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指きりから暫くして、活動日誌を持った麻衣が部室に入ってくる。

『全員集まった事だし、部活動を始めます。今回も、素描をしたいと思います』

麻衣がいかにも部長っぽく一言告げる。黒板に小さく丁寧な字で、"素描"と書いていた。全員といっても僕たちは三人しかいない。小さな小さな部活動だ。

『今回の題材は何にするの? 前回はリンゴだったよね』

十和が普通の質問。

『今回はバナナにしようと思います。十和が脱ぎたかったら脱いでもいいよ』

麻衣のアブノーマルな応答。麻衣と十和は相変わらず、漫才を繰り広げているようだ。高校生で裸体を描くのはちょっと刺激が強すぎるよね。僕は苦笑いする他ない。

『う~』

手をパタパタさせて、声を上げて怒りを表している十和を見て僕は思う。

やっと戻ってきた気がする。いつもの雰囲気。いつもの美術部の始まりだ。

素描(そびょう)――鉛筆の濃淡で対象物を立体的に描き出す表現の事だ。素描は、休日の一日で終わらせる事が出来る。

また、個人の技量が分かりやすく現れ、美術系の大学の入試でも取り入れられている。夏に提出する絵の製作に取り掛かるには時期が早すぎるし、大きな個人作品を仕上げるには時間が足りない今の時期には、丁度良い題材である。最近は、人の彫刻ではなく、球体の物質や植物を仕上げるのが、この部活の課題となっていた。

麻衣や十和がじゃれあっている一方で、僕は隣の教室から拝借した学習机を、適切な位置へと移動させる。どうしても、美術用のキャンバスは自分には合わない。キャンバスには傾斜が付いている為だ。その為に僕は、普段の授業用の机を別室から持ち込む事が日課になっていた。

 用紙が動かないように、隅四箇所に星型の重しを置く。麻衣と十和もひとしきりの喧嘩を終えた後、自分の書きたい位置にキャンバスと椅子を動かしていた。

『制限時間は一時間。では、初めて下さい』

真面目モードに切り替えた麻衣は、素描開始を宣言。同時に教室に広がる静寂。

 キャンプファイヤーのように、机たちが対象物であるバナナを取り囲む。視線が一点に集まる感覚。この感覚が僕はとても好きだ。

 自分は、最大限目立たない努力をしている。でも、いつも他の人の注目を集めているような気がしてならない。思春期特有の症状なのだろう。そんな中、自分ではなく他の物が明確に注目されている状況。何かを皆で描写している間だけは、明らかに自分が見られていない。心が少し楽だ。

今回のお題はバナナ。独特の形状は言葉に表すのが難しいように、鉛筆の濃淡で示す事も難しい。影の形もとても特徴的で、他の対象物では現れないような不思議な影だ。でも、だからこそやる気がでる。僕は美術用の鉛筆で、ゆっくりとモノトーンを刻んでいく。

……。

…………。

………………。

 集中しろと自分に言い聞かせるのだが、イマイチ集中力が続かない。頭のどこかに「告白」の文字が浮かんでおり離れない。

 いつものように線を引こうとするのだが、心の揺れを示すかのように筆圧が安定していなかった。

……。

…………。

………………。

『終了。お疲れさまでした』

麻衣の鶴の一声。終了の合図とともに静けさや張りつめていた緊張感が失われる。書き終わったら、三人だけの感想発表会だ。麻衣は部員の三人の作品を一通り見た後、

『やっぱり、上手なんだよね』

僕の絵に対して素直な一言、個人的にはあまり褒められたものではないと思ったのだが、掛けられた言葉は優しいものだった。素直に誇らしい。時間はかなりかかるけど、二人よりは上手い自信がある。人物画は苦手で麻衣に負けていると感じる事もあるけれど、無機質な物が描写対象ならば、負けずに描き出す事が出来るはずだ。

『紙の中から出して、食べてみたくなるよ』

僕の作品を見て十和からも漏れる声。自分の描いた食品が食欲をそそる。つまりは、自分の描いた物によって何かを感じさせる事が出来たという事だ。今日の作品は成功の部類に入るだろう。

『今日の用紙はもう使わないから。食べてOK。はい、口開けて。はい、あーん』

僕が賞賛の嬉しさに身を震わせている中で、麻衣は画用紙を十和の口に突っ込もうと近づいていた。

『私、やぎじゃないよー。しかも、それ麻衣の絵じゃんよー』

それに対し、十和は身の危険を感じて少し遠ざかる。

『もし、脱いでいたら紙食べなくてすんだのにな。残念だなー』

じりじりと距離を詰めつつ、余りにも女子高生らしくない麻衣の一言。

『もし、脱いでいたら私の練習にならないでしょ』

十和が当たり前のような事を言う。しかし、麻衣との争いに常識は通用しない。

かふっ。

……結局、左目に涙をたたえながら、十和は紙の端を少し咥えていた。麻衣は満足したようだ。

『じゃあ、帰ろうかな』

麻衣の冷たい一言。今日は麻衣の遊びに十五分ほど時間がかかったせいか、普段より少しだけ遅い帰宅になりそうだ。三人はそれぞれの支度を終えた後、階段を下りる。

 「なんで助けてくれなかったの?」と十和が声に出さず熱烈なアイコンタクト。玄関まで行われていたようだったが、多分気のせいだろう。気付かない振りをして、極力目をそらす。靴を履く頃にはコンタクトを取るのは諦めたようだった。ごめん、巻き込まれたくなかったからだよ。心の隅で謝る。

外に出ると既に雪は降り止んでおり、太陽の光が差し込んでいた。時刻は、ちょうど午後に入った頃だ。

いつもは三人一緒に下校するだけなのだが、そろそろ提案してみようと思う。

『映画見に行かないか、3人で。十和が無料チケット持っているんだって』

麻衣の顔は曇る。

『いいよ。私お金ないし、人混み嫌いだし。二人で行ってきなよ』

『なんと私、麻衣ちゃんの分のチケットも持っているのだよ! だから、よかったら行かない?』

十和からの援護。だが麻衣の顔にはまだ不安が覗いている、もう一押しといった所か。

『久々だろ、学校の外で遊ぶの。せっかくだし一緒に楽しまないか? 外でも十和に悪戯できるなんて、これ以上ない幸福な時間のはずだぞ』

麻衣はしぶしぶといった様子で頷く。

『なんか納得いかないな、私の気のせいなのだよね?』

『二人から溢れんばかりの寵愛を受けているんだ。幸せだろ』

『全く嬉しくないよ!』

十和は道の真ん中で叫ぶ。麻衣は小さく『ふ、ふ、ふっ』って笑っていた。




普段の下校用ルートから外れ、僕たちは「映画館通り」へと向かう。名のとおり、たくさんの映画館が連なって出来ているストリート。金色の信号機などが、独特の雰囲気を醸し出している。

 いつもは人目の多い大通りを通らずに、か細い道を歩く事にしている。そんな僕にとって、「映画館通り」の人波は頭痛の種だ。すれ違う人々が、僕たちの事をチラチラと見ている気がして辛い。

『緊張しなくても、大丈夫。加藤くんを火で炙って、食べる人なんていないよ』

十和は、背中を優しく撫でる。

『ありがとう』

自意識過剰なだけであると自分に言い聞かせて、僕は元気を呼び起こす。

 僕と十和が並んで歩き、少し後ろを俯いた麻衣がくっついてくる。僕たちの体は雨風をしのぐ傘のように、行き交う人混みの目から麻衣を守った。それでも変わらずに麻衣の顔には怪訝さが浮かんでいるのだけれども。

『大丈夫? どの映画見に行こうか?』

人混みなんかへっちゃらな十和は、少し気持ちが暗くなっている僕たちに声をかける。

『うーん、麻衣が選んでいいよ』

『じゃ、……じゃあ』

麻衣は一つの映画を指す。




ピカデリーⅢで上映されていたのは、人気芸人が監督を務めた事が売りの映画。『アトラクト・メモリーズ』である。

『本当にこの映画でいいのか?』

僕は嫌そうに聞いてみたのだが、麻衣はただひたすらに頷いていた。

 連日のように広告を打っていたので知名度は高い映画だったが、評判は芳しくなく閑古鳥が鳴いていると噂の映画だった。

 試しにスマホで、映画批評サイトを開く。


平均評価(批評サイト・ムービーズサーチ) ✩✩✩✩★ 1.5(レビュー数‥753件)

『アトラクト・メモリーズ』の星の数はなんと1.5個。3個を下回ると奇跡、2個を下回ると天変地異が起こるといわれるサイトで、★1評価は見たのは始めてだった。

 試しにいくつかのレビューを読んでみる。

〇レビュー・A〇

 本当に悲惨な映画でした。『アトラクト・メモリーズ』に時間を費やすならば、プチプチを潰していた方が、遥かに有意義な時間を過ごせる事でしょう。今後は、芸人の道をただひたすらに極めることを求めます。

(30代・女性)

〇レビュー・B〇

 人生の中で一番泣ける映画でした。私は今でも『アトラクト・メモリーズ』の事を思い出し、枕を濡らすのです。どうして、「こんなクソ映画にお金を費やしたのか」と。お金を返して欲しいが、視聴後の率直な感想でした。

 ですが今ではお金の返金だけでなく、慰謝料の請求も合わせて行うべきだと思っています。2時間もシアターの前で座らせられるのは、退屈という言葉に他なし。最後まで椅子にしがみついた精鋭どもには、然るべき対価が支払われるべきです。

 ……あっ、私ですか? 30分で退席しました  \(^o^)/

(40代・男性)

〇レビュー・C〇

"は"ー、やっと見られました

"や"まを越えて、谷を越えて

"く"るまにのって幾星霜

"上"座からこだまする拍手

"映"画館は幸せに包まれていました

"中"国語などの海外版も、諸外国行って見てみたいです

"止"まない賞賛とムーブメント

"し"たたかな監督の次回作に期待しています

"ろ"、ろっ、ロ―スカツ食べたい


 等々、さんざんなレビューが数多く寄せられていた。監督が心の弱い人ならば、立ち直れないだろうと思われる馬尾雑言。

『これでも、見るの?』

レビューを開いた状態のスマホを、黄門様の印籠のように突きつけてみる。

『うん、うん。人気がないなんて、私たちみたいでしょ』

暗いジョークと共に映画視聴の意思がある事を、僕に訴えかけていた。目が輝いている。

『麻衣ちゃんがいいならそれにしようよ』

十和も案外乗り気だ。

 そういえば、この芸人が好きだって言っていたのを、聞いた事がある気がする。まあ、二人が喜んでくれるのならば、不人気の映画でも案外悪くないかなって思う。上映室内の人も少なく、ストレスも軽減できるかもしれない。

『上映前に食べ物買おうか?』

映画の悪評が手伝って、フードコーナーに客の姿は見えなかった。暇を持て余した店員は、僕たちを遠くからニコニコと眺めている。僕たちが商品を買うことに期待をしているのだろう。

『飲み物は二人で買ってきて、その間にチケット買ってくるから、あっ私はコーヒーね!』

十和はニヤついた笑みを零しながら、僕たちから逃げるように遠ざかった。せっかくだから私がチャンスを作ってあげよう、いない間に少しでも上手くやっておけよ、ということなのだろう。

他人の恋愛を俯瞰で見ると面白い気持ちは僕にも理解できるのだけど、その相手が十和だと思うと少ししゃくに障った。だが、せっかくの機会なので、十和の案に甘んじる事にする。

『十和ってコーヒーとか抹茶とか、意外なものが好みだよね。メロンソーダとか、パフェとかの方が似合うのに』

麻衣の意見に概ね同意出来る気がする。十和に「好きな食べ物は何」と聞いた時に、「めがぶ」と答えられた時は拍子抜けした。十和にはカレーライスやハンバーグと答えて欲しい、……勝手な希望なのだが。十和の事をあれこれ考えていたら、僕の頭には悪知恵が一つ灯る。しめしめ、実行する他ない。

 僕たちを追う店員の暑い視線に億劫になりつつも、二人でフードコーナーへと向かう。メニューには映画を見る時に食べたくなる定番商品が並んでいた。

『麻衣、何食べる?』

『うーん、ポップコーンと、飲み物はお茶にしようかな?』

『じゃあ、ポップコーンMサイズ3つ、お茶2つ、コーラ1つ下さい。ガムシロップとクリームも一つづつお願いします』

僕の言葉を聞いて、意図を察したのか麻衣はほくそ笑む。

『あんなも案外、あくどい事考えるよね』

『僕のことばの意味を理解したなら、合わせてくれよ』

店員さんは急に耳打ちをし始めた僕たちを見て、不思議そうだった。そんな店員さんが言う。

『実は、今日、人がいなくて余っているの。だから、値段は据え置きにするから、LLサイズ分盛ってもいい?』

店員さんから、一つの提案。確かに、厨房の中のポップコーン製造機には、山盛りのコーンが残っており、今日のお客さんの数では、食べきることが出来ないだろう。

麻衣に目配せして聞いてみると、すかさず首を縦に降っている。

『じゃあ、良かったら、お願いします』

僕は出来るだけ、愛想よく見えるように言った。

『はい、どうぞ』

店員さんから渡されたLLサイズのポップコーンは、Mサイズの10倍はあるんじゃないかと思う程に、盛られている。2時間で食べきれるんだろうか? 昼御飯は必要なさそうだ。

『凄っごいね!』

麻衣から感嘆の声が上がる。店員のおばさんも、嬉しそうだ。

『それにしても物好きね、「アトラクト・メモリーズ」なんて、見る人いないのに』

店員さんから話しかけられる。

『この女の子が見たいって言い出しまして……』

麻衣を指差していうと、麻衣は僕の陰に隠れた。

『あらあら、お熱いこと、お熱いこと。もう午後なのに、今日、君たちが三人目のお客さん。だから、映画館貸切かも。よっぽど、見る人を選ぶ映画なんだろうね。最近の動員数を見ていると、魔法使いの映画が上映された時の盛り上がりが嘘のよう。人気映画の時は、息つく暇もない程に忙しい職場なんだよ。信じられないでしょ? 是非、楽しんでね』

店員さんは、僕たちを微笑ましく見ていた。

『あっ、そうだ。ポップコーンLLは、運こぶの大変でしょ? おばさんが、シアターまで運んであげようか? おばさん、たいそう暇なんだよね』

僕たち二人を見たおばさんは、優しい提案をしてくれた。でも、僕たちで出来ることは、手を借りないって決めているのだ。

『大丈夫です』

『あらそう? じゃあ、気をつけて運んでね』

『ありがとうございます』

僕がお礼を言った時、既に麻衣はLLサイズポップコーン3つを両手で抱え、上映室に向かっていた。僕も飲み物を3つ小脇に抱きかかえ、急いで追いかける。

 上映室の入り口では十和が大きく手を振っている。チケットを受け取って、店員に確認してもらい中へと入る。

扉の向こう側には、優しい暗がりが存在していた。3人はお互いの事を見失わないように、自然と距離を縮め肩を寄せ合う。

 ただ、はぐれてしまうという考えは必要なかったようで、僕たちの周りには一人もいなかった。映画館の中には僕たちしかいなかったのだ。

『本当に3人しかいないのは、これはこれで寂しいかもしれないね』

麻衣の言葉通り、全100席ある映画館を3人で貸し切りにするのはとても贅沢なひと時であるが、家でのんびりDVDを鑑賞するのと変わらない。上映までの時間、普通は楽しみな映画の上映に心を躍らせるはずだろうが、僕の頭には嫌な予感が漂っている。

『寝ないといいな』

『えっ、何か言った?』

『別になんでもない、さっ早く席に行こう』

『映画見るのは久しぶり、なのだよ』

もう少しで麻衣の機嫌を損ねる所だった、危ない、危ない。

3人並び席につく。僕は真ん中の席に座り、言葉通り“両手に花”の状態だった。同年代の学生は僕に羨望の眼差しを向けるかもしれないが、女友達しかいないという状況は、それはそれで悲しいことのように思える。

『食べ物と飲み物を分けて欲しいのだよ』

 僕たち二人はそれぞれ所定の位置に、飲み物と食べ物を分け与える。ただ、十和の手元に渡るのはコーラではなく、コーヒーである。

『ポップコーン、食べきれるかな?』

悪意が迫っている事を知らない十和は、目の前のポップコーンの巨大さに驚きを隠せないようだ。

『食べられなかったら、残せばいいよ』

『そうだね』

十和は頷きつつ、コーラにシロップとコーヒーミルクを足している。

シュワシュワと小さな気泡を立てているが、暗い部屋の中では一様に黒い飲み物であることしか分からず、注意を向けなければ判別できない。

ただ、運悪くバレてしまうと面白くなかったので、僕は心の中でバレないように祈っていた。麻衣も顔に出さず、十和の不幸を願っていたに違いない。

コーラを更に甘くし、ミルクを入れるという奇行に走った女の子は、飲み物を口に運ぶ。

コクリ

小さな音をたてて、喉が動く。意地悪な二人は、小さくガッツポーズ。思ったような味じゃなかった十和は、目を丸くする。

……。暫くフリーズ。

少し考えて、十和は蓋をあける。そこにはクリーム入のコーラがたぷたぷに入っている。

『あの、これは何なのかな? もの凄く想定外の味なのだよ!』

『そろそろ始まるよ、静かにして』

麻衣が微笑みながら言葉を静止する。

『私、炭酸苦手なのに……』

『加藤の分けて貰えばいいよ』

『えー、やだな』

『元々は二人が悪いのだよ! お茶、口直しに貰うよ』

半ば強引に飲み物を奪われた。試しに十和が飲むはずだったコーラを一口含んでみると、コーヒーミルクが味の不協和音を奏でており、到底飲める味ではない。

『どう、なのだよ?』

『ごめん』

『やっぱりね、飲めた味じゃないのだよ!』

頑張って飲めたなら、お茶とコーラの所有権を交換するつもりだったが、体を壊しそうな味が脳に警告を発している。

 僕は諦めて一つの飲み物を半分シェアする事にした。僕が蒔いた種なのだから、仕方ない。

一悶着終わり、映画館は更に暗くなる。

<アトラクト・メモリーズ>

そこそこセンスの良いと思われる表題が、スクリーンへと投影された。もしかしたら面白いかもしれない、希望が胸中で膨らむ。

『マイ・メモリーとは、記憶を集めた物語でした』

 主役の一言の後、カメラは珈琲を啜る女優を映し出す。見惚れる程に絵になっていた。

しっかりと地に足がついていた上映序盤は、世間の評判なんてあてにならないものだと思わせた。見終わったら、「麻衣の目は正しかったよ」って言おうと思う程に迫力ある映像の数々。

……それなのに、中盤から歯車は狂い始める。批評サイトは正しかったのだ。

 シナリオは誰も好まない方へと転がり始め、画面の中には混沌だけが広がっていた。舞台で踊る女優は演技が輝いているばかりに、ただひたすらに虚しさだけを視聴者に伝える。コンセプトは面白いと思うのだけど、滑っている感が否めない。次第に画面を見るのが億劫おっくうになってくる。

 アトラクト・メモリーズを選んで後悔しているかと思い麻衣を見ると、ご機嫌そうに映画を食い入って観ていた。ポップコーンも全く減っておらず、完全に映画へと引き込まれている。声を掛けていいほど、退屈していなさそうだ。

退屈を持て余した僕。集中していることをいいことに、麻衣を見つめてみる。当たり前のように秀麗な美しさを誇る、女の子がそこには存在していた。ただ、いつもよりも綺麗に見えた。

 より美人に見えたのは、恐らく暗がりが持つ魔力のせいである。闇は昔から人に恐怖を与える対象であったが、人と人との距離を縮める作用もある。暗闇は人の妄想力を掻き立て、より素晴らしき美しさへ異性を昇華させるのだ。

 下らない映画を見るよりも、麻衣の横顔を眺めていた方が有意義な時間を送れる気がした。麻衣の天使を思わせる美しき横顔は、僕の色欲をくすぐる。

(髪を触ってみたい)

いつもよりも大胆な事が頭に浮かんだ。

 長髪の先っぽの方だけでいい。艶やかな毛先は僕を挑発するかのように、肩の下まで伸びている。こっそり気付かれないように、手を伸ばす。サラサラとした手触りが柔らかく、手の中で溶ける。

顔が幸せで歪み、心が踊る。ゴワゴワとしたタワシのような肌触りの僕の髪とは、全くもって異なっていた。味わった僕はゆっくりと手を引っ込める。

 注意力が映画へと向いている麻衣は気づいていない様子、僕はほっとする。

『すう、すう』

ドキドキした気持ちを抑えきれないうちに、声が聞こえた。心臓の鼓動が早まる、もしかして勘付かれてしまったのか?

ただ、声が聞こえたのは右手側――十和の方からだった。どうしたかと思い顔を向けると、十和が寝ている。僕のように映画の退屈感にあがないきれなかったのだろう。隣に寝ている人がいると、僕の感性がおかしくなかった事が証明されたようで嬉しかった。まあ、ただごとではない映画のすき具合と批評サイトによって、評価する人が少ないのは火を見るよりも明らかだ。

『すう、すう』

十和の首は傾き、顔がこちらに向いている。平和そうな寝顔だ。三葉の髪留めのおかげで髪が七三分けのようにかき分けられており、おでこまでしっかりと見える。試しに、ほっぺたをつねってみる。

『すう、すう』

全くもって起きる気配はなかった。

『幸せそうだな』

小さな十和を見て連想されるのは、動物でいうとウサギだった。孤独の寂しさに肩を震わせつつも、他者からは逃げまくる性格。

無邪気な笑顔を見ていると出会った頃の事が嘘のようだ。中学の頃はいたずら(落書き)されて泣いたり、顔を見られないように隠して生活をしたり。一番成長したのは間違いなく、十和だと思う。

 ……そうだ、僕はカバンを音立てずにあさる。

『あった』

水性の黒ペンを取り出す――額に文字を書くためだ。後で怒られたら「面白い姿をみて笑うためじゃなくて、成長を確認したかった」って主張しよう。勿論、詭弁ではあるが、あわよくば納得してくれるかもしれない。

「肉」は一番シンプルで王道だけど、十和のイメージからは遠くはなれている。

「四葉十和」と名前を書くのも面白そうだけど、情報化社会で個人情報を漏らすのは不味いかもしれない。……額に文字のまま、市内をうろつくのはもっと不味いけど。

「地中海」とかどうだろうか。今、ブームらしいし何より意外性があって面白いかもしれない。

 僕は体を右側に向けて、無防備な顔とご対面。早速、化粧にとりかかる。

『すう、すう』

「地中海」、3文字の漢字を人に書くのは非常に難しかった。優しく書かなければ、途中で起床モードに入ってしまうし、映画館で我を忘れて怒りに溺れてしまうと困る。なら書かなければ良いという相談には、首を左右に振って否定したい。思わぬ悪戯は人生を楽しくするスパイスであると、麻衣から身を持って教わったのだ。

『出来た』

顔の動きを抑えながら書くわけにはいかなかったので、文字は歪んで額に描かれていたが及第点である。文字が盛り込まれたシュールな顔は下手な芸人よりも、面白さを見た方々へ運ぶと思う。

『すう、すう』

繰り返される呼吸音。知らないって幸せな事だと思った。

 そろそろ終盤かと確認の為、目線をスクリーンに戻す。退屈な映像を強制的にみせられる行為は、牢屋に入れられて自由のない囚人みたいだ。

映画の舞台は海岸沿いへと移動していた。

『1人だけど、寂しくない。二人だけど、寂しそう。僕は幸せを願っているよ』

か弱き少年が語りだす。繰り返す波音は、耳に残り侘びしさを与える。無駄に感動的な音楽が流れ、聴覚の観点からストーリーを盛り上げようと努力している。

 少年は最後にメッセージを海へと投げ込み。終幕。

スクリーンに投影される文字たち。

<アトラクト・メモリーズ>

 始まった時はセンスがいいと思っていたはずが、最後に題を見ると、ふつふつと怒りが湧いてきた。

映画に現れるセリフたちが視聴者に疑問だけを残し、ラストまで意味が氷解することのない靄のように残った。意味深長なセリフは最後に振り返った際に、理解できてこそ価値があるのに……。間違いなく、駄作だ。

『面白かったね』

『僕は楽しめなかったな』

やっぱり麻衣の認識力はどこかずれているようだ。

『取り敢えず、外出ようか』

『ちょっと麻衣さん、お話があるのですけど……』

僕は手短に、十和に発生した変化を伝える。

『これはまた、派手にやったね。ベリーグットだね』

『やってみて、麻衣さんの手腕にはかなわないなって思いました』

『ほほう。じゃあ、お手本を示してみるからそこで見ていてね』

麻衣は言いつつ、ポケットから携帯を取り出す。

『十和ちゃん起きて朝ですよ~。学校に遅刻しちゃいますよ~。』

『……ママ、おはよう、なのだよ』

目をこすって起きる十和、口のはしによだれがたれていた。ご飯の夢でもみていたのだろう。無防備な顔の前には、カメラが近づけられている。

カシャ、カシャ、カシャ、カシャ

止まらないフラッシュと共に、カメラはけたたましいシャッター音を立てている。麻衣の携帯には、連写機能があるらしい。

『うあぁー』

悲鳴をあげる。同じ体験をしたら、僕も悲鳴をあげていたと思う。

『お子様はお昼寝をしないと元気が出ないのかな?』

『ご、ごめん。返す言葉がないの、だよ』

『まあ、私の写真コレクションに一枚、新しい歴史が記されたから許してあげる』

『……そういえば元々は私のチケットなのだし、感謝してもらうのは私の方なのだよ!』

『それはそうね。お礼に帽子でも買ってあげようか。紅白帽とか、幼児用カラー帽とか、とても似合いそうなのよね』

『もしかして、私の事見くびっているのかな。私はお姉さんなのだよ!!』

『はい、はい、分かりました。外でたら反論はゆっくり聞いてあげるよ』

ポップコーンと、飲み物を回収しつつ外にでる。僕のポップコーンと飲み物はなくなっていたが、2人の映画のお供は原型を留めていた。

 ポップコーンは袋を貰って2人のカバンへとそれぞれしまい込み、飲み物は捨ててしまうことにした。袋を貰った時、店員の視点が十和の額に突き刺さっていたが、特に何も言われなかったので、本人はのほほんとしていた。


 一応それなりに楽しんだ僕たちは、映画館を後にする。映画館出口あたりで、十和は声をはりあげた。

『あー、もう、こんな時間なのだよ』

妙に演技っぽく腕時計を指さした後、十和はわざとらしく辺りをキョロキョロ見渡している。

『あ、あんな所に私の家庭の車があるのだよ』

映画館の前には一台の黒い車が止まっていた。助手席には、見覚えのある顔。十和の伯父さんの姿があった。上映前にスマホをいじっていたのは、親に来てもらうためだったらしい。

『本当だね、もしかして私たちも乗っけて貰えたりしないかな?』

『それはダメっ』

『えー、なんで』

疑問をぶつけられて、十和は困っていた。ここで十和が車に乗って退場するのは、2人にするためだ。だけど、正直に言う訳にいかなかったし、敏感な麻衣に嘘をついても、ひと目で真実を突き止めてしまいそうだ。

『今日、用事があるの。それに二人共意地悪だったから、送ってあげないのだよ。歩って帰ってね!』

『小学生は保護者同伴じゃないと危ないからね。気を付けてね』

いつも麻衣の嫌味の表現の幅に驚ろかされる。麻衣がお嫁さんになった家は、嫁姑問題で荒れそうだ。

『だからっ……。まあいいか、じゃあね』

車の近くで、小さい体を揺らし大きく手を振る十和。麻衣が深く詮索しなくて良かったと僕は胸を撫で下ろす。ぼろが出てしまわないか心配だった。

そんな僕に……あっ、と思い出したように十和は近づいてきて一言

『予定通り、二人きりにしたのだよ。頑張れ、若人、なのだよ!』

小声で耳打ちをする。ぽんぽんと胸の辺りを叩く。優しい叩き方だったが、期待が込められているようで僕の心に深く響いた。

『じゃあね~』

僕たちはお互いに手を振り合い、別れを惜しむ。車はそろりそろりと出発し、暫くすると雪原の彼方へといってしまった。車の車窓でいたずらな笑みを浮かべていたのは、耳打ちした際に偶然を装って僕の足を踏んだからだと思う。十和らしい、愛嬌があるいたずらだった。だが、そんなホクホク顔の十和の額には「地中海」と書いてある。車内で気付き、自分の顔に愕然としているに違いなかった。「地中海」と比べたら、足を踏まれることなんて造作も無いことである。

『伯父さんに指摘されたらどんな反応示すかな?』

『やっぱり、想像しちゃうよね』

映画館前で残された2人は、笑いあったのだった。




 こうして、2人きりが実現する事となる。数少ない希少な機会だ。

 僕は、この時を待ち望んでいたような、いないような。

 自分の気持ちを伝えたい。この気持ちを麻衣へと――。


麻衣と2人で雪道を歩く。2人で歩く雪道。いつもの風景がより光り輝いて見える。それほど、僕の心は躍っていた。

『デート……みたいだね』

久しぶりに二人の時間が出来て、麻衣も喜んでくれているのだろうか? 隣にいる男の子としては、とても嬉しい事を言ってくれていた。

『そうだね、今日一日一緒にすごさない?』

『えっ』

僕の唐突な申し出に麻衣はとても驚いている。遊びに誘うことなんて滅多にない益体なしがデートのお誘いをしているのだ。驚くのは当然なのかもしれない。

『仕方ないわね、私で良ければ』

麻衣の返事は、肯定だ。僕にとってとても嬉しいものだった。





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