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【宵闇奇譚】  作者: 不知火昴斗
鬼の章
5/10

鬼の章(五) 

【五】


「それじゃ、また来月伺いますからね。今度はちゃんと、締切り前に仕上げておいてくださいよ」

 三和土たたきで靴を履きながら、高城は背後で腕を組む麟太郎に言いおいた。

「ああ。努力しよう」

 麟太郎は笑顔で頷くが、この男がまともに約束を守ったためしなどないし、そのつもりもないのだということを高城は知っている。

「まったく、もう」

 毎度繰り返されるやりとりなのだからそろそろ改めてくれれば良いのにと、内心で愚痴をこぼしつつ戸を開ければ、途端、眩しい日光が高城に向かって降り注ぐ。

 麟太郎の下宿から社までは一時間ほどかかる。うまくバスに乗れれば良いのだが、そうでなければ、今夜は社に泊まり込む覚悟をせねばらならいだろう。

 高城は気力を奮い立たせ、停留所までの道を小走りに急いだ。それなのに。

 日陰のない停留所にぽつねんと一人立ち尽くし、高城は汗に塗れる襟元をハンカチで拭っていた。

 走り去る車の影が、陽炎の向こうに消えてゆく。

 普段定刻通りに来たためしのないバスなのに、何故今日に限って時刻表に忠実なのだろう。

 誰かに文句の一つでもぶつけてやりたいものだが、生憎と今の高城の周囲には、愚痴に耳を傾けてくれるような者は一人も見当たらなかった。

 日焼けした時刻表と、就職祝いで伯父から貰った腕時計と見比べるも、それで事態が好転するはずもない。

「仕方がない。歩くか」

 ここで何もせずに石ころのように突っ立っているよりは、遥かにましだろう。

 高城は麟太郎の家へ行くときにだけこの路線を使っていた。月に一度あるかなしかのことであるし、今までに他所で降りたこともなかったのだが、幸い、大体の道筋は覚えている。

 そして、道中には小さな雑貨屋が店を構えており、いつも小さな箱ごと冷やしたラムネのビンが店先に置いてあることも知っていた。



 高城は汗をかきかき、なだらかに舗装された道をひとり歩いた。

 どこからか聞こえてくる蝉の声と空に浮かぶ雲の形に、梅雨が明けたことを実感する。

 気温が高いせいか、表通りを歩く者は高城以外にはいなかった。一本裏にでも入れば涼しい木陰もあるのだろうが、下手に横道に逸れて迷子になりたくはない。

 ほどなくして、高城は流行はやりの雑貨を並べる小奇麗な店までたどり着いた。

 次の停留所はもう目と鼻の先なのだが、バスの時刻にはまだ余裕がある。

 早速目当てのものを手に入れ、日陰に設えられた小さなベンチで一息つく。ほど良く冷えた甘い炭酸水は、高城の火照った身体に染みわたった。

「今日は蒸しますね」

 暇をもてあましていたのか、店の奥で番をしていた店主が高城に話しかけてきた。

「そうですね」

 高城が頷くと、

「この分だと、夏はもっと暑くなりますよ」

「そうでしょうか」

 疑わしげな高城の返答に、店主は至極真面目くさった顔つきで続けた。

「もしかしたら、秋になってもまだ暑いかもしれません」

「それは困るなぁ」

 今でさえ暑くてたまらないのにと、高城は苦笑する。

 現に今も風通りのよい場所に居るというのに、高城の汗は一向にひく気配がなかった。この分では、日が沈んでもまだほとぼりが残るかもしれない。

 高城は半分ほど残っていたラムネを一度に飲み干し、大きな息をついた。

 空になった瓶を揺すり、澄んだ音を立てるビー玉に耳を傾ける。そうしながら、高城はつい先ほど麟太郎から聞いた話について、ぼんやりと考えた。

 掛軸の鬼女は、一体誰が、何の目的で描いたのだろうか。

 あでやかなあけの衣に身を包んだ異形の女は、何故男たちをとり殺すのだろう。

 そして、彼女は骨董屋の主人亡き後、ひとりくらいい情念を抱えたまま、いずこかの闇の中で息を潜めているのだろうか――今、この瞬間も。

 うなじを撫でてゆく生温い風に、高城は思わず身を竦めた。そうして、今度はもうひとつ気になっていることについて考えをめぐらせる。

 麟太郎がこの町に来たのは、一体いつ頃のことなのか。

 あまり詳しく聞いた覚えはないのだが、歳のことを考えてもまだ十年は経っていないはずだった。ならば、骨董店の店主が亡くなったのも、そう古い話ではない。

 ふとあることを思いつき、高城は番台の奥で涼んでいる雑貨店の店主に声をかけた。

「すみません。つかぬことをおたずねしますが、この近辺に、骨董を扱うお店はありませんでしたか?」

「骨董……ですか?」

 店主は眼鏡の奥で眠たげな小さな目を瞬かせ、首をひねった。

「そうですねぇ。以前に、そういう店があったことはありましたが……」

「それ、どこですか!?」

 途端に目を輝かせ勢い込む高城の様子に、店主は慌てた。

「で、でも、そこはもう、随分前に店じまいをしてしまいましたから……」

 語尾を濁し、視線をそらす。

「そうですか……」

 店主の態度に、高城の勢いがしぼむ。けれど、手応えを感じていた。

 人は知っているからこそ、記憶に残っているからこそ、そして身近な出来事であったからこそ、禁忌として口を噤むものである。高城は店主の態度から、麟太郎の話が事実であるという確信を持ったのだ。

 高城はもう一度時計を見て、時刻を確認する。そして、空き瓶をベンチ脇の箱に返し、礼もそこそこに店を後にした。



   †



 一本外れただけだというのに、そのみちはとても静かなところだった。

 人気のない細い路地の両側、塀や生垣の足元には、濃い影がうずくまっている。

 表通りを歩いていたときに期待したような木陰もなく、ただひたすら白く照り返す未舗装の道と、静まり返った古い家並みが続く中を、高城はひとりく。

 注意深く周囲を見回してはいたが、昔ながらの狭い道はどこもかしこも似たような光景で、慣れた者ならいざしらず、はじめてここを訪れる高城などは容易に道を見失いそうで心許ない。

 どちらを向いても似たような景観が続く四ツ辻まで辿り着いたところで、とうとう足が止まってしまった。

 気の早い誰かが軒先に吊るした風鈴の立てるかすかな音が、四ツ辻の中央に立つ高城の耳元へと届く。

 このまま進むか、それとも諦めて戻るか。

 高城は腕を組み、唸った。

 進むにしても、もうあまり時間を費やしてはいられなかった。またバスを乗り損ねたりしたら、上司どころか、印刷所の皆にも迷惑をかけることになる。

「……今日は諦めるか」

 そうだ、何も今日でなくても良いではないか。また後日、暇なときに探せばいいのだ。

 後ろ髪を引かれるような気持ちは多少あったが、高城は自分にそう言い聞かせると、元来た方向へと踵を返そうとした。

 ――そのときだった。

 ざわりと音をたてて、どこからともなく吹いた風が、高城の側を通り過ぎた。

 新たに噴出した汗が風に当たり、ひやりとしたその感触に思わず立ち竦む。

 高城は首を廻らせ、今の風が吹いた方向を見遣った。ほんの少しではあったが、鼻先を甘い香りが掠めたような気がしたのだ。

 匂い立つ華よりは控えめながらも、どこか女の白粉おしろいを彷彿とさせる芳香だった。

 高城の足が、誘われるようにひとりでに動き出す。

 幽かな香りを頼りに、高城は白昼の狭い路地を進んだ。

 帽子の鍔が作り出すわずかな陰ではこと足りず、額に手を翳し、眩しい中にある景色をもう一度じっくり眺める。

 そうしてどれほど歩いたのか、ふと気づくと、どれも似たようなつくりをしていると思っていた家々の中に、一軒だけ様子の違うものがあるのに気が付いた。

 高城はその家に駆け寄ると、正面から仔細を眺めてみた。

 入り口とおぼしき硝子戸の上には、看板を取り外したのだろう、そこだけ不自然な四角い跡がついている。

 高城は確信した。ひっそりとした静寂に埋もれているこの古びた建物こそ、麟太郎の話にあった骨董店に違いない。

 店主が店じまいをしてからどれほどの年月が経ったのかは不明だが、戸に嵌め込まれた硝子は、もう随分と長く拭かれた形跡がなかった。

 人の出入りも大してなかったのだろう、玄関脇では梅雨の恩恵を受けて青々と繁る雑草が、わずかな風を受け、ゆらゆらとその細い体を揺らせているばかりである。

 高城は硝子戸に近寄り、中をそっと覗いてみた。

 けれども薄汚れた窓は暗く曇り、外が眩しいのも相まって、少し覗いたくらいでは中の様子を知ることはできなかった。

 廃屋と呼ぶにはまだ早いが、それでも人気が消えて久しい建物を前にして、高城は言いようのない苛立ちをおぼえた。

 もはやバスのことなどは、綺麗さっぱりと頭から消え去っていた。どうにかして中を覗きたい、奥にあるものを見てみたいという欲求の方が勝っている。

 高城は暫く店の周囲をうろうろとしていたが、隣家との間にちょうど人がひとり通れる隙間を見つけ、迷わずそこへと入り込んだ。

 陽の当たらぬ塀の隙間は水気が抜けておらず、わずかなぬかるみが靴を汚す。それでも構わずに奥へと進むと、低い生垣で囲われた小さな庭に出た。

 かつては結構な財があったのだろう、家のあるじが存命ならば、今頃はきっとそれなりに見所のある庭となっていたはずだ。

 この庭も、随分と長いこと手入れされた様子はなかった。方々に形が崩れたり枯れかけた木々がそっと肩を寄せ合うように植わっているばかりだった。

 高城の胸に、ふと子供の頃の思い出が蘇る。

 高城は裕福な家に生まれ、そのおかげで大して苦労はしなかった。兄弟姉妹の仲も良く、家の前の路地や庭などで、それこそ日が暮れるまで一緒に遊んだものだ。

 そんな自分たちを、いつもそっと見守ってくれた人がいた――高城の母である。

 色白で、静かに笑う人だった。いつも夫や子供たちから少し離れたところに佇み、皆の様子を見て微笑んでいた。

 彼女は高城が大学に通っている間に胸を病み、あっさりと逝ってしまった。まだほんの数年前のことだ。

 思い浮かぶ面影に、目頭が熱くなる。と同時に、社会に出てからの忙しさにかまけ、すっかり忘れていたことに気付かされ、高城は動揺した。

 その鼻先を、再びあの香りが掠めてゆく。

 四ツ辻で自分を捉えたときよりも一層強い芳香に、意識が遠くなる。

 ――これは何の香りだっただろうか。

 高城はぼんやりと立ち尽くしたまま考えた。

 どこかで嗅いだ記憶もあるのだが、よく思い出せない。一体どこで、いつ嗅いだのだろう。

 もやもやとした思いが胸の内で渦を巻く。

 そもそも、この香りはどこからやってくるのだろう。

 高城は、半ば虚ろと化した目を庭から家屋へと向けた。

 庭に面した雨戸に隙間があることに気付いたのは、ややあってからだった。眩しい日光とその影との落差に目がついていけなかったのだ。

 静寂が耳に痛い――いつの間にか、蝉の声はいでいた。

 明暗の差と暑さとに眩みながらも、高城は雨戸の隙間に目を凝らす。

 眼前にあるは深遠のごとき闇――その更に奥から、己を見つめ返すものがいる。

「高城君!」

 声と共にいきなり背後から肩を掴まれ、高城は心臓が止まるほど驚いた。

 途端、天地が激しく揺れるような感覚に襲われ、立っていられなくなる。

(ああ、そうだ――)

 まとわり付く匂いの正体を思い出したのは、地べたに尻餅をついた格好で目の前に立つ人物の顔を見たときだった。

「大丈夫かね」

 半ば影に沈んではいるものの、その顔を見間違えるはずもない。

「先生……」

 高城を引き止めたのは、麟太郎だった。その彼が、珍しく険しい表情をしていることに気付き、高城は動揺する。

「あっ、あのっ、僕は――」

 空家とはいえ、勝手に入り込んだところを見られたのだ。何かよこしまなことでも考えていると思われたに違いない。

 高城は雨戸を指差して事情を説明しようとしたが、言葉を紡ごうとした口は、開いたまま固まってしまった。

 二人の目の前で、雨戸は閉まっていたからである。

 庭木に止まっていた一匹の蝉が、じじ……と一声啼き、いずこかへと飛び去った。

 こんなにも蒸し暑いというのに、高城の寒気は治まらなかった。


< 六に続く>

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