菊の宮という人
山での出来事から六年。綺羅は都の内裏にいた。
その日の仕事を片付け、上司に挨拶を済ませ家路に着こうと門に向かって歩いていると、後ろから自分の名を呼んでいるような気がして振り向く。
「綺羅様~ 綺羅様~」
髪を後ろで一つ括りにした水干姿の少年が向こうから走ってくる。
「どうした、於義丸。」
顔見知りの少年に、声をかけながら自分の方から近づいていく。
「よ、よかった。中務の方に行ったら、もう退出したって、言われて・・・すぐに・・・・曹司・・・に行ったけど屋敷に帰ったって聞いて・・・・屋敷まで行かないといけないかと思って・・・・」
全速力で走ってきたらしく、綺羅の前に立つなり前屈みになり、所々言葉を詰まらせながらしゃべる。そんな於義丸の背中をさすってやりながら綺羅は苦笑いを浮かべる。
「それは、済まなかった。で、何かあったか?」
於義丸の呼吸が落ち着いたのを見計らって問いかけると、辺りに人がいないのを確認するように辺りをみまわし、少し背伸びしながら綺羅の耳元に口を近づける。
「宰相の局さまからで、菊の宮の姿がいなくなったそうです」
その言葉に綺羅は顔を一瞬だけ強張らせるが、すぐに元の表情に戻し、於義丸の方に傾けていた身体を起こす。不安げな表情で綺羅を見上げる於義丸に向けて、安心させるように微笑む。
「わかった。宰相の局さまにはそう伝えておくれ。」
綺羅の微笑みに、頬を少し染めながらしっかり頷きお辞儀すると踵を返し走っていった。
その姿を目で追いながら、重い溜息を吐き出す。
「また、ずいぶんと早く見つけたな。この前よりも早くないか?」
几帳の影に敷かれた褥の上で、女物の袿を被って横になっている菊の宮は、局の扉のすぐ傍で座る綺羅に向かって声をかける。
「不在が知られる前にお戻りくださいませ。宰相の局殿がご心配なさっていらしゃられます。」
「別に良いではないか。今日は特に人が来る予定はなかったはずだぞ」
綺羅の言葉にも、几帳の布の隙間から見え隠れする袿が動くことはく、あくび交じりののんびりとした声が聞こえてくるばかりだった。
「ここが何処かお分かりの上でのお言葉ですか?」
「桐壺の女房兵衛の局だな。」
「ここの主に知られる前にここから出ましょう、一刻も早く。」
「主の許しは得ているぞ。『私が戻るまでお待ちなってくださいませ』とな」
「・・・局の主ではありません。局でははなく殿舎の主です。」
菊の宮のふざけた物言いに、我慢強い綺羅もさすがに言葉を強くする。その事に気づいた菊の宮はこの辺りが潮時と判断し、自分が今いる桐壺の女主人の顔を浮かべながら身体を起こす。
「そちらの主は余り係わりたくないな。あの白塗りの壁の顔は見たくない。」
「そのお方に知られれば、さらに別のお方のお顔を見ることになります。さあ。」
さも、嫌々という風に几帳の奥で身形を簡単に改め、菊の宮は几帳の陰から綺羅の前に現れる。
「仕方ないか。この局の主の顔をもう一度見てから帰りたかったが、その後に白塗りの壁を見る位なら戻るか。」
「お供いたします。」
床に静に手を付き、頭を垂れるその姿はさながら女人の仕草の手本のように美しい所作であった。
自分の居所である、梅壺へとゆっくり歩く菊の宮は御年16歳。今上を父親に、皇族出身の母を持つ一の皇子だ。父親ゆずりの聡明さと、母親譲りの美しい顔立ち。くわえて自然と周りの人々をかしずかせる雰囲気がありながら、下々の者にも優しいことからそういった者達からも慕われている。ただし女人にとの付き合い方に問題がある事が唯一の問題点である。
母親である中宮は皇子が10歳の時に亡くなったが幸い後見人として左大臣が就いているが、今の菊の宮の宮中での立場は少し微妙な位置にある。
中宮であった母が亡くなった後に、右大臣の娘である弘徴殿の女御が男の皇子を生んだのだ。その為に今宮中は、菊の宮を推す左大臣派と二の皇子である藤の宮を推す右大臣派に分かれている。
しかし、本人は至ってその事に頓着することなく、皇族の一員として振舞っている。その事がまた、弘徴殿の女御をいたく刺激するらしく何かにつけ菊の宮の行動にあれこれ口を挟んでくる。
菊の宮の乳母は宰相の局といって、中宮の乳姉妹であったが、自身の出産と同時に乳母として菊の宮に仕えている。そして、その宰相の局こそが綺羅の母だ。つまり、菊の宮と綺羅は乳兄妹ということになる。だが、本当はもう一人乳兄妹がいる。正確にはいたというべきか・・・
沙羅
二人にとって一生忘れられない名前。綺羅の双子の妹・・・
次もがんばります。




