一期
どうか完結までお付き合いください。
よろしくお願いいたします。
過去を変える事なんて、誰にも出来やしない。
そして過去は今も続いている。
〈兄ちゃん、死ぬって眠る事なんだよ。知ってるのかな。きっと知ってるね。死ぬ恐怖は苦痛の恐怖じゃないのかもしれないね。本当の恐怖は記憶がなくなってしまう事。生を認識できなくなってしまう事。今と未来が繋がらなくなってしまう事。消滅してしまう事こそが本当に怖いんだよ〉
半年前の二月。祐介が職場で急に体調を崩し、午後三時に帰宅すると、道子が寝室で倒れていた。
いや正確には、ベッドの上で身動きもせずに横になっていた。
道子は綺麗に布団に入っており、その表情は血色の良い寝顔に見えた。
そこまでは普通であったが、散らかった部屋に、いつ買ってきたのか七輪が二つ置かれ、練炭が燻っている。
部屋の隙間はガムテープで塞がれており、部屋中に練炭の匂いが充満している。
祐介は慌てて道子に飛びつき、体を揺すった。
必死に声を掛け体を揺すった。
「道子、道子、逝くな。道子、逝くなぁ。戻て来ぉい」
涙が溢れて来る。
祐介の頭には換気をする事など、まったく浮かんで来なかった。
祐介の必死の呼びかけに答えるかのように、道子の瞼がパチリと開く。
〈ありがとう。神様ありがとう〉
祐介は心の中で、そう叫んでいた。
ようやく換気に気づき、溢れる涙を拭いながら寝室のカーテンを開け、窓を全開に開く。
また道子に駆け寄り、両肩に手を当てて軽くゆすり、声を掛けた。
様子がおかしい。
目を開けてはいるが、焦点が合っていない虚ろな表情をして、遠くを見るような視線で祐介を見ている。
酸欠状態で活動が低下していた細胞に、酸素が回り始める。
脳にも十分な酸素が供給され、道子の体に感覚が戻り、急激に不快な感覚が押し寄せているはずであった。
〈薬物〉
祐介の脳裏に電流が走った。
携帯を取り出して電話を掛けようとするが、どこへ掛けて良いのか思いつかない。
気を落ち着かせようと深呼吸をしようとするが、体が思うように言う事を聞かない。
〈救急センター、救急車だ〉
震える手で何度も間違えながら、番号を押して電話を掛ける。
電話はすぐに繋がり、上ずる声で取り留めも無く状況を説明し、妹の状態を告げる。取り乱した祐介を落ち着かせるオペレーターに促されて場所を教える。
薬物を飲んでいるのであれば、辺りに薬の包みが無いか聞かれ、失恋以来、片付けもしなくなり散らかった妹の部屋を、うろうろと歩き回り、ふと枕元に目が行く。
〈あった〉
精神科から処方された抗うつ薬、睡眠導入薬のマイスリー、丸一週間分の空になった包みが散乱していた。
〈マイスリー!〉
枕の影になっていたとは言え、なぜ気が付かなかったのか。
包みに書かれている薬の名前と、飲んだ量を伝えた結果、オペレーターからの指示は隊員が到着するまで、そのままにしておくようにとのこと。
変に吐かせようとして、気管に嘔吐物が詰まる方が危険であるとの判断らしい。
電話でやりとりしている間にも、救急隊員は出動しているから、すぐに到着すると聞いて、少しずつ落ち着きを取り戻して行く。
電話を切り、妹の手を取り声を掛ける。
「道子、辛いだろうけど俺のために。・・・兄ちゃんを恨んで良いからお願いだ。どうか道子。憎んで良いから・・・」
祐介の目に、また涙が溢れてくる。
大阪に居た頃、祐介も死のうと思った事があった。自傷行為も、自殺未遂も経験がある。
それは道子も、当時は健在であった父親も知らない事である。いや、道子だけは、薄々は気付いていたのかも知れない。
だから道子の生き残る辛さも、生きる事の無意味さ、虚しさも良く分かる。
だからこそ、道子には逝って欲しくなかった。道子に逝かれたら、自分が耐えられなくなってしまう。
『河野さん』
インターフォンから声が聞こえる。
「はい。今開けます」
慌ててマンションの入り口と、部屋のロックを外す。
「部屋のロックも、開けておきました」
『すぐに伺います』
目を覚ました道子の目には、暗い天井が写っていた。
頭が、ぼーっとしている。
辺りを見回す。
病院である事は認識出来た。
患者用の衣服に着替えさせられている。
下半身には成人用オムツが穿かされているようであった。
もぞもぞと体を動かす気配に、女性の看護師が気づき、道子に近づいて声を掛ける。
「気がつきましたか。ここが何処か分かりますか」
「病院です」
その後、何か会話をしていたらしい事は、朧げに記憶があるのだが、何を話したかは記憶に残っていない。
次の記憶は、兄がベッドの横に居るところである。
「・・・・・・・・・」
兄が何かを話し掛けている。自分も応答しているが、その内容が思い出せない。
また記憶が飛び、兄が入院用のバッグを手に持っていた記憶が浮かぶ。
ここら辺りから、少しずつ記憶が鮮明になって来る。睡眠導入薬の影響が薄れて来たのであろうか。
酷い耳鳴りがしている。これはきっと、一酸化炭素中毒の影響であろう、と自分なりに考えてみる。
「一般病棟に移って、少し入院しようか」
兄の言う事を納得していたわけでは無い。言われるままに、そうしなければならないのだろうと、素直に受け入れていた。
しかし、徐々に入院という事に抵抗が生まれて、無性に逆らいたくなって来た。
兄が、にこやかにバッグをベッドの脇に置き、着替えや洗顔セットなどの日用品が入っている事を説明している。
道子は突然身を捩るようにして、家に帰りたいと駄々をこねた。
今思うと、まるで子供ではないか。我ながら恥ずかしくなる。
兄は優しく、今日だけでも病院に居るように勧めるが、その提案を道子は頑なに拒否した。
結局、道子の願いが聞き届けられ、その日のうちに、家に帰る事になった。
帰る前に兄が先生に呼ばれて姿が見えなくなり、戻ってきた兄は隔離病棟のある精神病院の紹介状を貰って来ていた。
はっきりとした記憶ではない。断片的な記憶を繋ぎ合わせた、取り留めもない夢のような、あやふやな記憶である。
うちへ帰るまでの道すがら兄と話をするが、その内容は良く覚えていない。
「道子、ごめんな。楽になりたかったんだろうけど、お兄ちゃんは耐えられなかったんだよ。気が付いたら夢中で助けてた」
家に戻って、リビングのソファーに並んで腰掛けている時に、兄が済まなそうに言った。
道子は何と答えて良いか分からずに、ぼーっとしているだけであった。
〈また息をするのも辛い時間が続くのか〉
漠然と、そう思った。
「今日は木曜だし、今週は、ずっと一緒にいるよ。一人の方が良ければ、俺は部屋に篭っているから」
「心配しなくても良いよ。一人で大丈夫だから」
この辺の記憶は何故か、はっきりと覚えている。
「お兄ちゃんは仕事に行って。私のせいで仕事を休ませると、それが負担になって辛いから」
自分でも良い加減だなぁと思う程、明るい声で答えている。
「心配掛けてごめんね。でも失敗しちゃったね」
「失敗しちゃったな」
「まだ続くのかぁ。きついなぁ」
「本当に御免な」
「お兄ちゃんは悪くないよ。私だって、お兄ちゃんが死にかけていたら、絶対助けるもん。自分が死ぬのは良いけど、大事な人が死ぬのは絶対嫌だ。我儘だよね」
「人なんて皆、我儘だよ。俺は、お前より絶対に先に逝くよ。たった一人の妹だからな。道子は俺より長生きして欲しい」
「私だって嫌よ。お兄ちゃんの葬式なんか出せっこない。精神的に耐えられない」
「難しいもんだ。お互い長生きして欲しいけど、自分は早く死にたいなんて」
道子は、ハッとして兄の顔を見つめた。
そう言えば大阪に行っていた時、ちょっと様子がおかしい時期があった。
父は気づかなかったようだが、とても仲が良く、小さい頃から何でも話し合っていたので、道子には兄の変化を敏感に感じ取る事が出来た。
お兄ちゃんを助けたい。そう思って一度、兄の元を訪ねて行った事がある。
実際に会って話をし、食事に連れて行って貰ったりして、兄が精神的に、かなり参っている事を確信し、帰って来て欲しいと執拗く兄に迫り、根負けしたように兄は大阪から実家へ戻って来たのである。
「道子の辛さは、よく分かるつもりだよ。相手の辛さなんて測れるものじゃないけど、他の人には些細な悩みに見えても、本人にすれば死ぬほど辛い事だったりするんだよな。本人以外にすれば他人の悩みなんて、そんなもんなんだ。でも本人からすると・・・。簡単に些細な悩みだとか、小さな事だとか、しっかりしろとか、絶対に言われたくないよね」
「うん。分かって貰えて嬉しい」
「お兄ちゃんだって、お前には助けられているんだから、今回は俺に助けさせてくれないか」
兄は少し考えてから言い直した。
「いや、本人以外に苦しみから助けてくれる人は居ない。俺は、その手助けをしたい。道子が自分の存在を、生きていても良いんだ、と思えるように、自分の存在を許せるようになるための手助けをさせて欲しい。俺が道子にしてもらったように、俺にもさせて欲しい」
道子は、自分の目から涙がとめどなく流れるのを、どうしようもなかった。話す言葉も嗚咽に消されて言葉にならない。
「明日は、お兄ちゃんは仕事に行くよ。でも耐えられなくなったら、いや、耐えられなくなる前に、お兄ちゃんにメールでも電話でも良いから連絡してくれないか。何があろうと、直ぐに戻って来るから」
道子は、ありがとう、と言ったつもりだが、嗚咽に紛れて兄に伝わったのかが、変に気になった。
その次の日、祐介は仕事が手に付かないでいた。
来週の水曜日に予定されている、会議の資料を作る予定でいたのだが色んな事を考えてしまい、集中する事が出来ない。
道子が苦しんでいないか、また変な事をしていないか、祐介は気が気ではない。
自分の経験では事に失敗した後、次の行動に移るまでには多少の時間があった。
恐らく道子も、今は虚脱状態だろう。だから大丈夫のはずだ、と自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着ける。
〈いっその事、早く帰って来いと連絡して来れば良いのに〉
そう思い、変に気が焦る。
結局、夕方まで連絡は無く、終業の時間になった。
終業時間を待っていたかのように携帯の着信音が鳴る。道子からの電話であった。
きっと祐介の終業時間まで、必死に耐えていたのだろう。とめどなく襲ってくる苦痛と戦っていたのだろう。
精神的な苦痛は、寸毫も休む事なく襲い掛かって来る。時計の秒針が一秒を刻む間も、間断無く精神を苛む。
祐介は素早く席を立ちながら応答した。
「お兄ちゃん、ごめん許して。もう無理、楽になりたい」
「丁度帰る準備をしていたんだ。直ぐに戻るから、だから、もう少し辛抱して。泣いても良い、我慢もしなくて良い、ただ、お兄ちゃんの事を待っていてくれないか」
「分かった、もう少し頑張ってみる」
「うん。今から会社を出るから、三十分くらい待っていてね」
大急ぎでファイルを保存し、パソコンを閉じて、机上の資料を手早く片付けて会社を飛び出した。
走って駐車場へ行き車に飛び乗る。
マンションに着いたのは二十分後の事であった。
鍵を開けて部屋へ入ると、妹が床に蹲っている。
タオルを顔に押し当てて、肩を震わせている。
祐介は、そっと背中に左手を当て、右手で肩を抱いた。
道子が祐介に、すがり付くように抱きついて来る。祐介はしっかりと力強く道子を抱きしめた。
暫くそのままにしていると、道子の手から力が抜けて両手を下ろし、祐介に預けていた体を起こして、床に落ちたタオルを拾い上げて顔を拭いた。
「もう大丈夫。ありがとね」
祐介の肩が、涙で冷たくなっている。それが何故か無性に虚しい。
救急センターの医者は、道子を隔離病棟へ入院させる事を勧めたが、紹介された病院へ見学に行って見ると、そこは、映画やドラマの中でしか見た事がないような施設であった。
隔離病棟は建物の二階にあり、ロックの掛かったエレベーターホールからしか、出入りする事は出来ない。
ホールへの出入り口の前にナースセンターがあり、入退出は看護師によって、厳重に管理されていた。
非常階段も用意されているが、階段へのドアを開けても、階下へ降りる階段は閉鎖されていて、患者が逃げ出せないような作りになっている。
更に病棟内には、何台もカメラが設置されており、ナースセンターで常時監視されるようになっていた。
その病棟内には、意味も無く歩き回る患者や、いきなり話しかけて来る患者も居たが、映画に出てくるような、いきなり襲い掛かってきそうな、暴力的な患者は居ないようであった。
医者の説明では、そのような重度の患者は、向かいの特別病棟に隔離されているとの事だ。
ここに入院している人達には申し訳ないが、とても道子を一緒にはさせられない。
道子は、最初は入院しても良いようであったが、祐介には、どうしても受け入れられなかった。
見学を終える頃には道子も、ここには居たくないと言い出して病院を後にした。
後で道子に、本当に入院しても良いと思ったのかと聞いたが、本人は、その時の事を、よく覚えていないようであった。
薬物の後遺症なのか、一酸化炭素中毒の後遺症なのか祐介には分からなかったが、自殺未遂以降の道子の記憶は半月程、曖昧なようである。
あの日、祐介が何時ものように、夜になって帰宅していたら道子は助からなかったであろう。それでも一酸化炭素の影響は強く出ているので、何らかの後遺症が出るかもしれないと、救急センターの担当医が言っていた。
道子自身も、一度だけ酷い耳鳴りがすると言った事があるので、祐介としては酷くならない事を天に祈るだけであった。
祐介は回想を振り払うように、月明かりのベランダへ出た。
道子にとって自殺が失敗した事で、目出度し目出度し、と幕が引かれたわけではない。
過去の過ぎた一事象ではあっても、それで苦しみから解放されたわけではない。
死への憧れ、死への渇望は絶え間無く続き、時には激しく、時には緩やかに、襲い来る絶望的な苦しみの暗闇の底の中に、光り輝く灯台の様に輝いて見える唯一の希望なのである。
〈希死念慮〉
それは道子にとって甘美な誘惑、死への誘い。
それは道子にとって、最大の現実逃避なのであった。
思えば、あの頃が、道子が一番苦しんでいた頃が、祐介の一番充実していた時期かもしれない。
少なくとも、人生で一番必要とされた時期ではなかったか。
〈今の私にとって、あなたは不必要だと、要らない人なのだと捨てられた自分が、その惨めで情けない、存在意義さえ無い、宙に漂う埃のような自分が、ようやく必要とされた時、俺は生きていても良いんだと実感できた。しかし、本当に、そうなのだろうか。今も必要とされているのだろうか。もう、消え去っても良いのだろうか。生物が死ぬと言う事は、自己の存在が、自分の意識が、この世から完全に消滅する事である。真の死への恐怖は、肉体的な苦痛にあるのではない。自分の思考、意識、知覚が、全て完全に消滅してしまう事にある。死後の世界なんて存在するわけもない。誰もが、本能的に悟っている事なのである。だからこそ人間は、あの世と言う幻想世界を作り上げ、消滅の恐怖を和らげようとして来た。だが真実は脳が機能しなくなった時点で、その人の存在は、この宇宙から完全に消えて無くなってしまう。それこそが死ぬ事への最大の恐怖なのだ。しかし、だからこそ不要とされた人間への、その最大の苦痛から逃れるための、最も有効な救済方法でもあるのだ。それが死なのだ」
「まだ死ねない。道子が居るし、皆の迷惑になる。俺は死なないよ」
祐介は、自分の闇に向かって語り掛け、道子と同様の病が巣食っている事を、甘美な思いで実感していた。
残酷に切り刻まれた心の傷。
駆け足で過ぎ去る憂き世の生。
蜘蛛の巣にでも引っ掛かったのか、鳥にでも襲われたのか、夜だというのに不規則に鳴く、一匹の蝉の声が聞こえる。
殻脱ぎて 声出し見れば早々と 一期もはやし 七日と七夜
お読みいただきありがとうございました。