残照
どうか最後までお付き合いください。
よろしくお願いいたします。
犬を飼ってから二ヶ月、雨の日以外は毎日のように散歩をしている。
そんな日曜の午後、道子と祐介の二人は、弁当を作って近所の公園に遊びに来ていた。
マンションから歩いて五分も掛からない公園で、一時間程も仔犬と遊んでいる。
長めのリードで繋いで、ゆっくり歩き回ったり、しゃがんで戯れたり、椅子に座って兄弟で話をしたりした。
秋の空が、やけに綺麗である。
これまでの出来事や、夏から秋へ、季節と共に移り変わる二人の生活が祐介の脳裏を流れて行く。
「残照の 風雲過ぎて 秋の空」
祐介がボソボソと呟くように詠む。
暫く沈黙が続く。
「我が身を落とす 葉先の一露」
ハッと道子を顧みた。
「下の句、寂しいな」
「お兄ちゃんこそ、明るい読み方じゃなかったよ」
そう言って道子は、立ち上がり、両手を広げて大きく伸びをした。
「空気が変わったね」
「秋の香りがするな」
「アキちゃん、おいで」
アキと名付けられた仔犬を、しゃがんで抱き上げキスをして天に差し上げた。
「この仔は、幸せになれますように」
「この仔も、幸せになりますように」
祐介が道子の横に並んで、台詞を言い換える。
「お昼にしようか」
「もうちょっと待って」
「腹減ってないのか」
「そうじゃないの」
そう言って道子は、アキを連れて駆け出した。
アキは流石にイタグレだけあって、体は小さくても綺麗な走り振りである。
アキが家に来てすぐの頃は、慣れない環境にキョドキョドと落ち着き無く人の後を追い、足元にまとわりついて来るので、歩くのにも気を使う程であった。
餌も残し気味で多少心配したが、初めての犬ではないので神経質にもならず、環境に慣れるまでは、アキの好きにさせておく事にしていた。
トイレの覚えは早く、余り手の掛からないアキであった。
躾は主に祐介が担当し、最初はペットボトルに小石を詰めたものを、アキの目の前で振って叱っていたが、余りにも怖がるので、今では言葉だけで叱っている。
寝るときは道子の布団を好み、道子の腕枕で休んでいるが、たまに布団の上に粗相をして、夜中に怒られたりしているようだ。
散歩は我が家に慣れた頃に始めた。
最初の頃は怖がって家から出ようとせずに、道子が抱っこして連れ出す事が多かったが、今では散歩にも慣れ、リードを引く道子の足元に、へばりつくように歩いて、お出かけするようになった。
そんな一人と一匹を、祐介は秋の穏やかな日差しの中で見守っている。
「大分、慣れたみたいですね」
えっ、と振り向くとベンチの後ろに、お洒落な明るい柄で長めのワンピース姿の、ペットショップの吉田が立っている。祐介は慌てて、開いていた黒いB5版の手帳を閉じた。
「お陰様で、ご覧の通りです」
「良かった。やっぱり河野さんに引き取って頂いて正解だったわ」
「こちらこそ、良い仔を頂けて妹も、私も満足しています。どうぞ、お掛けください」
祐介は立ち上がり、吉田にベンチを勧める。
「何を書いていらしたんですか」
「日記みたいなものです」
ベンチの上に置いている肩掛けのバッグに手帳を仕舞いながら、少し照れた素振りで答えた。
「しかし、奇遇ですね。近くにご用事でも有ったんですか」
ベンチに腰を下ろす吉田に、祐介が話題を変えるように質問する。
「え、聞いて無かったのですか」
祐介が怪訝な顔をする。
「あぁ、絹江ちゃん。遅いよぉ」
公園の真ん中で、道子が騒いでいる。
「あいつの仕業かぁ。申し訳ない。忙しいのに呼び出されたのでしょう」
「あはは、まぁ、そういったところですね。でも迷惑じゃないですよ。声を掛けて頂いて、とても嬉しかったです。それより折角のデートに、お邪魔だったかしら」
吉田の目が悪戯っぽく笑っている。
「人聞きが悪いなぁ。兄弟愛は認めますがね」
「絹江ちゃんも来た事だし、お昼にしましょうか」
走ってベンチまで戻って来た道子が、息を弾ませながら、ランチボックスを入れた布地のトートバッグに手を伸ばした。
「レジャーシートも持って来ているから、あそこの日陰で食べようよ」
道子は、高さ5m程の楠木の木陰を指さした。
「行きますか」
「はい」
祐介は吉田を伴い、道子の後を追う。
「芝生も綺麗だね」
道子が明るく振り向く。
「そうだな。この公園が、こんなに整備されていたとは思わなかったよ」
「マンションから近くて良かったですね。ワンちゃんも嬉しそう」
吉田もアキを見つめて微笑んでいる。
「アキちゃんだよ、私は河野アキで~す」
トートバッグを芝生の上に置き、アキの前足を取り万歳させる。
「あらそうだったわね。可愛い名前でちゅね~」
吉田も、しゃがんでアキに顔を近づけた。
アキは毎日世話をしてくれた吉田に、鼻をひくつかせながら激しく尻尾を振っている。
「シートは、この辺で良いのか」
「うん。お願い」
道子も吉田もアキに夢中で、祐介の方など見向きもしない。
「手を洗って来るか」
シートを敷き終えた祐介が、二人に声を掛けた。
「大丈夫、お手拭き持って来てるよ。ごめんねアキちゃん。ここに、じっとしててね」
そう言って道子は、アキのリードを楠木の幹に括り付けて、袋に入った市販のお手拭きを取り出した。
「今日は、やけに張り切って、いっぱい作っていると思ったら、計画的だったんだな」
「あら、不満なの」
「そうなんですか」
吉田まで道子に合わせて突っ込んで来る。
「い、いえ、そんな事は全然有りませんから」
「ねぇ絹江ちゃん、言った通りでしょ。普段は取り澄ましているけど、本当は、ちょっと情けないんだからぁ。お兄ちゃんは」
そう言いながら軽く祐介の背中を叩いた。
「いつの間に仲良くなったんだ」
焦って道子に話を振る。
「よく連絡を取ってたんだよ」
「私も何だか気になってたので、こうして呼んで頂いて本当に嬉しいです」
三人はランチボックスを囲んで腰を下ろした。
道子は手を拭いて紙コップにお茶を注ぎ二人に手渡す。
祐介も吉田も、お茶を置いて、お手拭きで手を拭いた。
「このオニギリは、お兄ちゃんが握ったんだよ。私よりも綺麗なんで、ちょっと悔しい」
「わぁ、本当に綺麗な三角。よく料理されるんですか」
「一人暮らしをしていたから、たまに作っていました。でも当たり外れが激しくて。味付けは道子の方が上手ですよ」
「また謙遜してぇ。お兄ちゃんの料理は美味しいですよ。今度、うちに食べに来てくださいよ」
「ワインでも持って行きますから、是非、お願いします」
「やったぁ。うちでパーティーなんて初めてだね」
「だな。だったら、みっともないものは出せないぞ。それまでに少し練習しておくか」
「お兄ちゃんの手料理三昧だ。嬉しい」
三人は、わいわい賑やかに話をしながら、各々紙皿におかずを取って行く。
「頂きまぁす」
道子の後に皆も続いた。
「でも本当に安心しました。アキちゃんは良い飼い主に恵まれました」
「そう言って頂けると嬉しいなぁ」
「うん、プロに褒めて頂いて光栄です」
道子も真顔で頷く。
「と言う事は、恵まれなかった子も居るんですか」
祐介が聞く。
「そうですね。理解が無い飼い主さんだと、無駄吠えするからとか、言う事を聞かないだとか、室内でマーキングするとかで虐待される方も、いらっしゃいます」
「酷い。それって自分で躾が出来なかっただけじゃない。ペットに当たるなんて最低」
「本当に、そう思います。上手く飼えないから引き取ってくれと言われた方が、まだマシですね」
「えっ、そんな人も居るんだ」
「初めて犬を飼う方で、元気な犬種や頑固な、癖のある犬種を選んだ方に、いらっしゃいます」
「無責任」
道子が本気で怒る。
「ペットを飼うと言う事は、その子の一生を背負う事なのに」
「皆、道子ちゃんや、お兄様みたいな飼い主さんばかりだと良いのですが」
「お兄様は、やめてください。何だかムズムズします」
祐介が優しく言った。
「では、お兄様は河野さんで、道子ちゃんは、道子ちゃんだね」
「ちゃんて歳じゃ・・・」
言いかけて祐介は、慌てて口を噤んだ。
「あら、私も絹江ちゃんですよ」
「お兄ちゃん、失言」
二人が笑いながら睨みつける。
「申し訳ない」
祐介はペコリと頭を下げた。
「良いですよ。その代わり、今度のパーティーで美味しい料理を、お願いします」
「畏まりました」
日が短くなってきたせいか遅めの昼食が終わり、アキとじゃれたり、話をしたりしているうちに、気が付くと日が傾いており、三人とアキの影を地面に長く伸ばしていた。
「河野さん、道子ちゃん、今日は呼んで頂いて本当に有難うございました」
「こちらこそ来て頂いて、とても嬉しかったです。道子もグッジョブだ」
祐介が道子に親指を立てた。
「でしょ、見直したかな」
「はいはい」
「心が籠ってない」
「ははは。では吉田さん、食事の件は、後日連絡しますね」
「はい。是非」
「楽しみにしています。お気をつけて」
祐介と道子は、暫く絹江を見送っていた。
「俺たちも帰るか。アキも疲れたかな」
「お兄ちゃん、タイプでしょう」
「な、何がだよ」
「絹江ちゃんよ。絶対に好みのタイプだ」
「何を馬鹿な事を言ってるんだ。さあ帰ろ帰ろ。アキ~帰るぞぉ」
「あ、絹江ちゃんが戻って来た」
「えっ」
慌てて振り返った祐介を見て、道子は笑っている。
「お前なぁ、良い歳をして好い加減にしろよ」
「うん。でも絹江ちゃんなら、私も文句言わないよ」
そう言う道子の横顔に夕日が当たり、暗い影を作っている。
「お兄ちゃんは、兄妹一緒ならそれで良いよ」
そう優しく言った。
「夕空晴れて秋風吹く
月影落ちて鈴虫鳴く
思へば遠し故郷の空
ああ、我が父母いかにおはす」
道子が『故郷の空』を、小声で口ずさみ、祐介も二番から歌声を揃える。
「澄行く水に秋萩たれ
玉なす露はススキに満つ
思へば似たり故郷の野邊
ああわが弟妹たれと遊ぶ」
「『秋風吹き』だよ。何時まで経っても治らないね」
「私は、これで良いの」
冬の訪れを予感させるような秋の風が、二人の間を吹き抜ける。
残照の 風雲すぎて秋の空 我が身を落とす 葉先の一露
上の句 祐介
下の句 道子
お読みいただきありがとうございました。