たそかれ
どうか最後までお付き合いください。
よろしくお願いいたします。
管理人にアキの事がバレたのは、飼い始めてから三週間目の事であった。
「河野さん、水臭いじゃないですか。犬、飼ってるんでしょ。そう言う事は早く教えて頂かないと」
「済みません。ついつい報告が遅れまして」
「そう言った形式張った事じゃ無くてですね。大体、ここのオーナー会でもペットの飼育は、迷惑にならない範囲において自由だって事になってるし、そんな事は気にしてませんよ」
このマンションの管理室は、一階のエレベーターホールの奥にあり出入りするドアは、エレベーターホールの内側にあるが、窓口はエレベーターホール外側の玄関ホールにも設けられている。
背の低い、小太りの五十代らしい管理人は、エレベーターホールへ、のそのそと出て来て嬉しそうな笑顔で祐介に話し掛けて来た。
「犬種はなんです」
年齢の割に髪の毛の薄い管理人は、実年齢よりも四、五歳老けて見える。
「イタリアン・グレーハウンド」
「イタグレかぁ。良い犬種を飼いましたね」
祐介が犬種を言い終わらないうちに、管理人が言葉を被せて来た。
「あれは足が速いからねぇ。ドッグランとか連れて行ったら、注目の的ですよ。兎に角、あの走りっぷりは見ていて気持ちが良い」
「ですよね。環境にも馴染んで、体も、もう少し大きくなって来たら連れて行くつもりですよ」
「うわぁ良いな。私も一緒に行きたいなぁ」
「武丸さんは、ミニピンでしたっけ」
管理人の苗字は武丸という。武丸もミニチュア・ピンシャーと言う、ドーベルマンに似た小型犬を飼っている。
「そうなんですよ。でもミニピンでしょ。ドッグランでも、なかなかリードが外せなくて。河野さんとこのはメスと聞いてるから、特に駄目だねぇ。いきなり襲っちゃいそうだよ」
「頑固で気が強く、攻撃的な犬種でしたね。でも、うちのなら大丈夫ですよ。走って逃げますから」
「そうかぁ。ミニピンじゃ、追いつかないもんね。じゃぁ行く時は教えてくださいよ。管理室を休みにしてでも、ついて行きますから」
武丸は如何にも悪人顏で、一見すると癖が強そうに見える容姿をしているので敬遠されがちなのだが、性格は純粋で何事にも悪意が無く、祐介は、そんな武丸に好感を持っていた。
その悪人面の武丸が、目尻を下げて笑顔を作っている。何とも不気味と言えば不気味ではあるが、愛嬌があるとも言えなくもない。
その約束から三ヶ月が過ぎたが、流石に武丸も催促はして来ない。その代わりに、時間が会う時に、道子と一緒に散歩するのが日課になってしまっていた。
最初は不気味な武丸を警戒して嫌がっていた道子であったが、すぐに武丸の人柄が分かったらしく、出来るだけ武丸に時間を合わせて誘うようにしているようであった。
「だって武ちゃんって面白いんだよ」
「お前なぁ。大のおっさんを捕まえて、武ちゃんって」
「でも、本人は大喜びだよ。私が『武ちゃん』て言うとデレ~っとして、そりゃ面白いんだから」
祐介は武丸の締まりのない、にやけ顏が目に浮かんで笑いが止まらなくなってしまった。
「たの、頼むから・・・、俺の、俺の前だけでは勘弁してくれ。あの人の、ぷっ、想像しただけで、これなのに、実物見たら、兄ちゃん、死んじゃうよ」
祐介は、晩酌のビールを吹き出しそうになりながら笑っている。
「分かってるって。上の階の山野の奥さんが偶然通りかかって、座り込んで笑ってたもの」
「・・・もう、・・・もう勘弁してくれ」
祐介はソファーにのけ反って笑っている。
「でもね。武ちゃんの凄いとこは、山野の奥さんに向かって、同じ顔で会釈をして、禿頭を叩きながら、笑う門には福来たる、て言って、ほっぺた膨らませるんだよ。どうも達磨さんの真似じゃないかな、縁起物だからって」
「だから、もうやめてくれ、笑わせ殺すつもりか」
「お兄ちゃんは失礼ね。武ちゃんは人の顔を見て笑い出した、山野の奥さんの気持ちを考えて、敢えて笑わせたんだよ。あそこで武ちゃんが機転を効かせなかったら奥さんは、お兄ちゃんと一緒で、すっごく失礼な人になっちゃってバツが悪いでしょ」
道子は本気で気分を害したようである。
確かに、そう言われれば、そうであろう。大の大人が他人の顔に大笑いするなんて、有り得ない失礼さである。
「お前って、そう言うところは鋭いよな。本当に感心するよ」
流石に祐介も悪かったと思い、笑いを抑えて神妙に言った。
「まぁ俺も武丸さんが、お前と一緒に散歩してくれるのは嬉しいんだよ。あの人は何か安心できるんだよな。道子も一時は近所の奥さん達が犬の事にかこつけて、色々聞いてくるのが嫌だって言ってたもんな。でも、その辺も武丸さんが上手く、あしらってくれてるんだろう」
「うん。凄く助かってる。武ちゃんと一緒に居るだけで、最初は誰も近寄っても来なかったんだから。見掛けが怖いから避けてたんだよ」
道子が眉間に皺を寄せている。人の良い道子が、こんな表情を作って話すなんて、余程、気に入らないのだろう。
「それが山野の奥さんの話からなのか分からないけど、段々馴れ馴れしくなって来て、ワイドショーのレポーターみたいに下世話になって、あぁ~嫌だ嫌だ。こんな愚痴を言ってると、私までレポーターになっちゃう。消毒、消毒」
言うが早いか、茹でた空豆を一つ口に放り込み、祐介が飲んでいる500mlの缶ビールを奪い取って、ごくごくと飲み干した。
「おいおい大丈夫か。まだ半分は残ってたぞ」
道子も酒に弱いわけではない。
ただ、あの時以来、道子はアルコールを絶っていた。
意識的にでは無いのであろう。恐らく、あれ以来、飲む気さえも起きなかったのではないのだろうか。
「平気だよ。最近、気分が良いんだぁ」
と言いながらも、早くも顔が赤くなって来ている。
「それなら良いか。兄ちゃんも相手が居た方が楽しいもんな」
「絹江ちゃんじゃなくて、ごめんね」
道子は舌を出した。
「また、そう言う事を」
祐介と絹江が恋人として付き合っているわけではない。公園の散歩に招待してから祐介も携帯で、たまに連絡を取っているに過ぎないが、自分も道子も満更でもない事は自覚している。
しかし祐介は、どうしても最初の一歩を踏み切る勇気が湧かないでいた。
祐介にしても、何度も食事に誘おうかと思いもしたが自分に対する不信感、人としての自信の喪失、他人と関わる事への抵抗感、それ以外にも自分では自覚していない理由が有るのかも知れないが、どうしても心にブレーキが掛かってしまう。
「色恋なんて所詮は自己都合。自分にとって、それが必要なら恋をして、不要になったら切り捨てる。まだ、そう思ってるの」
祐介の表情が強張り、暫く黙り込む。
「表現は悪いが、その通りだよ。生き物は全てにおいて自己都合で行動が決まる。人は本能に従い恋をするが、その欲望が満たされたら、その必要が無くなれば恋は不要となる。後は情という繋がりが残るだけだ。だけど情なんてものは、全く当てにならない、気まぐれなものさ」
「でも、お兄ちゃんは一人の女に一生を捧げられそうだけどなぁ」
「それこそ自己都合なんだよ。俺は愛し愛されたい。自分の一生を好きな人に捧げたい。死ぬ程の愛でね。でも相手は、そうは思わない。いずれ愛情は薄れる。こんなはずじゃなかったとね。所詮、人は打算的なものさ。自分に都合が悪くなれば色んな言い訳を作って自分を正当化し、自己都合を優先する。必要無くなればハイそれまで、さようなら。俺もそうだよ。いや愛情が深いだけ、いつまでも相手を束縛しようとする俺の方が質が悪いな。俺こそ最低の人間だ」
「そうだね。男は引き際が大切だよ。愛情を押し付けるのは最低。愛情の名の下に束縛するのは最悪。お兄ちゃんも私も最悪の人間だね」
「今度は上手くやるさ。俺も少しは、あれから成長しているだろう。相手の事を本当に大事に思うなら歯を食いしばり、じっと耐えて自分を殺す。俺は、もう相手の負担にはならない。お荷物にはならないよ」
「良く言った。お兄ちゃんは男だ。昔の女は過去に捨て去り、綺麗さっぱり忘れちゃえ」
「お前もな」
二人は明るく笑い合った。
「よし。絹江さんを家に招待しようか」
「待ってました。お兄ちゃんが、いつ言い出すか待ってたんだよ」
「何だよ。そんなの、お前が言い出しても良かったんじゃないか。お兄ちゃんだって、お前が、いつ招待しよう、て騒ぎ出すかと思っていたんだぞ」
「騒ぎ出す、て失礼ね。こう言う事は、お兄ちゃんからじゃないと駄目なんだって」
「何なんだよ、それ。意味が分からん」
「いいのいいの。私は取り繕うのが苦手だから、そうじゃないといけないんだ」
「何が言いたいのか余計に分からん」
「来年、暖かくなったら武ちゃんも絹ちゃんも誘ってドッグランに行こうか」
「うん、そうだな」
祐介は席を立って、冷蔵庫へビールを取りに行った。
「お兄ちゃん、まだ飲むんだ。いつもより多い」
「半分は、お前が飲んだんだぞ」
パタンと冷蔵庫の扉が閉まる音が聞こえる。
「道子も飲むか」
「やめとく。久しぶりだから効いちゃった」
「それが良いな」
サキイカの袋とビールを持ってソファーに座り、祐介らしく丁寧にサキイカの袋を開ける。
「それより、最近寒くなって来たから、アキちゃんが散歩する時にガタガタ震えてるんだ。今度、冬服買いに行こ」
「じゃ、次の休みにでも行くか」
サキイカを口に放り込み、缶ビールを開けて口に含む、その様子が道子には、とても美味そうに見えた。
しかし今度はビールには手を出さずにサキイカを摘んで、祐介と同じような仕草で口に放り込んだ。
「絹ちゃんに会えるね」
祐介は危うくビールを吹きそうになった。
道子達がペットショップにアキの服を買いに行った日は、残念な事に絹江が休みの日であった。
「お兄ちゃん見て見て。これも可愛い」
マンションに戻ってからの道子は上機嫌であった。
「ねぇ、テレビばかり見てないで、アキちゃんも見てよ」
「あのなぁ。もう一時間だぞ。アキも飽き飽きしてるんじゃないか」
「うっわ。信じらんない。ジジイギャグだ。しかも、とびっきりのジジギャグ」
「返す言葉も無い。我ながら酷すぎた。が、ジジイは口が悪すぎだろ」
「えへっ。ごめんね」
機嫌の良い道子は舌をチロリと見せて素直に謝った。
「アキちゃん、今日は、この服ですよ」
赤いストライプの可愛い服である。
イタグレは首と足が長いので、汎用的な服では合わないのだが、アキを買ったペットショップには多くのイタグレ用の服が置いてあった。
絹江が以前語っていたのだが、この地域にもイタグレの飼い主が何人か居て、品質の確かなグッズを手に取って確認してから買える所が無い、と耳にする事もあり、試しに少し置いてみたら主にネット情報だが口コミで噂が広がり、今では近県からも購入者が来店され好評である、との事であった。
「はぁ~、やっぱりスタイルが良いと何着ても似合うわねぇ」
「なぁに、道子もマニア受けしそうな良いスタイルだよ」
「あっ、それって何とかハラスメントだ。訴えてやる」
上機嫌のために文句にも迫力がない。
「お前も飲むか。飲むなら、お兄ちゃんがツマミでも作るぞ」
「わぁ、じゃあ飲む」
「分かった」
「私は武ちゃんにアキちゃんを見せて来るね。ちょっと散歩もして来るかも」
言うが早いか、もう腰をあげている。
「おう、武丸さんに、よろしくな」
「はいよ」
道子はマナーバッグを左手に下げてアキのリードを引いて玄関に向かった。
「行ってきまーす」
「行ってらっしゃい」
祐介は、ふぅっと一息ついた。
〈今年の冬は、無事に乗り越えられるかな〉
祐介は何気なく携帯を取り出し、コミュニケーションアプリを起動して、絹江を食事に誘うためのメッセージを入力し始める。
『こんにちは。そろそろ我が家へ招待したく連絡しました。ご予定は、いかがですか』
「送信。さて、つまみと晩飯を作るか」
最近、祐介は時間があれば夕食の準備をするようになった。
道子が動けるようになってからは、出来るだけ家の用事は道子に任せるようにしていたのだが、絹江に手料理をご馳走すると言った手前、不味いものは食べさせられない。
「今日は魚の煮付けに、ほうれん草の胡麻和え、それとキンピラゴボウ。何だ、良く考えたら全部つまみになるじゃないか。では追加でイカのバター炒めでも作るか」
祐介が食材を並べ、料理の準備を始めた時に、メッセージアプリの着信音が鳴り、内容を確認すると絹江からの返信であった。
『ご招待ありがとう御座います。十月二十日であれば終日都合が良いのですが、祐介さんの方は大丈夫ですか?』
『道子も私も大丈夫ですよ。出来れば十五時くらいに来ていただけると嬉しいです。私もですが、道子も絹江さんと話したがっていますもので』
携帯を手に持ったまま、冷凍イカを取り出して、電子レンジに入れて解凍ボタンを押す。軽い音を立てて電子レンジが動き始める。
『そう言って頂いて、とても嬉しいです。私も祐介さん、道子ちゃんと話すのは、とても楽しいです。手土産にワインを持って行きますね』
『では、それに合わせて何か合う料理を考えておきます。楽しみにしています』
『こちらこそ楽しみです。宜しくお願いします』
祐介は携帯をテーブルに置くと、コンロで鍋に湯を沸かしながら、ほうれん草を洗い、根っ子の部分を包丁で切り落とす。
ゴボウを金たわしで綺麗に洗って、ボールに水を張り、酢を少し加えてゴボウを笹掻きに切って行く。
流石に手馴れたもので、まな板の上でゴボウをコロコロと回しながら、手際良く削いで行く。
蓮根は、既に洗ってある小振りのものを買っていたので、それを軽く水洗いして縦四分の一に割って薄く切る。包丁の音がリズム良く、部屋に響いている。
〈大分、調子良くなって来たな〉
祐介は、その音を楽しむように機嫌良く料理を続けた。
「はい。一品出来上がり」
魚の煮付けは、アキの服を買いに行く前の午前中に秋刀魚を買って来て作っておいた。
味付けは、この地方独特の赤酒と言う甘い酒と醤油を使い、それに生姜を千切りにしたものを入れて、落し蓋をして、火を通しておいた。
その秋刀魚の鍋をコンロにかけて、とろ火で追い炊きをする。
トロトロと煮込みながらキンピラに取り掛かる。
「はい。二品目、三品目も出来上がり」
そう言いながら、煮付けの火を止め、キンピラを皿に盛って、フライパンを良く洗う。
良く洗ったフライパンを、また火に掛けて水分を飛ばし、解凍したイカを取り出す。
頃合いを見てバターを、一欠片フライパンに落とし、火から遠ざけて回すようにバターを溶かし、イカをフライパンに入れる。
「さぁ全て完成」
誰も居ない部屋の中に祐介の声が虚しく響く。
祐介が一通り後片付けを終えて椅子に腰を掛けた、その瞬間に携帯の着信音が鳴った。道子からである
「もしもし、いやしん坊め。ちょうど夕食が出来たとこだよ。・・・え、何だって・・・少し落ち着け、良く分からないよ。・・・武丸さんが、どうかしたのか。倒れた・・・、痙攣しているのか。武丸さん・・・、アキが、アキなのか」
動転している電話口の道子の話が、さっぱり要領を得ない。
「あ、武丸さんですか。一体・・・・・・ああ、分かりました。アキが倒れて痙攣しているのですね。私も、すぐに行きます。いつもの公園ですよね。はい、済みません。行くまで道子を、よろしくお願いします」
祐介は取るものもとりあえず、サンダルを引っ掛けて玄関を飛び出した。
エレベーターが来るのも、もどかしい。イライラと気ばかりが焦る。
道へ出ると転がるように駆け出して公園を目指す。
公園に着いた祐介は蹲る道子に、ゆっくりと近づいた。
やけに自分の鼓動を激しく感じる。
祐介の胸に、あの時と同じ、ジリジリするような痛みが走る。
「道子」
優しい声で名前を呼んでみる。返事が返って来ない事は分かっていた。
もう一度、肩に手を置いて声を掛ける。
「道子、心配するな。また、兄ちゃんが助けて見せる。だから少し手の力を抜いて、アキちゃんの呼吸を楽にしてあげよう」
道子は、ハッとしたように手の力を緩め、抱きしめていたアキを、ゆっくりと胸の前に差し出した。
祐介は道子の前に回り、しゃがみ込みながらアキに手を伸ばした。
先ずは軽くアキの体に触れて優しく撫でる。
「道子、大丈夫だよ。アキは、しっかり息をしている。だけど少しだけ苦しそうだから病院に連れて行こう」
祐介は、そっと道子の顔を見て、目を合わせないように語りかけた。
道子の顔は涙に濡れた跡が、はっきり残っている。しかし今は泣いてはいないようだ。
アキの体の下に手を回して、ゆっくりと抱き上げた。
道子は取り乱すでもなく祐介の手を、祐介の手のアキを見つめているようである。
やや離れた所で、そんな二人を武丸が心配そうに見ていた。
武丸は二人の様子を見て、変に声を掛ける事はせずに黙って見ている事にしたのである。
祐介がアキを抱き取ると、アキは尻尾を振って頭を持ち上げたが、いつもの元気の良い様子とは明らかに違っている。
「元気が無いみたいだね。どうしたの」
アキに話し掛けるようにして、道子に問い掛ける。
「急に体が震え出して、足もバタバタして、体もガタガタで」
そこまで話すと道子の頬に涙が流れて、それ以上は話せなくなってしまった。
「私と散歩に来て、最初は元気に遊んでいたのですが急に元気が無くなり、みっちゃんが抱き上げたら発作を起こして痙攣し始めたんです」
武丸が道子に変わって状況を説明してくれる。
「そうですか。済みません、ご心配を掛けまして」
「何言っているんですか。それは水臭いよ。それに私は何もしてあげられなかった」
真剣な顔の武丸を見たのは、これが初めてかも知れない。
「いえ、道子の側に居て頂いただけで感謝しています。どうやら遺伝性の癲癇みたいな感じですね。取り敢えず今から、すぐに病院へ連れて行きます」
「僕も、そう思うよ。血統が良い子にありがちな癲癇っぽいね。車を出すから僕も一緒に行っても良いかな。心配で」
「それは心強いです。道子のためにも、お願い出来ますか」
「こっちが、お願いしてるんだ。勿論だよ」
祐介は初めて道子の顔を覗き込んで話し掛ける。
「道子、アキは恐らく問題ないよ。今から病院に連れて行こう。武丸さんも一緒に来てくれるから」
「本当に大丈夫なの」
道子も顔を上げて祐介を見返す。
「医者の診断を待たないと分からないけど、俺も武丸さんも大丈夫だと思っている。だから早く連れて行こうか」
「うん、急いで行こう」
そう言うと道子は素早く立ち上がり、公園の外へ向かい足早に歩き始めた。
「道子、兄ちゃんが車を此処まで持って来るから公園で待っていて。そっちの方が早いから。武丸さん、車は私のを使います。車内で粗相をしたら申し訳ないし、武丸さんには道子と一緒にアキを見ていて欲しいんです」
祐介は早口にそう言って、道子にアキを手渡し走しり出した。
祐介には武丸が動揺している自分達の事を気遣って、車を運転しようと思ってくれた事が分かっていた。
「武丸さん、アキと道子をよろしく」
振り返ると、大声でそう叫ぶ。
〈良い兄弟だ。祐介君も随分苦労したんだろうな〉
武丸は、そう思った。人に優しく、思いやりのある人には、自分も大変な苦労をした人も多い。
〈苦労をして心の苦痛を知り、人の痛みを、我が痛みと感じてしまう。中には苦労をしたせいで精神を病み、捻くれて攻撃的になる人も居るが祐介君は、きっと人の痛みを自分の痛みとする人なのだろう〉
武丸は目頭が熱くなるのを覚えた。
自分だって、ただ漫然と歳を取って来たわけではない。人は皆、年相応の苦労をするものである。
「みっちゃん、あそこのベンチで待っていようか」
「武ちゃん、ありがとう」
そうポツリと言って歩き出す。
「可哀想だけど、この子は癲癇を持って生まれてしまったようですね。血統書を持つ犬種には多かったりします」
郊外にある地元では有名な動物病院の医者は、そう言ってアキの首筋を撫でた。
人の腰ほどの高さのある診察台の上で、アキは尻尾を丸めて大人しくしている。
「やっぱり、そうですか。人間のエゴのせいですね」
「確かにそうなんですが、ただ、そのお陰で、人間に大事にされる子も少なくないので、何とも言えないんですよ」
「そうなんですか」
道子が、やや尖った声で聞き返した。
「例えは悪いですけど、安い買い物バッグと、何十万もするブランドバッグでは、扱いが全然違うでしょう。確かに多くの飼い主さんは、血統だとか、ペットの金額だとかで愛情の量が変わる事は有りませんが、血統やショーへの出陳が、愛玩動物にもたらした良い影響は、認めないといけないのですよ。それに最近では、ペットの正しい飼い方が、昔よりは浸透しています。何より初心者の方でも沢山ある犬種の中から、自分の飼いたい個体が手に入るようになった。ペットブームが来るとフードなどの質も上がって来る。どんな業界でも民意には逆らえませんから。勿論、安易に生き物を飼ってしまう飼い主さんも増えてしまいますが、飼い主さんの愛情をくすぐる血統書や、ドッグショーなどの存在も、その固有の遺伝子を健康的に維持する為には絶対に必要であるのです。問題なのはブリーダーさんの良識と飼い主さんの良識ですね」
「確かに車にしても、ペットにしても愛情があれば大事にしますよね。俺だって、あの車は無理して買った好きな車だから大事にしているし、勿論、購入金額だとか抜きで大事にする。要は、自分が欲しいと思った車や犬に対する出会いであり拘りだな」
「そうよ。種類や値段じゃなくて出会いなのよ。私はアキと出会えたから、お金とか関係なく一緒に暮らしたかったの」
「そもそもアキは、お買い得だったんだし」
「にいちゃんは、また怒られたいの。ペットは家族、値段じゃないの」
道子は医者の話を聞いて心配ないと悟り、すっかり気持ちが落ち着いていたので、俺の冗談に怒って見せる余裕が出来ていた。
「いや、この子を買った値段が、思いのほか安かったので、私が悪ノリして、それをネタに軽口を叩くんです」
話の見えていない医者と武丸に、祐介がアキを購入した時の事を説明した。
「それは破格ですね。お知り合いから購入されたのですか」
「いえ、アーケード街のショップからです」
「あぁ、あそこはオーナーも良いけど、何より店員が良いんですよね。オーナーが利益に走ったり、愛情の無い事をしようものなら、物凄く怒られますからね。あの子が居るから、あの店は成り立っているんです。だから私も、あの店を推薦しているのですよ」
「きっと絹ちゃんだね」
「だな」
「間違えない」
祐介に続いて、武丸までが賛同する。
「え、いや、僕も、あの店は良く使っているから」
皆の視線に武丸は頭を掻いた。
「吉田君を、ご存知なんですね。私も往診したり、相談されたり面識があるのですよ」
「先生」
話が長くなりそうな気配に看護師が、それとなく医者を促した。
「おっと、いけない。仕事中でした」
医者はペロリと舌を出した。
「暫く、お家で様子を見てやってください。また発作が出るようでしたら、検査して薬を処方します。でも人間と同じで、成長するにつれて収まる子も多いですから、飼い主さんが神経質にならないように、気楽に接してあげてくださいね。それと室温を適温に保って、体を冷やさないようにお願いします」
「分かりました。有り難う御座います」
「それと、何かあったら、何時でも良いですから遠慮なく電話を下さい。うちは入院患者も居ますから、当直の看護師が対応します」
「本当に助かります。よろしく、お願いします」
三人とアキは待たされる事もなく、診療代を払い、病院を後にした。
歩道では街路樹が落とす枯れ葉が風に踊って、道子達の前を通り過ぎて行った。
たそかれる 木枯らす風に服なびき 襟を絞むる手 胸を絞むる手
お読みいただきありがとうございました。