一会
この作品は過去に書き溜めておいた物です。
悲劇であり暗い内容です。
どうかご一読を、よろしくお願いいたします。
夕立の雨脚は強く、繁華街の熱いアスファルトを激しく叩き、項垂れた街路樹の葉をバタバタと打ち据えている。
幹線道路には車が溢れ、地方都市の小さな街にも活気を感じさせてくれる。
祐介も他の行き交う人々と同じように、夕立を避けるためにアーケードへ走って向かう。
この地方都市の中心部にあるアーケードの幅は広く、大通りを挟んで東西に長く伸びている。
アーケードを行きかう人々の何割かは、夕立を避けるためにアーケードへ避難して来た、ぐっしょりと衣服を濡らした人々であった。
祐介は客先での会議の帰りであり、そのまま直帰しても良かったのであるが、帰りに行きつけの小料理屋で軽く飲んで帰ろうと思っていたので、街の中心部にある事務所に戻る事にしたのである。
会議はネットミーティングでも良かったのだが、客先を直に訪れた方が意識を合わせやすいので、会議を円滑に進められる場合が多く、特に重要な客先へは出来る限り顔を出すようにしていた。
今回の会議は、祐介の会社で開発して納品した、人事経理システムのメンテナンス契約に関してであった。
議案は何事も無く進み、祐介は気分良く、一日の仕事を終える事が出来た。
〈早く終わったし、降り止むまで時間を潰すか〉
このまま事務所まで帰るには、どうしても雨に濡れなければならない。
急ぐ用事もないので雨が止むまでアーケードを、ぶらつく事にした。
夕方の街は、週半ばと雖も活気に溢れ、夕立の湿気とともに、むっと熱気が顔を襲う。
この雨が止む頃には、夏の日差しが残す熱気も少しは和らいでいる事だろう。
祐介は大通り側のアーケードの入り口から、西に向かって歩いて行く。
アーケードの両側には、お洒落な店が並び、好景気に煽られるように買い物袋を下げた客で賑わっていた。
アーケードも半ばまで来ると、雨を逃げて来た人々も落ち着きを散り戻し、落ち着いた足取りで通りを行き交っている。その中を、人混みに紛れながら祐介もぶらぶらと歩く。
行き交う人々の顔を見るとも無く眺め、視線を居並ぶ店舗に移しながら歩く。そんな祐介の視線が、ペットショップのウィンドウに止まった。
何とは無しに、その店に近寄って行くと、通りに面したウィンドウに仔犬の姿が見える。
〈ペットショップか〉
随分前からある店なのだが、これまで祐介の興味を引く事は無かった。
少し離れた場所から足を止めて、ゆっくりと眺めてみる。
棚状に並んでいるケージの中にいるのは、トイプードル、チワワ、ミニチュアダックスフンドと言った人気の犬種達であった。
祐介の足が動き、自動ドアへ向かう。
店内に入って左に横ご五列、縦三段の棚があり、そこにも小さな仔犬達の姿があった。
祐介は入り口から奥へ向かって、仔犬をゆっくり眺めながら進んで行く。
毛布を噛んで遊んでいる仔犬や、気持ち良さそうに眠っている仔犬、近づく人に尻尾を振って、愛敬を振りまいている仔犬など様々である。
棚はショップの奥まで続き、祐介は幾人かの客を避けながら奥まで進んで行く。その祐介の視線が、一つのケージに惹きつけられた。
〈イタリアン・グレーハウンド〉
祐介の足が止まった。
〈珍しいな〉
小さな仔犬が、ちょこんと座り祐介の方を見ている。
やや濃い色のグレーで、シールと呼ばれる色である。
イタリアン・グレーハウンドらしく足が長く、細長い尻尾を左足の横から、体側につけるように前に回している。その尻尾の先から一センチくらいが白く、胸から腹にかけても白くなっているのでソリッドのシールではない。
祐介の視線に応えるように、仔犬が首を横に傾げた。
〈こんなポーズの置物を、どこかで見た気がするな〉
祐介は何かで見た覚えのある、陶器で出来た古そうな犬の置物を思い出しながら、思わず手を伸ばし、棚のアクリルを指先で突いた。
コツコツ。
仔犬の首がより深く横に傾き、尻尾がパタパタと床を叩く。
丁度、水換えの時間だったらしく、若い女性の店員がビニール手袋をはめて現れた。
「この仔から替えますね」
祐介の隣に立ち、そう言うとケージの鍵を外し、扉を開けて水入れを取り出し、古い水をバケツへ返して、ボトルに入った綺麗な水で容器を濯ぎ、新しい水を入れて元へ戻す。
「可愛いでしょう」
吉田と書かれた名札をつけている店員が、にこやかに話し掛けて来た。
目元が優しく、綺麗な目をした店員である。
背格好が妹に似ているが、妹よりも美人で、すらりと均整のとれた容姿である。
「ええ、可愛いですよね」
ほころんだ祐介の表情を見て、彼女は仔犬を抱き上げ、祐介の方を向いて言った。
「抱いて見ますか」
祐介は少し戸惑ったが、抱き上げられた仔犬に手を伸ばして抱き取った。
仔犬はプルプルと震えながら祐介を見上げ、胸をよじ登るようにして、祐介の顎の先を舐める。
「小さいですね」
「そうなんですよ。兄弟は標準なんですが、この仔だけが小さくて」
イタグレは小型犬である。しかし、それにしても、この仔犬は小さ過ぎる。
「他の兄弟達はブリーダーさんの方で、すぐに引き取り先が決まったんですが、この仔は体も小さく弱かったので、暫くブリーダーさんが面倒を見ていて、引き取り先が見つからなかったんです」
「うちでもちょっと・・・」
祐介は肩の上に登ろうとしている仔犬を、優しく抱き上げて店員へ返した。
「そうですか。お客様を見ていたら、大事にして頂けそうだと思ったのですが、残念です」
「昔は、うちでも飼っていたんですが、死なれた時のショックが強くて、それ以来、飼っていないんです。仕事で夜遅くになる事も多いですし、俺が飼って不幸になるくらいなら、もっと良い飼い主に巡り合ってくれたら良いですね」
「何を飼われていらっしゃったんですか」
「最初にトイプードルで、その後に妹がイタグレを」
「そうなんですか。トイプードルも、利口な良い犬ですよね」
彼女は、にこやかに話しながら仔犬をケージに戻した。
「元イタグレオーナーなら、尚更残念です。今度は是非、妹さんも、お連れになってください」
「妹に聞いてみますよ。おっと、今は仕事中なんで」
祐介は、腕時計で時間を確認して店員に会釈をし、ペットショップを後にした。
〈犬を飼うのも良いかもな〉
漠然と、そう思いながら、更にアーケードを西へ歩いて行った。
大通りから脇道へ入ったビルの二階に、祐介が務める事務所はあった。
事務所には鍵が掛かっておらず、まだ誰か仕事をしているようである。
ドアを開けて中を覗くと、中年の女性が、一番ドア寄りの右側の席に座っていた。
「お疲れ様」
祐介から先に声を掛ける。
「お疲れ様。直帰じゃなかったの」
「残業ですか。大変ですね」
時計は、それ程遅い時間を指してはおらず、午後七時を少し回った程度である。
「私は資料のチェックだから、今日は楽なもんよ」
祐介は、彼女の隣の席に腰を下ろした。
微かに香水が香る。それは上品なローズの香りであった。
「田中さんは、犬を飼っていましたよね」
「ええ、飼っているわよ」
「どんな犬でしたっけ」
「小型犬、ミニチュアダックスよ。すっごく可愛いんだから」
田中は四十という年齢を感じさせない、可愛気のある笑顔で言った。
「ああ、ミニチュアダックスでしたね。粗相が治らなくて大変とか言ってましたよね」
「そうなのよ。ケージに入れるのが可哀想だから、人が居る時は、いつも出しているんだけど、ちょっと目を離すと、やっちゃうんだよねぇ。男の子だから仕方ないけど、童貞のくせに一丁前なんだから」
「室内犬の雄は、マーキングの躾が大変みたいですね」
「そう言えば、河野君も飼ってたんだよね。雌だったの」
田中は、自分より三つ年下の祐介を、その時の気分なのか、河野君と呼んだり、祐介君と呼んだりしている。
「ええ、二匹とも雌でした。賢くて手の掛からない、良い子でしたよ」
「また飼えば良いのに。マンションだったっけ、ペット駄目なの」
「いいえ、大丈夫ですよ。管理人さんも大変な犬好きでマンションも防音が、しっかりした造りだから、是非、犬を飼いなさい。と五月蝿いくらいですよ」
「あら、珍しいわね。恵まれた環境じゃない。飼っちゃいなさいよ。どうせ独身でしょ」
「えぇ、それは関係無いでしょ」
祐介は、ちょっと鼻白んだ表情をした。
以前は周りから、結婚はまだかと言われていたが、最近は諦めたのか、祐介が良い顔をしないためか、余り言われなくなっていたので、意表を突かれてしまった。
「何を言っているの。ペットは家族よ。ちゃんと愛情を注いであげなくちゃ。今のあなたには、愛情を注ぐ相手が居ないでしょ」
「・・・」
これは敵わない、と言った表情を作るのが、祐介に出来る精一杯の反論であった。
祐介が事務所を出たのは、午後八時を過ぎてからである。
昼間の熱気は、夕立で幾分和らいでいるが、五分も歩けば全身が汗ばんで来る。
夕食がてら、一杯飲んで帰ろうかと思っていたのだが、その気も無くなり、真っ直ぐ家に帰る事にした。
月極の駐車場まで、徒歩で約十分くらいである。その駐車場は、繁華街とは反対方向の裏通りに有り、段々と人通りも少なくなって行く。
裏通りの狭い路地にあるせいか、駐車料金は地方都市でも安い方であった。
祐介が車に近づくと、ロックが自動的に外れ、車に乗り込みエンジンをかけ、中心部から北東へ車を走らせる。
車の流れは地方都市らしく穏やかだ。
地方都市の小さな中心部は、すぐに終わり、大学や高校、小学校といった学校の多い地区を抜けて住宅街へ向かう。
祐介の住むマンションは、会社から車で三十分程の距離にあり、二年前に建てられた新しいマンションであった。
五年前に死んだ父親の遺産を妹と相続し、その金で去年購入したもので、入居から八ヶ月しか経っていない。
駐車場はマンションの真下にあり、祐介の部屋番号が書かれた場所に車を止めて、助手席のカバンを持って車から降りた。
車外へ出ると、体を包む熱気に顔をしかめた。
正面玄関の前に立ち、IDカードを認証させてドアを開き、エレベーターホールに入る。
降りて来たエレベーターに乗り、六階で降りた。
祐介たちの部屋は一番奥だ。
インターフォンのボタンを押してから、IDカードでロックを外す。
「ただいま」
「お帰り」
祐介は玄関に入ると、クルリと背を向けて、靴を綺麗に揃えて脱いだ。
「今日は、遅かったね」
リビングには、ソファーに座ってテレビを見ている妹の道子が居た。
「ああ」
「御飯は食べたの」
「いや、まだだよ」
「冷蔵庫に野菜炒めがあるよ」
「おう、ありがとう」
母も亡くし、父も亡くして、兄妹二人きりになった祐介と道子は、このマンションで一緒に暮らしていた。
本当は祐介が実家を相続し、結婚を控えていた妹が実家を出て、このマンションを購入する予定だったのだが、妹の結婚が破断となり、更に仕事のストレスが重なって、妹の精神状態が不安定になり、妹の願いで共有名義でマンションを購入し、兄妹で住む事にしたのである。
祐介としては実家で妹と暮らすか、せめてマンションは妹の名義にしてあげたかったのだが、薔薇色のスイートホームになるはずだったマンションに、たった一人で暮らすのは余りにも辛い、だから一緒に暮らして欲しい、そのためにも祐介との共有名義にして欲しいと、泣いて懇願する妹の頼みを、どうしても断る事が出来なかった。
だったら購入しなければ良いと思うのだが、そこは未練なのだろうと、祐介は妹の心を思いやるのであった。
祐介が冷蔵庫を開け、ラップの掛かった皿を取り出している間に、道子がリビングからキッチンへ来て御飯をよそってくれる。
「実家で飼っていたトイプードルが死んだ後、道子はイタグレを飼っていたよな」
祐介は皿をテーブルに置きながら、道子に聞いた。
「そうよ」
「ありがとう」
御飯を受け取り、野菜炒めのラップを外す。
「温めなくて良いの」
「別に良いよ」
祐介は御飯も、おかずも、余りこだわりがなく、恐らく冷や飯の梅干し茶漬けだけであっても、不満に思う事は無いであろう扱いの楽な男であった。しかし、そうかと言って、味覚が鈍感なわけでもない。
「美味い。腕を上げたな」
美味しそうに食べる兄の姿を、向かいの席に座って両腕をテーブルの上で組んだ道子が嬉しそうに見ている。
「でしょ。ちょっと味付け変えたんだ」
祐介の箸がキャベツや、もやし、ピーマンを摘み、広げた口へ次々と放り込んで行く。
もしゃもしゃと、心地良い音を立てて咀嚼し、湯気を立てる白米を頬張る。
「鰹ダシか」
「正解。それと薄口醤油だよ」
「うん。良い味だ」
祐介は、その後に続けようとした言葉を、はっとして飲み込んだ。
道子も察したのか、微笑む顔に悲しみの影が流れたように見えた。
〈本当に良い奥さんになれただろうに〉
その悔しい想いが、以前の女と寄りを戻して、道子との婚約を破棄し、道子を自殺未遂にまで追い込んだ男に対する憎悪に変わる。
「お兄ちゃん顔が怖いよ。仕事で何かあったの」
それとなく、話題を作ろうとする道子。
容姿は、贔屓目に見ても人並みより、やや劣るがリスの様な愛嬌があり、祐介は悪い顔だとは思わない。性格も明るく、良く気がつき、人に優しい妹である。
祐介は、そんな道子が不憫でならない。
「何も無いよ。明日の予定を考えていたのさ。おかわりくれるか」
「何杯でも」
身軽に立ち上がり、御飯をよそっている仕草が小気味良い。
「はい召し上がれ」
「ありがとう」
「犬がどうかしたの」
「えっ」
目の前でテーブルに両肘を乗せて、両手の掌に顔を乗っけた道子が興味深そうに、こっちを見ている。
「あぁ、さっきの話か。いや、大した事じゃないんだけど、夕立の雨宿りついでに、ペットショップに入ったらイタグレが居たんで、そう言えばと思っただけだよ」
「へぇ、珍しいね。ペットショップにイタグレが居るなんて。お兄ちゃんが大阪に行っていた時にイタグレを飼ってたよ」
「一度里帰りした時に遊んだけど、賢い良い子だったよな」
「そう。小さな子で体も弱かったんだぁ。そういう子だからブリーダーさんは、売りたがらなかったんだよ。でも、目と目が合った瞬間に決めちゃった」
道子の目が、悲しみを湛えて光っている。
「今日の奴も、いや、雌だから奴じゃないか。色はシールの小さい仔犬だったけど、元気は良さそうだったな。きっと、お転婆だな」
「えぇ、私の子もシールの小さな雌だったよ」
道子は、驚いた表情を見せて、そう言いながら携帯電話を取り出して、画像を探し始めた。
「その携帯、買い換えたんだよな。使い勝手はどう」
「うん、良いよ」
祐介は仕事柄、IT機器の情報には気を使っているので、道子の全く気のない返事に、やや不満であったが右手で画像をスライドさせて行く道子の動作が、どこか可笑しくて、それ以上聞く事をやめた。
「あったあった。ほら見て」
「道子ってさ、動作が何か可笑しいよな」
「可愛いでしょ。これが家に来てすぐの画像で、こっちが一歳の誕生日の画像だよ」
「へぇ、良く似てるなぁ」
「そんなに似てるの」
「仔犬の時の画像なんて、瓜二つだよ。まぁ、同じ犬種で同じ色だったら、無理もないか」
シール、つまりアシカのような色である。道子が飼っていた仔犬の画像も、胸元が白くなっていて、今日見た仔犬に良く似ているように思える。
「会って見たいなぁ」
道子の目が輝いている。
「中通りアーケードのショップだよ」
「可笑しいって、どう言う事よ」
「えっ」
「さっき言ったでしょ」
今度は少し怒ったような表情であるが、道子の丸っこい童顔では、怒った顔に可愛気が有り、怒れる子リスに余り迫力は無い。
「お前は、また遅いなぁ」
〈熱中すると周りが見えなくなるけど、ちゃんと覚えているんだよなぁ。それで後から突っ込んで来る。慣れている人間からすれば、可愛いもんだけど・・・〉
祐介は、それ以上、考えるのをやめた。
「なんか仕草がさ。そうだ、仕草が若々しいんだ」
「あらやだ。まるで私がオバチャンみたいじゃ無い。それとも、子供っぽいってこと」
「まぁ気にするな。それも愛嬌だ。可愛いぞ、我が妹よ」
「嬉しくなんか無いよ。お兄ちゃんに言われても」
道子の顔が少し曇った。彼氏との間にも似たような会話があったのだろうか。
「見に行って来たらどうだ。仔犬」
ちょっと道子が顔をしかめる。
〈煩わしい耳鳴り。自業自得だから仕方ないね。お兄ちゃんには内緒〉
「そうだね。そうしようかな」
「ぼーっとして、どうしたんだ」
半年前の、あの時から見せる道子の虚ろな表情であった。
澄み川の ひとつ根もなき浮き草の 若葉さまよい 淵にただよう
最後まで読んでいただき、心より感謝致します。
完結まで長い時間は掛かりませんので次回の投稿もよろしくお願いいたします。