鬼の章(八)
【八】
路地裏に咲く紫陽花は、もうすっかりと見頃を終えていた。
日暮れが迫る空には燕が舞い、青々と葉を繁らせる樹木の影では、長い眠りから醒めたばかりの蝉がしきりに声をあげている。
あれから随分と年月が経っていた。
久しぶりに訪れる路地の、見覚えある箇所とそうでない箇所とを見比べながら、高城は麟太郎と別れたときのことを思い出す。
あの日――梅雨明けの頃にバス停で別れて以降、高城は麟太郎と会っていない。翌月にまた原稿を受取りに行くつもりだったのが、珍しく締め切り前に仕上がったからといって、麟太郎が編集部宛に封書で送って寄越したからだ。
珍しいこともあるものだと、誰もが不思議に思っていた。思ってはいたが、とくにたずねることもしなかった。皆、各々の仕事で手一杯だったからである。
高城も同じく、上がった原稿を編集するのに忙しかった。到着したことを伝える旨の電話をかける橘の声を聞きながら、今月は徹夜せずに済みそうだなどということを考えるくらいであった。
そうして迎えた長月のはじめの日、関東一帯を襲った大地震により、高城はもとより麟太郎が住んでいた町も瞬く間に灰燼へと帰した。
震災後の混乱の最中、勤めていた編集部は会社ごと建物をなくして文字通り潰れてしまった。今までに出版した多くの雑誌も燃え、最後に届いた麟太郎の原稿も、結局世に出ることなく終わった。
高城には、震災による被害がどれほどのものだったのかはよくわからない。わかっているのは、多くの建物が崩れて燃え、多くの人々が亡くなったということだけである。
高城の周囲でも連絡の絶えた関係者は少なくなく、麟太郎ももちろんその中に含まれている。
震災から間もない頃、高城は一度、麟太郎の下宿のあった辺りをたずねたことがあった。しかし、そこに残されていたのは、見るも無残に潰れ焼け残った瓦礫の山だけだった。
近所付き合いもさほどなかった男のことを聞こうにもどうにもならず、また麟太郎に部屋を貸していた大家も親戚を頼って遠方の地へと疎開し、その後戻ってくることはなかった。いずれも、消息は杳として知れぬままである。
あの瞬間から、高城は自分ひとりがあらゆるものから取り残されてしまったように思えて仕方がない。
焦土と化した場所から人々が立ち直るのは思いのほか早く、あの悪夢は本当にただの悪夢だったのだと思いたくなるほどに、ものごとの刷新は素早かった。
かつて麟太郎が住んでいた界隈も、高城が鬼女のことを思いながらさ迷った路地さえも、今はほとんどが真新しい家々が立ち並び、見知らぬ町と化している。
そんな中を歩いていながらも、しかし高城の脳裏には、あの日の出来事が今も鮮やかに蘇るのだ。
今にして思えば、あのときからすでに麟太郎は何かしらの予兆を感じ取っていたのかもしれなかった。けれどもそれを確かめるすべは残されておらず、高城は一人、ゆるゆると暮れなずむ路地の片隅で、足元にわだかまる影に目を向けるしかない。
過ぎ去った日々はあまりにも遠い。
それでも高城は諦めたわけではなかった。
季節が廻り、梅雨が終わる頃になると、高城は居ても立ってもいられなくなる。
色濃くなる夜陰に耳を澄ませば、聞き覚えのある下駄の音が聞こえるかもしれなかった。
見知らぬ路地の隙間に目を凝らせば、柔らかな笑みをたたえた顔が、角を曲がってひょっこりと現れるかもしれなかった。
掛軸の鬼女が骨董屋の主人と喚び合ったように――その想いに自分が惹き寄せられたように、こうして想い続けていれば、いつかまたどこかで結城麟太郎という男と出会えるような、そんな気がするのだ。
たった一日で何もかもが終わり、何もかもが変わってしまったけれど。
手元に残された小さなお守りは大分擦り切れて、炊き込めたという香りも薄れてしまったけれど。
雨が降るたびに、眩しく照り返す水溜りを見るたびに、艶やかな色を放つ飴色の色硝子を見るたびに、銀に透ける蜻蛉の翅を、蝉時雨を、ぬるむ風を、そして夜の気配を感じるたびに、高城の胸の奥では、消えることのない熾火が赤々とした光を取り戻す。
いつだったか、高城は麟太郎の書くものを何だかよくわからないと評したことがあるが、しかしこうして同じ道を辿っていると、彼の人が暗がりの中でいつも何を見つめていたのかが朧げにわかるような気がして、つい笑みを浮かべてしまうのだ。
そして、今日もまた。
日暮れて家路を急ぐ者たちの中で、高城は立ち止まり、後ろを振り返る。
仄昏い中へと伸びた影は、去り行く躯を引き止めて、奥底に沈む想いを包み込み、優しく手招きしているようで。
それらを見つめながら、高城はそっと微笑む。
かつて麟太郎がそうしていたように、宵闇に生きるものたちへと向けて。
[了]