not K
「ごめんなさい」
とっくに言い慣れた言葉だった。
もちろん、口だけの舌先三寸な用法で。
思えば幼少期から、意味のない嘘は吐かなかったが、意味を持つ嘘は人並み以上に使ってきた自覚がある。
謝罪することも、また同じだ。
その場の許しを得るために頭を下げる。
自らの株を下げないために地面に手をつく。
そうやって生きてきたからこそ、本気で思ってもいない発言をすることに、もはや躊躇はなかった。
蔑めばいい。
憤ればいい。
好きにすればいい。
誰になにを言われようと、これが俺の選択した、楽な生き方なのだから。
けれど。
今、この瞬間だけは、言葉を発した直後に胸が痛んだ。
〈not K〉
俺の視線の先には、ひとりの少女がいた。
うなじで一本に束ねた艶やかな黒髪。整った顔立ちに女性的な優しい微笑みを携えて、上品な物腰で隣に座る女性と話している。
鹿中里。俺の想い人だ。
断言する。鹿中さんは人生であると。
遠くから見つめているだけで心の奥底から幸せが満ち溢れてくる、そんな存在――
「おい慧輔。気持ち悪いから横でグヘグヘするのをやめないか」
「はっ!」
俺の桃源郷への旅路は、友人の心ない罵倒に妨害された。
ふてくされた俺は窓の外を眺め、教室中に等しく降り注ぐ午後の陽射しに目を細めた。
大学生になって初めての夏。
海、山、ラブロマンス。
残念ながらそれらとは無縁のままで、俺はただ連日の猛暑にウンザリするばかりだった。
もちろん学舎内の冷房はフル稼働である。
それでも、いや、だからこそ暑さへの耐性が弱体化しているのだろう、通学の間だけで俺はすっかりバテていた。
俺だけじゃない。さすがに五限目の講義ともなれば、誰もが少なからず衰弱している。
そんな中にあっても、凛と背筋を伸ばして微笑んでいる鹿中さん。消費電力を抑えるために照明を落とした室内に垢抜けた美少女が座っている光景は、俺の目には一枚の油絵のようにも映り――
「聞け」
「はうっ」
殴られた。しまった、無意識に視線が彼女にずれてしまっていた。
まさに恋に盲目の俺に、呆れたように彼は嘆息する。
「……ったく、もう告っちゃえよ、おまえ」
「ばふんっ」
噎せた。
「な、なんだいきなり!」
「いきなり、でもないだろ。三か月間もずっと進展のない相手のことをノロけやがって」
「ぐ……! うるさいな、物事には順序ってものがあるんだよ!」
くだらない、情けない内容の喧嘩を繰り広げる。
しばらくぎゃあぎゃと喚きあっていると、
「ちーす。盛り上がってるね」
頭上から女の声が降った。
「あ、二丁寺さん。ちーす」
顔を上げると、そこには活発そうな容姿の少女がにかりと歯を出して笑っていた。
彼女は俺たちの友達で、フルネームを二丁寺苺という。
「で、なんの話してるの?」
ずい、と俺に顔を寄せてくる。ほのかな香水の香り。
間近で見る彼女は愛嬌があってかわいらしい印象だ。同年代で顔や身体つきもなかなか大人びているのだが、無邪気な笑みは幼い。
高校だとクラスに必ずひとりはいる『誰とでも仲良くなれる女の子』の典型だ。でなければ俺に女友達なんているはずがない。
「な、なんでもねえよ」
「なによ射手。怪しいなぁ」
二丁寺さんがいたずらっ子の瞳をして、人差し指で俺の頬をつつく。ちなみに射手とは俺の姓だ。
「怪しくないよ! ほら、講義も始まるしこの話題は終わり!」
明らかに狼狽して二丁寺さんを追い払う。すると絶好のタイミングで先生の足音が壁の向こうで響いた。
そう、基本的に鹿中さんへの恋心は極秘なのだ。
★
「あの……」
講義が終わると、空は一面美しい赤に染まっていた。
補講でもなければ大方の学生はこれから帰宅かサークルだ。この教室でも、そそくさと荷物をまとめる姿が目立つ。
呼ばれたのは、例に漏れず俺も帰り支度を整えているときだった。
「ん?」
ふと声の主の先に視線を向け、
そして俺は硬直した。
「か、か、か、鹿中さん……?」
なんとそこには、永遠の伴侶(予定)が佇んでいたのだ。
「ドウシタンダイ?」
いかん。至極冷静な対応を試みたのだが、まるで処理落ちしたみたいな動作になってしまった。
背後でくつくつと笑う友人に、眼光で摂氏三億度の憤激を届ける。
そんな内輪揉めなど歯牙にもかけず、むしろ俺よりも緊張した様子で、鹿中さんはもじもじと身体を揺らしていた。かわいい。
さすがに真剣な空気を感じ取って俺は息を呑んだ。鹿中さんの頬が紅潮しているようにも見えたが、夕焼けのせいでよくわからない。
次の瞬間、息継ぎをしたのは誰だったのだろうか。俺? 鹿中さん? それとも、雑踏の中?
しかし現実に言葉を発したのは、鹿中さんだった。
そして事態は唐突に展開していく。
「この後……少し、お時間を頂けますでしょうか……?」
俺に断る理由などなかった。
彼女に連れられたのは、キャンパスの図書館前だった。
そこはスクウェア状のオープンテラスになっていて、昼飯時などは各々の食事を持った学生たちが大挙して押し寄せる。
そんな図書館前も、夕方ともなると無人だ。左右に目を向ければバス停へ向かう学生の群れがいるが、誰も俺たちに注意を向けたりはしなかった。
洒落た木製のテーブルにも先客はない。ただ空中からの赤い輝きを全身で受け止めているばかりだ。
先導してきた鹿中さんは、立ち止まったまま俺に背を見せていた。
ふと、彼女の肩が小刻みに震えているのがわかった。いや、違う。震えているのは足だ。
心配になった俺が彼女に駆け寄ろうとすると、
「……お話が、あるんです」
緩やかに反転した鹿中さんと目が合う。
俺は内心で身構えた。
正直な話、俺と鹿中さんにはさして接点などない。せいぜいが日々の挨拶や、講義のディベートで多少の会話を交わすくらいだ。
そんな関係から、いきなり俺個人に話があるなんて尋常ではない。
不安ばかりが頭をよぎる。
焦燥に駆られた俺は、思わず食い気味に顔を前に出し、
「話って?」問おうとして、しかし俺は言葉を呑んだ。
鹿中さんの瞳に決意の光が宿っていたのだ。
たじろぐ俺だが、後退は許されなかった。彼女の瞳に視線が吸い寄せられる……。
今度は夕焼けの中でも見間違えようがない、耳まで顔を真っ赤に染めた彼女が、俯きかけたままで言った。
「あなたが――好きです」
瞬間、世界が揺れた気がした。
正確に彼女の言葉を理解するのには数秒を要し、改めて俺は告白されたという事実に仰天した。
頭の中で、歓喜と驚愕と、それ以外のなにかよくわからない感情が混ざり合う。
鹿中さんは顔を上げ、俺をまっすぐに見据えた。表情は硬い。
ふたりの間を、一陣の風が吹き抜ける。
彼女の言葉に答えるべく、俺は口を開き、
「ごめんなさい」
たった一言。
そして俺は目を背けた。もう話すことはない、という意思表示。
鹿中さんが泣き崩れると思った。
しかし彼女は素早く踵を返すと、夕陽の向こうへ走り去ってしまった。彼女の目尻に浮かんでいた滴が宙に舞う。
俺は嘆息して帰ろうとしたが、どうにも足が動かなかった。まるで磔にされたみたいだ。
強引に靴を大地から引き剥がし、自然と歯噛みして後ろを向くと、そこに人影があった。
いつでも元気な、人懐こい笑顔が目印の、あの子。
「二丁寺、さん……?」
「なんで断ったの?」
驚く俺などお構いなしに、二丁寺さんは一方的に、今まで見たこともない無表情で問うた。
聞いていたのだ。ここで交わされた会話、鹿中さんの告白を。
なぜ彼女がここにいるのか。俺たちを尾行してきたというのか。いや、それはどうでもいいか。俺の内心を竦ませたものは、もっと別のことだ。そう――
なぜ彼女はそんなことを尋ねるんだ?
「ねえ、なんで?」
答えたくなかった。
俺自身が、その真相から逃げているのだから。
ただ目を逸らすことしかできない。
二丁寺さんが怖かった。彼女が携えた不可思議な威圧感と、その問いが放つ重圧に、俺の心は粉砕されそうになった。
俺が一歩後ずさると、二丁寺さんは一歩前に踏み出す。
そして心の距離もまた、同時に。
「アンタ、里ちゃんが好きなんでしょ」
その瞬間、俺の中でなにかが弾けた気がした。
「二丁寺さんに俺の――俺の気持ちのなにがわかる‼」
後退も転進もいらなかった。
ただ吼え、轟く。
獣のように。悲痛のように。
「怖いんだよ……! 俺は昔からずっと根性なしの甲斐性なしだったから、鹿中さんを今より幸せにしてあげる自信なんてないんだ!」
恋愛だけじゃない。自分が誰かと本気で関わり合って、そして影響を与えることが恐ろしかった。俺をきっかけに誰かの人生の歯車がずれることが怖かった。だから俺は常に、他人とは一定の距離を保ってつきあってきた。
確かに俺は鹿中さんが好きだ。
けれど、彼女に告白され、あまつさえ恋人同士になるだなんて、俺はまったく望んじゃいなかった。平行線のままで充分だった。
これが、俺の選択した楽な生き方の末路だ。
二丁寺さんは、凍えそうなほど冷めた眼差しで俺を見ていた。
そこに込められた感情は、憐憫だ。
哀れだよな、わかってるよ、こんな俺が格好悪いってことくらい。自分のことなんだ。とっくに痛感してるよ。
だから、きみに八つ当たりなんてしているんだ。
「……ごめん」
頭を下げずに、ただ卑怯な己への免罪符を呟く。すると左胸が疼いた。ズキン、ズキン。
――ぜんぶ、仕方ないことだったんだ。
「馬鹿」
「は?」
悪罵が聞こえた。
続いて耳朶を打ったのは、さっきの俺の雄叫びよりも遙かに高デシベルの咆哮だった。
「あたしだって射手が好きなの‼」
「――っ⁉」
ヤケクソみたいに放たれた言葉が俺に直撃する。
俺の脳がグラリと揺れた。どういうことだ、どういうことだよ。
十九年の人生の中で、女性に好意を告げられた経験なんて一度としてない。その程度の男だ、俺は。
それが今日、ふたりの女性に告白された。
最初から、ドッキリ企画だったんじゃないのか?
連想される、声を殺して笑う友人たち。そして「なに本気にしちゃってるの」と俺の肩を叩く二丁寺さん。「あの、ごめんなさい。みんなに乗せられて……」心底申しわけなさそうに深々と頭を下げる鹿中さん。
いざ現実には、涙目になって荒々しく肩で息をする二丁寺さん、ひとりだけが俺の前にいた。
ドッキリであればよかったのに。
この状況は嘘じゃない。俺を射抜く哀しげな視線がその証明だ。
「でも、ずっと知ってたから……。アンタは里ちゃんが好きで、里ちゃんもアンタが好き。お互い隠してるつもりでもね、もうバレバレだったよ。みんなで見てて笑ってた」
そんな馬鹿な! 顔面がみるみる赤くなっていく。鼻の穴から火が出そうになる。
「あたしが横入る隙なんて、初めからなかった……」
彼女の瞳が細く、鋭くなる。その眼光に俺が委縮した瞬間、なにかが飛来し、不意打ちを仕掛けてきた。
頬に熱い刺激。
平手打ちだ。
「こんな風に叶わぬ想いを抱いて失恋してる馬鹿だっているのよ! それをアンタはなに⁉ 根性? 甲斐性? 知るか、ふざけんな! 恋愛するのに『両想い』以上の理由が必要なわけ⁉」
一粒だけ、涙が零れた。
俺の涙か、二丁寺さんの涙かは、わからない。コンクリートに滲んだそれは、早くも西日に蒸発しようとしていた。
返す言葉はなかった。
俺の小さな小さな意地はあっという間に氷解し、心には痛切な悔悟だけが残った。
眼前には、虚勢を張って拳を握る少女。
突然、たまらなく彼女を抱き締めたい衝動に襲われ、そして俺はそいつに打ち勝った。
違う。この腕は彼女のためのものじゃない。
それを教えてくれたのが、二丁寺さんだった。
「ありがとう」
深々とこうべを垂れた。彼女に泣き顔なんて見られたくない。
「ごめんなさい」
呟くと、また胸に激痛が走る。けれど、それはすぐに消え失せた。
両眼の涙が乾きかけた頃に俺が頭を上げると、二丁寺さんはすでに笑っていた。
いつもの、明朗快活な笑顔。みんな――もちろん俺も含めて――大好きな彼女の表情だった。
「わかったなら、行け!」
「……ああ!」
二丁寺さんの命令に背中を押され、俺は地を蹴った。
一度も振り向かなかった。
向かう場所は決まっていた。
★
「フラれちゃったな……」
二丁寺苺は美しく燃える天を見上げて呟いた。強がりと自嘲の笑みをその愛らしい顔に貼りつけて。
射手慧輔は去った。自分とは別の少女の元へ。
ひとりになって安堵したのか、必死に堰き止めようと努力してきた涙が急に溢れ出してくる。
「後悔するな……!」
嗚咽。
「祝福しろ……!」
嗚咽。
「祝福、しなくちゃ……」
いくら手の甲で拭っても、熱い滴は瞳から止めどなく流れてくる。
――じゃあ、仕方ないよね。
達観したように、土嚢代わりの手をどける。
「うぁ……、うああぁあぁぁぁぁ――‼」
いつしか彼女は、声を上げて泣いていた。
★
鹿中さんは、さっきまで俺たちが講義を受けていた教室の、窓際の椅子にひとりきりで腰かけていた。
夕陽を全身に浴びる彼女の背中には、微かに悲嘆が窺えた。
俺と鹿中さんが初めて出会ったのも、ここ。
大抵の大学はクラス分けに執着のない単位制であるが、必修科目は一定人数の集団で受講するのが常――その集団がつまりクラスだ。
そんな俺たちの初講義。
孤独に寂しく隅の席で身を固めていた俺は、一瞬で目を奪われた。
今でも鮮明に思い出せる。俺の前を、流麗な漆黒が通過した。正体は鹿中さんの髪だった。まあ、実際に鹿中さんの座った場所は俺から遠く離れていたけどさ。そのときから彼女に夢中になった。
初めて会話したのは、しばらく後の講義だった。ディベートが行われたのだ。テーマは忘れた。俺にはそんなものどうでもよかった。
鹿中さんの声は、陰からこっそり聴くよりもずっとキュートだった。しかも、内弁慶(推察)なのに質問には真摯に受け答えしてくれるのだ。すこぶる生真面目と言っていい。ますます惚れた。
これらはすべて俺の片道の思い出だ。鹿中さんにとって特別な出来事になり得るような記憶はない。
けれど俺と鹿中さんの日々は、いつもここに凝縮されていた。
ふたりいっしょの『初めて』は、いつも、ここ。
だから彼女がいる場所も察しがついた。なんせ両想いなんだぜ。
しばらく俺は彼女に見惚れていた。いつもの発作だ。
我に返って深呼吸。
意を決して、俺は拳を固めた。
「鹿中さ――」
「なんで来たんですか?」
しかし、不覚にも俺の決心は容赦なく阻まれた。
「わたしの告白、断ったじゃないですか……」
突き放すような冷たい――しかし、むせびに震えた声。
弱虫な俺の心は、またグラリと揺らいだ。
逃げるな、そう自分に言い聞かせる。
今逃げ出したら、すべてが無駄になるんだ。隠してきた俺たちの好意が、不安と不審に敗北して、一斉に瓦解してしまう。
二丁寺さんの「行け」が脳裏を駆け巡った。
行け、行け、行け、行け、行け!
「好きだ」
ぱっと振り返る鹿中さん。彼女の柔らかそうな頬には、真新しい涙の痕跡が残っていた。
「え、でも、なんで……」
鹿中さんは当惑のあまり二の句を継げないようだった。狼狽して言葉を捜そうと宙に視線を漂わせている。そんな鹿中さんもかわいいなぁ、思わず口元が緩むが――今はそんな場合じゃない――すぐに引き締めた。
「あれからいろいろ考えたんだ」
俺は鹿中さんの瞳を見て言った。もう、背けない。
あのとき言えなかった本音を言うんだ!
「きみとの関係が変わるのが嫌で、つきあうことできみをもっと幸せにできる自信なんて持ち合わせてなくて、臆病風に吹かれて、ただ逃げることしかできなかった。でも、阿呆くさいよな。遅かったんだ。もう俺たちは変わり出した。たぶんきみに会ってから、ずっと変わり続けてたんだと思う。だったら、進むしかないよな。自分に素直になるしか」
不思議な気持ちだ。全然まとまらなかった感情が、言葉にすると容易く外界へと放出されていく。
「きみが好きだ。初めて会ったときから、ずっと」
言い切った瞬間、鹿中さんへの罪悪感が、消えた気がした。
それにしても、俺たちは気持ちを伝えるのに『好き』としか言っていない。なんて語彙が貧困なのだろう。誰かもう少し捻った台詞を使えなかったのだろうか。
いや、俺も他人のことは言えない。たとえば、そう。鹿中さんの耳元で『永久に愛してるぜフォーエバー』とか囁けたら完璧だったのだろうか。
想像してみる。……さすがにサムい。てか、気持ち悪い。おえっ。
とにかく、気持ちを余さず吐露した俺は淀みなく前進する。彼女は逃げない。ふたりの距離が縮む。
「俺が小心者だったせいで、きみを傷つけた。ごめん」
今日は謝ってばかりだ。しかもその度、胸が激痛に苛まれる。けれど、これでおしまい。
「こんな俺でもいいですか?」
そして、最後の一歩は俺じゃなかった。
駆け寄ってきた鹿中さんを、俺はきつく抱擁した。
鹿中さんは俺の胸に埋めた顔を上げて、ふにゃりと笑った。
「おかしいですよ……。告白したのは、わたしじゃないですか」
「いや、もう愛想尽かされたんじゃないかって」
言って俺は苦笑した。冗談めかした口調だが、実は本気だ。もう怖くて仕方がなかった。
まあ、とりあえず一件落着ってことで。
思った頃には、衝動的に身体が動いていた。
俺たちはキスをした。
沈みゆく夕陽がふたりを照らしていた。
★
翌日。
俺の頬の筋肉は弛緩しきっていた。
要するに、ニヤけていたのだ。視線の先には、二・三ほど前の席で楽しそうにおしゃべりに興じる鹿中さんの姿があった。
友人は気味悪がってか、ひとりとして俺に近づいてこない。知ったことか。
ひたすら彼女を観察していると、
パコン、と。後頭部をはたかれた。
「あ?」
胡乱な眼で見上げると、そこにいたのは、
「ちーす」
二丁寺さんだった。
「痛いな、なにすんだよ」
「だって、やらしい顔してたし」
「うっ……」
図星なのだが、それを女性に、しかも冷ややかな目で指摘されると、なんかもう……。
どうにか反論しようと息巻くが、しかし昨日の二丁寺さんの記憶が想起され、思わず俺は口籠ってしまった。
彼女になにを言えばいいのか。
なにかを言う権利はあるのか。
結局言葉を出せずに俯いていると、
「ほら、シャキッとしなさい」
また頭をはたかれた。
あまりに普段と変わりない彼女の態度に、俺の脳は混迷を極めた。
なんだ? 昨日のことは、すべて夢幻だったのか?
目を丸くする俺を見て、二丁寺さんは唇の端を吊り上げた。
「そんなに優柔不断だと“カノジョ”に逃げられちゃうよ」
「な、なにを!」
それは聞き捨てならない。俺たちはすでに苦難を乗り越えた相思相愛ラブラブカップル(自称)だぞ。そんな……
「あ」
そうか。二丁寺さんが俺と鹿中さんのことを知っている。
ということは今話している二丁寺さんは夢じゃ――
「あははっ、その意気だ」
快活に笑う二丁寺さん。
それを見て俺は確信した。
――ああ、彼女はもう清算したんだ。
ならば、俺ばかり気を遣うなんて、二丁寺さんに失礼だ。
「……ありがとな」
「ん? なんのこと?」
平然と訊き返す二丁寺さん。本当はわかっているくせに。
「なんでもないよ。でも、ありがとう」
「なにそれ。変なの」
ケラケラと彼女は笑った。
ふと気づくと、周囲からあらぬ噂が聞こえている。俺が鹿中さんにフラれた、壊れて妙なことを口走っているなど……誰だ、発信源。
少し二丁寺さんを疑った。こういうネタ話、大好きだもんな。
俺が睨むと、彼女はかわいく首を傾げた。
二丁寺さんは、とぼけるのがうまい。
そうして今日の講義も終わり、帰り道。
俺は夕陽を美しく反射する遊歩道を、鹿中さんと手を繋いで歩いていた。提案したのはもちろん俺だ。
教室を出てすぐに、見せつけるように言ったのだ。
「手、繋いでもいいかな」
「え……っ。あ、その……はい」
照れてすぐに返事をできない鹿中さんもかわいかった。
呼び名は付き合う以前と変わらない。「鹿中さん」「射手くん」のままだ。一度だけ下の名前で呼ぼうとしたけれど、こそばゆくて失敗した。こんなことではまた二丁寺さんに叱られてしまう。
片方の手のひらに温もりを感じながら、俺は漠然と考えていた。
いつか鹿中さんに、二丁寺さんに告白されたことを話そう。真実をひとつ残さずだ。だって、彼女のお陰なんだ。俺たちが幸福でいることも、これからもきっと幸福でいられるだろうことも。
でも今はまだ駄目だ。恋人になってしばらくは、鹿中さんに他の女の話は厳禁だ。
そんな自分ルールを律儀に守ろうと心に決めた俺だったが、
「えと、さっき、マキちゃんが……」「田内さんてば……」
鹿中さんとの会話に出る彼女の友達って、大概は俺のクラスの女なんだよな……。まあ本人が微塵も気にしていないので是としよう。
わかったこと。いざ仲良くなると、鹿中さんはとても饒舌だ。もちろん、丁寧な言葉遣いはそのままに。女友達との会話を(盗み)聞いていて察していたが、楽しそうに話す鹿中さんもまた魅力的だ。
「……射手くん?」
顔を覗きこまれて、俺は現実に引き戻された。
気づけば俺たちは立ち止まっていた。
「あの……どうかしたんですか?」
心配そうな瞳で俺を見る鹿中さん。かわいいっ!
「きみに見惚れてたのさ」
なんて言えれば格好良かったのかもしれないが、実際は、
「いや、なんでもないよ」
と焦って誤魔化すしかできなかった。うう、俺のヘタレ。
しかし怪我の功名、結果的に俺たちは見つめ合う姿勢になった。
無意識にごくりと息を呑んだのは、どちらだったか。
一瞬、キスしようか、と囁きかけたい衝動に駆られた。
だけどやめた。
俺たちの中で、まだ昨日のことは『特別』であってほしかった。
照れ隠しに空を見ると、眩い光が網膜に飛び込んできた。
夕焼け。
世界が朱に染まるその光景を見る度に、俺はこの夏の経験を思い出すのだろう。そして、傍らにいる鹿中さんと、こんなことがあったねって、語り合うんだ。
たまらなく嬉しくなって、鹿中さんに笑いかける。
すると、彼女も笑い返してくれた。その美貌に俺の頬は紅潮する。
――ここはひとつ、うまく隠してくれ。
と、俺は心の中で太陽に頼んだ。
読んで頂きありがとうございます!
初投稿ということで、ひたすら妄想を書き殴りました。
ちなみに、タイトルの〈K〉は根性と甲斐性です。こんなヘタレ野郎でも恋愛できんだぞって訴えたかったんです。