少年期
ある冬の夜、music café HOWLINGにはいつものように若者たちが集まっていた。
彼らは、恋の悩み、将来への不安、そして自分自身への疑問を抱え、それぞれの思いを音楽に託していた。
カウンターに立つケイは、そんな若者たちの姿を眺めながら、遠い昔の自分を重ねていた。
山口での青春、結婚と離婚、そして大阪での新たなスタート。
数えきれないほどの出来事が、今の自分を作り上げてきた。
その夜、いつもの常連客、マサオがケイに尋ねた。
「ケイさん、なんでこんな店をやってんの?」
ケイは、その問いかけに答えるかのように、昔のアルバムをめくるように、自分の半生を語り始めた。
若き日の夢、挫折、そして現在の自分。様々な経験の中で、ケイは「生きる意味」という問いを何度も自問自答してきた。
しかし、明確な答えを見つけることはできなかった。
ただ、様々な人と出会い、別れを繰り返し、その中で自分という人間が少しずつ成長してきたのだと感じていた。
話を聞き終えたマサオは、静かに言った。「ケイさんは、みんなの居場所を作ってるんじゃないかな?」
ケイは、マサオの言葉に口元がほころんだ。
若者たちは、ケイの店を訪れることで、
自分自身と向き合い、そして未来への希望を見つけることができるのかもしれない。
そして、ケイ自身もまた、若者たちとの出会いを きっかけに自分を見つめ直してるのかもしれない。
夜が更け、music café HOWLINGには静寂が戻ってきた。
ケイはカウンターに立ち、店内の明かりを眺めていた。そして、静かに呟いた。
「明日も、また、この場所で。」
1978年1月19日、山口県下関市で歳の離れた姉2人を持つ末っ子として私は誕生した。
父親とは死別しており、父が亡くなった後に妊娠が発覚した母は、
出産すると決めたが,まだシングルマザーという言葉もない
昭和の後期に女手一つで子供3人を育てるというのは
並大抵のことではなく、ましてや山口県の田舎町で
そんなことをする人は、まずいなかった。
親戚一同から、『わざわざ、そんな苦労せんでもええじゃろ?』と言われても母は頑として受け入れなかった。
ここで、受け入れてたら私は存在してないので
母の頑固さには感謝している。
母親は、子供3人を育てていくために必死に働いた。
父親代わりも兼ねている高圧的な母にうまく対応して生き抜くために
末っ子特有の人の顔色をうかがうスキルは
ここで鍛えられた。
小学校時代、私はクラスの人気者だった。いつも誰かと一緒にいて、毎日が楽しくて仕方がなかった。
5年生まで私の名字は『田中』だった。
クラスに4人いたので、とても不便な名前だなと思ってたが
母の再婚で下関市で2世帯しかない珍しい名字になり
これまた不便な思いをした。
中学生になると、サッカー部に所属し肥満気味だった私は痩せ始め女子から告白される事が増えた。
俗に言うモテ期というやつだ。
ただ、今思えば平成初期の全員丸坊主の中学生に
モテ要素などないのでは?と今にしてみれば思う。
この頃から、元来の内向的な性格が際立ち、いつしか存在を消すようになってしまった。
大人になった今でも陰キャのコミュ障気味なのは
この頃から、変わらない。
1軍達が集まる華やかなサッカー部にいたので、疎外感はなかったが、無理してる自分は感じてたと思う。