花言葉は「復讐」_1
特に何か目的の物があって寄った訳では無い。
ただそこに――偶然にもコンビニエンスストアが存在していたから、その男は吸い寄せられるようにして向かっていってしまった。仮にそこにあったのがファーストフード店でも、スポーツジムでも――極端な話、警察署でも、結果としては変わらなかったのかもしれない。寧ろ、その時に警察署がそこに存在していなかった事が、その男にとって最大の不運であり、人生に於ける最大の分岐点なのかもしれなかった。
七月も半ばに差し掛かった日の早朝、これから学校や会社に向かうのであろう客が行き来する雑踏の中に紛れ込んだその男の存在は、少しばかり異端で――異形であると思えなくもない。
ごくありふれた黒いスーツを身に纏うその男は、一見して他の人間となんら変わらない――これから会社に赴くサラリーマンのように見えなくもなかった。しかし、それ意外の身なりは散々たるもので、ネクタイもシャツも正確に身に付けられているとは言えず――それ以前に、男の身を纏うスーツには所々に酷い埃や汚れが目立っており、とてもでは無いが、これから仕事をする人間の格好だとは言い難い。鞄のひとつすら持っていない両手が、不自然さに輪を掛けている。
何より、男の表情には生気の欠片も見受けられなかった。死人の様な顔と揶揄されたとしても仕方がないといえる程の有様で――死人とは異なり、自身の意志で上下左右に動いている瞳も、今にも真っ白になそうなくらい虚ろだった。
平日の早朝のことである。会社や学校に赴く全ての人間が活気に満ちている事など無いにしても、男のそれは限度を越えている。いや、生気が全く無いのだから、この場合は最低限にすら達していない――と言うべきか。
しかし――だからといって、誰に迷惑が掛かる訳でも無い。大抵の人間は、飲み物コーナーの方へゆっくりと歩を進めていく男の様子になど、まるで目もくれずに行き過ぎていく。唯一、レジで接客対応をしているパートの女性が、怪訝そうな目を向けながら、あんな調子で会社に行けるのだろうか? という程度の事しか思わなかったが、それこそ要らぬ心配だった。
昨日の午後五時を以て、行くべき会社を失っていたこの男にとっては、どんなにみずぼらしい格好であろうと何の関係も無いのである。故に、この時間帯には殆ど売れる見込みの無いであろう発泡酒を手に取った男は、それをレジまで持っていった。
会計の金額を告げる店員に対して、男は胸ポケットから徐ろに定期券入れを取り出す。その際、定期入れと一緒に出てきた一枚の紙切れがポケットから落下したのだが、男がそれに気付く事は無かった。
代わりに、男の後ろに並んでいた男子高校生がそれを拾い上げようとして屈んだ。普通であれば無視してもよかったような物だが、それがただの紙切れでは無く、「タイムリーテクニカル株式会社」という会社名に続いて「岬田亮平」という名前、そして電話番号が記載されている名刺だと気付いてしまった以上、彼は無視できなかった。
尤も、本人にとってそれは、もはや何の意味も成さない。会社に居ない人間の名刺など、ただの紙切れも同然か――それ以下だ。
定期券を取り出した男――岬田は、改札を通る時のそれのように、レジに備え付けられてある装置の上に定期券をかざした。定期券に記録されている電子マネーによって自動的に支払いを済ませ、用済みとなったそれを胸ポケットに納めながら、袋詰めされた発泡酒を受け取る。
察しの良い人であれば、この男は夜勤明けか何かの帰宅途中であり、家で酒を引っ掛けながら疲れを癒すのだろう――などと思うのかもしれない。しかし、会社を辞めたと思う人は居ないだろう。岬田に商品を手渡しながら、尚も怪訝そうな目を向け続けるパートの女性も例に漏れなかった。
「あの……落としましたよ……?」
片手に袋を提げながら立ち去ろうとする岬田の背に向かって、若い男の控えめな声が掛けられる。相手にするのがただただ面倒だと思った岬田に振り返るつもりは無く、無視を決め込むつもりでいたのだが、勝手に反応してしまった身体は既に振り返ってしまっていた。
声の主である男子高校生が、非常におどおどとした落ち着きの無い様子で岬田の名刺を差し出してきていた。自分のそれをいつ落としたのか、今の岬田には全くもって思い出せなかったのだが――それよりも何よりも、そんなどうでもいい事で呼び止められたのが気にいらなかった。
殴ってやろうか――という邪な衝動に駆られたのも一瞬。礼のひとつすら言わずに無言で名刺を受け取って、コンビニを後にする。名刺の一件がきっかけとなって、去り際に周囲の人間から好奇の視線が殺到したが、岬田がそれらに気付くことはいよいよ無かった。
片手で折り曲げた名刺をコンビニの外にあるゴミ箱に突っ込み、どこへともなく歩き出す。二度と目にしたくなかった会社の名前を自分の名刺で目にしてしまうという皮肉のお陰で、死人と揶揄されそうな表情には生気が取り戻されつつあったが――平静を通り越して怒りが浮き出てきていた。
あるいは家族、あるいは知り合い、あるいは友人から、岬田はどんな仕事をしているのかと訊かれる事がままあったが、その度に返答をはぐらかしていた。法律に反する危ない仕事でもしているのかと冗談混じりに言われた事もあるが、そうではない。ただ、説明するのが面倒で――長々と説明した所で、理解してもらえるのか怪しいからであった。
タイムリーテクニカル株式会社の主な事業内容を一言で言うならば「ITアウトソーシング」だが、その分野に疎い人間が相手では、一言ではまず理解を得られない。二言目を加えるなら「業務委託」となるが、さして変わらないだろう。故に、一から説明しなければならなくなってしまう。
全ての会社が各自にシステムを開発、運用し、保守や点検が出来れば何の苦労もしないのだが、それを行うだけのノウハウも、人員も、資金も無いという会社も当たり前のように存在する。ITアウトソーシングという事業は、その分野のみに特化した集団が、そのような会社に代わってシステムを開発し、完成したシステム実際に運用し、それに伴う保守、点検作業も行うというものである。
この仕事における特殊な事情として、一部を除く殆どの社員は自分の会社に居る事が無い。自分の会社に行くこと自体、無い。
システムの重要性に大小はあれど、会社の機関の一部である以上、情報の管理という問題が常につきまとう。その分野のみに特化した集団といえども、業務を委託する会社の側からしてみれば、それは完全に「外部の人間」であり、下手にシステムや情報を会社の外に預けてしまえば、いつ漏洩してしまうか分からないというリスクを負う羽目となる。自分の会社の中にあれば安全という理由にはならないが、危険度の問題である。
故に、扱うべきシステムが存在する契約先の会社が、即ち勤務先となる場合が大半となる。業務委託というのは名ばかりで、実際の所は派遣社員のような存在だ――と、一から説明しても理解を得られない場合があるのだから、はぐらかしもする。
岬田も例に漏れず、短大を卒業してからの約三年間、契約先の会社に勤務し続けていた。本社――自分が属する本来の会社であるタイムリーテクニカル株式会社――に赴く事は年に数える程度であり、それだけに、会社に対する思い入れは皆無だった。例え思い入れがあったとしても――自分の会社を、自分の仕事を誇りに思っていたとしても、岬田に会社を辞めないという選択肢は無かった。
辞めなければ、許されなかった。
食いしばった歯の隙間から「クソ」と呟きを漏らした岬田は、ビニール袋を持つ手を握り締める。会社の事を忘れようとしていた矢先に見せつけられた名刺は、思い出したくも無い記憶を引っ張り出すには充分すぎる効果を有していた。
今しがた購入した発泡酒をこの場で飲んでしまおうと思い立ち、岬田は歩みを進めながら袋の中からそれを取り出そうとする。元々が、特に理由も無く買ってしまった物である。無意味だと分かっていても、酒で気が紛れるのであれば、それに越したことは無い。
缶のプルトップに指を掛ける――が、その指は缶を開けずに、スーツの内ポケットに突っ込まれた。そこから取り出した携帯電話は手の中で震えており、所有者の岬田に着信を知らせている。ディスプレイに表示されている「清川愛海」という名前を見、電話に出たものかと逡巡したが、結局は通話ボタンを押してしまった。その場に立ち止まって、電話を耳に当てる。
「もしもし……?」と、女性の抑えた声が電話越しに届けられた。それは明らかに岬田を案じている調子だったが、しかし、当の本人は口を開かない。開き掛けてはいるが――何も答えない。
「ねえ? 亮君? ……亮君、だよね? ねえ、聞いてる?」
「……なんだよ」
最初こそ案じる調子だった女性の声が、次第に怒りを帯びているのが感じて取れた。これ以上の沈黙は火に油を注ぐだけとなると思い、岬田は呟くように一言だけ応じた。
電話の相手である女性――清川愛海は、岬田の同僚であり、恋人である。互いに顔だけは入社時より知っていたが、付き合い自体は半年と短かった。本社で事務関連を担当している愛海とは自然、顔を合わせるのも、言葉を交わす機会も少ない――皆無である。今年の新年会が行われなければ、付き合うという発想すら無かったかもしれない。
「なんだよ……って、またご挨拶だよね」
怒っている――というよりは、拗ねているような調子に変わっていた。ビルの壁に背を預けて、岬田は微かに嘆息を漏らす。
「上原部長から聞いたんだけど……その、会社を――」
「辞めた」
愛海の言葉を遮るようにして――先回りをするようにして、きっぱりと言い切った。自嘲を含んだ笑みを無意識の内に浮かべていたが、それもすぐに消え去った。
「辞めるなら辞めるって、何で相談してくれなかったの? 今までそんな話、一度もしてくれなかったじゃない」
岬田は舌打ちしようとして、堪える。
「君に相談して……それで、何になるっていうんだ? 君なら俺の置かれている状況を変えられたとでも? あいつをどこかに飛ばせたとでも? ……無理だろう」
「柚木さんをあいつ呼ばわりするのは、良くないよ」
もしも電話の相手が愛海でなかったら、ここで有無を言わせずに通話を切っていただろう。最も聞きたくなかった――岬田が会社を辞める原因となった人間の名を耳にして、不快に思わない道理は無かった。自分の恋人に擁護されているとなれば、尚更である。
岬田よりも五年早く入社していた柚木という男は、事実上の先輩にあたる人間で――岬田が入社してからの三年間を地獄に変えた張本人だった。
何が柚木の気に入らなかったのかは今でも分からない。配属先が決定し、他の社員と共に柚木と働く事となったその日から、岬田は嫌われていた。岬田「だけ」が嫌われていたのである。原因が分からない以上、それは単純に運が悪かったとしか言いようが無かった。
嫌われるだけなら別に構わない。同じ空間に居るのは良い気分では無いが、居住まいが悪いだけで、耐えられない事は無かった。しかし、柚木の態度は月日が経過するにつれて深刻化する一方で、次第に岬田の仕事にまで干渉するようになってきたのである。
仕事柄、システムや情報に問題が発生してしまえば、それは契約を交わしている会社と――さらに、その会社の顧客にまで影響を及ぼしてしまう恐れがある。一社会人の手に負えないような大損害を被る事態と常に隣り合わせにあるといっても過言では無い。常識のある社会人であれば、そのリスクを冒そうとしてまで他人の仕事を妨害する事などしないのだが――しかし、常識の概念が歪んでいるとしか思えない柚木は、岬田がミスをするように仕向けてくるようになった。
上司に相談を持ち掛けるという選択肢は当然のようにあった。実際、上司に相談を持ち掛けた事もあった。しかし、岬田は元々が仕事の出来ない人間であり――小さなミスであれば日常茶飯事であった為、信用も信頼も無い人間の言うことなど聞く耳を持たれなかったのである。望まずして、オオカミ少年と成り下がってしまった。
無論、恋人である愛海にも相談はした。だが、結果は同じである。柚木は、岬田以外の人間に対しては至って普通に振る舞っており――特に女性に対しては甘いので、愛海にどれだけ話した所で、柚木の所業を裏付ける証拠が何ひとつとして無い以上、信じてもらう事など出来なかった。
何もかもがどん詰まりだったが、それでも、岬田には会社を辞めるつもりは無かった。短大での就職活動で、何十という会社の面接を受けても一向に成果が無く、卒業を目前に控えて絶望しかけていた時に得られた内定である。会社を辞めるのは簡単だが、果たして他の仕事を探せるのか。その自信が無い岬田は、意地でも会社にしがみつかなければならなかった。
限界の所で保たれていた均衡だったが――限界であったが故、崩壊するのは一瞬で、あっという間だった。岬田にとどめを刺さんばかりの勢いで、柚木は契約先の会社が扱っている重大なシステムを、岬田が操作する事で機能が完全に停止するよう細工したのである。岬田を陥れる、ただその為だけに、である。正気の沙汰では無いのは明らかだった。
結果、システムの復旧までに、通常の業務を半日近くに渡って停止させてしまった。顧客情報には何も問題は無かったが――しかし、それ以上に、半日に渡って会社の機能が停止した影響は計り知れなかった。
冤罪を被った岬田は必死に弁解したが、それを聞く耳はひとつとして存在しなかった。複数の会社を巻き込む事態に発展してしまった以上、岬田の言葉など蚊の羽音も同然で、煩わしいだけだった。双方の会社が被った損害は数十万とも、数百万とも――数千万ともいわれたが、真相を知る術も機会も無かった。
幸か不幸か、責任問題について言及される事は無かった。だが、その日を境に、岬田の置かれる状況は手のひらを返すように一変してしまった。自分ただ一人だけ、一切の仕事が与えられなくなったのである。そして、大半の人間は言葉を交わすのを――挨拶すら避けるようになった。そこに居ながらにして、存在しない人間として扱われるようになってしまった。
何一つ仕事が出来ず、誰にも相手をされず、定時を迎えるまで椅子に座って待つしかない。一日だけならまだしも、それが毎日のように続きもすれば、精神的に追い詰められるのは時間の問題と言えた。そして、約一ヶ月が経過した昨日、限界をとうに越えていた岬田は上司に辞表を突き付けた。
よく一ヶ月も保ったものだと、岬田は思う。
「……ねえ、亮君。今、どこにいるの?」
再び無言を決め込む岬田に耐えかねたのか、愛海が先に沈黙を破るが、それでも無言は続いた。答えようにも、岬田自身が自分の居場所を把握していなかったのである。
辞表を提出した昨日の夕刻から、家に帰る気にもなれずにどこへともなく歩き続け、目に付いた居酒屋に片っ端から足を運んでいた。滅多に酒を呑まず――寧ろ苦手としていたにも関わらず、完全に自暴自棄となっていた岬田は、有り金を全て叩かん勢いで酒を胃袋の中に流し込んでいった。
岬田が覚えている記憶はそこまでである。酒を呑めば嫌な事を忘れられるだろうという安易な発想だったが――それでも、確かに、一時的に嫌な記憶から逃れる事は出来た。何の意味も成さないと分かっていても、である。
しかし、目を覚ました時には、自分の置かれている状況が更に深刻化していた。見知らぬ公園のベンチの上に寝ていたらしいが、この際、場所などどうでもよかった。居酒屋に行くまでは肌身離さず持っていた鞄と、スーツのポケットに突っ込んであった筈の財布が見当たらなかったのである。どこかの店に置いてきたのか、それとも置き引きに遭ったのか――前者であればまだ救いようはあるのだが、限りなく後者だろうと思った。携帯電話と定期券が残っていたのは、置き引きした輩のせめてもの慈悲かもしれない。そう思うと、限りなく馬鹿馬鹿しく思えて、笑みさえ漏れた。
岬田がコンビニに立ち寄ったのは、それから間もない頃である。
「そりゃあ……亮君の力にはなれなかったかもしれないけど……それでも、辞めるって決めてたのなら、一言くらい話してくれてもよかったと思うのに。昨日、部長から亮君が辞めたって話を聞いて……そこで初めて知ったんだよ? それから何回も亮君に電話したけど――メールもしたけど、全然返事が来ないから、心配してたのに……。他の人からも連絡してもらうように頼んでみたけど、全然繋がらなくて……」
当然だろうと、岬田は何となしに空を見上げながら思う。理由を説明する気になどなれなかった。
「ねえ、本当に、会社を辞めちゃってよかったの? 今後の生活だってあるんだし……。あのさ、今からでも、辞表を取り消せないのかな。私が部長に取り合ってみてもいいよ。柚木さんと馬が合わなかったって、ちゃんと話ぜば――」
「もういいよ」
呟くような岬田の言葉に、愛海は「え?」と聞き返した。もう一度――今度はハッキリと「もういいよ」と言うと、今度は彼女が沈黙した。
「心配かけて悪かったよ。でも、もう放っといてくれ。これ以上の心配は、お前に迷惑を掛けるだけだからさ。だから、もういいよ」
一拍の間を置いて「でも」と愛海。沈黙を続けてしまったら、電話を切られると思ったのかもしれないが、その後に続く言葉は無かった。
「これからの生活については大丈夫だよ。あてがある。会社を興した友人がいるんだ。前々からうちの会社で働かないかって誘いを受けててな……今ならたぶん、優遇してくれる筈さ」
嘘を吐くのが下手だと思った。そんな旨い話があったら、とうに会社を辞めているだろう。愛海もその言葉が嘘だと見抜いていたかもしれない。見抜いていなかったとしても、感付いていた可能性は十二分にある。どちらにしても、彼女はとうとう黙ってしまった。
「じゃあな」
電話を切る為に電源ボタンを押そうとした直後、「ちょっと――」という愛海の慌てたような声が微かに聞こえてきた。その声に反応して、ボタンを押す指が躊躇うように止まったが、それも一瞬の事である。
完全に沈黙した携帯に表示されている十数件の着信とメールの通知を見、岬田は溜息をひとつ吐いてから携帯電話の電源を落とした。そうでもしておかないと、愛海から再び電話が掛かってくる恐れがある。そうなったら、今度こそ弱音を吐きそうで、怖かった。
馬鹿みたいだと、岬田は思う。このような状況に陥っているのにも関わらず、尚も意地を張り続ける自分が馬鹿馬鹿しく――虚しかった。愛海に一言、助けてほしいと救いを求めれば、当面の生活は保障されただろう。しかし、それでは愛海に面倒を掛けてしまうのは当然で、それを思うと意地になってしまうのが岬田だった。どうでもいい局面で、格好つけようとしてしまう。そうして、取り返しのつかない事態までに自らを追い詰めてしまった。
自分の最後の言葉を、愛海はどう受け止めたのだろうか。決別を伝える言葉としては、弱すぎたかもしれない。尤も、もう二度と会う事も無いであろう人間の事など、考えたところで何の意味もない。今、最優先で考えるべきは、これからどうするか――である。
兎にも角にも、一旦は家に帰るべきかもしれない。だが、岬田の家がある場所を知っている愛海が、そこに来るという可能性もある。もしかしたら、昨夜も彼女は訪れており――今現在も、岬田の帰りを待つ為、居るかもしれない。
もし家で鉢合わせなどしてしまったら、どうすればいいのか――そこまで考えてから、岬田は携帯電話を持った手で頭を掻いた。愛海の事など考えても何の意味もないと考えた矢先のこれである。どうしたって愛海が障害になるというのであれば、いっその事、家に帰らないという選択もあった。自宅の鍵は、今はどこにあるのかも分からない鞄の中にあるので、どうせ帰れない。
このまま野垂れ死ぬのだろうかという思いが脳裏を掠めたが、岬田はかぶりを振ってから発泡酒の残りを一気に飲み干した。それだけは避けなければならない。これ以上に惨めな姿を晒すのは格好が悪く――それ以上に、死ぬ事など微塵にも考えられず、考えたくもなかった。
だが、どうする事も出来ないというのが現状である。元々の収入が少ない岬田に残されている貯蓄は僅かだが、今月分の給料は来月になれば口座に振り込まれる予定となっている。しかし、残された収入といえばそれくらいのものだった。失業保険や退職金があれば話は別だったかもしれないが、職業安定所に提出する筈だった書類は、家の鍵と同様に鞄の中である。会社に連絡すれば、あるいは同じ物を都合してくれるかもしれないが、出来れば会社とは二度と関わり合いになりたくなかった。退職金など論外である。
憎たらしいまでに清々しく晴れ渡っている空を何となしに見上げた岬田は、突き刺すような日差しに目を細めながら溜息をひとつ吐いた。今、岬田が直面している問題は、ここで解決策を考えるようなものでは無く――例え考えた所で、的確な答えなど導き出せないだろう。
結局は、家に帰るしかないのだろうと思った。愛海と出会してしまうのであれば、それはそれで構わない。変な意地を張っていた事を詫びて、今後の生活について相談したい。居なかった場合は、大家に頭を下げて部屋の鍵を開けてもらえばいい。
帰った後はシャワーを浴び、適当に何か腹に入れてから、少しでも睡眠を取りたい。そうしておけば、起きた時には、幾分か落ち着いて物を考えられるだろう。状況も選択肢も変わらないが、少なくとも今の状態でいるよりは良い。
そうと決まれば一刻も早く帰路につきたかったのだが――しかし、岬田は自分が今どこに居るのか把握できていない。昨日に泥酔した後、そのまま宛てもなくさまよい続けて公園に行き着いたという可能性が高いと思われるが、場所が分からない以上は、ここがどこだろうと関係の無い話ではある。
大きな通りに出さえすれば、駅がある方向が分かるだろうと踏んで、岬田は再び歩みを進めた。相も変わらず足取りは重かったが、目的が出来た分、表情にはいくらか生気が通いはじめていた。
コンビニがあった場所まで引き返してから、人が流れていく大体の方向に見当を付ける。流れに沿って歩いていれば、いずれは大きな通りか駅に着くだろうという推測だった。その判断は間違っておらず、微かな汗が顔に滲み出てきた頃に、岬田は車の交通量が多い大きな通りに出る事が出来た。
案内標識のひとつでも見付かればと思って周囲を見回してみるが、それらしき物は見当たらない。しかし、漠然とではあるが、何となくそこは見覚えのある場所のような気がした。酒を飲みに行ったのは、一人でよく出掛けに行く場所なので、その近辺であれば見覚えがあるのは当然ではある。
尤も、見覚えがあるだけでは何の意味も成さない。もう少し歩けば正確な情報を得られるだろうと思ったのだが、車道を挟んで向かい側の歩道を何となしに見遣った岬田は、そこに居た人物――愛海の姿を認めて、驚きに目を見開いた。
見間違いかもしれないと思った岬田は、滑稽だと分かっていながらも、目をこすらずにはいられなかった。それで彼女の姿が消えてくれれば良かったのかもしれないが、バスの陰から姿を現した人影は、間違いなく愛海だった。
なぜ愛海がここ居るのか――という考えが岬田の脳内を巡ったが、それは筋違いだと思い直した。なぜ愛海がここ居るのか――ではなく、なぜ自分がここに居るのか、である。場所に見覚えがあったのは、そこがよく出掛けに行く場所ではなく、愛海の家の近所だったからである。彼女の家まで足を運ぶのは滅多になかったので、記憶が曖昧になっていたという事だろう。
愛海の家に向かおうとしていた時の記憶は残っていない。動機があったのだとしたら、彼女に頼ろうと――縋ろうとして、泥酔していた岬田は突発的に電車を乗り継いで、ここまで来たのかもしれない。そのまま愛海に会わずに公園で寝てしまったのは、果たして幸か不幸か。
ここで愛海を追い掛けて、先刻の電話について謝るべきかという悩みが生じたが――しかし、彼女の隣に並ぶようにして歩いている柚木の姿に目に入った直後、岬田の頭の中は真っ白になった。捨てるのを忘れて持ったままとなっていた空き缶が、喧しい音を立てて転がり落ち、岬田の靴に引っ掛かって止まった。
親しげに――楽しそうな様子で話しながら歩いていく二人の姿を見失ってから、岬田はようやく考える頭を取り戻した。後を追おうとして一歩を踏み出したが、その必要は無いと悟った身体が二歩目を許さなかった。
柚木の家が、愛海とは全く異なる方向にある事くらいは知っている。ならば何故、柚木が愛海と共に行動しており、あまつさえ親しげに――まるで恋人同士のように接していたのか。答えは考えるまでも無いだろう。
つまり、そういう事である。
愛海が柚木とそのような関係にあるという事実には、さほど衝撃は受けなかった。彼女が柚木を擁護し続けていた以上、可能性は十二分に有り得たからである。それよりも何よりも、自分の身を案じている「振り」をされていた事が、岬田にとっては驚きであり――辛かった。先の電話の直後となれば、尚の事である。
自分の言葉を耳にしながら、あの二人は笑い合っていたのかもしれない。それは単なる憶測に過ぎないのだが、否応無しに行き着いてしまうその考えは、岬田を激高させるには充分だった。出来る事なら、あの男に――柚木に復讐してやりたい。殺してやりたいとさえ思う。
それは今までに幾度となく考えてきた事ではあったが、それを行動に移してしまえば、自分は柚木以下の人間に成り下がってしまう。何より、全てを失うのが怖かった。決して頭が切れるとは言い難い岬田に、完全犯罪を成し遂げるだけの頭など無く、結局は考えるだけで終止してしまうのが常だった。
だが、全てを――職を、財産を、そして心の拠り所になりえた彼女を失ったに等しい今となっては、岬田に恐れるものなど何も無いに等しい。全てを奪った柚木には、その代償として、全てを払うべきなのである。それが、柚木が受けなければならない、然るべき罰だ。
俺は悪くない。悪くない筈だ。悪いのあいつだ、柚木だ。俺は――。
自身に言い聞かせるようにして、何度も同じ言を胸中で繰り返した。そうしておけば、いつか自我を保てずに、気が付いた時には柚木を殺してくれているかもしれない。しかし、そのような暗示を掛けようとしている時点で、自分に人を殺めるという所業など限りなく不可能に近いのである。結局は、いつもの通りだ。
それを悟るまでに、大して時間は要さなかった。小さく震える程に強く握り締めてい両の拳を弛めた岬田は、その場で深く肩を落としてから溜め息をひとつ吐いた。ここまで追い込まれているのにもか関わらず、それでもなお非情に徹せない自分に、ただただ呆れ果てるのみである。今まで「お人好し」だと自己分析していたが、それはお人好しなどではなく――単に気が弱いだけの、小心者だった。そんな輩に、どうして人が殺せようか。
もう一度、深い溜め息を吐いてから、このまま大人しく家に帰ろうと決めた。愛海が家に居ないと分かっただけでも、収穫だったと考えるべきである。せめてもの憂さを晴らす為に、自分が落としてしまった足元の空き缶を蹴り飛ばした。
それは本当に何気ない動作で――大した力も込めていなかった筈の蹴りだったのだが、意に反して空き缶は高く上がってしまった。それだけなら何の問題も無かったのだが、ここは人の通りが多い道である。弧を描かず一直線に飛んでいくそれが、付近に居る老婆に向かっていくのを見、岬田は戦慄した。
「あ――」
危ない、と叫ぼうとして開いた口から出た言葉は、しかし、最初の一文字目で途切れてしまい、そのまま驚きを表す言葉となってしまった。老婆の側に居たと思わしき少女が缶の軌道上に飛び出し、それを手で掴んだとなれば、驚きもした。
大事に至らなくて良かった――と思う傍ら、岬田はただただ当惑する。目の前の少女は、まさに少女と形容するに相応しい十二、三歳くらいの子供だが、綺麗に切り揃えられた前髪と、同様に肩の辺りで揃っている後ろ髪も相まって、顔立ちが幼く見える。こけしみたいだ――と、場違いな事を思ってしまったのも一瞬。岬田は少女の左手を見、息を飲んだ。
少女が缶を掴んで止めたという事実だけ認識してしまっていたが、それは両手では無く、片手で――左手のみで行っている。事前に飛んでくると分かっていた場合ならまだしも、何の前触れも無しに飛んでいったそれを咄嗟に掴むのは、困難を極める筈である。しかし、それだけならまだ、岬田が戦慄する理由としては弱い。困難を極めるだけであって不可能では無いのだから、偶然にも動体視力の優れた少女がそこに居たというだけの事である。
だだし、掴まれた缶が少女の手中で千切れたとなれば、驚かない方が難しかった。
それは決して、誇大表現などではない。文字通り、アルミ缶は左手の中で拉げ――捻れ――千切れてしまっていた。それだけの事をやっておきながら、少女の表情には微塵の変化も見受けられない。変わる表情など元から持ち合わせていないと主張せんばかりに、どこまでも無表情だった。それこそ、こけしのように。
「お兄さん」
その声が少女の口から発せられたもので、その声が自分に対して発せられたものだと岬田が気付くまで、数拍の間を要した。気付いたからといって何か言える訳でも無く――そんな岬田に対して、少女はもう一度「お兄さん」と抑揚の欠いた事務的な声を上げて、続けた。
「お怒りだったのは分かりますけど、私のお婆ちゃんに向かって缶を蹴り飛ばすのは許せません。お兄さんも大人なら、それなりの対応というものがある筈です」
「あぁ……」この少女は偶然に通り掛かったのではなく、老婆の孫だった――という理解は後回しにして、岬田はだらしなく開けっ放しになっていた口を一度結んでから、背筋をしゃんと伸ばして姿勢を正した。
「あの……すいませんでした」
老婆の手前に少女が居るので、少女に謝っているような形となってしまったが、岬田は構わずに頭を下げる。それでも、周りの目を気に掛けてしまったので、控えめな謝罪となってしまった。
これでは許してもらえないかもしれない――と、頭を下げてから思ったが、意に反して老婆は抑えた笑い声を上げだした。それはあまりにも楽しそうで――岬田からしてみれば不愉快極まりなく、どこまでも屈辱的でしかなかったのだが、自分に非がある以上は、どんなに嗤われても堪えるしかない。嗤われて然るべきだろう。怒鳴られないだけ――殴られないだけ、まだいい。
「そう気にしなさんな。あたしに缶が当たった所で、死にゃあせんよ。顔をお上げ」
短く笑った後に続いた言葉に従って顔を上げてみると、笑い声を上げるに相応しい笑みを表情に湛えた老婆が岬田に歩み寄ってくる所だった。様子を見る限りでは怒っている風では無いので、その点についてはとりあえず安心だったが――しかし、傍らに居る少女は以前として無表情を貫いており、感情が全く読み取れない目が岬田を捉え続けている。先の光景は思い過ごしであってほしいと思ったが、その左手には依然として不自然な形に変形した缶がある。
ただただ気味が悪く、不可解であり――何よりも、恐ろしい。この少女は一体何者なのだろうか。それは、祖母と思われる目前の老婆も同様で――そう意識した途端、恐怖心にも似たを感情を抱いてしまった岬田は、無意識に一歩だけ退いてしまった。
そんな様子に目もくれず、ゆっくりと距離を詰めてきた老婆は、自身よりも身長が遙かに高い岬田の顔を見上げるようにして、相手の顔を検分するように――値踏みするように目を細める。何のつもりでそうしているのかは分からなかったが、ここで尻込みすまいと岬田は老婆を見返す。
それはどこにでも居そうな、白髪で、皺だらけで、腰の曲がった、八十歳前後と思しき老婆だが――しかし、
「……で、お前さんは、誰を殺そうと思っとったんだい?」
口から出てきた言葉は、どこにでも居る老婆のそれでは無かった。それどころか、一般的な人間のものですら無い。
「な……何を、言うんですか?」
何を意味の分からない事を言い出すのかと思う岬田だったが、しかし、老婆の質問に対する明確な答えは、考えるまでもなく解りきっていた。理解できないのは、どうしてこの老婆は自分が殺意を抱いていた事を知っているのか。尻込みすまいと決めていた矢先であるにも関わらず、更に一歩退いてしまった。中途半端に装うとした平静な態度が、動揺を剥き出しにしてしまっている。
老婆の口元が笑みを浮かべる形に歪み、そこから薄汚れた歯が姿を覗かせた。
「目を見れば分かるよ。さっきのあんた、今にも人を殺しそうな目をしとったね」
胡散臭いと思いながらも――何の根拠があってそんな事が言えるのかと思いながらも、指摘された目を咄嗟に逸らしてしまった。しかし、逸らした先でも少女と目が合ってしまい、怒りとも蔑みとも受け取れる視線を直視した岬田は、息をひとつ飲んで老婆に視線を戻す。
「実に良い目をしとったが……しかし、の」
不意に表情から笑みを消し去った老婆は、岬田に対して徐に背を向けた。腰の辺りで纏められてある長い白髪を見、まるで魔女だ――と、場違いな事を思う。
その白髪を揺らして、老婆は肩越しに岬田を振り返った。
「ちょいと散歩しながら話そうかね。ここじゃあ目立って仕方ないからのう」
言いながら、老婆は勝手に歩を進める。岬田が付いてくるのを前提に話しているようだったが、しかし、そうしなければならない理由も、意味も、義理も無いのは明らかである。
それを誰よりも理解しているのは、他ならぬ岬田自身なのだが、付いていかないという選択肢が存在し得ないという事実を最もよく理解しているのも、岬田だった。
老婆に怪我を負わせてしまっていたかもしれなかったから――では無い。単純に、少女が缶を掴んだ時点から「脅迫」が始まっている。彼女には言い知れぬ力があり――その現象が真実にせよ偽りにせよ、岬田を脅すには充分すぎる効果があった。故に、言われるがままに老婆の後に続いた。
歩きだした岬田を見、少女は缶だった物を握る手をようやく下ろし、足下に捨てたそれを足で踏み潰した。ここでも、文字通りに潰れて――機械か何かでプレスされたかのように、あるいは、それは紙コップだったのではないのかと疑ってしまうくらいに、不定形だった金属は平らになってしまった。
逆らったら、俺もあの様に潰されて――殺されてしまうのだろうか。考えたくない事ではあったが、起こった現象を目の前にして、そう思わない方がおかしかった。それでも逃げ出さなかったのは、自分の目に映る光景が、未だ真実だと受け止めきれていないからだろう。
それにしても、と岬田は思う。老婆の後に続くだろうと思われた少女は、缶を踏み潰てから動く気配を見せようとせず、岬田を直視し続けている。行動を逐一監視されているかのようで――実際に監視しているのかもしれず、とにかく気味が悪い。一刻も早く視界から少女の姿を消す為、足早に彼女の傍らを通り過ぎようとして――、
「心配してくてもいいですよ」と、少女は呟くように言った。思わず足を止めてしまった岬田が何か言う前に、少女は続ける。
「もしお兄さんを殺すとしたら、少なくとも潰したりはしませんから」
「…………」
その言葉に希望を見出すとすれば、今の所は、少女に岬田を殺すつもりは無いという事くらいだろう。そこで少女が笑ってくれれば、あるいは悪い冗談として受け止められたかもしれないが、相変わらずの無表情がそこにあり――唖然とした様子で立ち尽くす岬田を尻目に、老婆の後に付いていった。
自分が立ち尽くしている間に、二人がそのままどこかに行ってくれないだろうか――という淡い期待を抱いたが、大きな通りから外れる直前に、岬田の方を振り向いてきた少女の刺すような目線を受けて、やむなく歩を進める事となった。
ビルが建ち並ぶ薄暗い路地に足を運んでいく二人の――特に少女の後ろ姿を何となしに見遣りながら、岬田はふと疑問に思う。少女の外観は間違いなく十代の前半で、小学生か――あるいは中学生であって然るべきなのだが、子供であれば学校に向かっているべきである時間帯だというのに、前方を行く少女には、その気配がまるで見受けられない。今日が平日であるという事に、間違いは無い。
尤も、それだけで少女が学校に行ってないと判断するのは早計で、学校の創立記念や、あるいは何らかの学校行事の振替休日か、あるいは学級閉鎖か。可能性はいくらでも挙げられるが――しかし、その少女が普通ではない事を否定する材料にはなり得なかった。
「さて」と、老婆が口を開いて立ち止まったのは、ビル群を抜けた先――閑散とした場所に出てからだった。右手には、動いているのかも分からないくらいに寂れた工場が立っており、左手には、柵越しに大きな川が流れている。通行人の姿は一人として見受けられず、先刻までの喧噪など端から無かったかのようにすら思える。
「仕事の話をしようかね。若者風に言うなら、そう、ビジネスさね」
「ビジネス……?」
お世辞にも良いとは言えない笑みを浮かべながら老婆は言うが、しかし話が全く見えてこない。怪訝そうに聞き返す岬田などまるで意に介さず、老婆は続けた。
「お前さんの望みを叶えてやろう。殺したくても殺せない……殺す勇気も根性も無い、意気地なしなお前さんの代わりに、この子がお前さんの殺意になる」
老婆が「この子」と呼んだ少女の方をちらと見遣り、それから呆然とする岬田に向き直る。依然として気味の悪い笑みを浮かべ続ける老婆と、対照的に無表情を貫き続けている少女を何度も交互に見遣った挙げ句、表情を歪めた岬田が口から発したのは、乾いた笑い声だった。
「何を言い出すのかと思えば……俺の代わりに人を殺す、ですか? じゃあ、総理大臣を殺してほしいといったら、殺してくれるんですか? そんな事は――」
そんな事は出来ないでしょう。そう言う前に、少女が不意に「出来ません」と口を開いた。
それは岬田の望んでいた回答ではあったが――しかし、そこまであっさりと言い切られてしまうと、反って不安感を覚えてしまうのも確かであり、更に大きさを増しても不思議ではなかった笑い声は、虚しく消えていった。
「私が殺すのは、あなたが本当に殺したいと願った人だけです。その為の私を、金を積まれれば誰でもかれでも殺してしまうような下衆と、一緒くたにしないでください」
その言葉尻から察するに、少女の怒りを買ってしまったのかもしれなかったが、しかし、表情は依然として変わる気配を見せない。
「……殺し屋とでも、言うんですか」
口にするにはあまりにも滑稽すぎて躊躇われるが、他に代用できる名前が思い浮かばなかった。漫画やテレビの世界でしか存在できないような人間が、実際に居るなどと誰が考えようか。
これが冗談なのだとしたら少しも笑えず、単なる嫌がらせのつもりであれば馬鹿馬鹿しく、本当であれば――この二人は、岬田に何を望んでいるのだろうか。
「殺し屋、ねえ。お前さんからしてみれば、そう思えるのかもしれないけど、ちょっとばかし、違うかね。あたしらの業界じゃ、私刑人と……そう呼んでおる。私の刑で――私刑さ」
「私刑……」
法律に基づかずに行われる、私的な制裁。それが集団で行われれば、リンチという言葉に変化する。
言葉の意味する所は知っている。だが――だからといって、人を殺すという許されざる行為そのものが変わる訳でも無い。寧ろ、私刑と称して平然と殺人を行っている分、他の殺人者よりも危険なのではなかろうか。
「まあ、名前なんて、この際どうでもいい事ではあるがね。私刑人でも、殺し屋でも、殺人鬼でも……好きなように呼んでくれて構わないよ。学校の先生が、教師だったり、教諭だったり、単に先生と呼ばれるのと同じようなもんさ」
「そんなの――」
老婆の言葉を否定しようとした岬田だったが、しかし、その為の言葉は口から出てこなかった。呼び方を否定した所で、殺人そのものを否定できないのだから、諦めたといってもいい。
「あたしらは、殺しを生業として暮らしている人間だよ。別に好きで人様のお命を奪おうとしている訳じゃあない。お前さんに勘違いしてほしくないのは、あたしらは弱者の味方という事だよ。守ってやってると言ってもいい」
「…………」
言葉の意味を理解しかねて怪訝そうな表情を浮かべる岬田に対し、老婆は微かに口元を緩めた。
「さっきも言ったろう。人を殺す勇気も根性も無いお前さんの代わりに、この子がお前さんの殺意になると。どうしてお前さんは人を殺す事を諦めたのかね。法律で禁じられているから? 道徳に反するから? 同じ種を滅ぼすのは本能が許さないから? 理由ならいくらでも挙げられるし、どれも間違っちゃいないだろう。じゃあ、どうしてそんな理由に行き着くのかの」
弱いからだ――と、老婆は岬田の返答を待たずに言って、続けた。
「己の肉体的な弱さもあろう。人を殺める行為に堪えかねる精神的な弱さもあろう。殺人という事実を正当化できない権力に抗えない弱さもあろう。弱さというのは愚かしくて……危険だよ。何かの拍子で暴走するかもしれないお前さんみたいな人間が、世の中にとってどれだけ危険か、分かるかい?」
全く分からない――という訳でも無い。心身に余裕の無い社会的弱者が犯罪に走るという例は、別段珍しくもなく、寧ろ当たり前のようになってきている節すらある。先程までの岬田自身が、まさにそうだったのだから。
「だから、あたしらが……この子が、お前さんの殺意になってやるのさ。暴走を未然に防ぎ、世の中に害を及ぼす不要な存在を消し、そしてあたしらには金が入る。話としては悪くあるまい?」
どんな理由であれ、人を殺す行為が許される訳が無い。それをどれだけ説いた所で、この二人には意味を成さないのだろうと岬田は悟った。許される行為では無いと分かっていながら――許してもらいたいと思っているつもりなど微塵も無いのだろう。それが仕事だからだと、完全に割り切ってしまっている。
老婆の口振りからして、殺人を実行するのは少女の役割なのだろう。どのような手段を用いて人を殺すのかは分からないが、その片鱗は空き缶を千切るという行為を以てして既に見せ付けられている。
後は、岬田がどう判断するか、だろう。
「もし断ったら、どうするつもりなんだ。口封じに俺を殺すのか」
丁寧だった口調が自然と荒くなっていたが、岬田がそれに気付く事は無かった。
その質問に対し老婆は微かに鼻で笑ったような気がしたが、直後に背後を通り掛かったオートバイに音をかき消されて、よく聞き取れなかった。
「そんな、一銭の特にもならん事はせんよ。あたしは仕事の話を持ち掛けているだけにすぎん。お前さんが断ればそれで終わり、あたしらは別の商売相手を探すだけよ。しかしの、どうやらお前さんにそのつもりは無いと見える」
「どうして」
「目を見れば分かるよ」
先程にも言われた言葉を受けて、岬田は無意識に目を瞬いてしまった。
「目を見て分かっているお前さんの疑問に答えてやろう。ひとつに、これは旨い話を持ち掛けて、金を騙し取ろうとしているんじゃないかという疑問。ひとつに、あたしらがお前さんを警察に突き出すんじゃないのかという疑問。ひとつに、この子がどうやって人を殺すのかという疑問。間違いあるまい?」
目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだが、そこまで見透かされていると気味の悪さすら覚える。もしかしたら、仕事の話を持ち掛ける度に、同じ事を訊かれているのかもしれない。
そこまで見透かされているというのであれば答える必要は無いと判断した岬田は何も言わずに無言の肯定とした。
「金は、この子が契約を完遂してから払ってもらうよ。つまり、この子がお前さんの望む相手を殺せなかったら金は要らない。契約金も前払いも必要ない。消費者に優しいのが、あたしらのモットーだからね。
警察に突き出すという危険性に関しては、そんな事をしても、あたしらには一銭の儲けにもならんから……といっても、契約書に判を押す訳でもないかの。お前さんが信用してくれる他ない」
そして、と老婆は少女の方を見遣る。岬田もそれに釣られて彼女の様子を窺ったが、鋭い剣幕に気圧されて、やめた。
「人を殺す手段について、喋る事は出来んよ。知らん方がいいし、知る必要も無い」
「企業秘密……か」
「団体じゃないから、企業では無いけどの」
そう言って、老婆は薄汚れた歯を覗かせる。
知らない方がいいという事は、常人が思い描くような手段――銃や刃物といった凶器でも、事故に見せ掛けた故意の殺人でも、毒物という凶悪極まり無い手段でもないのかもしれない。それこそ、先の缶を千切るように人を殺しているのだとしたら、確かに知らない方がいい。
「……いくら払えばいい」
という岬田の言葉は、無意識の内に口からこぼれ出ていた。逡巡を――葛藤を悟られない為に、沈黙を保ちたくなかった。どの道、依頼をするのであれば避けて通れない問題なのだから、訊いたって何の問題も無い。
「そうだの」と言ってから空を見上げるようにした老婆は、微かに唸ってから視線を落とし、岬田の全身を――頭から足のつま先まで値踏みするように見回してから、続けた。
「お前さんは、そんなに裕福そうには見えんからの。今回は控えめに、三十万円といったところか」
「三十……」
老婆から提示された金額が岬田の咥内で反芻される。決して安く付くとは思っていなかったが、具体的な金額を提示されると尻込みしてしまった。貯蓄が無いという訳では無いが、三十万という金額は安くない。一人暮らしをしている身である岬田にとっては、尚更だった。
「自分の手を汚さずに人をひとり殺せる。寧ろ格安だと思うべきだがのう」
「そうだが……しかし、そんな金額で請けてしまうものなのか。人の命を奪おうというのに、まるで金額が釣り合っていない気がする」
思わずそう言ってから、岬田は僅かながら後悔の念に駆られた。相場が全くもって不明だが、どうしてわざわざ値上げしてもらうような事を口走ってしまったのか。
対する老婆は「そうかね?」と、答えてから続けた。
「命は重い。何物にも代え難い、尊きものさ。だから、あたしらは人の命に価値など見出しておらん。栗の果実を得る為にいがを取るのと同じように、金を得る為に命を取るのがあたしらだ。お前さんに望む対価は、手間賃だと思ってもらえればよい」
価値の見出せないものは、無価値。
この二人にとって、人間の存在は金を稼ぐ為の対象に過ぎないと、つまりはそういう事なのだろう。金を得る為に殺す対象であり、ビジネスを持ち掛ける対象でもある。それでいて、殺す対象は、ビジネスを持ち掛けた相手が真に殺したいと願っている人間のみで――弱者にとっての絶対的な味方であり、限りなく偽善者であり、どうしようもない悪である。
必要悪ですら無い――が、今の岬田には必要と思えるくらいの状況は既に整っていた。元より柚木を殺すつもりで、老婆の言う通り、人を殺すだけの勇気も根性も無いが為に諦めたが、今はそれが出来るだけの――それを叶えてくれるだけの力が目の前にある。
どれだけこの二人が人道を外していようとも、自分が殺意を抱いていた以上は否定できず、ならばいっそ肯定するべきではなかろうか。元々は終わった人生である。どこまでも堕ちる覚悟は無いが、どこまで堕ちても仕方がないと思える程度には、岬田は諦めていた。
ただ、見えている落とし穴に進んで落ちる者が居ないように、自ら進んで堕ちるには、踏ん切りがつかない。背中を軽く押してくれれば――突き落としてくれればと、思う。
老婆の言葉を受けてから、逡巡する必要もないのにそのような素振りを続けた岬田の目線は、少しさまよった後に少女のそれとかち合った。どうせ何も言わないのだろうと思ったが――しかし、不意に少女は口を開く。
「どうするんですか」
出すべき結論は出ている。言われるまでも無かったが、言われるのを待っていたのかもしれない。
目を瞬かせた岬田は、目一杯に空気を吸い込んでから深い息を吐き、それからようやく「俺は」と、口を開いた。
「あの男を殺そうと、そう思ってたんだ。俺の人生を狂わせたあの男から、その代償として、あいつから全てを奪ってやろうと、そう思ってたんだ。でも、実際はあんた達の言う通りで――俺の人生なんて終わったようなものだと諦めていたのにも関わらず、何も出来なかった。
結局、諦めてないかいないんだよ。終わったと思ったのは嘘じゃないが……心のどこかでは、まだ何とかなるんじゃないかと、そう思っているのも確かで――だから殺せなかった。やり直せなくなるのが怖かったんだ。本当に、勇気も根性も無い」
岬田が自嘲気味の笑みを浮かべたのも一瞬。先程よりも短い溜め息を吐いてから、「でも」と続ける。
「本当に……俺の代わりに殺してくれるのなら、それは有り難い事だ。あいつが死ねば、俺が社会的に人の道を踏み外す可能性は限りなく低くなるのだから。どう思われても構わない。哂ってくれたって構わない。だから……殺してくれ」