鬼の章(四)
【四】
「へぇ、そんな話があったとは」
綺麗に色づいた瓜を頬張りながら、新米編集者の高城敏継は言った。
高城は社からの遣いとして、遅筆で有名な結城麟太郎の原稿の催促に来ていたのだが、この柔和な顔付きをした若い作家は、暫く書斎にこもりきりで人恋しかったのか、自分からなにかと高城に話し掛け、少しも原稿を書こうとしなかった。
幸いにも原稿はほとんど仕上がっており、あとは少々見直すだけだと言うのだが、なかなかその仕上げに取りかかろうとしない。
話す暇があるなら手を動かしてくださいと何度頼んでも全くの無駄で、いい加減諦めた高城は縁側に退避し、距離を置いて適当に相槌をうとうかと考えていたとき、何気なくやった目が文机の上にある洋灯に止まったのだった。
こうして原稿の催促に来るのははじめてではないし、洋灯を見るのもそうなのだが、何故かそのときの高城には、この小さな蜻蛉の透かし模様が入った飴色の傘が、やけに気になって仕方がなかった。
麟太郎は、普段から贅沢などとは無縁の暮らしをしている。部屋の調度も、主人の気質を反映してか、どれもがごくごく普通の品ばかりだ。
そんな中にあって、ただひとつだけ存在を主張するかのように鎮座するこの洋灯は、どうにもそぐわない不自然なものとして高城の目に映ったのだった。
一体どういう経緯で手に入れたのだろう――頭をもたげた好奇心が、つい口から出てしまう。
長くなるぞと前置きをされ、内心しまったと思ったのだが、後の祭りであった。
覚悟を決めて、麟太郎の口から語られる話に耳を傾けること暫く。高城の座る縁側には、いつの間にやら高くなった陽がつくる廂の濃い影が落ちていた。
「でも先生。どうせなら、今の話を書いてくださればよかったのに」
世間では、麟太郎がいつも書いているような何だかよくわからない話よりも、こういった怪奇めいたものの方が受けが良い。
ネタがあるんだったら、と恨みがましい視線を寄越す高城に、新たに切り分けた瓜を乗せた盆と、大きな茶封筒を手にした麟太郎が笑った。封筒には、ようやく仕上がった原稿が収まっている。
小暑も過ぎ、かかる日射しはすでに夏模様、炎天とまではゆかずとも、日当たりの良い所は充分に暑い。そんな最中をこれから社まで急いで戻らねばならないのだから、高城でなくとも恨み言のひとつやふたつ、言いたくなって当然である。
「そのおかげで、こうして瓜にありつけたんだ。良かったじゃないか」
「それはそれ、これはこれです」
高城はきっぱりと言い切り、指についた甘い汁を舐めた。
瓜は、麟太郎が借りているこの部屋の大家からの差し入だった。早くに収穫したためにやや小振りだが、甘味はしっかりとついている。
朝からずっと井戸水につけておいたのもあり、陽の当たる縁側でずっと原稿を待ち続けていた高城にとっては、涙が出るほど有り難いお裾分けだ。
しかし、当の麟太郎自身の口にはまだ入っていなかった。
原稿があがってからにしてくださいと、高城からおあずけを喰らっていたのだ。
「いや、すまんすまん。ここに入れておいたから、後は頼む」
麟太郎が封筒を差し出すと、
「はい、確かに」
高城は粗方食べ終えた皮を皿に戻し、手ぬぐいでしっかり手を拭いてからこれを受け取った。
すっかり日に焼けて熱くなった鞄に仕舞い込み、きちんと鍵をかける。
これからこれを抱えて、急いで社まで戻らなければならない。陽炎ゆらめく道中の様子を思い浮かべ、高城は思わず溜息をついた。
「ああ、やれやれ。やっと食べられる」
子供のような笑みを浮かべ、麟太郎は高城の隣に腰を下ろし、瓜に手を伸ばした。
高城は、喜々として瓜にかぶりつく麟太郎の横顔を何とはなしに眺めていたが、ふとあることを思い出し、たずねた。
「それで、その後はどうなったんです?」
「その後というと?」
「またまたぁ、とぼけないでくださいよ」
「ああ、なかなか金の工面が出来なくてなぁ。引き取りに行くまでに、丸一年もかかってしまった」
麟太郎はたった今まで執筆をしていた部屋を、顎で指し示した。壁際に寄せた小さな文机の上には、飴色の傘がぼんやりとした薄暗がりの中に浮かんでいる。
「そうじゃなくて、掛軸ですよ。か、け、じ、く。骨董屋のご主人は、今もまだこの町にいらっしゃるんですか?」
高城は麟太郎ににじり寄った。しかし麟太郎は、
「ああ、それか」
ぷっと小気味良い音を立て、種を植え込みに向かって飛ばす。
「あの洋灯を引き取ってから間もなく、亡くなったと聞いた」
「ええっ!?」
思いもよらぬ返答に、高城は目を剥いて仰け反った。
「じゃぁ、やっぱりその御主人も、鬼女に殺されちゃったんだ!」
「それはどうだろうな。もともと身体を悪くしていたらしいから、必ずしもそうとは限らんだろう」
「でも、掛軸の持主は、今のお話だけでも二人亡くなっていますよ。骨董店のご主人も入れたら、三人亡くなったことに……、あっ、もしかしたら、先代の御主人も鬼女が原因なんじゃ……だったら、四人も人死にが」
「ふむ、そうなるかな」
「そうなるかなって、先生、まるで他人ごとのように仰らなくても」
「他人ごとさ。それ以上でも、それ以下でもない」
あっさりと切り捨てられ、高城はそれ以上言葉を続けることができなかった。
高城は、麟太郎の飄々としたところは好きなのだが、時折見せるこういった突き放したような態度だけは、どうにも馴染めなかった。
薄情とまではいかずとも、どこか厭世的で冷淡な面は、一見すると人当たりの良いこの男がひっそりと抱える闇の部分にも思えて、落ち着かなくなるのだ。
それでも、やはり掛軸にまつわる話は気になって仕方がない。しつこいと煩さがられるのを承知で、高城は麟太郎にたずねた。
「……じゃぁ、掛軸は、今はどこにあるんでしょうか。まだお店にあるのか、誰かの手に渡ったのか」
「さて、どうだか。私の耳に入ったのは、ご主人の話だけだったからなぁ」
望む答えが得られずに落胆する高城を横目に、麟太郎はひとりごとでも呟くように言葉を続けた。
「普通なら、ああいうものに出会うのは極ごく稀なことだ。無闇矢鱈と怖がる必要はないさ」
麟太郎の揶揄に、高城は慌てて首を振った。
「こ、怖がってなんかいませんよ」
「おや、そうかい。私はてっきり、君が怖がっているんじゃないかと」
くすくすと笑われ、高城は子供のようにむくれた。
腹いせにもうひとつ瓜を手に取り、むしゃぶりつく。そうして暫く無言で瓜を食べていた高城だったが、再びその動きを止めた。
「……でも、先生。もし僕が今後どこかでその掛軸に出会うことがあったとしたら、それでもって彼女に万が一好かれちゃったりした場合には、一体どうしたらいいんですかね?」
「どうもこうもない。諦めろ」
「そんな殺生な」
「あり得ないことを気に病んでも仕方ないだろう。それより、押し込み強盗の心配でもした方がいいんじゃないか? 最近多くなったと聞くからな。高城君は、武道の心得もなさそうだから、押し込まれたら大変だぞ」
「失礼なことを言わないでください。こう見えても、柔道は黒帯なんですよ」
「へぇ、そいつぁ意外だ。驚いた」
「先生こそ、そうやってにこにこ笑って説教なさるくらいしかないんじゃないですかね。最近の泥棒は血も涙もない、命も平気で取るって話ですから、せいぜい気をつけてくださいよ」
「そうだなぁ。鬼女よりも、そっちの方がよっぽどか怖いやなぁ」
そう言って、麟太郎は声をあげて笑うのだった。
< 五に続く>