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【宵闇奇譚】  作者: 不知火昴斗
鬼の章
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鬼の章(一) 

 蓬生よもぎふにいつか置くべき露の身は

 けふの夕暮れあすのあけぼの


 慈円「新古今和歌集」より



【 一 】  


 たまたま目についた洋灯ランプに誘われてその骨董商に足を踏み入れたのは、麟太郎がまだこの町に移り住んで間もない頃、雨上がりの陽光に紫陽花の露が煌めく六月のとある昼下がりのことであった。



 長雨が廂を叩く音を聞きながら一向にすすまぬ筆と原稿を相手にしていると、どうにも気が滅入って仕方がない。雨が上がるとこれ幸いとばかりに下宿を飛び出したまではよかったが、ろくに地理を知りもしないのに方々を勝手に歩き回ったものだから、他聞に洩れず道に迷ってしまった。

 生来の楽天家であったからまだいいようなものの、たずねようにも人が見当たらぬ裏路地に迷い込んでしまってはさすがに心許ない。いい加減歩き疲れてきた頃にふと麟太郎が顔を上げてみれば、古びた看板が目に飛び込んだ。

 〈サゝキ骨董店〉と墨で書かれたその看板は、昔ながらの佇まいを見せる小さな家々の間で、ひっそりと埋もれるように掲げられていた。

 物珍しさに誘われるまま、麟太郎はその店に足を向けた。

 入口の硝子戸ごしに中の様子窺ってみると、中は幾つかの小さな灯がついているだけで、まだ昼だというのに薄暗かった。

 人が出入りしている気配もなく、どうしたことかと周囲を見回してみれば、傍らの柱に〈忌中〉と小さな張紙がしてあるのにようやく気付いた。

 納得し、再び店内に目を向けてみれば見たで、仄暗い灯がつくり出す幾つかの影が麟太郎の好奇心をいたく刺激する。

 子供のようにに張り付いて覗いていると、そんな影の中に、小さな洋灯ランプがあるのに気が付いた。

 高さはおよそ八寸、傘の幅は六寸ほどの卓上に置けるようなもので、飴色に艶を放つ摺硝子すりがらすの傘に蜻蛉とんぼの透かし模様が入っている。

 麟太郎は美術品の収集癖どころか興味もない男だったが、この洋灯には何故か心が動かされた。

 はたして、値はいかほどの品であろう――麟太郎は思案顔で懐を探るが、すぐに苦笑を漏らした。まさかこんなものに遭遇するとは思っていなかったため、大した額を持ち合わせていないのを思い出したのだ。

 仕方ないと立ち去りかけてはみるものの、やはり洋灯の傘の色具合がどうにもいいものに思えて仕方がない。

 ここで無理に家路についたところで、さてと文机に向かっても思い描くのは飴色の空に浮かぶ蜻蛉の姿ばかりであろう。そのさまがいとも容易く想像できてしまうものだから、尚のこと立ち去り辛かった。

 こうなってしまうと、もうどうしようもない。暫く軒先で入るか入るまいかと思案していた麟太郎だったが、

「えぇい、このままではらちがあかん」

 と、思いきって店の戸口に手をかけた。

 値段を聞くくらいなら構わないだろう。手の届きそうにない額であれば、いっそのこと諦めもつく。

 よく手入れされていたのか、扉は古いにも関わらず、大した音も立てずに開いた。

 中に足を踏み入れると、埃っぽい独特の匂いの中に、微かに線香の香りが漂っている。

「ご免」

 麟太郎は入口に留まり、何度か奥に向かって声をかけてみたが、聞こえないのかそれとも何か用向きでもあるのか、人が出て来るような気配は一向になかった。

 暫く所在な気に突っ立ったままそこらを眺めていた麟太郎であったが、自分を取り巻く品々に目向けているうちに、どうにも我慢ができなくなってきた。

 主人なり使いの者なりが出てくるまでは勝手に見させてもらう。咎められたら素直に謝ればよいのだ――麟太郎は自分にそう言い聞かせ、お宝ともガラクタとも判別のつかぬ物が所狭しと並べられた棚に向かった。

 薄暗い店内は、まるで古い蔵の中にでも入ったかのような具合だった。

 そういえば――と、麟太郎は自分がまだ子供だった頃に、家の蔵に入り込んだときのことを思い出した。

 あのときも、この店のようにいろんなものが置いてあった。薄暗がりの中を半ベソをかきながら後ろにくっついてきたのは、二つ違いの弟だったか、それとも幼馴染みの露子だったか。何故かその時の記憶が思い出され、しらず笑みを浮かべてしまう。

 あのときは確か、普段見られないようなものを勝手に引っぱり出しては眺め、散々散らかした挙げ句にその場で眠ってしまったのではなかったか。夕暮れ時、家人が血相を変えて自分達を捜しまわる声に目醒めたような記憶が微かに残っている。

 夕闇迫る暗がりの中、寝ぼけまなこに映った親の顔が鬼の形相にも見えて、肝の小さかった弟などは本当に鬼がさらいに来たのだと勘違いして泣き出してしまった。

 その後、蔵には鍵がかけられた。にも関わらず、麟太郎の探究心は飽くことを知らなかった。

 蔵が駄目なら離れの押入、天井裏と次々と場所を変え、そして町に出れば出たで、知らない道にも構わず入っては迷子になり、その度に散々怒られ、絞られた。

 さすがに小学校を卒業する頃には弟には愛想をつかされたのか、冒険に付き合ってくれるのは露子だけとなり、そうして彼女もほどなくして親の都合で横浜へと越してゆき、麟太郎は一人で夕闇を散策するようになった。

 浮かべた微笑が苦笑にかわるのを自覚し、麟太郎は頭をかく。

 もうあの頃とは何もかもが変わってしまった。変わらないのは、この店のような古くからあるものたちと、暗がりだけ。そんな中ばかり歩いていたから、皆に取り残されてしまったのだろう。

 親元を離れて随分と経つ。両親は息災だろうか。弟はどうしているだろう。横浜に行った露子は――

「いかん、いかん」

 麟太郎はひとりごち、かぶりを振った。

 ここ暫くの間ずっと下宿に篭りきりだったせいで、人恋しくなっていたのだろう。

 珍しいこともあるものだと、誰に聞かせるでもなく呟きながら、目の前にあった茶碗を手に取ろうとした。そのとき。

 麟太郎は、おのれを見つめる密やかな視線に気付いた。

 慌てて振り返るも、視線の方向には誰もらず、変わらぬ薄闇が静かにたゆたっているだけである。

 手を伸ばしかけた不安定な格好のまま、麟太郎は暗がりの中にじっと目を凝らした。が、やはり人影はない。

 はじめは自分を盗人か何かと勘違いした店主が、陳列棚の影にでも隠れて様子を窺っているのかと思った。

 しかしそれならば、誰何すいかの声が上がるはずである。

 麟太郎はそろりと手を下ろし、視線の主を探してその方向へと歩き出した。

 ふと、忘れていた線香の香が強くなる。壇香梅――白檀だ。

 白檀は、露子がいつも持っていた匂い袋の香りであった。こうを焚き込めた小さな袋は、魔除けにと麟太郎があげたのだ。

 記憶に直結する芳香に、目眩をおぼえる。

 しかし、何故だろう。

 何故今になって露子のことが気にかかって仕方が無いのだろう。もう何年も完全に忘れていたことではなかったか。

 そうは思いながらも、麟太郎の足は止まらない。

 何かが居る。暗闇の中に、自分をぶものがいる。

 暗闇に吸い込まれるような、どこか心地よく懐かしい感触に、麟太郎は不思議な笑みを浮かべた。

 ゆっくりと、一歩一歩を確認するかのように進み、棚の合間を抜けて視線の主に目を向ける。

 変わらぬ薄闇の中、そこに居たのは。

莫迦ばかな――」

 咄嗟に思い浮かんだ名を、麟太郎は否定した。

 棚の影に居たのは一人の女性――それは、麟太郎が知っているはずのない、成長した露子そのひとであったのだ。

 露子は長い黒髪を緩やかに結い上げ、白皙はくせきの顔にあでやかな笑みを浮かべて麟太郎を見つめていた。その笑顔の中に、どうして私を忘れていたのかと言いたげな恨めしい光が浮かぶ。

 脳天が痺れるほど甘い香りの中、彼女が纏っている緋色の着物と同じか、それ以上にあかい色をしたべにが、厭に目について――

「やめろ」

 麟太郎は低く呟き、片手で目を覆った。

「私を惑わすな」

 言い終えぬうちに、ぐらりと天地が揺れるような感覚が麟太郎を襲う。と同時に、あれほど強かった白檀の甘い香りが急激に薄らいだ。

 時間にすればほんの数刻だったのだろうが、麟太郎にはそれが極めて長い時間であるかのように思えた。

 揺れが治まるのを待ってから手を下ろし、再び薄闇へと目を向ける。

 目の前にはすでに女の姿はなく、かわりに目に映ったのは、店の奥の突き当たりの壁――何幅かの掛軸の中に居る〈彼女〉であった。

 乱れかけた呼吸を整え、麟太郎は彼女のもとへと歩み寄った。そうして、子細に観察する。

 江戸風の質素な仕立てが施された掛軸には、一人の女の立ち姿が描かれていた。

 艶やかな長い黒髪を緩く結い、緋色の衣を纏い、白い顔に赤い紅――紛れもなく、つい今し方麟太郎が目にした露子と同じ出で立ちである。

 だが、絵には一つだけ違うところがあった。

 夜闇のような黒髪に埋もれる小さな白いもの――それは、小指ほどの大きさをした一対の角であった。

 彼女は鬼だったのだ。

「もし――?」

 唐突にかけられた声に驚き、振り向くと、そこには黒の上着を羽織った小柄な男が一人、麟太郎の表情を窺うように立っていた。

「少々留守にしておりましたので……。何かご用でも?」

 どうやらこの骨董店の店主のようである。

 麟太郎は男から一旦顔を背けた。自分でも、険しい顔をしているのがわかっていたからである。

 ひと呼吸おいてから店主とおぼしき男に向き直ると、麟太郎はいつものような柔和な微笑を浮かべて言った。

「ええ、ひとつ、気になる品があったもので」

「そうですか」

「勝手に上がり込んだりして申し訳ない」

「いいえ、そのようなことは」

 留守の間に店に入り込んだ男を見つけて、もしや盗人ではあるまいなと警戒していた店主であったが、頭を下げる麟太郎の姿に小さく安堵の溜息を漏らした。だが、緩みかけた表情は麟太郎の背後にある掛軸を見て、再び強張った。

「何か?」

 麟太郎が声をかけると、店主はぎくりと固まった。

「まさか、その品というのは、これのことでは」

「だとしたら、どうだと?」

「いえ、何でもありません。何でも。ただ……」

「何です」

 言い淀んだ言葉の先を促され、店主は狼狽えたように掛軸と麟太郎の顔とを交互に見比べた。が、やがて小さな溜息をつくと、麟太郎にこう告げた。

「もしよろしければ、上がってゆかれませんか。これについてのお話でも 」

 何かを諦めたような、そして決心したかのような口ぶりに、麟太郎は無言で頷いた。


< 二へ続く>

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