第24話 洗濯部屋
日曜日の昼下がり、教会から帰ってきたミハエルは洗濯部屋の隅にいた。
戸口の傍のアイロンテーブルで、ひっそりとシャツにアイロンをあてている。
洗濯部屋は、がらんとしている。
家中の汚れた衣類が一同にこの場所に集められ、毎月、数日かけて使用人たちによって洗われる。
洗濯は使用人たちが担う家事の中でも、最も重い労働の一つだ。
ミハエルは洗濯も自身で全て担わなくてはならない。
衣服どころか、シーツ類も一切合切自分で洗濯しなくてはならない。
使用人たちは大釜で一斉に煮沸を使うが、ミハエルは小さな洗い桶と洗濯板を借りて一枚一枚手洗いする。
裏手の井戸で水を汲むところから全てやらなくてはならない。
そうするよう、彼から言いつけられているからだ。
既に先日洗い終わった衣類たちを、上階の隅で乾かしていた。
いっそ全ての作業を使用人に任せることができれば楽なのに、とも思うが、使用人たちも彼からそういったことは固く禁じられているだろうから仕方がない。
そしてアイロンもまた例外ではない。
ミハエルがアイロン作業のために洗濯部屋に入れるのは、部屋を稼働させた週の日曜日に限られていた。
ミハエルは受け入れるしか選択肢がなかった。
外にアイロンを持ち出すことは固く禁じられている。
ミハエルはちょうど良い大きさの炭火を、小屋の暖炉から探して持ち込む。
ミハエルはシャツにアイロンをかけながら、緊張していた。
アイロンは熱の加減を慎重にみないと、あっという間に衣類を焦がしてしまう。
本来アイロンは、熟練工が担う仕事だ。
元来几帳面で器用な質であるため、作業に慣れるのは早かったものの、やはり神経を使う。
緊張をしているのは、なにもアイロン作業だけが理由ではない。
(一刻も早く終わらせて、ここを出なければ)
ミハエルは、手元では丁寧にアイロンをあてながらも、恐怖と焦りで額にじりじりと汗を浮かべていた。
戸口の反対側には、母屋につながる扉がある。
扉の向こうに足を踏み入れることを、ミハエルは許されていない。
今頃屋敷の住人たちは皆、思い思いに過ごしているはずだ。
ゲオルグ、フランツ、継母のクリスティーナ。
父親が屋敷にいるのか、それとも遠方へ出張しているのか、ミハエルは把握させてもらえない。
ダミッシュ家では、かの紳士の国のやり方に倣い、日曜日には使用人全員に休みをとらせている。
使用人たちも各々教会へ行ったり、好きな場所に出掛けたりして、思うように過ごしていることだろう。
無論、業者とのやりとりも休みである。
シンと静まる洗濯部屋で、ミハエルはアイロンの熱気を浴びながら、必死で衣類をのばし続けた。
作業日には炉で猛烈な熱気と蒸気に包まれるこの部屋も、火の気のない今は外気とさして変わらない。
特にこの日は風が強く、小屋から本宅へ歩くだけでも体中が凍りつきそうだった。
霜焼けで赤紫色に腫れた指がジンジンする。
けれども、霜焼けの痛みなど気にしている場合ではなかった。
(早く、早く作業を終わらせないと)
手が逸る。
(彼に見つかる前に、早く)
ミハエルはこの部屋に足を踏み入る時間を、わざと散らばらに設定していた。
彼は毎回この場所に来るわけではない。
それは同時に、彼がいつ来てもおかしくないということでもある。
彼には絶対に、アイロンのために洗濯部屋に来る時間帯を把握させたくなかった。
ミハエルは、ハッとアイロンを握る手の動きを止める。
扉の向こう側に人の気配を感じる。
屋敷側の扉の錠が、ガチャガチャと音を立てている。
ミハエルは咄嗟にアイロンを隠すと、自身も即座にアイロンテーブルの下に身を屈めた。
ガチャリと扉が開き、人が入ってきた。
コツ、コツ、と音を立てながら、その人物はゆっくりと近づいてくる。
ミハエルの体から、一気に血の気が引く。
一方で心臓は、ドクドクと痛いほど跳ね上がっている。
早鐘のように脈打つ心臓と、冷え切って痺れる手足を同時に感じながら、ミハエルは、じっと息を潜めた。
コツ、とその人物がミハエルの前で立ち止まる。
「おい」
ミハエルはビクッと肩を震わせた。
おそるおそる足元から見上げると、そこにはゲオルグが立っていた。
「あ……」
次の瞬間、ミハエルは胸ぐらをつかまれていた。体が浮き上がり、ゲオルグに勢いよく壁に打ちつけられる。
「お前、いつまでそうやっているつもりなんだよ」
太くて冷たい声が洗濯部屋に響く。
「迷惑なんだよ」
「ご…ごめん、なさい……」
ミハエルは、声を絞り出す。
ゲオルグは、なおも襟をつかむ手に力を込めている。
「…ぅぐッ………っ」
体を壁に押さえつけられ、ミハエルの口から呻き声が漏れる。
次の瞬間、ゲオルグに思い切り床に叩きつけられていた。
体が弾き飛ばされ、ミハエルはドサッと床に倒れ込む。
「………っ」
投げ出された拍子に体を床に思い切り打ち付け、息ができなくない。
身動きのとれないまま、しばらくもんどりうった。
「俺のことをバカにしているんだろう」
ゲオルグの声は切っ先の削られた氷のごとく、冷ややかで鋭い。
「ち…違い………ま、す……」
ミハエルは呼吸を取り戻すと、うつ伏せに這いつくばりながら、やっとのことで言葉を捻り出した。
「そういうえばさ」
ゲオルグが切り出す。銀縁の眼鏡が冷たく光り、顔には面白そうに薄ら笑いを浮かべている。
「エミリアは今頃、どうしているんだろうな?」
ミハエルはドクっと心臓が跳ね上がった。
「そ、そのことは……」
言わないで、と口に出す前に、ゲオルグに耳をグイッと捻じり上げられていた。
「っ……」
這いつくばっていたミハエルは、千切れるほど強い力で引っ張られ、体を起き上がらせていた。
ゲオルグがミハエルの耳元で囁く。
「エミリアはさ」
ゆっくりと耳打ちをする。
「や、やめ」
「どこぞで野垂れ死んでいるかもな?」
ミハエルは凍りついた。
ゲオルグは口元に意地の悪い笑みを含ませ、なおも追い打ちをかけてくる。
「お前のせいだ」
とどめを刺さすように言い放つと、ゲオルグは手をミハエルから離した。
ミハエルはドサッとその場に崩れ落ちる。
頭の中が真っ白になる。
ゲオルグは悪魔のような笑みを顔に浮かべながら、本宅の奥へと戻っていった。
彼は、地獄の門番どころではない。
ミハエルを地獄の底に突き落とす、業火の執行人だった。
茫然自失とするミハエルを代弁するかのように、部屋の外では風がびょうびょうと咽び泣いていた。




