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贈る想い ドッグラン  作者: 一無
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ドッグラン

どうか最後までお付き合いください。

よろしくお願いいたします。

 「初七日も四十九日も、本当に、やらないのかい」

 武丸が、恐る恐る道子に聞いた。

 「うん」

 「祐介君は、それで良いのかな」

 「うん、きっと問題無い、て言う」

 「なら良いんだけど・・・、もうすぐ着くよ」

 道の両側に森が広がり、ドッグランへの標識を幾つか通り過ぎる。


 アキが亡くなったのは、突然の事であった。

 日曜の朝、いつもの様に道子より先に祐介が起きて、テレビでニュース見ていると、遅れて道子が起きて来た。

 「寝坊しちゃった」

 「良いよ。ゆっくりで」

 「駄目よ。私は、ただでさえグウタラな生活をしているんだから、土日くらいは、お兄ちゃんより先に起きて朝食くらい作らなきゃ」

 「じゃ、ベーコンエッグにトースト、熱い紅茶が欲しいな」

 「了解です。その前にアキの朝食も準備しなくちゃ」

 道子は頭を掻きながら、もう一度、自分の部屋に戻て行く。

 いつもならアキの水入れを持って、すぐに出て来るのであるが、なかなか部屋から出て来ない。

 そう言えば、いつも道子について部屋を出て来ていたアキの姿も見えない。

 祐介の胸に悪い予感が広がる。

 「道子」

 「いやぁー」

 祐介の言葉が終わらないうちに、道子の悲鳴に似た声が響いた。

 祐介はソファーから飛び上がり、慌てて道子の部屋に入る。

 ベッドに覆い被さるように、しゃがんでいる道子が居る。

 「どうした。道子、アキがどうかしたのか」

 慌てて、その顔を覗き込む。

 「息してない」

 顔色が蒼白になっている。

 「少し、冷たくなってるよ」

 明け方にでも死んだのだろう。道子と一緒に寝る癖がついているので、体は温もりを保っていたが目を開いたまま、もう動くことはなかった。

 「もう、逝っちゃったみたいだね」

 道子は思ったほど取り乱さなかった。

 「お兄ちゃん、目を閉じさせてあげたいけど、上手くいかないや」

 祐介が無言でアキのバスタオルを取り、顔に当てて(まぶた)を下げるように、上からぎゅっと押さえた。

 小さなアキの体を抱いてリビングへ行き、そっとソファーの上に寝かせると、水入れと餌入れを綺麗に洗い、新しい水と餌を入れて戻って来た。

 目は半分くらいは、閉じることができた。

 「お腹が減ったままじゃ、天国へ行くのも大変だもんね」

 道子が水を少し手に(すく)って、アキの口を軽く湿し、ドッグフードを一粒、そっと口の中へ入れてやる。

 「アキちゃん、うちに来てくれて、ありがとう」

 「アキ、ありがと・・・」

 祐介の言葉は涙に消されて、最後まで言葉にする事が出来なかった。

 祐介の肩が激しく震え、嗚咽(おえつ)を必死に噛み殺している。

 「お兄ちゃん、泣いて良いんだよ。悲しい涙は純粋な涙。だから、いっぱい泣いて良いんだ」

 道子が床に(ひざまず)く祐介の頭を抱いて、自分の胸に押し付けた。

 「道子、御免」

 道子の背に手を回して、きつく抱き寄せ、道子の胸に顔を強く押し付けて、嗚咽が聞こえないように、祐介は歯を食いしばったまま泣いた。

 「アキちゃんが、逝っちゃいました」

 『えっ、部屋を出ちゃったのかい。迷子にでもなったのかな』

 「迷子にはならないわ。アキちゃんは天使のような仔だから、まっすぐに昇って行った」

 『道子ちゃん、良く分からないよ。アキちゃんの具合でも悪いのかい』

 「もう悪いところは一つも無くなって、天に召されて行ったの」

 『な、何だって。良く分からないから、すぐ行くから、すぐ行くから待っててね』

 知らせを受けた武丸は、サンダルも履き違えたまま、ちょうど一階に止まっていたエレベーターのボタンを押して、ドアが開くのも(わずら)わしげに、慌ててエレベーターに飛び乗った。僅か六階までの時間が、やけに長く感じられる。

 「みっちゃん、アキちゃんは」

 武丸は言葉を飲んだ。

 ソファーの上に、アキの布団を綺麗に畳んで敷き、その上に綺麗な服を着せられたアキが、眠るように横たわっている。

 枕元には水入れと餌入れが、揃えて置かれていた。

 武丸は言葉も無く、アキに近付いて行く。

 初めて会った頃に比べると、大きくは成っていたはずなのだが、魂の抜けたアキの体は驚く程、小さく見える。

 口元が僅かに濡れているのは、水を含ませた跡であろうか。

 武丸の胸は、切なく押しつぶされていた。

 今にも鳴き出しそうな口元、ヒクヒクと押し付けて来た鼻先、半分開いた目が、こちらを見ているようである。

 「今朝なのかい」

 「はい。多分。明け方頃に旅立ったんだと思います」

 はっとして、武丸は道子を見る。そして祐介を見た。

 答えたのは道子の方であった。

 (りん)とした声音であった。

 祐介は、項垂(うなだ)れるように、床に座り込んでいる。

 「祐介君・・・」

 掛ける言葉が全く見つからない。道子が項垂れているのなら、掛ける言葉もあったであろう。しかし、祐介に対する慰めが、全く頭に浮かんで来ない。

 「暫く、そっとしてあげてください。兄は色々あって生き死にに敏感なんです」

 武丸は正座をしてアキに向き直り、胸の前で手を合わせ、念仏を唱え始めた。

 暫く唱えた後、武丸は二人の方へ向き直った。

 「御免ね。道子ちゃん達の信仰も聞かずに、勝手に、お経を上げちゃって」

 道子は武丸に向かって正座をして、両手をついて頭を下げた。

 「有り難う御座います。アキも、きっと浮かばれます」

 「武丸さん、アキのために有り難う御座います」

 祐介も、お経を聴くうちに少しは落ち着いたようで、噛みしめるようにして、お礼を述べた。

 日曜であったが連絡を受けた絹江も、黒っぽい服を着て駆け付けてくれた。

 「みっちゃん、祐介さん、この度は、ご愁傷様です。アキちゃんは、お二人の所へ来られて、幸せだった事でしょう。・・・みっちゃん、しっかりね」

 「ご丁寧に有り難う御座います。絹ちゃんにも、お世話になったね。でもアキちゃん、生きる力尽きちゃった」

 絹江の目から涙が一筋こぼれ落ちた。

 「お兄ちゃん・・・」

 「絹江さん、忙しい中、有り難う。天国への旅路を見送ってあげて」

 祐介に促されて絹江がソファーへ近付く。

 絹江は長いこと手を合わせていた。

 「今日は本当に有り難う。皆に見送られて、アキも喜んでいると思います」

 震える声で祐介が、二人に謝辞を伝える。

 「今後の事ですが、ペット葬儀社に連絡して、埋葬したいと思っています」

 「祐介君。良かったら、葬儀の詳細を教えて」

 「武丸さん、絹江さんも、お気持ちは嬉しいのですが、(とむら)いは充分にして頂きました。後は道子と二人で大丈夫ですから」

 「明日、火葬にして、お骨を持って帰って、静かな場所に埋葬するんだ」

 道子が兄に続いて、そう言った。

 「埋葬する前に、ドッグランに連れて行ってあげたいから、出来れば、その時に集まって貰えると嬉しい」

 「すみません。道子がどうしてもって聞かないんですよ」

 「絹ちゃんの休みに合わせるから」

 「でも、それじゃ祐介さんは」

 「兄は良いんです。そういうの苦手だから来ないと思います。来たければ休みを取ってくれるはずだし。ねえ、お兄ちゃん」

 「うん。僕は行かないよ。魂は何処にいても弔える」

 祐介は、そう思っていた。

 〈遺骨を持って行っても、魂は存在しない。ただの感傷だ。感傷は感情の流れに任せれば良い。わざわざ盛り上げて、創り出すものではない〉

 「お兄ちゃんは嫌いだよね。私にしてみれば、嘘つきになりたくないし、区切りも必要だから。アキとも、皆とも、行くって約束したから」

 「うん。道子の気のすむようにすると良いよ」

 アキの火葬は次の日に行われた。

 ペット葬儀社には、道子と祐介の二人で行った。

 焼き上がったアキの遺骨は、驚くほど少なかった。

 〈死とは(みにく)く哀れなもの。だから一所懸命に生きなければならない。生きるとは、そんなもの〉

 道子は、そう思った。


 「到着したよ。もうすぐ駐車場だ」

 武丸が言うまでもなく、目の前にドッグランの入り口が見える。

 「しかし、こんな事になるなんて、悲しすぎるよ」

 武丸の声が(うる)んでいる。

 「道子ちゃんが辛すぎる。祐介君も、なんであんな事を」

 「武丸さん、それ以上はもう・・・」

 絹江が(うつむ)いたまま、武丸をなだめようとする。

 「道子ちゃん、御免ね。でも僕は・・・道子ちゃんの事も、絹江さんの事も大事にしなければならないのに。僕は納得出来ない。とても悔しいんだ」

 「皆、納得出来るわけ無いじゃないですか。私だって・・・。でも」

 「でも、本人の意思だから、これで良いんですよ」

 絹江の後を道子が継いだ。

 車を管理棟の裏に止めて、三人は車を降りる。

 武丸が受付を済ませて、プライベートエリアを借りて来た。

 ゴンが武丸を引っ張るように、前を歩いている。

 10m四方に区切られた柵の扉を開けて、三人とゴンはエリアに入った。

 道子は、お散歩バッグを備え付けの四人掛けテーブルの上に置いて遺骨を取り出し、椅子の上に置いた。

 武丸がゴンの首輪を外すと、放たれた矢のように柵の中を走り回る。

 〈間に合わなかったけど、これで約束は果たしたからね〉

 「アキも走り回りたかったろうな」

 道子が、ぽつりと言った。

 「ゴンちゃん、アキちゃんの分も、しっかり走ってよ」

 足元を駆け抜けたゴンに、そう声を掛ける。

 「兄は私がこうなったのを、自分のせいだと思っているんです」

 絹江も武丸も黙っている。

 「兄は子供の頃、病気で苦しんでいたんです。アキちゃんと同じ」

 「えっ」

 武丸が思わず声を漏らした。

 「十八になっても、しばらくは免許も取らず、完治したと、お医者様がおっしゃるまで、定期的に検査をしていたんです」

 ふっと空を見上げた。

 「小学生から成人するまで、とても辛い時もあったろうと思います。こればっかりは、なかなか私にも話してくれませんでしたが」

 道子は兄が転勤していた時、祐介の心が酷く傷付き病んでいた時期に、祐介から聞いた話を思い出していた。

 〈それは、最初は、じわじわやって来る。気づい時には、体の感覚がおかしくなって、段々意識を刈り取られそうになる。誰にも悟られないように、それを必死で耐えるんだ。伸びをしたり、深呼吸をしたり、体を動かしてみたり、どうにか気を()らそうとするが、油断をすると意識を根こそぎ、闇の彼方へ引きずり込まれそうになるんだ。そして子供心に、こう思うんだよ。死ぬって、こういう感覚なのかなって〉

 「人間の寿命はね、二つあるんだって。それはね。体の寿命と精神の寿命なんだって」

 道子は持参して来たお茶をコップに注いで、一口飲んだ。

 「兄は小学生の頃から、死ぬ事について、ずっと考えていたんです」

 皆の分のコップにも、お茶を注ぎながら話を続ける。

 「医者に言われたんだよ。『君は死ぬかもしれない。死にたくなかったら、毎日しっかりと薬を飲まなくちゃいけない。たとえば高所などの危険な場所、道路でもですが、発作が起こった場合には、命に関わります。お母さん、呉々も薬を飲み忘れさせないように。将来、職業についてもよく話し合って決めてください』、兄は小学校三年生で、死と隣り合わせの人生を意識させられたんです」

 また喉を湿す。

 「もっと不幸な子供たちも一杯いるでしょう、でも、お兄ちゃんだって一杯苦しんだんだ」

 感情が(たか)ぶって来たためか、道子の声が激しくなった。初めて見せる感情的な姿である。

 「苦しんだんだよ。きっといっぱい、いっぱい苦しんだんだ。自分よりも大変な人がいる。だから自分は苦しんじゃダメなんだと」

 「・・・」

 二人りとも言葉なく聞いている。

 道子はを取り、声の調子を落として続けた。

 「思春期の頃も、かなりきつそうでした。その上、私が父親と折り合いが悪くて、兄を悩ませていたし、そのせいで兄は、あんな性格になったんでしょう。で、私の精神にも影響を与えてしまったと、ずっと罪悪感を抱えていたのでしょう」

 「二人とも気にし過ぎじゃないか」

 「そうかも知れない。でもね。それを自覚する事が出来ないんだ。脳味噌も壊れて産まれて、その病気との闘いで精神も擦り減り、薬の副作用で覇気もなく、それが普通の事だと思っていたのが、どうやら自分は普通じゃないらしいと気付かされ。だから自分の存在意義さえ見失って行く。特に、お兄ちゃんは生きる事において『死』そのものを受け入れざるを得なかったから」

 〈他の人が聞けば、笑うだろう。たかが、それだけの事で何故そこまで思い悩むのかと。それを自覚しているからこそ、痛烈に自分が情けない。たかが、これっぽっちの事でナルシストになるなんて、みっともなくて死んでしまいたい〉

 祐介は自分の不甲斐無さを、そうも言っていた。

 「でも、抜け出せないのよね」

 道子が足元に寄って来たゴンの首筋を、優しく撫でながら続けた。

 「だから、お兄ちゃんの事、責めないで」


 アキの火葬が終わった次の日、祐介は会社へ行った。

 「アキちゃんの事、残念だったわね」

 田中が朝礼後に言葉を掛けて来た。

 「裕介さん、お悔やみ申し上げます」

 鈴木も弔辞を述べる。

 「うん、有り難う。仕事も休んでしまって申し訳ない」

 祐介が頭を下げる。

 「良いのよ。ペットロスは堪えるもの。昨日は会議も無かったし、お客様からの問い合わせも無かったわよ。順調に進捗してるから気にしないで」

 「そうですよ。休んでも問題無いです」

 道子が自殺を図ったのが、ほぼ一年前の事である。その後一月(ひとつき)は休みがちな祐介であったが、今年度に入ってからは、会社のカレンダー通りに出勤していた。

 「じゃ、昨日の遅れを取り戻さないとな。そう言えば、鈴木は外回りじゃなかったのか」

 「それが、お客様の都合が変わって・・・、システムの追加要求で資料の作り直し、影響度の再分析ですよ」

 「何だ、そっちは問題ありか」

 「いえいえ、お客様都合なんで納期と価格交渉は、しっかりやらせて頂きます」

 その後、普段通りに午前の作業も問題無く進捗して行く。

 昼休みには仲の良い六人の仲間と一緒に、近くのうどん屋で昼食を済ます。

 午後に入ってからは、祐介の仕事のペースが上がった。

 「河野君、少しは休憩したら」

 明美が小声で話し掛けるが、耳に届いていないようだ。

 「鈴木、来たよ。集中モード」

 「ここまでの集中は、久しぶりですね。もう周りの事が見えていない」

 「この調子で、丸一日もつんだから心配なのよね」

 「僕だったら、とうの昔に脳味噌ショートして、焼き切れちゃいますね」

 「でも、途中で中断されるのを嫌がるから」

 そう言って二人も無駄話をやめて仕事に集中する。

 三時のチャイムがなり、十分の休憩時間となるが祐介は手を止めず、資料を見ながら指で擦れてテカテカに光るキーボードを打ち続けている。

 祐介曰く、その自腹で買ったキーボードは、気持ち良く叩けるからリズムに乗れて、集中力も持続するらしい。

 「休憩にしますか」

 鈴木が伸びをしながら提案した。

 「そうね、コーヒーお願い」

 「えぇ、今日は僕じゃないですよ。あ、そうか裕介さんか。仕方がない、買って来ます」

 「良いよ。俺が当番だから俺が行くよ」

 祐介が、にっこり笑い、そう言った。

 「ふう、ようやく一区切りついたよ」

 祐介は久しぶりに充実感を味わっていた。

 〈どうも俺は体調が悪い時とか、気持ちが参っている時の方が、仕事の調子は良いようだ〉

 「鈴木はブラックだっけか」

 「またまた。砂糖少なめにクリームたっぷりです。知ってるくせに、何で毎回聞くかなぁ」

 「何事も確認が大事、『多分』『だろう』『思います』の推測では、仕事は出来ないんだぞ」

 祐介は小さな丸いトレイを持って、廊下のエレベーター脇に設置されている販売機で、三杯のコーヒーを購入し、給湯室の棚から自社用のお茶入れを下ろして、砂糖とクリームを注文通りに入れる。

 「はい。田中さんはクリームのみ。鈴木は砂糖少なめのクリームたっぷり。俺は砂糖なしクリーム少なめ」

 席について、息で冷ましながら一口すすり、糖分補給のため、キャラメルを口に放り込む。

 「脳味噌の糖分消費が激しいな」

 「僕は、こっちで」

 鈴木はチョコレートを食べている。

 くつろいでいる途中で、祐介の携帯が鳴り出した。

 「おっと、誰からだろう・・・知らない番号だ。お客様じゃなさそう」

 表示されている携帯番号に、全く覚えがない。

 「はい、もしもし河野です」

 『中山です』

 女性の声である。声質からすると、若くはないようだ。

 「はぁ。あのどちらの・・・、ああ、四階の中山さんですか、失礼しました」

 『そんな事どうでも、それより大変ですよ。妹さんが亡くなられました』

 「はあ」

 祐介の声が、事務所に響いた。

 皆が祐介を振り向く。

 「あ、すみません。どう言う事ですか」

 〈そんなはずは無い。道子の状態は落ち着いていた。事故か、事故なのか〉

 立ち上がっている祐介の血液が音を立てて、足元に下がって行く。

 『自殺ですって。照明のコードを使って。武丸さんが見た時には、そのコードが外れて、妹さんが床に倒れて、それで救急車が来て、もう駄目だって。運ばれる時も何の処置もされて無かったって。発見が遅かったらしいのよ。それで連絡網の河野さんの番号に』

 「・・・」

 『ねえ聴いてますか。すぐに帰って来て。私も直接見た訳では無いから、詳しい事は武丸さんしか知らないの。兎に角、すぐに帰って来てくださいね』

 「はい、分かりました」

 祐介の目から、先ほどまでの精気が消え、顔は青ざめ、体が震えている。

 「裕介さん、どうしたんですか」

 鈴木が立ち上がって、祐介に近寄り腕を取った。

 その鈴木が、はっとする程、祐介の腕が震えていた。

 「先輩、何か大事でも」

 今度は低い声で、ゆっくり語り掛けるように問うてみた。

 「終わった。全てが。終わった」

 「河野君、しっかりなさい。ちゃんと話して」

 明美も立ち上がって、祐介の右手を握って強く揺さぶった。

 「妹が、妹の道子が死にました」

 「な、ん・・・」

 明美も鈴木も、二の句が継げなかった。

 明美も何回か激しく呼吸をして、自分を落ち着かせている。

 「兎に角、今は落ち着いて」

 少し震える上ずった声で、そう絞り出した。

 「皆、落ち着きましょう。それは確報なんですか。間違えじゃないのか確認が先ですよ」

 「そうそう。まず、どこからの電話、どこの病院」

 明美が切口上で、問い詰めるように質問する。

 「マンションの住人で、中山さんでした。救急車で運ばれたから、すぐに戻って来いって」

 「で、どこに運ばれたんですか」

 鈴木が咳き込んで聞く。

 「分からない。言ってなかった」

 「鈴木君、あなたが運転して、すぐにマンションへ行って。社長には私が報告しておくから。それと詳細はマメに連絡ね。あなたが、しっかり脇で聞いておくのよ」

 「分かってます。じゃ先輩、車の鍵を下さい。急いで行きましょう。さあ、早く」

 鈴木が怒ったように、祐介の手を引いて事務所を後にする。


 その日、道子はソファーでテレビを見ながら、ボーっとしていた。我ながら今回は良く耐えていると思う。

 気を抜けば涙が襲って来るが、どうにか乗り越えられそうだ。

 「昼ドラは、つまんない」

 昼食を終えてドラマを見ていたが、面白くないのでテレビを消した。

 読書でもしようと照明のスイッチを入れるが、どういう訳か灯りが点かない。

 「あれれ。点かないよぉ。変だねアキ・・・いけね」

 いつもアキが側にいたので、今でも錯覚してしまう。

 リビングに下がっている照明の、五つのLEDライトが全て点灯しない。

 「故障かな」

 立ち上がって背伸びをして見てみるが、それで原因が分かるはずもなく、仕方無く、武丸に相談する事にした。

 「武ちゃん。うちの照明が全く点かないんだ。・・・違うの。リビングの五灯の奴だけみたい。どこかの配線でも切れたのかな。照明の故障かな。・・・分かった。来てくれるまで待ってま~す」

 道子は、お茶を準備して武丸を待つ事にする。

 じっとしていると、どうしても棚の上に乗せている、アキのお骨に目が行ってしまう。

 よっこらせ、と立ち上がり、ダイニングの椅子を持って来て、その上に立ってライトが緩んでいないか触ってみる。

 回転式の椅子なので、バランスを崩し危うく椅子からドスンと飛び降りる。

 「よし。今度は気をつけてっと、おかしいな。ライトはちゃんと(はま)ってる。本体を外してみるか」

 照明を斜めにして、根元のコードを外し、天井に吊り下げている鎖を外す。

 間の悪い事に、その時に武丸が部屋の外にやって来た。

 「ごめん、今、手が離せないの。ロックは解除してあるから入って来て」

 大声で怒鳴る。

 『了解』

 ドアの開く音が聞こえて、武丸が入って来た。

 「道子ちゃん何やってるの。僕がやるから良いよ。危ないから椅子から降りて。全く、こっちから見ると、まるで首でも吊っているようだよ」

 武丸は、そう言ってしまった後、はっとして口をつぐんだ。

 「これ、外そうと思って。もう少しだから・・・」

 そう言って武丸を振り返った瞬間、椅子がクルリと回転式し、道子はバランスを崩し、足を滑らせてしまった。

 武丸が、あっと声に出す間も無く、道子は照明と一緒に、頭から転落してしまった。

 「大丈夫か」

 駆け寄って声を掛けるが返事が無く、ぐったりと薄目を開けている。手首には握っていた鎖の金具が引っ掛かったのか、五センチほどの浅い傷が付いていた。

 「道子ちゃん、道子ちゃん」

 何度か名前を呼びながら、軽く頬を叩くが、ピクリともしない。

 「救急車を呼ぶから、しっかりして」

 武丸は何度か番号を押し間違えながら、救急センターへ連絡した。

 丁度、その時に玄関で人の声が聞こえた。

 「河野さん、どうかしましたか。さっき凄い音がしたけど・・・」

 いつからいたのか階下の(たちばな)夫人が、ドアから顔を覗かせている。

 「・・・手首に傷が・・・はい、浅い傷です。鎖に引っ掛かって、ええ、そうです。落ちる時に・・・はい、転落して頭も強く打って、ピクリとも動かないんです。・・・はい、一人でやってたみたいで、自分が部屋に来た時は、間に合わなくて・・・、ええ、そうです。僕が、もう少し早ければ、こんな事には・・・、ええ、そうですね。はい、待ってますので、急いでください。全く動かないんです。よろしくお願いします」

 「あのぉ、どうかしたんですか」

 武丸が、はっとして振り返る。

 「何でもありませんから。ちょっとした事故です」

 「でも、河野さん動いてらっしゃらないし」

 「兎に角、私が救急車を呼びましたから、橘さんは、お引き取りください」

 普段は温厚な武丸も、気が立っているために、つい乱暴な口調になってしまった。

 「大変そうなら、お手伝いしますよ」

 「有り難う御座います。でも、すぐに救急車が来ますから、我々に出来る事は、もう何もありませんよ」

 そう言って立ち上がり、橘夫人を玄関の外まで、押し戻すようにして追い出し、ドアを後手に閉めた。正面にリビングの天井から垂れ下がる、鎖と電気コードが見える。


 祐介たちがマンションに着いたのは、道子が救急車で運ばれてから、一時間後の事である。

 祐介の車を運転して来た鈴木は、車を外来の駐車場に停めた。

 「河野さん、着きましたよ」

 そう言って先に運転席から降りた。

 助手席に座っていた祐介も、のろのろと降りて鈴木の側に歩いて来る。

 「気を、しっかり持って」

 〈俺には無理だ〉

 「中山さんの部屋はどこですか。まず話を聞きましょう」

 〈道子の死に顔なんて、俺は見られない〉

 その後の祐介の行動は素早かった。

 祐介は車のカギを奪い取り、運転席のドアを開けて素早く乗り込むと、車を急発進させて、駐車場を出て行ったしまった。

 「先輩、待って」

 鈴木は走って後を追おうとしたが、諦めて祐介の携帯へ電話を掛けた。

 長いこと呼び出し音を聞いていたが諦めて、会社に居る明美に電話をする。

 「僕です。裕介さんに逃げられました」

 『何やってるの』

 「すみません。いきなりで」

 『河野君に連絡は』

 「したけど通じません。僕は取り敢えず、中山さんのお宅を探して訊ねてみます」

 『うん、よろしくね。私は河野君に連絡を取ってみるから、何か分かったら連絡してね』

 「了解です」

 鈴木はマンションの玄関へ入り、管理人を呼び出してみる。

 暫く待っていたが返事が無いので、少し考えて郵便受けに向かった。

 「山中、山中・・・、有った」

 インターフォンに、郵便受けで見つけた部屋番号を入力し、応答を待つ。さほど待たされる事もなく、女性の声で応答が帰ってきた。

 『はい、山中です』

 「私は河野の同僚の鈴木と申します。先程、連絡を頂いた件で参りました」

 『ああ、はい』

 「詳しい状況を教えて頂けますか」

 『良いですけど、河野さんは』

 「どうしても、手が離せない仕事がありまして、代わりに私が来ました」

 『私も詳しくは知らないんですよ。橘さんから、河野さんの連絡先を知らないか、と聞かれて、その時に、ちょっと話を聞いただけで詳しい話は橘さんじゃないと』

 「そうですか。お手数ですが橘さんに会わせて頂けませんか。よろしければ、ご一緒して頂ければ助かります」

 中山は少し考えている様子であったが、分かりました、と言って入り口のロックを解除した。

 鈴木はエレベーターに乗って、山中の部屋の前に行き、出て来た夫人に名刺を渡して、改めて自己紹介をする。その後、一階上の橘の部屋まで案内してもらった。

 「橘さん。山中です」

 『はい。何でしょう』

 「河野さんの件で、話を聞かせ欲しいと人が来ているんですよ」

 『ドア、開けました。どうぞ、お入りください』

 玄関に入った二人を見て、橘は驚いたようであった。

 「あら、河野さんじゃないんですね」

 「はい。同僚の鈴木と申します」

 鈴木は名刺を手渡し、社員証も見せた。

 「河野さんの代理で来ました。状況を聞かせて頂けますか」

 「分かりました。どうぞ、お上りください」

 リビングに案内されて、ソファーに腰を下ろす。

 「三時頃だったかしら。ドンと重いものが落ちるような音が、上から聞こえたので、気になって慌てて階段で六階へ行ってみたんです。そしたら武丸さんが居て、救急センターに電話されている最中で」

 恐らく道子が椅子から飛び降りた時の音だろう。

 橘は内容を、もう一度思い出そうとするように眉間に皺を寄せる。

 「鎖に引っ掛かっていた首に、浅い傷があって、外れて落ちた弾みで頭を強打して、ピクリとも動かなかった。とか、もっと早く発見していれば助かったかも知れないとか、武丸さんが電話で救急センターの方に、おっしゃっていらっしゃいました。私が駆けつけた時には、手遅れで床にぐったりしていた、とも話されていて、私が近寄ろうとすると、ご遺体を守るような感じで、もう何も出来ることは無いと追い返されました」

 橘は、その時の光景を思い出したのか、口に手を当てて、目を(つむ)って手を合わせた。

 「まだまだ、お若いのに、以前にも同じような事がありましたでしょう。だから山中さんに、お願いして、お兄さんに連絡してもらったんです」

 鈴木は頭が重くなるのを感じた。河野が可哀想でならない。

 「有り難う御座います。それで搬送先は、ご存知ないでしょうか」

 「そこまでは、ちょっと。恐らく武丸さんが付き添われていると思いますから、連絡してみましょうか」

 「すみませんが、よろしくお願いします」

 橘は携帯を取り出して、武丸に連絡をしてみる。

 「もしもし橘です。いいえ、こちらこそ、先程は動転してしまって。・・・こちらこそ、すみませんでした。それでですね、河野さんの同僚の方が、お見えになって・・・、それは山中さんにお願いして連絡して頂いたんですよ。早く知らせた方が良いと思いまして。いえいえ、こんな時ですから、ご近所ですしねぇ・・・ええ、大変な事ですし・・・」

 鈴木はイライラとしながら、話が進むのを待っていた。

 「ええ、そうなんですか。それは、まあ私ったら早合点で、もうすっかり慌てちゃって・・・、はい、はい、そう伝ます。で、病院の方は・・・東部総合病院ですね。分かりました。では失礼いたします」

 「何かあったんですか」

 「すみません。私ったら勘違いしちゃって、妹さん、さっき気が付かれたそうです」

 橘は、にこやかに、そう言った。

 「亡くなられたんじゃなかったの」

 山中も嬉しそうに、そう聞き返した。

 「何でも、椅子に乗って照明の様子を見ている時に転倒して、脳震盪(のうしんとう)を起こしたそうなんです。今日は東部総合病院に、様子見で入院だそうです。恐らく大事は無いだろうって」

 鈴木は心底ホッとした。と同時に人は良さそうな目の前の婦人に、激しい腹立ちを覚えた。

 〈クソ。あんたの良い加減さで、どれだけ迷惑を掛けたと思っているんだ〉

 ぐっと(こら)えて怒りを頭から振り払う。

 「有り難うございます。早速、河野さんにも、会社の方にも報告しておきます。今頃は大騒ぎになっていると思いますので」

 鈴木は早く吉報を知らせたくて、挨拶もそこそこにマンションを後にした。


 「・・・そう言う事なんですよ。慌て者にも程がありますよね。ろくな確認もせずに、有る事、無い事言い回って、本当に腹が立ちますよ。そう言う事ですので僕も会社に戻ります。病院には会社が終わってから、田中さんと一緒に行きましょう。何にしても早く河野さんに連絡しなくちゃ。心配でしょうから」

 マンション側のバス停で、田中に電話をしていた鈴木は、タイミング良く来たバスに、苦い顔で乗り込んだ。


 祐介が発見されたのは、それから三日後の事であった。

 祐介が好きな場所であり、キャンプにも良く行っていた県内の山中で、渓谷沿いの道を何度も行き来する車を地元住民が不審に思った。

 発見者も野良作業があるので、裕介の事は気にせずに作業を続け、昼食に家に戻ることにした。

 〈さっきの車か〉

 渓谷側の広くなっている路肩に、先ほどの不審な車が停まっていた。

 さては釣り人かと、車を寄せて止める。

 〈こんバカ(もん)が、この辺ば荒らすごたるなら、ただじゃおかんばい〉

 身構えて車を降りて、車内を覗き込む。

 人の気配はない。

 シートの上に手紙が置かれている。

 「こらいかん」

 遺書と書かれた文字を見て、思わず口に出る。

 初老の男は路肩から橋に続く道を走って渡り、対岸の森の中へ入って行く。

 未舗装の林道は狭く、軽トラでしか入れそうにない。

 男は慌てて自分の軽トラに戻って、林道に突っ込んだ。

 しばらくは一本道だ。

 渓谷に沿って登ったり、降りたりしながら、辺りを見回る。

 「クソが。どこ行った」

 十分も走っただろうか。林道脇の土手が踏み荒らされている箇所を見つけた。

 そこからは獣道になって森に続いており、男も車を降りて獣道に分け入る。

 「おーい。おーい」

 大声で呼びかけながら獣道を進む。

 山に慣れた男の足は早い。足跡を辿(たど)ってどんどん進んで行く。

 「あんた、こっちに来なっせ」

 不審な男は手にロープを持っていた。

 持ち物はそれだけのようだ。

 「こら。待たんかぁ」

 大声で怒鳴りつける。

 走り出した不審者の足も意外に早い。

 「警察に連絡したけん、逃げても無駄ばい。山狩りですぐ捕まえるけんな」

 祐介の速度が落ちて来た。

 息が上がって来たらしい。

 「逃がさんけんな。こんバカタレが」

 男は(したた)かに祐介の頭を殴りつけ、ロープを奪い取って体を縛り付けた。

 やつれ果てた祐介は荒い息を吐いていて、大した抵抗も出来ないようだ。

 「何があったか知らんばってん。あたの思うごつは、させんばい」

 男は祐介を(にら)みつける。

 「ぎゃん所で死なれたら、よか迷惑たい」

 「すみません」

 ボソリと謝る。

 「家族は友人はおらんとか。どぎゃん人間でん、何人かは悲しむ人間のおろが」

 もう一発、頭を殴りつけた。

 「すみません」

 祐介の背中を小突くように押して、元来た道へ歩き出す。

 「しよんなか、取り敢えず警察に渡すけん、身内に引き取ってもらいなっせ。そして、ようと話し合わにゃんたい」

 今度は優しい声で(さと)す。

 「すみません」

 「もうよか」

 その後は二人とも無言で獣道を降りる。

 「車にゃ乗らるっかい」

 助手席のドアを開けて、祐介を押し込もうとした刹那(せつな)

 「・・・こんガキャ」

 思い切り後ろに体重をかけて、初老の男を押し倒すと、素早く立ち上がって林道を飛び出した。

 「バカが」

 枝の折れる音と、人が渓谷に落ちた音が聞こえた。

 慌てて走り寄って渓谷を覗き込む。

 「警察、警察・・・いや、消防かい」

 慌てふためきながら、携帯を取り出すが圏外だ。


 祐介が確保され病院に運ばれたと、道子に連絡が来たのは、その日の夕方であった。

 道子は武丸にも、勿論、絹江にも黙って病院へ向かった。

 遺書もあり目撃者もいるので、警察が動くような事件にはなっていない。


 プライベートエリアを予約した一時間が、何となく過ぎて行き、三人は事務所へ戻り、挨拶をして管理棟を後にした。

 道子は管理棟裏の遊歩道へ進み、道を登って行く。

 二人も、それに続いて歩く。

 絹江は下を向いて歩き、武丸はゴンを抱いて歩いている。誰も口を開かない。

 暫く歩くと、南側の展望所に東屋があり、道子は、そこで足を止めて、北側の林の中に入って行った。

 暫く進んだところに紅葉の木があり、その根本にしゃがんで枯れ枝を拾い、それを使って穴を掘り始めた。

 「本当に、やるのかい」

 武丸が、そう声を掛ける。

 「みっちゃん。やめようよ」

 絹江も浮かない顔で、道子の肩に手を置き制止しようとする。

 「これは私達の問題だから」

 肩に置かれた手を気にせずに、折れた枝を捨てて、素手で土を掘って行く。

 「でも道徳的にも、どうなのかしら」

 絹江がぼそりと(つぶや)く。

 道子は聞こえていたのだろうが、それを無視した。

 三十センチ程の深さになった時に手を止め、脇に置いてあった骨壷を取り上げ、蓋を外して中身を、その穴の中へ全て返してしまった。

 「これで、さようならだね」

 そう呟いて周りに盛り上がった土を、一気に崩して穴を埋めてしまった。

 「アキちゃん、さようなら」

 (きびす)を返して、振り返らずに遊歩道へ戻って行った。

 俯いた顔から幾つもの涙が頬を伝い、顎先から落ちる。

 車に乗った帰り道、実家に寄ってもらうように武丸にお願いして、薄手のコートの襟を立てて、顔を隠すようにしてから目を瞑った。

 武丸は渡された住所をナビに入力して、黙って運転している。

 武丸も絹江も、道子の行動が、どうしても理解できず納得出来ないでいた。

 道子の実家には二十分程で着き、三人はゴンを車に残して家に入って行く。

 道子は二人をリビングに案内して、ソファーに座るように勧めた。

 家の中は綺麗に整理されているが、目の前のテーブルには、空になったアキの骨壷が置かれていた。

 道子は握りしめていた黒い手帳を、その遺骨の前に置いて、そのまま台所へ向かった。

 この黒い手帳は遺書と一緒に助手席に置かれていた。

 「これは、もう不要ね」

 少しして戻って来た道子が、小さな骨壷を床に置いて、四つの湯呑みをテーブルに置いた。一つは祐介のためだろう。

 そして、二人の向かいのソファーに座る。

 「あんまり良いお茶じゃないけど」

 二人が、お茶に口をつけたのを見てから、自分も湯呑みを口に運ぶ。

 「色々有り難う御座いました。本当に、お世話になってばかりで、何のお返しも出来なくて、御免なさい。兄妹共々、御礼を申し上げます」

 「そんな事は良いよ。水臭いじゃないか」

 「そうよ。私なんか、もっと何か出来たのじゃないかって・・・」

 そこまで言って、絹江は顔を抑えて泣き出してしまった。

 「祐介君の様子はどうなの」

 「まだ予断を許さないそうです」

 「せめて頭の傷だけでも何とかなれば」

 「脳が()れているそうなの。腰も腕も足も・・・兄は全身ボロボロで、早く召された方が楽になれるのに」

 「良い加減にしなさいよ。もううんざり」

 絹江が低い小さな声で言った。

 「絹江さん、ごめんなさい。でも、兄が意識を取り戻しても、あなたは店長を選ぶでしょう」

 「えっ」

 道子の問いに驚いたのは武丸であった。

 「絹江さん・・・」

 しかし、それ以上は何も言わない。

 「兄は生きていたとしても障害者です。腰も壊れたので子供も作れないでしょう。介護も必要でしょう。私たち兄妹は、あなたに感謝こそすれ、文句を言うことなんて決してありません」

 しっかりと絹江を見つめている。

 「本当に、ありがとうございました」

 「そんな、お礼を言われても・・・」

 「兄に、もしもの事があったら、私は兄の意思を尊重します。兄の遺言通りに兄の生きた痕跡(こんせき)を出来る限り消し去ります」

 「・・・理解出来ない」

 絹江が顔を伏せたままポツリと言った。

 〈私達は間違っている。そうだよね。理解されないよね。でも私は。私だけは、お兄ちゃんの味方だよ。もう見捨てたりしない〉

 〈無理しなくて良いよ。道子は自分の人生を歩いて行けば良い〉

 〈ううん。道子は、ちゃんと出来るよ。お兄ちゃんは生きた足跡を消して欲しいんだよね〉

 〈うん、そうだよ道子。お兄ちゃんは痕跡を残したくない〉

 〈跡が残れば人と繋がるから、人と関わってしまうから。だから辛いんだよね。皆の記憶に残る思い出さえも〉

 〈全てを消して欲しい〉

 〈全ては出来ないけれど、私の出来る範囲で、無かった事にするわ〉

 〈全てを生まれる前に〉


 暫く沈黙が続き、絹江が顔を上げたのを見て武丸が口を開いた。

 「もうマンションには戻って来ないの」

 「私達が変なのは分かっています。見苦しいことも、恥ずかしい事も自覚しています」

 道子がポツリと言った言葉に、二人が、びくっと反応した。

 「でも私達は良い人間であろうと、良い人生を送ろうと、努力はしていました。二人とも何度も挫折(ざせつ)したけどね」

 道子は意味ありげな表情をして、武丸の問い掛けには答えようとしない。

 「きっと、戻って来てくれるよね」

 武丸が、もう一度、声を強くして問う。

 「二人とも、特に私は精神が不安定で、思考も変になって、不愉快な事も言いました。常識外れな言動も自覚があります」

 武丸が首を傾げる。

 「兄が守ってくれなければ、人と交わって生きる事は、まだ私には出来ません」

 二人は、やっと理解した。

 「ここなら人に知られず、過ごすことができそう」

 ホッとしたように、湯呑みに口をつけた。

 「マンションは誰かに貸しても良いし、処分しても良い。道子ちゃんの良いようにすれば良いよ。でも、友達だからね。遊びに来るし、たまには遊びにおいでよ」

 絹江は俯いたまま、ずっと黙っている。

 「あまりゴンちゃんを、一人にしていると可哀想だよ。一人は辛いから・・・」

 道子が玄関を見て促す。

 「そうだね。今日は帰るよ。また連絡するから。暫くは、ゆっくり休むんだよ」

 「有り難う。さようなら」

 絹江は玄関を出た後に、ゆっくりと頭を下げ、河野邸を後にした。

 「さようなら」


 道子は実家に残っていた家族の写真や、二人の学生時代の賞状やアルバムもゴミに出した。

 思い出になりそうなものは全て処分した。自分の物も合わせて。

 ただ兄が残した黒い手帳、これだけは、どうしても処分する事が出来なかった。

 〈お兄ちゃん、これで良いよね。道子、ちゃんと出来たよ〉

 〈ありがとう。良く出来たね〉

 道子の心に温かな安らぎが訪れる。ふと視線を庭に移すと、塀の向こうの隣家の庭木が目に付いた。

 道子は昨日、アキを埋めた時に見た情景を思い出していた。

 そして暫く思案してから口を開いた。

 「日の光 風まだ()やし 里山の (こずえ)の先の 淡き梅の香」

 〈どうだろう。お兄ちゃん、良い歌かな〉


 三日後。ずっと看病していた道子は家に帰って来ていた。

 その夜、道子は締め切ったリビングのソファーに深く腰を下ろし、黒い手帳を手に取ってパラパラと開いて行く。

 そこには上手くもない祐介の字で、日々の出来事や思いが綴られていた。

 〈お兄ちゃん。残さなくても私には分かっていたよ〉

 その所々に短歌が書かれている。

 道子は乱れた字で最後に書かれた歌を、声を出して詠んでみた。

 「まるで、散り際の死に行く花だね」

 〈やっぱり死は、醜くて哀れ。生きる事も・・・〉

 「もう一人にしないから。もう寂しくないよ」

 〈生きる事から逃げてはいけないんだよ。私もお兄ちゃんも〉

 「だから次こそ二人で頑張ろう。世界で一番大切な愛するあなたがいる限り。きっと強く」

 そう呟いて体を起こし、テーブルに置かれたペンを取り上げて兄の最後の歌の横に、さらさらと流れるような字で自分の歌を書き添えて、二人だけの物語に終止符を打った。

 「この手帳も処分しなくちゃね」

 ペンを置いた道子の心に、どこか悲しげだが温かく懐かしい声が聞こえて来るようだ。まるで道子を優しく諭すように。

 「迷惑かけちゃうよね」

 遠くで(うぐいす)が鳴き交わす、梅の花が見頃の季節であった。


 いきすぎて いくもかえるも ままならず ひとときいきて ひといきをつく

 祐介


 ゆらゆらと はなの()高し はなやかに いかぬはなしか はなから哀れ

 道子


さようなら

最後までお付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。

この物語は、これにて完結いたしました。

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