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贈る想い ドッグラン  作者: 一無
4/10

春風

どうか最後までお付き合いください。

よろしくお願いいたします。

 病院から帰ってからの道子は、とても生きているとは言えない状態であった。

 まさに生ける(しかばね)である。

 隔離病棟の見学から戻って来た後の状態は、特に酷かった。

 自殺未遂で担ぎ込まれた病院から帰って来てからの道子は、感情の起伏が激しく、帰って来た次の日は酷く落ち込み、その次の日は異様な程陽気で、一見すると酒にでも酔っているのではないかと思える程であった。

 その陽気な状態の時に、紹介された病院へ行ってみたいと言い出したのだ。

 次の日に休みを取って、病院へ連れて行ったのだが、施設の見学中も陽気な状態のままであった。

 しかし、一通り見て回った後、隔離病棟のフロアに置かれているテーブルでお茶を飲んでいる時に、いきなり「ここは嫌だ。もう帰りたい」と言い出したのであった。

 祐介も施設の異様な雰囲気に、とても妹を預けられないと、急いで道子を家に連れて帰った。

 家に着いて暫くは良かったのだが、何のきっかけか、また急に落ち込み、御飯も食べずに部屋へ篭ってしまった。

 それ以来、暫くは祐介が弁当を買って来ては、部屋に運んでやり、道子は三口程食べては、残してしまう生活が続いた。

 道子は、みるみる()せて行き、一週間で五キロ程も痩せたであろうか。

 元々ぽっちゃりとした体型であったが、自殺未遂をする前も食欲が無かったらしく、自殺未遂前後の三週間で、十キロ以上は痩せたのではないだろうか。

 祐介も出来るだけ仕事の時間を都合して、手作りの御飯も出したりしていたが「ありがとう」と言って、口にするのは三口、四口程である。


 道子にしてみれば、祐介の気遣いを有難く思う余裕も無い程に辛い日々であった。

 来るはずもない、(いと)しい人からのメッセージ。

 (あきら)めようと、何度も携帯の電源を切るが五分もしないうちに、また電源を入れる。

 そんな自分に苛立(いらだ)って、怒りに任せて携帯を壁に投げつける。

 メッセージの通知音にビクリと反応し、まさかと思いつつ、(のぞ)いたメッセージに落胆し、そんな自分が更に(みじ)めになり、絶望と孤独の闇が深まって行く。


 生殺しではないか。

 (むご)すぎる。


 自分の存在価値も見出せず、希望も無く、身を裂くような苦痛だけが絶え間無く襲い来る。

 気晴らしに音楽を聴く気も、テレビを見る気も起こらずに、ひたすら自分の生と死、生きる意味と死ぬ意味を考え、涙を流しながら耐えるしかない。

 兄の話を思い出す。

 《生きている間に、楽しい事や嬉しい事が多ければ生きる価値はある。辛い事や苦しい事が多ければ生きる価値はない》

 自分はどうなのか。道子の思考が沈み込む。

 《でもね。それだけじゃないんだ。辛い事や苦しい事を、悪い事だと決めつけてはだめだ。辛苦にはご褒美がある》

 〈ご褒美などいらない。こんな地獄は、すぐに逃れたい〉

 《辛苦を超えると人は成長する。それも生きる事の理由なんだよ》

 〈もう成長しなくて良い。そんなの意味ないよ〉

 《精神的な成長、魂の成長、それにはきっと大事な意味があるんだ》

 〈私には無意味〉

 《その意味は本人には分からないかもしれない。きっと死ぬ時に分かるんだよ》

 〈それじゃ遅すぎだよ。意味ないよ〉

 《満足して死んで行けるか、消えゆく恐怖に責めさいなまれながら死んで行くか。それはとても大事な事なんだ。いつ死ぬか。どう死ぬかが大事なんじゃない。人として正しく生きたか。怠けずに頑張ったか。どう生きたか》

 〈私はもう満足。これ以上は嫌。早く死にたい〉

 《満足して死んで行けるほど一所懸命、精一杯生きたか、それが大事なんだよ》

 〈次は、いつ死のうか〉

 《そうだね。俺も失敗して何度か逃げ出しかけたから偉そうには言えないね。生きる権利死ぬ権利。誰にも邪魔する事は許されていない》


 道子からのメールは、仕事中にも届く様になった。

 出来るだけ早く返信するように心がけていたが、会議中などの理由で、すぐに返信が出来ないような場合には、道子の状態が心配で気が気ではない。

 希死念慮で自殺行動までやってしまった人間は、いつ次の行動を起こしても、おかしくない。

 職場の同僚からは、そのような祐介の態度が仕事に悪影響を与えているのではないかと、問題視する声も上がり始めた。

 しかし祐介は、それらの声を全て無視して、自分に出来る事を道子にしてやろうと決めていた。その結果、会社を辞める事になっても構わないと。

 たった一人の肉親、大切な妹の苦しみを考えると、仕事の事など二の次、三の次だと祐介は考えていた。

 在宅勤務も考えたが、情報管理の上でも無理があり、会社からも在宅勤務は駄目だと言われ、道子も自分が祐介の負担となる事を嫌悪している様なので、在宅勤務は諦めざるを得なかった。

 道子は祐介が自分のために会社を休む事も、遅刻や早退する事も嫌がり、祐介は仕方がなく、退社時間が来るまで落ち着かない不安な時間を過ごす事になった。

 勿論、仕事に集中している時間も多いが、仕事が(さば)けてしまった後の時間は、ついつい色々な事を考えてしまう。

 〈『死』に取り()かれ、生きる苦しみを自覚する人間、更に精神のバランスを崩し、生きる事が絶望に直結する人間は、何をするか分からない。今、道子は恐らく、死ぬ事への本能的な恐怖だけで生きている。しかし、苦痛が恐怖を上回ったら、躊躇(ためら)う事無く逝ってしまうだろう〉

 過去の辛い思い出でも、そのきっかけになり得る。

 楽しかった思い出でさえも心に爪を立て、激しく(さいな)む。

 淡い希望は(もっ)ての外だ。

 今の現実の前では、希望は何にも増して恐ろしい凶器。

 それは容易に、絶望に変化する。

 〈絶望の中の希望の光、その光が消えた時、希望は絶望に変わり地獄に変わる。道子よ。辛いだろうが、今は希望を持つな。夢を見るな。今は、ただ自分を(いじ)め、苦しみもがくしかないんだ。そして、何も考えなくて済むように、ひたすら眠れ。道子よ、偽りの希望に抱かれるな〉

 祐介にも覚えがある、あの地獄の日々。

 何年たっても(いや)されぬ傷。

 精神安定薬に逃げた日々。

 その薬に(むしば)まれ続けた日々。

 精神崩壊の果ての自殺未遂。

 〈今は辛くても、居心地の良い闇の中で孤独に生きろ〉

 窓の外には、春の訪れを告げる風が吹いていた。


 春風の 桜の先の彼岸花 今は覚えぬ 暮れの枯れ枝

お読みいただきありがとうございました。

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