鬼の章(七)
【七】
二人が並んで腰掛ける傍らでは、咲き終わった紫陽花が揺れていた。
日が傾き風向きが変わったからであろう、むっとする湿気を含んだ風は、いつのまにか涼しげなものへとなりつつあった。
藍色の名残をとどめた葉陰と、手の中のビン底に沈むビー玉とを交互に眺めながら、高城はあることを考えていた。
「もうひとつおたずねしてもいいでしょうか」
共に一息つき、充分に気が鎮まった頃合いを見計らって、改めて麟太郎に向き合る。
「先生はさっき、掛軸はもうこの世にはないと仰いましたよね」
「ああ」
「じゃぁ、あれは?」
四ツ辻で高城を捕えた香り――麟太郎が常に纏わりつかせ、今こうしていても仄かに香る白檀は、確かに彼を骨董店へと導いた。
「あの香りは何だったんですか?」
「あれか」
麟太郎は苦笑を浮かべ、格好を崩した。
腕を組み、繰るべき言葉を探る――少なくとも、高城の目にはそう見えた。
麟太郎は、そのつもりはないのだろうがつい身構えてしまう高城をちらりと見遣った。
「多分、残り香に惑わされたんだろう」
「残り香?」
麟太郎はそうだ、と頷いた。
かつて麟太郎も、あの店で同じ香りを嗅いだ。完全に惑わされはしなかったものの、強く惹かれたのは事実である。
「魂というものは、消えてもまだそこかしこに名残を残している。本人が成仏したとしても、想いはあらゆる場所に宿っているんだ。あれが私の手元にあったのはせいぜい半年くらいだが、そんな短い間でも、あれの強い想いは私の部屋に染み付いた。おそらくは、君が目をつけたあの洋灯だろうな。あれも、元々はあの店の品だったわけだし……」
麟太郎は組んでいた腕を解くと、高城の胸を指した。
「それと、君の内に、誰かを懐かしむ想いがあった」
麟太郎の指摘に、高城はどきりとする。
「生きているものは、居なくなったものへと想いを馳せる。偲ぶ、ということだな。普段は忘れていても、奥底に強い想いが眠っていれば、それはおのずと外へと滲み出る。とりわけ、今日のような日はそうなりやすい」
意味がわからず、高城は首を傾げた。
「どうしてですか?」
「人の魂というやつは、存外簡単に体から離れるものでな。夜、夢を見ているときが特にそうだが、これは何も寝ているときに限ったことじゃない。
起きていても、魂は勝手に身体から抜け出してしまう。奇麗なものに見とれたり、暑さや寒さで、頭がぼうっとしたときがそうだ。もともと、玉の緒がしっかりしておらんのだろうな。
だから、自分の意志とは関係なしに独りでに歩き出して、ああいう手合いに引っかかってしまうのさ」
「はぁ……」
わかったようなわかっていないような、半端な返事を返す高城に、麟太郎は尚も続ける。
「まぁ、男ってのは、大概が単純で愚かな生き物だ。いくら鬼の角が見えていたって、惚れた相手なら天女にも見える。その腕に抱かれて死ねるなら本望だと思う奴も、世の中にはわんさといるだろうて」
「ぼ、僕は別に、そんな――」
「わかってるとも」
赤くなり、慌てて弁解しようとする高城の様子が滑稽だったのか、麟太郎は笑いながらこれを宥めた。
「だから、君の場合は、たまたま引っかかっただけなんだろう。あの香りに繋がる思い出があったから――」
そうして、ふと麟太郎が視線を外す。それを追った高城は、その先にあるものに目を奪われた。
二人と道路を挟んだ向かいの道端を、親子とおぼしき三人がそぞろ歩いていた。
午後の散歩であろうか、母親に手を引かれた幼い男の子と女の子とが、覚束ない足取りでよちよちと歩いている。
母の記憶と白檀の香りとに、高城の視線が遠くなる。
いつ嗅いだのかは思い出せないが、そういえば随分昔にこの香を嗅いだ記憶はあった。
母の嫁入り道具だという箪笥の抽斗であっただろうか。
袖を動かすたびに包み込むように香るそれを、歳の離れた兄などは女の匂いだといって馬鹿にしていたが、高城は決して厭ではなかった。
隣で同じように見入る麟太郎が、呟く。
「あれも、本当は誰かをとり殺そうと思っていたわけじゃない。誰かを想う気持ちが強すぎて――この場合は、あれが好いた男だな、そして男の方もそれを求める気持ちの方が勝っていて、どうしようもなかった。そんなお互いの気持ちに、たまたま呼応したんだろう」
ごそごそと動く気配に高城が振り向けば、小さな子供がするような悪戯っぽい笑みを浮かべた麟太郎を目が合った。
「高城君、ちょっと手を出してくれんか?」
高城が言われるまま片手を出すと、麟太郎はその広げた掌の上に、小さな白いものを載せた。
「何ですか、これ」
「なぁに、大したものじゃない。気休め程度だが、念のために持っているといい」
しげしげと見つめる高城の鼻に、すっかり馴染んだ白檀が届く。それは、麟太郎が日頃持ち歩いている小さな匂い袋だった。
「先にも言ったが、本来なら、ああいう類のものとは滅多に遭遇することはない。だが、どうも君は私と同じで、魂が時々体を留守にするようだからな」
言って、不意に麟太郎は立ち上がった。
何事かと思った高城がその顔を見上げると、麟太郎は額に手を翳し、彼方を見つめている。
「高城君、喜べ。バスが来たようだぞ」
「えっ?」
高城は慌てて立ち上がった。
麟太郎が指差す方向を見遣れば、確かにそこには見慣れた乗合いバスの姿がある。
茶色の車体をがたがたと揺らしながら、黒煙と土埃とを巻き上げて走るバスの様子は、随分と急いでいるように見えた。
次の時刻まではまだ余裕があるはずだがと、高城が腕時計とを見比べている間に、バスは停留所に到着する。
開いた窓から顔をのぞかせた運転手が、高城と麟太郎に向かって申し訳なさそうに頭を下げた。
「お待たせしてすみません。タイヤがパンクして、修理に手間取ってしまったもので」
「え? ……ということは?」
大荷物を抱えた乗客が急いで降車するその横で、いまいち事態が飲み込めていない高城の代わりに、麟太郎が破顔する。
「もう行ってしまったと思ったものが、実はまだ来ていなかったということさ――よかったじゃないか、明るいうちに戻れて」
意外に強い力で肩を叩かれ、高城は思わずよろめいた。
その隙に、空になっていたラムネのビンを手からとりあげられ、すかさず原稿を入れた鞄を押し付けられる。
「ほら、急いで急いで」
高城は、麟太郎に半ば押し込まれるようにしてバスへと乗り込んだ。貰ったお守りや、諸々についての礼さえ言う暇もなかった。
「どちらまで行かれますか?」
「ちょっと待ってください」
行先をたずねる車掌を押しとどめ、高城はすぐ近くの窓に手をかけた。
しかし、運転手はよほど遅れたことを気に病んでいたのだろう。他に乗車する客がいないことを確かめた車掌が扉を閉めると同時に、アクセルを踏み込んだ。
大きく揺れる車内に、踏み止まることができなかった高城は、無様にも床に尻餅をついてしまった。その間にも、停留所との距離は開いてゆく。
高城は流れゆく景色を追って後部座席まで駆け寄ると、麟太郎にも見えるようにと大きく頭を下げた。
土ぼこりで曇った窓硝子の向こうで、麟太郎が笑みを浮かべて口を開く。
読み取れたのは、ただ一言の別れの言葉。
そうして、それが高城の見た麟太郎の最後の姿となった。
†
大暑、立秋、処暑と過ぎ、そろそろ秋の足音も聞こえはじめようという頃に、それは唐突に訪れた。
火焔にまかれる市街からほうほうのていで逃げ出した高城は、熱気を帯びた煙に閉ざされる彼方を呆然と見つめながら、麟太郎と別れた日のことを思い出していた。
雑貨屋で退屈しのぎで高城に話しかけてきた店主の他愛もない一言のように、その日は暑く、そして熱かった。
<八に続く>