。契約が成立した時点で、私はあなたの殺意として――契約が無効になるまで行動するだけです」
「……どうやったら、契約が無効になるんだ」
契約の無効――そんな話は、全く聞いていない。
「簡単な話です。私が二度と動けないない状態になるか――もしくは、あなたがそうなるか」
「……要するに、どちらかが死ねば良いと?」
「それは一つの手段ですが、どうして契約を無効にしたがるのか、よく分かりませんね」
表情の無いあざみが疑問を口にすると、軽蔑されているような調子に見えた。実際、そう思っているのかもしれない。
「どうして……って」
「大金を叩いて契約を交わしたにも関わらず、あなたは人をひとり殺すだけで充分なのですか。それで満足できましたか。絶対にも等しい力を身に付けておきながら――殆ど何もせずに、それをむざむざと捨ててしまうのですか。
人を殺す行為が許される訳が無い。何の罪も無い人間を殺せる訳が無い――などというのが理由にならないのは、分かっていると思います。あなたは既に、罪の無い人間を殺しているのですから」
柚木を罪の無い人間として扱われるのは、岬田にとって決して気分の良い話では無い。しかし、それを認めなくてはいけないとしても、疑問は残る。
「だが……昨日、あんた達は言っていたじゃないか。あんたが殺すのは、俺が本当に殺したいと願った人間でなければ駄目だと……そう言った筈だ」
今の岬田に殺したい人間など居る筈も無い。にも関わらず、誰かを殺さなければいけないというのは――どう考えても、話が無茶苦茶である。破綻している。
「考える時間は必要でしょうから、一日の猶予を差し上げましょう。柚木を殺めたのは、日付の上では本日の午前零時二十八分……ですので――明日のその時間までには、結論を出してください」
一日の猶予と言われたが、それでは残されている時間は半日と少し――結論を出す為に与えられた猶予としては、あまりにも短すぎる。
「結論が出なかったら……」
「残念ですが、口止めさせてもらいます」
それは岬田の死を意味すると――どんなに頭の悪い人間でも、それくらいの察しは付くだろう。
残念そうな様子など微塵も無い。寧ろ滑稽とも思えるあざみの応答に対して、岬田は怒るよりも先に、恐怖するよりも先に、乾いた笑い声を上げた。全てを通り越して、絶望したと――そう言ってもいい。
「そんな……それじゃあ、話が違うだろ」
「自分達に不利益となる情報を話す必要がありますか?」
ビジネスですから――と、いつしか柳が言っていた言葉を、今度はあざみが言ってのけた。
「嫌だというのであれば、私を殺すというのも……ひとつの手段でしょう。尤も、あなたにそれが出来たらの話ですし――そもそも、私に殺されるつもりは毛頭ありません。あなたが私を殺そうとするのであれば、私はあなたを容赦なく殺します。収入が無くなってしまうのは私達の望まない所ではありますが、致し方ないでしょう」
「そんな事……」
出来る訳が無いだろう。
ここであざみを殺せるような真似が岬田に出来るのだとしたら、柳とあざみに頼る手段など用いずに、自らの手で柚木を殺めている筈である。仮に、あざみに対して否定しようのない殺意を抱いた所で、あざみの言う通りに殺さてしまうのが関の山だろう。
しかし、人殺しを生業にしていると言えども、あざみは年端もいかない少女である事に違いは無い。体格差で圧倒的に有利な岬田であれば、あるいは、強引な手段に打って出れば、自分に勝機があるのかもしれない――そう考えたが、すぐに思い直した。
この理屈で考えるのであれば、柚木も同じ条件下で殺されているのだ。唯一、柚木と違う点があるとすれば、岬田はあざみに関する情報を有しているが――その程度で状況が有利に働くとは到底思えなかった。
事実上の死刑宣告を――私刑宣告を突き付けられた岬田は、返す言葉を失ってしまった。あるいは、何を言っても無駄だと悟ったのかもしれない。
「私もおばあちゃんも、出来れば平和的な解決を望んでいます。あなただって、その筈ですから」
言いながら足を踏み出したあざみに対して、岬田は怯えるようにして肩を微かに震わせたが、あざみはそんな岬田を無視するようにして傍らを通り過ぎ、玄関に向かっていった。そのまま靴を履き、ドアを開けようとした所で、後ろを振り返る。
「今夜……明日の午前零時二十八分頃、もう一度あなたの元を訪ねます。よい返事を期待しています」
何が平和的な解決だ。詐欺師が――。
部屋を後にするあざみの背に向かって、岬田は心中で毒吐いた。
銀行とカード会社に連絡を入れ、それから僅かな望みを掛けて警察に遺失届を提出したが、柳とあざみの存在については何も話せなかった。警察に全ての事情を話せば、少なくとも岬田の身の保証はされるだろう。ただしそれは、自身の罪を認める事を意味する。
身の自由と身の保証――その二つを天秤に掛けた時、勝ったのは自由だった。完封勝利だった。身の自由が約束されない身の保証など、岬田にとっては何の意味も成さない。何より、警察に話してしまえば本末転倒も良いところである。
自由と保証を同時に保つ為に確実な手段があるとすれば、あざみの言う通り、新たに殺しを依頼すればいいのかもしれない。しかし、殺したい相手など存在しえないのは明白で――唯一、居るとすれば、彼を裏切ったといえる愛海だろう。憎き柚木と一緒に居たのだから、殺意を抱く理由としては充分に値する筈だと、岬田は思った。
だが、それが付け焼き刃にしかならないというのは――付け焼き刃にすらならないというのは、考えるまでもない。仮に愛海を殺すよう頼んだとしても、あざみがそれを成し遂げてしまえば、更に殺人の対象を――殺意の矛先を向ける人間を求めてくるに違いない。そのような一時凌ぎの為に、愛海の命を使う事など論外だった。
かといって、誰も殺さずに――誰も殺させずに、自分が代わりに死ぬという自己犠牲の精神など、岬田にある筈も無い。
故に、逃げた。
必要な手続きを終えるだけ終えた岬田は、荷物を纏める為に家へ戻り、それから所有している車で逃走を図った。目的地など無い。ただひたすらに遠くへ――ここでは無いどこか、人の足では追い付けない場所まで行ければ、それで良かった。
約束の時間に約束を交わした人間が揃わなければ、何の意味も成さない。殺そうとしている人間の居場所が分からなければ、流石のあざみも手出しは出来ないだろう。仮に岬田が逃げた事にすぐ気が付いたとしても、車で逃げ続けている限り、追い付かれる事は無いと断言できる。子供と老婆の組み合わせでは、行動範囲が限られて当然だ。
ただし、それは「柳とあざみは二人組で活動している」という条件化でのみ成立する憶測である。もしもあの二人以外にも――柳とあざみをバックアップする人間が存在するのだとすれば、どこまで逃げた所で意味を成さないだろう。
尤も、その可能性を考えた所で、岬田には逃げる以外の選択肢など無かった。とにかく逃げて、約束の時間を迎えるまで逃げ続けて、あざみが殺しに来ないのを確認できたら、愛海が住むマンションに向かおうと、そう決めていた。口を封じようと――柳とあざみの存在を知る者を生かして帰さないのだと本気で考えているならば、迂闊に自分の家に戻るような真似は、まず出来ない。
生活費が底を突いてしまっている現状、誰かに頼らなければならない。愛海に匿ってもらうというのが最良ではあるが、そこまで虫のいい話は望んでいなかった。金さえ借りられれば、それで良い。愛海にしてみれば、金を借りようとしている時点で虫がいいのかもしれないと――県境まで車を走らせた所で、岬田はそう思った。
それから無心で――飲食も忘れて逃げ続け、半日近くが経過した。時刻は深夜の十二時を回り、間もなく約束の時刻――日付の上では昨日、あざみが柚木を殺害したという、午前零時二十八分を迎えようとしていた。運転している傍ら、事件に関する情報をラジオで収集し続けていたが、捜査は難航しているようだった。
殺しを生業としているあざみが犯人なのだから、捜査が進展するような痕跡はまず残さないだろう。そう思った岬田は、僅かながら優越感を抱いてしまっていた。真実を知るが故のそれだが、真実を知っているが故に逃げているのは、滑稽にも程がある。
目的地など無かった――そのつもりで運転し続けていた岬田が着いた場所は、自分の実家がある生まれ故郷だった。山々に囲まれたそこは、このご時世においては、いっそ殺風景と言えるくらいの田舎であり、延々と続く田畑に挟まれた道を緩慢な速度で走っていた。
親に頼ろうという発想は無かった。特に不仲だったという訳ではないが、母は病弱でそれほど先が長くなく、それを支えている父もまた身体が良くない為に、あまり関わり合いたくなかった。資産があれば、あるいは話は別だったかもしれない。もう何年ものあいだ帰省していないが為に、今回の来訪は皮肉めいているように思えてしまった。
だが、このまま実家に寄るという選択肢は、岬田には無かった。それ以前に、与えられなかった。
「な……」
微かに驚きの声を漏らした岬田は、咄嗟にブレーキを踏み込んで車を停止させた。こんな田舎のこんな深夜に、外を出歩く人間など誰も居ない――そう踏んではいたものの、それでも念の為に法廷速度に従って緩慢に走らせていた車のライトが、進行上にひとつの人影を映し出していた。それがこの町の住人であれば、まだ驚いたたけであって、声を上げなかったかもしれない。
ただし、そこに居たのが少女で――半日以上前に別れた、あざみだったとしたら。
「時間です」
闇を裂かんばかりに前方を照らし続ける車のライトを正面に受け、あざみは微かに目を細めながら呟いて――